2017/01/11 15:32成人の日は知らぬ間に行ってしまった。でも成人=大人になる。これは思慮分別のできる知識と技能の維持・活用が条件だと私釈してきた。最近韓国の慰安婦を介しての対応に「大人の」という要望も出るようだが、とすれば大人とは=子供でなくなったとまず定義されよう。その具体的な行為として私釈としてはウソを合理的に駆使できることと思う。家庭外の社会に対しその福利を損なわないウソで人間(ジンカン)の意思疎通を潤滑にする。この術を体得することだと思う。それにはウソが不可欠であろう。
言葉だけ知りかけた三つ子が他人の持ち物を欲しがり、その欲望を露骨に相手に、また自身の保護者に要求する。率直に見聞すれば「可愛さ」の表現でもあろうが、それが相手の迷惑となり自身の保護者にも至難のことであれば不本意でも断念が強いられる、それを受容する雅量の涵養が優先されるのを納得し、させねばならない。
それよりも大人は子供でないの定義に留まらず大人~乙名の概念である。これについては改めて考えたい。この画像について背景の5円貨幣と比べて小ささが判るでしょうが興味はその名の由来です。昔忍者の文庫本で「睾丸」に「ふぐり」とルビされて意味は分かったがこの植物との因果が不詳だった。「大人」になるにつれて花ではなく果実が犬のそれに似ているに依ると聞いた。それ以上の事は大人の見識に俟つとする。