文化9年9月25日原田宿の町茶屋で伊能忠敬に面会した代官杉山平四郎は、13年後の文政8年(1825)当時もまだ原田宿代官をしていたことが高嶋円助の記録でわかる。
文政8年3月24日、高嶋円助は原田宿下代高嶋治七郎が病死したその跡役に任用され「同年4月5日より御代官杉山平四郎殿在勤中、出勤致し候事」と記している。
その後の天保と安政の分限帳にも「百三十石 杉山平四郎」の名が見えるが、万延元年(1860)の分限帳では『百三十石 杉山啓之進」となっている。おそらく啓之進は平四郎の子であろう。
杉山啓之進は、昌雄といい、歌人だったことが森政太郎編『筑前名家人物誌』に見える。この啓之進の「長男信太郎が病気で廃嫡となったため、その姉と結婚し杉山家に養子として入った人物」が杉山三郎平(灌園)で、その息子が幼名を平四郎といった、後の杉山茂丸だという。
杉山三郎平は維新後、一時、家を挙げて御笠郡山家村の加島家に寄寓した後、夜須郡の二村に移住し、敬止義塾を開いていたという。
文政8年3月24日、高嶋円助は原田宿下代高嶋治七郎が病死したその跡役に任用され「同年4月5日より御代官杉山平四郎殿在勤中、出勤致し候事」と記している。
その後の天保と安政の分限帳にも「百三十石 杉山平四郎」の名が見えるが、万延元年(1860)の分限帳では『百三十石 杉山啓之進」となっている。おそらく啓之進は平四郎の子であろう。
杉山啓之進は、昌雄といい、歌人だったことが森政太郎編『筑前名家人物誌』に見える。この啓之進の「長男信太郎が病気で廃嫡となったため、その姉と結婚し杉山家に養子として入った人物」が杉山三郎平(灌園)で、その息子が幼名を平四郎といった、後の杉山茂丸だという。
杉山三郎平は維新後、一時、家を挙げて御笠郡山家村の加島家に寄寓した後、夜須郡の二村に移住し、敬止義塾を開いていたという。

それに、敬止義塾出身者の活躍。松下村塾を思わせますね。「俺は人間を作るのぢや」という灌園のセリフもいいですね。続きを楽しみにしています。
杉山三郎平から下ること4代目にあたります。
杉山の先祖のことについて何かご存じでしたらお教え頂けたらと思います。
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小生は筑紫野市在住です。