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サッカーあれこれ(22)

◎日本代表の拙戦
 日本サッカー協会と絶縁して以来、私はほとんど国内試合を見ていません。だが、60年以上サッカー記者をやっていた縁で、サッカーそのものにはまだまだ関心はあります。同級生あたりから「今年のワールドカップで、日本はどのくらいやれるのかな」なんて質問をよく受けます。
 テレビで先日のニュージーランド戦を見ていました。主力にケガ人がいたようで、「底上げの好機」などと書いた新聞もありました。新味を期待したのですが、何だか覇気がなく、代表チーム全体の力が落ちているように感じました。
 世界ランク89位ニュージーランド。前半は明らかに練習不足を露呈、実力は高校生なみでした。日本の4得点は当然でしょう。ところが、後半ニュージーランドは体がほぐれてサッカーを思い出したのでしょう。断然動きがよくなった。すると日本はガタガタになってしまった。
 もっとゆうゆうと楽に試合ができるはずです。えらく手こずっている感じ。関西弁でいう「しんどい試合」でした。欧州で働く数人はマンネリ的プレーに終始、もはや峠を過ぎたかな、という思いを深くしました。
 ニュージーランドは前半の失敗を反省し、日本のスペースを積極的に埋めてきた。日本はそれに対応できない。本来なら、後半も4点とって8-0くらいで勝たなくてはならない相手。それなのに逆に2点とられてしまった。
 こんなのを「いいところのない惨めな試合」というのです。
 マスコミは、「勝てば褒め、負ければ貶す」のが常道です。だが、どんな勝ち方だったが大問題。4得点のうち1点はPKでしょう。翌日の新聞で、日本の危機を訴えるものは一つも見当たらなかった。「ザックJ悠々4発」「日本速攻4ゴール」「香川復調、本田躍動」「主力欠場も4発、いいサプライズ」などなど、これはないでしょう。香川がPKを決めたくらいで大騒ぎするな、です。
 代表戦は4カ月ぶり。5月の代表メンバー発表後に1試合が組まれています。これで本当に準備OKなのかな、不安いっぱい。

◎ワンランク上をめざせ
 そりゃサッカーですから、どんなことが起こるかわかりません。前回の南アフリカ大会も日本代表は直前まで不調で、このときはマスコミは「本大会では期待できない」と、とくにフリーランスあたりは散々こき下ろす予想をしていました。
 ところが、第一次リーグを突破してしまいました。いまの時期に日本の実力を軽々に論じられないかもしれません。だが、このニュージーランド戦で、私は「世界に出れば、いまの日本は並のチーム」を実感しました。
 ブラジル大会では一つ一つ精根を傾けて戦えば、勝てない相手ではない。くじ運にもめぐまれています。しかし、トーナメントの本戦では相手次第ですが、たぶん「そこまで」でしょう。まあ、いまの日本はベスト16で満足でしょうが……。
 それより、私はW杯全体が大甘になっているのが気になります。私が初めてW杯を取材した西ドイツ大会、そして次のアルゼンチン大会は予選を勝ち抜いてきた16チームが出場しました。いまは32チームと倍増しています。弱いチームでも参加できるシステムはいいことかもしれませんが、凡戦も多くなりました。
 そこらあたりを、レポーターは「日本は5回連続出場」なんて褒めないで、きちんと見てほしい。
 個人的な感想ですが、いまはアジアの参加枠は4.5ですが、欧州や南米から苦情が出て3.5になる可能性がある。その時、アジアの強敵韓国、オーストラリアやウズベキスタン、アウェイでのアラブ諸国に簡単に勝てるだろうか。
 余計なことですが、ニュージーランド戦を見ていてそんなことまで感じました。ワンランク上をめざすという点で、ザック監督になって、日本代表のどこがどう変わったのか、やっていることにアイディアはあったのか。テレビで見ただけですみませんが、そこらあたりがさっぱりわかりません。
 日本代表に、軽く8-0で勝つような余裕のようなものが、そろそろ芽生えて欲しいのです。「2050年W杯の優勝」を目指しているそうですから、なおさらのこと。Jリーグ改革などを含めて、やることは多い。

◎山崎芳樹さんの死
 東洋工業の元社長の山崎芳樹さんの訃報に接しました、99歳。1977年に創業の松田家以外から初めて社長になられた方です。
 私の広島一中サッカー部の先輩でもあり、昭和13年(1938年)東洋工業サッカー部を創設し初代監督に就任、戦後も兼選手として活躍されました。東洋工業はいまのサンフレッチェの前身です。そのころ小学生の息子さんに「父は日曜日にもサッカーばかりしていて、少しも遊んでくれません」と作文に書かれたとか。
 私が親しくお話しするようになったのは、日本リーグでの東洋工業の全盛時代の前です。昭和30年代全国実業団大会(朝日新聞主催)で、東洋工業が活躍しはじめたころはサッカー部長として、遠征ではマネジャー役に徹しておられた。
 ハーフタイムに、選手に飲ませる水を入れた大きな薬缶を、小柄な山崎さんが両手に持ってエッサエッサと走っておられた姿を思い出します。社長になられた後も、東京に出張された折りには新橋にあった「芸州」という飲み屋で杯を重ねたものです。
 広島サッカー協会会長もつとめ、サッカーの振興に力を尽くされた。地方には縁の下の力持ちとして、サッカーを支えてきた人々がたくさんいる。そのことを、いまの私にとっては犬の遠吠えのようなものですが、忘れないでいただきたい。
(以下次号)

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