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ハガキで河鹿沢通信創刊 「清貧の思想」に見る新農政の展開 ①

2013年02月03日 | 足跡
ブログは2008年1月からOCN「麓の風」。「河鹿沢通信」は同年11月でココログで始め、このブログは2008年6月の岩手、宮城内陸地震をきっかけに「麓左衛門日記」で始まり2012年7月ココログの「河鹿沢通信」から移動「新河鹿沢通信」なったものだ。

ハガキで「河鹿沢通信」の発行を思い立ったのは1993年1月のことであった。
1989年にやっとのことでワープロを手に入れた。
富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンなどはとても高価でパソコンのパの字も話題にでることもなかった。
当時弟が秋葉原の電器店に勤めており、オーデオの販売担当でパソコンの販売はしていなかった。「近い将来パソコンの価格は20万以下になるだろう」と言ったら「とんでもないことだ」などと反論された時代だった。

字の汚い自分はほとほと何かを書くことに抵抗があって、「タイプライター」出現を心待ちしていた。当時警察署などの窓口で免許証の書き換え手続きにはやっと和製タイプライターが入り、珍しくもあり目にすることが楽しみでもあった。

それが1989年やっと手に入る価格でワープロが自分の物になった。その興奮は忘れられない。
マニアルを片手に悪戦苦闘の毎日。近くで持っている人も知らず聞くこともできない。
それでもなんとか使いこなせるようになると「通信」発信などという欲にかられて始まったのがハガキの発行「河鹿沢通信」であった。ハガキに見出しを抜いて8ポイントの活字は1000字ほど書く事が出来た。
発行者を 「奈珂 郷」とした。
創刊号は1993年2月1日だった。下の写真

3、4、5、6号は「清貧の思想」に見る「新農政」の展開。
当時中野孝治著「清貧の思想」(草思社)がベストセラーになり、農林水産省が発表した「新しい食料・農業・農村政策の方向」に絡めて私論を知人・友人に送った。

その年の夏は経験したことのない冷夏。大冷害となった。
通信19号から22号まで「夏のない夏 八月のうぐいす」。23号から27号まで「夏のない秋 実れあきたこまち」を発行した。20年程前の記録を随時「足跡」として振り返って見ることとした。
下記は93.3.3~「清貧の思想」に見る「新農政」3、4号 原文のまま

河鹿沢通信 3号 「清貧の思想」に見る新農政の展開 ① 1993.3.3

「清貧の思想」(草思社刊)中野孝次著が今ベストセラーになっている。
講談社「日本語大辞典」によれば「富貴であることより潔白であることをのぞんで、貧乏に安んじていること」とある。
光悦、西行、芭蕉、良寛、兼好等の生き方をとうして「生活は簡素にし、心は風雅の世界に遊ぶことが人として最高の生き方だとする。日本が外国に対して最も誇ることの文化だ」という考えが、今日の日本の隅々で、バブル経済への反省がうまれつつあるなかで共感をもって迎えられた。 振り返ってみれば、かなり思い当たることがこの「麓」の集落にみることができる。
平均耕作反別77アールで稲川町の集落のなかでも大きいほうではない。
1990 年 2月発刊の「農の息吹き」いなかわ地域・農業振興推進会議編によれば麓戸数59の内農家戸数44戸中、「麓」に居をかまえた時期が江戸時代、又はそれ以前というのが14戸、戦後が 6戸にしかすぎない。農地改革前の土地所有形態で「小作」という農家が14戸だった。
そんななかで現在まで農家戸数の大きな変動はない。もちろん水田が中心であり戦前は養蚕が盛んであった。稲川町史よれば、養蚕振興は1700年代からであり秋田藩で繭を作るよう藩に献言した最初の人が川連村の「関喜内」であった。
また800 年の伝統という川連漆器の「木地師」も麓の東の山並みを越えた「大滝沢」で作られていたという。
木地師はその後山を越え今の集落でも戦前まで作られていた。そして、その通り道を今でも通称「夏街道」と地元ではいう。 夏街道同様、地藉にも地図にも見当たらない地名がざっと列挙してもその他に「大屋敷」、「河鹿沢」、「柳沢」、「宿」、「森越」さらに「万華の小屋」という地名がある。他にも詩歌をたしなみ、絵を描き、学問に励み医者となった人など多くの偉人がうまれている。
我が集落にも多くの「風雅の世界に遊ぶ」考えがあったことを伝えている。そんなわけで筆者はそういう考えが集落を今日まで発展させてきた基盤のひとつであると考えるわけだ。

4号 1993.3.7

 
平成4年6月農林水産省は「新しい食料・農業・農村政策の方向」を発表した。
今後十年程で大規模稲作経営が広範に成立し、他産業並みの生涯所得が得られると政策はいう。だが農村現場でどれほどの評価があるというのだろうか。
かつて昭和36年に「農業基本法」が成立し基本法農政がスタートしてすでに30数年経過した。あのときもそのようなことがいわれた。しかし、多くの農民が選択したのは規模の拡大ではなく「兼業」という道だった。
この30数年、「規模拡大」を選択した農家や、基本法で示した「選択的拡大」といわれた方向に進んだ農家は、一体どうなったのか。確かに中にはそれなりの成功した事例もある。
振り返ってみればいち早く「離農」したのも彼らだったし、離農までとはいかなくとも「多額の借金」でその返済に追われているのも彼らに多い。そしてそれらの累積負債が所属する農協の経営をも圧迫し、合併構想のひとつのネックともなっている。
昭和63年岩手県の教育会館で、NHKテレビでのあるシンポジュームで「規模拡大こそこれからの農家の生き残る道」を説く大学教授に、「規模拡大でコスト低減と農家の残る道というのはある種の伝説だ」と質問したら、「高齢の昭和ひとけた生まれの人達が農業まもなく引退する。後に続くやる気のある担い手は少数だ。だから大規模農業はすぐの目の前だ」と説いた。
この考えはこの「新農政への展開」のシナリオとも見事に一致する。だが、基本法農政で示した方向は実現できなかった。今後も、家族構成は変わらないだろうし若い担い手は確かにすくない。
今後、今の政策が続くかぎり大幅に増えるとは思われない。農基法農政の十分な反省もなく「規模拡大、農地の流動化促進」を説く政策は多くの農民からは支持されていない。
現実に「農業を中核」として地域が成り立っているなかで、多くの兼業農家をどうするのか「政策」は示していない。だから「離農」を前提とした「新農政への展開」なら「地域の崩壊」は確実に進み、風雅などは育たない。
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