佛教と儒教
そもそも佛教と儒教は相性が悪い、古代の支那王朝の仏教弾圧も儒教が原因である。
朝鮮は、
李氏朝鮮は儒教を国教とする支那の従属地域単位で、
1392年に高麗の一武将であった李成桂が反逆して恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。
李成桂は翌1393年に明から権知朝鮮国事に封ぜられた。
(独立国ではなくて、単に地域の国事を任されたにすぐない)
明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。
中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は支那王朝の冊封体制下にあった。
李氏朝鮮は崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策で仏教の抑圧を開始。
仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったから、と何とも情けない話。
仏教弾圧は李氏朝鮮滅亡まで続く。
対馬の佛像もそのような歴史のなかで誰かが半島側の人間が対馬に持ち込んだと考えるのが普通だ。
高麗時代にはそれなりの高僧はいても、李氏朝鮮時代には儒学者はいても、佛教は山の中で細々と生き延びていたに過ぎない。
高麗時代の佛像が対馬のお寺にあったのは、
李氏朝鮮の初期にお寺をどんどん破却した際に対馬に渡ったものだろうことは簡単に察しが着く。
そもそも佛教と儒教は相性が悪い、古代の支那王朝の仏教弾圧も儒教が原因である。
朝鮮は、
李氏朝鮮は儒教を国教とする支那の従属地域単位で、
1392年に高麗の一武将であった李成桂が反逆して恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。
李成桂は翌1393年に明から権知朝鮮国事に封ぜられた。
(独立国ではなくて、単に地域の国事を任されたにすぐない)
明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。
中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は支那王朝の冊封体制下にあった。
李氏朝鮮は崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策で仏教の抑圧を開始。
仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったから、と何とも情けない話。
仏教弾圧は李氏朝鮮滅亡まで続く。
対馬の佛像もそのような歴史のなかで誰かが半島側の人間が対馬に持ち込んだと考えるのが普通だ。
高麗時代にはそれなりの高僧はいても、李氏朝鮮時代には儒学者はいても、佛教は山の中で細々と生き延びていたに過ぎない。
高麗時代の佛像が対馬のお寺にあったのは、
李氏朝鮮の初期にお寺をどんどん破却した際に対馬に渡ったものだろうことは簡単に察しが着く。