『街道を行く』 『歴史をたずねる旅』

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第86回 「歴史を訪ねる旅ー浦和宿・蕨宿」

2013-03-29 15:43:51 | 日記


蕨 宿
今回は浦和宿及び蕨宿を訪ねます。江戸時代初期に整備された5街道の一つである中山道六九次の2番目の宿が蕨で、3番目が浦和宿です。(1番目は板橋、4番目は大宮)
浦和宿は現在のさいたま市浦和区で、蕨宿は現在の蕨市です。共にその後の発展で変貌していますが、随所に「宿」としての歴史が残っています。午前中に浦和宿(約3㎞)、午後に蕨宿(約2・5㎞)を歩きますが、路は何れも平坦です。

 日時;平成25年5月18日(土) 9時50分~15時30分頃
 集合;JR浦和駅改札口  9時50分
 解散;JR蕨駅 15時30分頃
 昼食;蕨高校前のレストラン「華屋与兵衛・蕨店」を予約して   います。下記をご覧下さい。
 ガイド;浦和ガイド会の皆様
 募集人員;30名
 参加費; 正・家族会員 3,000円  準会員・一般 3,500円    (昼食代、ガイド代、資料代を含みます)
 コース;
午前;10時、浦和改札口―さくら草通りーうらわ美術館(トイレ休憩)―本陣跡―浦和二七の市跡―常盤公園(旧浦和裁判所赤レンガ塀)-玉蔵院―調神社―バス停「県庁通」。11時46分のバスで蕨へ移動(運賃は各自清算 220円)蕨高校前下車  (昼食休憩約1時間)
午後;13時レストラン出発。蕨宿上の木戸―あげ橋―三学院―郷土資料館(トイレ休憩)―本陣―問屋場―しゃみの鐘―市役所(トイレ休憩)―和楽備神社―蕨城跡公園―蕨駅西口(15時30分頃解散)

 当日の緊急連絡先;久保田携帯 080-2065-5348
          國米携帯  080-3011-1253
          宮坂携帯  090-8749-2958

<お申込みの方> 
 1.正会員と準会員では参加費が違います。会員番号がある方はご記入下さい。
    (会員番号のご記入が無い方は準会員・一般の価格になります。) 
 2.緊急連絡先(携帯電話番号)のご記入をお願い致します。
  3.昼 食: 蕨高校前のレストラン「華屋与兵衛・蕨店」を予約しています。下記のどちらかを注文して下さい。

 1.華屋御膳(彩りちらし・二ハそば大根おろし・野菜てんぷ   ら・茶碗蒸し・お吸い物)
 2.三色ちらし・小そばセット(マグロ・サーモン・ネギトロの   新鮮ちらし寿司・小そば・茶碗蒸し・お吸い物)

     
《訪問先1口メモ》


【浦和宿】
 浜地名から起こったと言われるが、諸説あり不詳。縄文期、東京湾の水が入り込み市域の半分以上が海面下であった。人々が住み始めたのは1万数千年前からといわれる。  浦和宿は上・中・下の三町で成り立っており、旅籠15軒とあまり大きな
宿場ではないが、上町の二日・十七日、 仲町の七日・二十二日、下町の
十二日・二十七日に行われる二・七市場で賑わった宿場であった

<桜草通り>
昭和56年~57年にかけ整備された、全国9番目の「歩行者専用道路」。名称は公募で決定。この空間を活用して「古本いち」「物産いち」などイベントが定例開催され、浦和の風物詩の1つとなっている。

<本陣跡>


浦和宿は中山道の宿駅(日本橋から3番目)で本陣1、脇本陣2、旅籠15の小さな宿駅であった。宿の起立は家康の鷹狩りの時の「御殿」設立が契機とされる。
 今日、本陣等の建物は残されていないが、本陣の敷地は1200坪、母屋は約210坪、他に表門、土蔵、番所、物置などがあった。表門だけは明治に入り大間木の大熊家に移築され現存する

<浦和二十七の市跡>


浦和の市(いち)の起源は室町中頃といわれる。江戸期には毎月6回、二と七の日に定期開催された(近隣では与野:四と九、大宮:五と十、蕨:一と六、鳩ヶ谷:三と八)。毎月6回開かれる市を六歳市(ろくさいいち)といった。主な取引品は穀物と木綿布。
明治・大正時代も六歳市は開かれ、昭和初期は農機具、食糧、日用品などが売られた。

<常盤公園(旧浦和裁判所赤レンガ塀>


江戸時代初期は「御殿」と呼ばれ、徳川家康、秀忠が鷹狩りの際の休憩所として使用したが、慶長16年取り壊された。廃止後も「御殿跡」「御林」の名で幕府に保護された。
  明治26年、ここに浦和地方裁判所が建設され、赤レンガ堀は当時の名残である。裁判所は昭和48年、県庁南の新庁舎に移転したことにともない、跡地は「常盤公園」として昭和51年開園した。面積1万㎡。

<玉蔵院>


玉蔵院は、真言宗豊山派の古刹で、平安時代の創建された。開山は弘法大師と伝えられる。戦国時代に学僧印融(いんゆう)が来て中興した。以後京都菩提寺三宝院の直末となった。
 元禄12年12月、一宇も残さず焼失。現在堂宇は江戸期に再建された。玉蔵院の施餓鬼(せがき)は関東三大施餓鬼の一つと称され、毎年8月23日に行われる。この起源は1800年頃と言われる。  また、江戸期建立の堂宇地蔵堂や藤原時代末期の作で県指定有形文化財の木造地蔵菩薩、江戸期のものが数本のこる石造物、また、浦和の桜開花を示す桜として有名なシダレ桜やけやき古木もある。

<調神社>


「つきのみや」で親しまれるこの神社は崇神天皇の勅創と伝えられ、浦和屈指の古社である。調神社は鳥居のないことで知られ、伊勢神宮の御調の初穂をおさめる倉庫から発展した神社といわれる。神社のある辺りは中世、大調郷と呼ばれた。「おおつき」は大きな槻を意味する。つきの宮は「月の宮」でもあった。月待信仰が盛んであった中世には、月宮殿に凝せられた。月の使い姫である兎が社殿彫刻や石像に用いられるのはこの理由による。
  現本殿は、安政6年に建立された。総ケヤキ造である。石造兎像は、万延2年板橋宿石工兼吉作。他には、数百年の樹齢林であるケヤキの古木がある。


【蕨 宿】

蕨宿は、日本橋からの距離4里28町(18.7km)。江戸に入る《戸田の渡し》の手前にあるので川が増水すると《川止め》となり、当宿に逗留せざるを得ずそのため比較的大きな宿場であった。宿の周りは、見沼代用水から引いた用水堀で囲まれ防火機能と防犯機能を果たしかつ農業用としても利用されていた。
 江戸に向かう旅人にとって蕨を越えると鰻が食べられる店がなくなってしまうため、ここで鰻を食べるお客が多く,浦和宿とともに鰻の有名な宿場町でもある


<あげ橋(はね橋)>


蕨宿では、宿場の周囲に用水堀がめぐらされていたため、人々は「はね橋」と呼ばれる引き上げ自由な簡便な橋を使用して、家への出入りをしていました。
「はね橋」を引き上げてしまうと、家への出入りができなくなるため、防犯と防火を兼ねた構造になっていました。
宿場の周囲に用水堀をめぐらし、「はね橋」を利用するという例は、他の宿場には見られない構造で、蕨宿の大きな特徴の1つとされています。写真の「はね橋」は、蕨市内に唯一現存しているもので、貴重な文化遺産となっています

三学院


地蔵への小径の正面に三学院山門、三学院の創立年代は不明だが、現存する資料から中世以前の創建と考えられている。天正十九年(1591)には、徳川家康より寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されている。江戸時代には《関東七ヶ寺》の一つとして僧侶の教育機関であった。

<郷土資料館>

蕨宿の木戸をくぐり少し行くと《歴史民俗資料館別館》。明治時代に織物の買継商をしていた家を蕨市が資料館として公開している。建物は、木造平屋寄棟造り。中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887)に建てられたもの。住まい部分に接して造られた白い漆喰壁の土蔵の内部や、珍しい電話ボックス、機織機、渋沢栄一直筆の額などとともに贅を尽くした和室から静かな庭園を眺めることができる

<本陣>


本陣は、宿場に設けられた参勤交代の大名や公家など貴人の休泊所で、庶民は利用することができませんでした。
蕨宿の本陣は、加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々勤め、蕨宿の中央部に向かい合うようにして建っていました。加兵衛本陣には、老中水野忠邦や松平加賀守皇女和宮などが休泊し 明治元年(1868)と同3年(1870)には明治天皇も大宮氷川神社行幸の途中に休憩しています。現在、加兵衛本陣の敷地の一部にモニュメントを建設、「蕨本陣跡」として公開しています

<和楽備神>


明治44年(1911)、蕨町内にあった天神社、稲荷神社、榛名神社など18の鎮守社を合祀した神社である。本殿の裏手に日清・日露・太平洋の各戦没慰霊碑が並んでいる。このように戦争碑が一ヶ所にまとまる例は稀だそうだ。

<蕨城址公園>


城は貞治年間(1366頃)に、将軍足利氏の一族・武蔵国司・渋川義行が城を構えた。戦国時代には、小田原 北条氏の武蔵進出で蕨城をめぐる攻防が繰り返された。その後、渋川義基は、国府台合戦(永禄10年(1567))で北条方として上総三舟山に出陣するも同地で討ち取られ、蕨城も廃城となった。後に家康の入封に伴い鷹狩りの為の館として再造営されたが現在、土累と水堀の一部を僅かに残すのみである。