折々の記

日記帳と掲示板を1つにまとめました。

操体おおほり癒養院体験記 2

2005-02-18 14:37:00 | Weblog
考えもしなかった贅沢な心地よい時間の中で、私はこの3ヶ月で実声が飛ばせるようになった。コ-ラスの練習中に指摘されてもどこにあるかなど全く判らなかった丹田が、声を出すたびに温かく感じる。今度の演奏会では、私は自分の声をコントロールできるだろう。

私の目指した目標≪安定した声を出したい。それができないのは仕事での肩こりだろうか・・・≫、この達成はもとより、自分が気付かなかったところまで日々元気になっている。

足の親指に力が入りやすくなり、幼少時から続いてきた冷え性が解消されつつある。朝から手足が暖かいので驚いてしまう。
また、写真の中の自分が、姿勢や表情が少しずつ安定してきているのは女性として非常に嬉しい。

身体が充実してくると、思考も行動もより積極的になっていくように感じる。
一つがうまくいくと他のものと連鎖してすべてがいい方向へ向かっていく。
私にとってはここは錬金術の部屋だ。

「心身一如」  偶然に操体にであって、私がこれまでに実感できた言葉の1つだ。
身体が健康になれば自然と行動も前向きになって、ヤッター!と幸せをより深く噛み締めることができる。
心が満ちていると、これもしてみよう、あれも試してみようと、ますます行動範囲が広がっていく。

身体の不自由さはその人なりに様々あるだろう。だとしてもその不自由さの中で、精一杯生きているだろうか。
愚痴を言う前にやる事を、身体に施してあげていたろうかと、ふと思う。
例えば自分の感情、特に喜びや清清しさなど快い柔らかい想いを日々自ら押し殺して生活していないだろうか。
というよりまず、自分が感じていたことにすら気付いていないのではなかったのか。
疲れた、苦しいと言葉に出すとき、それじゃぁと、私たちは自分を優しく労わる時間を1分でも作っているだろうか。

日常生活でも、後から大仰にプレゼントされるより、さりげなく有難うとその場で言ってもらったほうが格段に嬉しいこともある。

私はリラックスしていると思い込んでいただけなのだろうか。
本当のリラックスを、私は知っているのだろうか。
これまでさんざん酷使してきた自分に、操体の時間だけでもゆっくり休養を与えたいと思っている。

操体おおほり癒養院体験記 1

2005-02-18 12:00:34 | Weblog
ほんのわずかなお香の香りと、優しいメロディがどこからか聞えてくる小さな部屋だった。

まず足浴の後、服を着た自分の姿が鏡に映される。
精一杯姿勢よく立っているつもりだったので、右側に歪んでいますね、という先生の言葉は辛かった。やや緊張していた気持ちが一気により張りつめた。胸を押されても背中を押されても、すぐにバランスを崩して面白いように身体がふらつく。

ベッドに横になると、初めに足の小指から順に10本の回していただく事から操体は始まった。
右まわり・左まわりと実際に回しながら、どちらが気持ちいいですか、と訊ねられる。
その時の気分や体調によって、気持ちのいい方向が違っているのを初めて知った。気持ちのいい方向でしばらくゆっくりゆっくりと回していただいた。

部屋に一歩はいると、そこからは時間が止まったかのように、ゆっくりまったりとしたペースで全てが進んでいく。
足を伸ばすのも、身体を自由に動かすのも、力を入れないのがコツだそうだ。
起床時に眠くてしようがなくてベッドの中でもぞもぞ動いているのをイメージしていただくといいのだろうか。あるいは湯に浸かりながら手足をう~んと伸ばしている様子。もっと中にいたい!という心地よい満足感・・・・
身体をゆっくりと動かして、そこで起こる心地よさを感じきる事、その気持ちよさに留まって充分に味わい尽くすことが相談者に課せられた唯一の義務であり最大の権利であるらしい。

私は生まれつき左半身が弱い。反応が薄い。だからこれまでは荷物はなるべく左手に持つなどして、自分なりになるべく自分を訓練しているつもりだった。カウンセリングでいえば、問題解決型という考え方だ。

だが、操体はどちらかというと、私が感じたところ、解決型ブリーフセラピーの考え方に近い。あまり感覚のない左側は今は放っておいて、感じる右側で受け止められる限りの心地よさを味わえばいい。身体はつながっているのだから必ず左の感覚は取り戻せる、と。気持ちのいい部分を少しずつ広げていけばいいのではないですか?とも。
3ヶ月を経た今、それが真実だったのを私の身体は知っている。

操体おおほり癒養院体験記 前置き

2005-02-18 10:54:36 | Weblog
メルマガを読んで去年の11月から通っています。
あまり期待もせずにいたのですが・・・・何か、はまってしまったみたいです。私に関しては、身体の調子が格段に良くなったのは確かですし。
何より気持ちいい。痛い事も辛いこともなしで、一般常識的にはごくごく軽く身体を動かすだけでこんなに身体が開放されるなんて・・・
先生は、猫が陽だまりで伸びをする様子を例に上げて、その時猫が感じているであろう心地よさを、私たちも取り戻すことがまず最初の目的だとおっしゃっています。
整体とは違う。足つぼなどのマッサージとも違う。やっぱり、操体としか言い様がありません。
本来、人が健康を維持していくのはごく単純なことなのだなぁと、感じさせてくれます。
いつから、自分のすることなすことにいちいちもっともらしい理由付けを行うようになってしまったのでしょうか。理屈だけで物事が動けばこんな楽なことはないのに、そうはならない現実を心のどこかに皆感じているはずなのに。
操体〈名称を書きにくいのが、唯一の欠点・体操体操と表記して前後を削除しています〉は単純だからこそ、様々な分野に気付きが深まるのでしょう。
嬉しいことは嬉しい。悲しいことは悲しい。そして気持ちいいことは気持ちいいのです。
自分へのプレゼントとして、私は最高の手段を手に入れた思いがします。

次回から、具体的な体験談に入ります。

自分の心を整理している事

2005-02-16 10:34:42 | Weblog
 自分の心の中を整理しておく事。できるだけいつも・・・。自分のたな卸しと言ってもいいでしょう。過去の出来事・それから受ける感情を自分なりに統合していないと、本当の意味での新しい第一歩は踏み出せません。それも、こんな自分だからいいんだと、心から納得できていないと、新しい事柄をしようとするたびに、それにも関わらず混乱した感情が絡み付いてくるでしょう。

 先頃、出身小学校の先生方を殺傷した17歳の少年。彼は大検の試験を受けて合格したばかりだそうです。だから、その道をまっすぐに歩いていけばいいものを何故?という意見が大半を占めているそうです。

 私には、これでやっと前を向けたからこそ、さらに前進していくための1つの過程として、過去を清算したい感情が暴走したように思えてなりません。ゲームおたくだった彼には、抑圧していた激しい感情を一緒に共有できる親も友人も知人もいなかったのでしょう。そうするとなおさら、過去にいじめがあったかなかったかは、本人にしか判別できないことです。もしかしたら、周囲の人間はもう思い出す事もできないような些細な事柄が心に掛かっていたのかもしれません。

この事件そのものについてはまだ何もわかりません。
が、一般的に何か問題が起きた時に後回しにせず、その場その場で解決していこうとする姿勢が、自分の心の整理の1つに繋がっていくように思えてなりません。部屋の大掃除と日常の掃除との違いのようなものです。

 さらに、疑問点を質問して理解していこうとする積極的な態度を「いつもうるさい奴」と見ないで受け入れる姿勢も大切でしょう。この、一見自分に反対する意見を聞けるのも、自分の心が整理されていなければ不可能です。「聞く」と「聴く」のと「聴き入れる」のは全く違うのです。

悲しみの時

2005-02-01 10:00:30 | Weblog
お父さんを亡くされた友人から相談がありました。
ご自分もその兄弟も、またご自分のお子さん達とも、精一杯の介護の末の看取りでした。
どれだけ力を尽くしたとしても何かしら後悔めいた感情に囚われるのは当然でしょう。

それなのに葬式後、自分の弱さを見せたら親子で取り返しがつかないほど感情的にぼろぼろになりそうだからというので、娘(18)にも息子(小3)にも隠れて1人で泣いている、という話には心が詰まりました。

どうか3人で抱き合いながら、声をあげて泣いて欲しい、と伝えました。

親が隠れて泣いているのを見た子供は、何故親が泣いているのか判りません。子供なりに後悔していますから、親の悲しみにまで過剰に反応してしまうのです。
情報量が圧倒的に少ない立場からは仕方ありません。現在の放映されているゼロックスのコマーシャルのように頓珍漢な思い込みをしてしまうでしょう。

お母さんはあの時着替えの交換に病院に行って欲しかったろうに、自分は友達と遊ぶ方を選んでしまった。お祖父ちゃんは悲しくて死んだかもしれない。お母さんは僕を叱りたくても叱ることもできなくて、きっと僕を恨んでいるはずだ、、、でなければ隠れて泣くはずないじゃないか、、、、大好きな母親を傷つけたと思ったら大変です。

おじいさんを天へ見送ったプロジェクトチームの一員のはずなのに、事が終わったら知らん顔では3重につらくはありませんか?

家族が後悔と後ろめたさと不安な心を押し隠したままで見送られたお祖父さんは、天でゆっくり休めるでしょうか。

子供たちの心ををしっかり抱きしめてあげてください。
そして、自分はお祖父さんが亡くなった事そのものが悲しいのだと知らせてあげてください。
子供の限りない、途方もない後悔の矢を心から抜き取ってあげて下さい。
自分を責める事はないよと。
そして、一緒にお祖父さんを悼んであげましょう。思い出話をしてあげてください。

そうすれば子供達からは何よりの労わりが返ってきます。この労わりを通してこそ、子供は一段と大きく成長していくのでしょう。本当に、受ける立場から支える立場に立つことのできた喜びと共に。