天邪鬼往生記 天邪鬼はアマノジャク、往生はオウジョウ 

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8929-html

2016-09-29 19:55:49 | 日記

htmlでの紙面構成のテスト版、フォントとそのサイズ、文字色など如意、画像サイズは不如意だが我慢所。

2016/09/23 8:56 地震や台風など災害はその頻度の外に「スーパー」とか形容詩句をつけ深刻な被害をおおくしているようである。特に今年九州の熊本界隈の地震は城や神社等文化遺産も破壊してその復旧・復元について当事者の心労は察するに余る。

 しかし、復元は至上命題であろうか。「形あるものは崩れる=いつまでも同じではない」これは仏教の「諸行無常」を俟つまでもなく過去の遺物を復元することが現在に必須か、費用対効果の経済面からも価値観を再考すべきだろう。徳川時代、江戸城の火災で名だたる建物が消失の際、再建の風潮を抑えて廃墟だけにした。心ある人はこれを英断と讃えたとか。多分巷間は復旧できない為政者を無能として蔑んだかもしれないが、民生優先で庶民への圧迫がどれほど和らいだかである。

 当地にも国指定城跡がある。春が来ると草が萌え、夏一杯過剰な繁茂を抑えるのに当事者は心労する。「城址の見学」の美辞に白亜の城郭をイメージした見学者には歓楽設備皆無の城跡に虚しく帰る人も少なくないようである。「国破れて山河あり・・」その土木工事の遺跡からの歴史を見る目の涵養がおろそかになっているのではないか。


8922-書初め「彼岸」

2016-09-22 20:26:48 | 日記
2016/09/22 8:39 「国民祝日」よりも「チュウンチ」が馴染まれる。法律には秋は春と違う祝日の高邁の理念があるようだ。うろ覚えだが春は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と自然への畏敬、秋は「先祖をうやまい、なくなった人をしのぶ」と故人など人への敬慕追憶が強調されていて異同があるのだった。

 法律とは別にこの日は二十四節季の四等分の画期点で暦日と天象の誤差を農作業など生活に密着させる基準日とされる。近時観測の高度化で疎遠となったようだが。

 亡き先祖が家の仏壇にお客に来ている、それで「かわりもの」を作ったり買ったりして供える、その合間に墓参りにいく。先祖は墓地にいるのか、仏壇に来ているのか理屈に合わないと家族に理屈を言われたこともある。霊魂の存在を否定しながらも信認しているこの矛盾を内包しつつ生きているようだ。

 自分では霊魂なる「もの」は存在しない。しかし「唯識」でいう末那識(七識)。阿頼耶識(八識)は脳科学の一環として傾聴したい。それが自分=自己の存在の立証「意識をもつ人間」なのだろう。ただ無意識で生存する人の存在とその人権の認識が現在の課題でもあろう。