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オリンピックあれこれ(17)

◎旧岸体育会館の思い出
 私が、ずっと心の寄りどころにしている文章があります。それは丹下健三さんが、1960年ローマ五輪後に朝日新聞の「きのうきょう」に書かれた「国粋的オリンピック」というコラムです。
 丹下さんは1964年東京五輪の代々木体育館(国立屋内総合競技場)やクウェート国際空港、広島原爆資料館、東京都新庁舎などを設計されたことで国際的にも有名な建築家です。
 旧制広島高校理科の私の先輩だということは知っていたのですが、今回経歴を読ませていただいて、お茶の水にあった昔の「岸体育会館」を設計されたことを知り驚きました。
 もはや取り壊されて、当時のことを知る人も少なくなりましたが、あの岸体育会館は木造の2階建ての、実にしゃれた建物でした。大きな前庭があり、玄関には柱が2本ほど前に張り出し、入ったところの正面に食堂がありました。右手にはまるで小学校のような長い廊下に各競技団体の事務室が並んでいました。一番東側の2階にJOC総会などをやる大きな会議室があり、窓からテニスコートが2面、その先にニコライ聖堂の鐘楼が見えました。
 私は学生時代、その一角の日本蹴球協会の事務所でアルバイトをやり、記者になってからも東京五輪までの約10年間、日体協やJOCの会議をここで取材しました。ヒマな時は他社の記者とテニスを楽しんだものです。

◎丹下健三さんの文章
 横道にそれました。肝心の丹下さんの文章ですが、少し長いのですが全文を紹介しますと……。
 「小野(体操)ががんばってくれたことは、うれしいことである。それとは別に、このごろのジャーナリズムをみていると、まるで日本ひとりでオリンピックをやっているように見える。この聖典の全体のもりあがった模様も、ちっとも伝わってこない。各国の選手も、さぞ正々堂々と技を競っているのだろうが、それに拍手を送ろうという心ぐみも見当たらない。ただ、日本が勝つか、負けるかにしか興味をもっていないようである」
 「私たちも勝てばうれしいし、負ければがっかりもする。しかしこのごろの様子は、勝って帰れとはげまされ、日の丸で見送られた出征兵士に似た悲愴感と、一方的な戦争報道しかなかった国粋主義を思い出させる。これでは選手も気の毒であるし、国民の正しいオリンピック観をあやまらせる」
 「こんな身びいきな国粋的な身がまえと、生か死か、といった悲愴な身ぶりで、果たしてフェアーな主催国になる資格があるだろうか。いざとなれば、日本ほどもてなしのうまい国はないのだから、心配することはないだろう、という人もいる。強がってみるか、卑屈になるか、どちらにしても、一つのことの裏と表である。それを主催国の襟度とは申しかねる」
 「3年何カ月先には東京でオリンピックをやる日本である。それまでに準備しておかねばならぬことが山ほどある。施設の建設、それを円滑に結ぶ交通の都市計画の解決、いろいろあるが、この心の準備も、どうやら必要だといわねばならない」

 コラムの題名は、先に紹介したように「国粋的なオリンピック」ですが、丹下さんは「オリンピックになれば、新聞が一方的にナショナリズムをかき立てる浅はかさ、理性のなさ、迎合主義、行き当たりばったり」など宿痾を戒めているように私には思えます。
 国際スポーツの大きな欠点は、偏狭なナショナリズムにすぐに結び付くことです。軽薄な政治家やお役人は、ことさらメダルの数を誇り、補助金を増やしてやるぞとおだて上げ、また逆におどします。ここぞとばかり国民大衆のナショナリズムをかきたて興奮させて、時には、無鉄砲な行動に移っても見て見ぬふりです。
 私は、愛するスポーツが、このような利用のされ方をされるのが、たまらなく嫌です。楽しむ、という原点が忘れられがちです。楽しむことまでナショナリズムの道具にされてはたまりません。その点で、丹下さんに心から大・大共感しているわけです。
 成熟し豊かなナショナリズムは、相手のナショナリズムを理解する余裕を持つことです。日本という国は、いつになったら豊かなスポーツ観を持つ「近代国家」になれるのでしょうか。
 
◎割り込んだNHK
 いま一つ建築家で思い出すのは、丹下さんの恩師、岸田日出刀さんです。東大の安田講堂や東大図書館を設計された日本建築学会の大御所です。1964年東京五輪組織委員会の施設特別委員会長をやっておられました。
 元代々木練兵場で米軍キャンプだったワシントンハイツが五輪選手村として払い下げられて、その一角に代々木体育館が作られたのですが、その他の緑地は将来「都民が憩う森林公園」にする、従って一切の建築物は建てないことが、都議会、建築学会、施設特別委などで決まっていました。
 武道会館建設委員会(正力松太郎氏)は「代々木体育館で水泳をやった後で柔道をやるとは国技として情けない」と、ワシントンハイツ内に武道館の建設を強く主張していたのですが否決され、その他いろんな公共団体、ホテルなどの建設要求もすべて退けられていました。(武道館は宮城内敷地に作られた)
 ところが、いろんな経緯があったのですが、いつの間にかNHKが割り込んできました。世界に向け五輪放送をやるには港区・愛宕山にある旧社屋が手狭になったというのが、その理由でした。当時のNHK会長は阿部真之助氏で、毎日新聞の政治部長や主筆をやった方です。政界への広い顔を効かせて、建築学会などが気が付いたときは、阿部氏の根回しがすっかり済んでいて、どうにもならない状態でした。岸田さんは怒りましたね。
 私は覚えています。組織委員会総会に出席した大柄で色眼鏡の岸田さんの起立し、決然とした表情を。私は圧倒されました。
 「大都市東京の将来を思うと、ここは絶対緑地として残しておくべきだと私は考える。NHKの便乗は許せない。だが、どうやらどこかで、すでに建設が決まっているようだ。東京五輪当時、NHKをここに建設することに反対した建築家がいたという事実を、後世に残すため、私が本日述べたことをきちんと議事録に残しておいていただきたい」
 国電・原宿駅から選手村入り口があった代々木体育館やNHKあたりを、いま散策するするとき、昔このあたりで選手をつかまえて取材した思い出とともに、様変わりしたいまの姿に、私は年月の流れを感じます。
 私個人は、NHKはここに移転して良かったと思います。移転したからこそ、東京五輪を契機に世界に誇る放送媒体に発展することができたのですから。それだけNHKには、変な番組を作らないという矜持を持ってほしい。
 思えば、毎日新聞出身の阿部真之助氏はNHKにとって中興の祖でした。阿部氏は東京五輪の開始直前、現職の会長まま急死されました。
(以下次号)

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