走る9番ライト II

2005年12月のホノルル マラソンを目指して走り始め、それに合わせて始めたブログ、今は雑記帳として使うことにしました。

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ブラジル点描 27: 別れ

2006年06月22日 | 雑記
最後に、リオの国際空港へ戻ってきました。
もうお馴染みですね、アントニオ・カルロス・ジョビン
空港。ターミナルから南の方へ目をやると、凹凸の激しい
山並みが続き、中ほどの山頂に小さくキリストの像が立ち
それに向かい合って屹立しているのがシュガーローフ(
写真左端)でした。
そのふもとに広がる人口1千万の街をいよいよ後にします。
たくさんの思い出を残して。


最後に、アントニオ・カルロス・ジョビンに、もう一度登場
していただきます。1987年ロスアンジェルスでの公演です。
ジョビンはヤマハ・ピアノに向かい、息子がギターを抱えて
います。ベース、チェロ、フルートがその2人を囲み、さらに
ステージの右側にコーラスの女性が5人並んでいる。
曲目は当然ボサノバの名曲ばかり。その音楽についてはもう
ここでは触れません。機会があったら、ご自分で耳を傾けて
みてください。
ただここで、僕は2つのことに注目しました。

演奏者たちのほとんどは、実はジョビン・ファミリーです。
甥や姪をかき集めてグループを作り上げたわけですが、惜しい
ことにその演奏は一流とは言いがたい。ボサノバの美しい
メロディ、巧妙な和音を生かすには少し技量が不足している、
これが正直な感想なのです。
ところが、当のジョビンはそれを全く意に介していないように、
楽しそうにピアノを弾き、歌い、指揮をとるのです。
僕はその様子を見ながら、音楽そのものよりも、音楽に酔う
演奏者たちの世界を楽しみました。少々コーラスが合わなくても
構いはしない、ジョビンは聴衆に対して、音楽そのものよりも、
むしろ音楽を通して仲間との交流を楽しむ「現在」という時間
を与えてくれているのではないか、そう思えてきました。

「大自然に耳を傾けてみるといい、サンバのリズムが聴こえる
だろう。鳥の声、風の音、繰り返す波、それがサンバのリズム」
と、かつてジョビンは言いました。サンバのリズムを感じるのは、
現在を生きているからです。
晩年のジョビンは言っていました、
「私が演奏してきたのはボサノバではない、サンバだ」


もう1つは、5人のコーラス女性です。
普通ならばステージ衣装で着飾るものですが、この女性たちは
全く思いおもいの化粧、自由な髪型、統一のない服装です。
まるで、イパネマの通りを歩く女性を勝手に引っ張ってきた、
そんな印象すら受けてしまうのです。
コーラスはと言えば、この5人がほぼ最初から最後まで
ユニゾン(和音コーラスでなく、全員が同じ旋律を歌うこと)
で歌い通すのですから、これは型破り。
型破りというよりは、はっきり言っていかにも素人コーラスで、
最初は口をアングリしたものです。が、社会に反抗しながら
自分の音楽を作り上げてきたジョビンのことです、ここにも
意図があるに違いない。僕はそう思う。
たとえば、ジョビンはコーラス女性に対して一言、「自分自身で
ありなさい」という指示を出したのではないか、と想像します。
その結果、自由気ままな女性が5人並びました。白い肌から
茶色の肌、浅い黒、また黒い目から青い目、黒い髪もいれば
ブロンドもいる、という具合です。
考えてみると、今までブラジルを歩き回ってきて気付いたことが、
ここにあります。ブラジルでは、様々な人種が交わりながら
発展してきました。そして現在、混血が混血を重ね、人種の坩堝
と言われています。
ステージに並ぶ5人の女性は、統一が取れていないように見え
ながら、しかし全員が同じ旋律を歌っている……、多様の中の
統一、これがブラジルです。そこにジョビンの隠された意図を
見るのは、穿ち過ぎた考えかもしれません。ただ、こうして
ブラジルの中を彷徨した経験から、僕はこう考えてみて
納得できるものがありました。


……リオデジャネイロの街は、去っていく旅行者の感傷などには
目もくれず、今日も熱く、大らかです。

さて、いよいよブラジルに別れを告げます。エキゾチックな、
大インフレに国民が喘いでいた、しかしサッカーに熱狂し、
サンバに踊り狂い、一方ではボサノバという洗練された感性
を併せもつ、僕たちがあまりに知ることの少なかった異国、
それがブラジルでした。そんな国の中を少しばかり覗くこと
ができたように思います。

このシリーズの初めに書きましたが、リオデジャネイロから
サンフランシスコ空港に戻った日、シャトルに乗り合わせた
アメリカ人が言った言葉、
「ブラジルは、子どもたちのスリに注意って言われるけど?」
さて、こういう人たちに向かって、僕はどう説明すればいいの
でしょう?本当は、こういう偏見に満ちた人に対してこそ、
ブラジルを歩き回った経験をたくさん語るべきなのだろうと
思います。
少しばかり想像力をたくましくして話を聞いてくれさえすれば、
自足した人々が朗らかに、自然と溶け合って生きている情景が
見えてくるに違いありません。
そういうところに興味が向いていくのが、相手を正しく理解
する道だろうと思うのです。


最後になりました。思い出の中を流れているメロディは、
『ジェット機のサンバ』。ジョビン・ファミリーが歌ってます。
ゆっくりと降りてくる飛行機を歌った曲ですが、今日は大空に
向かいながら聴くことになります。

リオデジャネイロ、またいつか戻ってきたい街です、その時
も、たくさんの話を語りかけてくれるでしょう。

長いこと話を読んでいただき、ありがとうございました。

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ブラジル点描 26: バイア(2)

2006年06月21日 | 雑記
奴隷として連れてこられた黒人は、アフリカの神話・宗教も
持ち込みました。

アフリカの宗教ではおよそ50の神々がいて、この世界を説明し、
守護しています。大晦日の夜、白い服を身につけて海の神に
対する畏敬を示し、白い花々を海に流して幸いを願う情景は、
実はアフリカから渡ってきた宗教的習慣であったのです。
あるいは、延々と打ち鳴らされるドラムが作り出すリズムに
合わせて、アフリカの宗教的陶酔に我を忘れるという情景が
ブラジルでも繰り広げられているのです。
さらに、この陶酔がまた、カトリック教の宗教的儀式である
カーニバルに通じていくことになります。

そして黒人文化は音楽、絵画・彫刻に色濃く反映されています。
複数の打楽器が叩きだす強烈なリズム、激しいサンバの踊りなど、
もちろんバイアから広がったもの。また、ボサノバの生みの親は
ジョビンでしたが、そのジョビンは「ジョアン・ジルベルトの
リズム感覚がなければ、ボサノバは完成しなかったろう」
と言っています。ジルベルトは、もちろんバイア出身です。
都会生まれの、洗練されたクールな音楽にすら、このような
歴史の刻印があるということに、僕は驚き感嘆します。


僕たちは、サルバドールの中心地にある旧市街を歩いていました。
(ここはユネスコの世界遺産に指定されています。)
観光客が彷徨するこの地区には、教会や公舎のある広場に通じる
路地に沿って土産品ショップ、レストランなどがひしめいて
いるのですが、画廊が1軒、そういうビジネスのひとつとして
扉を開いていました。
何ということもない画廊の前を通り過ぎながら、窓越しに中を
見ると、壁にたくさんの絵が掛かっている。
と、それは当たり前でしょうが、その中に気になる大きな絵が、
こちらを向いていました。全体の基調が黒褐色で、黒人が一人
写実的に描かれています。
その静かな雰囲気が、何かを語りかけているようで、僕たちは
思わず歩を緩めました。画廊の奥の壁から、じっとこちらを見て、
語りかけているのです。立ち止まってしばらく眺めていたものの、
とうとう画廊の中へ入りました。ずんずんと近づいて、さらに
よく観ていたら若い(自称)画家がやってきて、説明を始めて
くれました。
あいにくポルトガル語です。「あなたが描いた?」と手真似で
尋ねたら、「違う」と言う。それで曖昧に笑っていたら、
こっちへ来い、と手招きして地下へ案内してくれました。

そこには、同じ画家の絵が、何枚も展示されていました。
その絵には Belen Brasil と署名してありますが、聞いたこと
のない名前です。
絵の前で感嘆の声を挙げていたら、さらに手招きして、今度は
画廊の2階へ連れて行ってくれましたが、そこは個人の書斎
であり寝室でした。(こんなところまで入り込んでいいのかな?)
と思っていたら、そこにも Belen Brasil の絵ばかりが飾って
あります。余程のコレクションです、ここのオーナーのお気に入り
に違いありません。

自称画家君、今度はオーナーを紹介してくれました。
初老で上半身は裸、ビール片手にフラフラと画廊の奥から
出てきて、愛想よく話し掛けてくれたのがオーナー氏。幸いに
英語です。
実はこの人、スイス人でした。数年前にサルバドールへ永住
を決め込んだと言います。
「スイスはお金を稼ぐ所、ブラジルはお金を使う所。今まで
稼いだお金で自分は余生をここで過ごすことに決めた。この
画廊は道楽、これとは別にリゾートを経営しているので、生活
は楽なもんだ。いや、しかしブラジル政府はヒドイ、これ
ではブラジルの将来はないね」
など、酔っ払いらしく話題は脈絡もなく、行ったり来たり。
ただ、自分の好きな画家を気に入ったところを見込まれたものか、
思わず長く話し込んでしまいました。
Belen Brasil はサンパウロに住む画家だ、かつてヨーロッパで
絵の勉強をした、と言いますが、それ以上の情報は言いません。
素性は知れない画家ですが、ブラジルの黒人を描き、その背後に
ある、時の重さ、宿命の重さを訴えてくる力量は本物だと、
僕には思えました。

酔っ払いオーナーは、僕たちをもう一度地下に案内し、1枚の絵
を示したのですが、そこには黒人女性が不思議な笑顔をして、
こちらを見ている。
「いい絵だろう?これは俺の宝物だよ、いくらお金を積んでも、
これは売らない。ほかの絵だったら、1枚 5,000 ドル。
でも、これは売らない。俺はこれを『ブラック・モナリザ』
と呼んでいるんだけどね」

黒いモナリザ。そう名付けられるだけの雰囲気を湛えた作品
ではありました。いつまでも忘れられません。


さて、とうとう明日はリオ経由でブラジルを離れることにな
ります。ずいぶん長くお付き合いいただいた旅も、終わりが
近づきました。

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ブラジル点描 25: バイア(1)

2006年06月18日 | 雑記
さて、この旅行最後の訪問地へ参りましょう。

リオから飛行機で3時間北上すると、バイアに着きます。
バイア(Bahia)というのは州の名前です。到着地はサルバド
ール市で、ここがバイア州の州都。

ここで改めて、地理のおさらいをしておきましょう。ブラジ
ルの概略図を見ると、南アメリカ大陸の中央西側を占めてお
り、その北方にはアマゾンがありますね。ジャングルに覆わ
れ、黄土を溶かしたような大河が蛇のように身をくねらせて
延びている湿地帯です。
そこから南に行くにつれて大陸の幅は広くなりますが、さらに
南に向かうと先細りになっていく。その急に細くなり始める
位置にリオデジャネイロ市がありました。

サルバドール市は、アマゾンとリオの中間辺りに位置する港街
です。ここがブラジル最初の首都でした(1549~1763)。


西暦1500年にポルトガル人がはじめてブラジルを発見して以来、
16世紀当時、最も栄えていた港町です。ここからサトウキビ、
香料、材木などの農産物を本国へ向けて積み出していました。
この材木の名前をブラジルウッドといいます。
ブラジルという国の名前は、この木を由来としているわけです。
切ってみると赤い色をしており、染料として重宝されました。
当時は広く繁茂していたブラジルウッドも、現在では奥地に
行かない限り、ほぼその姿を見かけなくなった、それほどの
乱伐が繰り返されていたのでしょう。
ある時、どこからか人間がやってきて、自分だけの都合に
合わせて無節操な活動をした結果、その土地には荒廃ばかりが
残り、一方では地球のどこか別の土地で少しばかりの繁栄に
祝杯が上げられる。よく聞く話ですね。

閑話休題。
サルバドールから農産品を運んだ、その同じポルトガル船が
ブラジルへ戻る時にアフリカから輸送していたのが、奴隷です。
当時スペインやポルトガルは、新航路・新大陸の発見によって
もたらされた富により、国力は大きく飛躍し、第二次産業も
発展していました。植民地を拡大し、原住民社会を治め、
その地に自国文化を持ち込む一方で、農産品や貴金属などを
本国へ送り込んでいたわけです。
植民地としてのブラジルに対しては、支配を確実なものにする
ために、現地社会の発展は阻止するという政策が施されました。
農業・鉱業の収穫品だけを求めたのですが、その労働力として
アフリカの黒人が運ばれてきました。
その時に奴隷を収容していた港の倉庫が、現在は観光客向け
のレストランとなっており、そこでは黒人の踊りが披露され
ます。写真でその雰囲気を感じてみてください。

当然のこと、アフリカの宗教や文化もそのまま持ち込まれました。
ポルトガル人はこれを禁じようとします。
レストランで披露された踊りは、まるで格闘技のように
激しいものです。カポエイラという踊り、実はアフリカの
格闘技であったものが、当局にとって危険であるという理由で
禁じられたられたために、カモフラージュとして踊りのように
見せるために音楽に合わせた動きに変えられたものでした。

懸命の抑圧にもかかわらず、結局は、自分たちが連れてきた
奴隷の数に圧倒され、これを押さえることができず、融和策
を取ることになります。
この融和策のために、バイア州サルバドルでは原住民、ポル
トガル人、アフリカ黒人の血と文化が混じりあった、独特の
社会が形成されることになりました。ブラジルと言えばすぐ
サンパウロ、リオデジャネイロが思い浮かびますが、実は
「ブラジルの魂はバイアにある」と言われています。
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ブラジル点描 24: 貧困

2006年06月17日 | 雑記
さて、リオデジャネイロに戻ってきました。

リオデジャネイロの街には、あちこちに「スラム」があり、
これをポルトガル語では favela(ファヴェラ)といいます。
ブラジルでは君主制が長く続き、奴隷制も比較的近代まで残って
いました。そのために富裕な階層と貧民の格差も、世界一大きい
のです。

ファヴェラは、不法に占拠された土地に繁殖した貧民の居住地区
です。リオデジャネイロだけで、516箇所のファヴェラが存在し、
その居住者総数は200万人と言われています。総人口1千万の
都市に 200万人が不法居住者、こういう現実をブラジルの政治は
どのように取り扱おうとするのでしょうか、果てしない課題に
茫洋としてしまいます。


ここは当然のこと、危険区域です。観光客どころか市民ですら、
おいそれと入っていけるような場所ではありません。
しかし、そういう所でも非常に特殊ながら、観光の対象となって
いるものがあります。今回の旅行では、そのファヴェラ・ツアーへ
行きました。リオでも一番大きなファヴェラです。
ジープの荷台に客が6人、ガイド1人、それに運転手。


ファヴェラの多くは、山の斜面にへばりつくように広がっています。
ここの住人となる人たちは、まず赤いレンガを積み上げて、簡素な
住居の外郭を作り、そこを生活の場とするわけですが、そのような
赤レンガの住居が雑居し、計画性もなく、複雑に入り組んで
癌細胞のように繁殖していくのです。

走りながらガイド氏は、ファヴェラの歴史、現状、その中に
入るについての注意点、などを詳しく話してくれました。
このガイド氏は、かつてこのファヴェラに住んでいたそうですが、
「そうでなければ、このツアーも受け入れてはもらえない」
と言っていました。

ジープは街を抜け、急な坂路に入りました。エンジンをふかし、
かなり居心地の悪い道路をさらにどんどん登ると峠の登り口に
到り、そこで停車しました。

「ここからファヴェラです」
というガイド氏の説明があり、僕たちは車を降りましたが、
そこには子どもが2人立っていました。
「それから、この子たちが私たちの付き添いです」
という案内で紹介されたのが、いずれも10歳くらいの男の子。
僕たちに付いて歩いてくれるわけです。
僕たちが歩き始めたら、ジープは走り去ってしまいました。

僕たち一行は、ここでは余計者でしょうか。
ガイド氏の話では、このファヴェラの人たちは、自分たち
のことをよく知ってもらいたいと思っている、と言います。だから
恐れることはない、気軽に挨拶をして、陽気にしているように、
と言います。赤いレンガを積み上げた住居が並ぶ路地を
しばらく辿り、(そこには雑貨屋、野菜屋などもありました)
住民の奇異の視線を感じながらも、すれ違う通行人には言葉
や笑顔で、挨拶をしながら歩きました。
僕らのグループの前と後ろには、男の子が付いています。

とある乾物屋では、その建物の内部を見せてもらいました。
(明らかに、これは観光業者からお金を取って閲覧させてい
たものでしたが。)赤レンガの建物が1階、2階、3階と続
きます。階段は細くて急で、暗い。その2階から上は住居で、
ソファがあれば、大型テレビも置いてある。ただ、ここは
裕福な例、まず例外だと考えていいでしょう。
階段を辿って屋上まで行きましたが、驚いたことに、そこでは
上半身裸の老人が、屋上のスペースに更に赤レンガを積み
上げている最中でした。こうして不法住居は上に延びていき、
住人を吸収しているわけです。
ほとんどの住居は高くても2階まで、しかも狭くて薄暗い、
排水設備も完備されていないもののようで、路地には清潔とは
言いがたいところもありました。住居一帯は生活の臭いに満ちて
います。
痩せぎすの女性たちが細い坂路地を足早に行き来し、一方で
子どもたちは、カメラを向けると笑顔で応えてくれます。

赤レンガの家が密集する地域の隙間を、僕たちは30分ほど歩き、
峠の反対側に出ましたが、そこに僕たちのジープが待ってくれて
いました。これが、何となく言葉数が少なく、緊張感に満ちた
短時間の冒険でした。
現在でも昼間から発砲事件が起こり、間違って迷い込んだり
したら、無事にホテルに戻れるかどうか保証の限りではない、
そういう地域の冒険です。


こういう居住地区は違法である、と言われています。
が、実際は、政府はこれを合法として認め始めているようです。
役所もありました。郵便局もある。
ただ、人口密集があまりにも激しく(と言っても、住民登録
などはありませんから、正確な実数は不明)、生活圏として
環境が完備しているとは言い難いのです。
また、完備できるほどの税金の徴収ができないという問題も
あります。水と電気、電話回線も一応供給されているのです
が、十分に行き渡っていない。
高圧電線が走っており、大型トランスが電信柱の上に乗っかって
いる。そこから各家庭に電力が配給されるわけですが、
それは電気代を支払う一部の住居へだけ。それ以外の人々は、
勝手に電線を自宅からトランスへ引っ張ってきて結び付けて
います。それで、トランスがある電信柱には黒い電線の束が
スパゲティのように絡み付いている。電力会社の技術者が
時々やってきては、この電線を外すらしいのですが、それは
いつも空しい努力で、その翌日にはまたスパゲティが絡み付く
という、果てしない徒労の戦いが繰り広げられているのです。


さて、そういう住居の様子を見学したあと、最後はジープで
駆け下りましたが、ファヴェラの出口は、貧しいなりの繁華
地区になっており、商店や出店が並んでいました。買物をする
人通りも多い。もう先ほどの不穏な雰囲気はありません。
そこにマイクロバスが1台ゆっくりと入ってきました。窓を
締め切って、中にはビデオカメラを構えた観光客が、雑踏に
向けて奇異の目を光らせていました。一見して西洋からの観
光客だとわかる。自分も好奇心で人の生活の場を見て回った
わけですが、こうして車の中から覗き見るだけで、住民との
接触を拒絶するような形でファヴェラ・ツアーが行われている、
さすがに僕は憂鬱になりました。


さぁ、ツアーを終えると2人の子どもたちとはお別れです。
何の意志の疎通もできなかったけれど、どうもありがとう。
「オブリガード(ありがとう)」と言いながら、それぞれに
チップを渡しました。
男の子たちは、お金を手にして嬉しそうにしていましたが、
(ほんとは、大切なのはこんなお金じゃぁないんだよ、
「オブリガード」ということばで表した僕たちの気持ちを
 受け取ってほしいんだよ)
と、僕は心の中でと考えていました。貧しい中でも健気に
生きていってほしい、将来は立派な青年に育ってほしい、
そう思うのは幸いにして貧困から少しだけ離れたところに
身を置く者の勝手な物言いでしょうか。


貧困の問題を解決するのは容易ではないでしょう。
まず何から手をつけたらいいのか。それには長い努力と苦労を
重ねなければならないに違いないけれども、人口問題と教育
問題は大きな2つの鍵ではないか、そういう思いを深くした
ファヴェラ・ツアーでした。

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ブラジル点描 23: 食べ物の話

2006年06月16日 | 雑記
ここらで食べ物の話もしておきましょう。(なんて、僕は
不得意な分野なんですけど。)

ブジオスでは魚の料理をいただきました。漁村ですからね、
新鮮です。新鮮だけれども味付けが違います。オリーブ オイル
を存分に使ってギトギトと仕上げます。トマト、たまねぎ、
その他の野菜をザク切りにして鍋にぶち込んで魚介と煮込む、
こうしたものばかりを食べていると、身体にやさしい日本食
へ戻りたくなること必定です。
ブラジルの最近の流行が日本食だそうです。寿司屋が混雑
しています。味のほうはわかりません、どうも心配ですね。


ブラジルの朝は、果物と甘いパン、カフェオレが主体でした。
ホテルのメニューは大体そんなものですが、それでもほかの国と
比べて、圧倒的に果物が多い。スイカ、リンゴ、オレンジ、
パイナップル、バナナ、マンゴ、パパイア、ココナッツなどは
いいとして、カランボラ(星型のフルーツ)、ジャックフルーツ、
マラクジャ(パッションフルーツ)、アサイなどなどとなると、
ワケがわかりません。
いろんな種類を少しずつ、お腹いっぱいいただきます。


その代りお昼は簡単なもので済ませます。ファーストフード
にも入った。これは世界中どこでも同じですね。
変り種はチーズパン。これは人気食です。こういう小さな菓子パン
の類を売っているスタンドが街角のあちこちにあって、いつの時間
でも、たいてい人がそこの丸椅子に腰掛けてモグモグやってます。
さっそく注文してみると、握りこぶしくらいのやわらかなパンで、
そこにチーズが挟んである。それをオーブントースターに入れて
暖め、さらにそれをワッフルを焼くような器具でギューッと潰して、
少し焦げ目がつくくらいに焼いて、はいどうぞ。
紙に包んで渡してくれるので、熱いところを口でハフハフ
噛みきりながら食べると、これが何と日本のお餅のような味が
するんですね。ほんのりと甘味があって、少しねばっこい。
ん、これはいけます。汗をかきながら、ハフハフ、口が熱く
なったら水をゴックンゴックン飲んで、汗拭きながら、最後の
かけらを口に放り込む。ちょうどこれくらいのサイズです。
チーズパン。


さて、夕食が始まるのは9時過ぎであることが一般です。
ブラジルの代表的なメニューが、フェイジョアーダ。奴隷たちが
食べていた料理です。
黒豆を煮込み、そこへ豚を入れる。豚と言っても、もちろん、
丸ごとではありません。肉は支配階級が食べるもの。肉を
切り取った残りの物が豆のシチューの中に入るわけです。
内臓、骨、皮、鼻、耳、脚などの細切れです。
フェイジョアーダが一般に広がる過程で、普通の肉やソーセージ
が入れられるようになったものの、やっぱり真っ黒いシチュー。
申し訳ないけど食指は動きませんでした。自分の皿にこれを取り、
ライスやファロファと混ぜて、香辛料をかけていただきます。

有名なものに、ブラジル独特のバーベキューがありますね。
チュラスコ(Churrasco)と言って、これは最近アメリカにも
稀に見られるようになりました。
広いレストランの一角に厨房があって、炎が上がっている。
そこで1メートルほどの金属串に刺した肉を焼いているので
すが、肉の種類は10種類近くあります。
それが焼きあがると、給仕さんがその串を左手、包丁を右手に、
客のテーブルの間を早足で巡ります。こうやって客の皿に少量を
切って落としていき、客は焼き上げたばかりの肉をアツアツで
いただくという寸法です。
店内は、串と包丁を持った給仕さんたちが、ひっきりなしに
行ったり来たり、食べるほうも忙しい。お腹が膨れてきても、
お皿の上に肉がなくなると給仕さんがやって来る。
とにかく食べ放題ですから、最初は持ってくるもの全てに対
して首を縦に振っていたのですが、20分もすると、ペースが
落ちてくる。そういう頃になって、とりわけ美味に見える肉が
出てくるわけです。残念ながら、どう頑張ってももう食べきれない。
ま、それでも、味と量ともに満足してホテルに戻れることは
請け合います。機会があったら、ぜひどうぞ。


また、ブラジル北部へ行けば、アカラジェが食べられます。
写真をご覧ください。
アカラジェとは道端に店を開いたおばさんが供してくれる、
ブラジル版ハンバーガー、とでも言えるものです。椰子の油で
揚げたてのパンに小エビを挟み、いろいろな香辛料を付けて、
これも熱々でいただきます。
新鮮な魚のすり身で作った揚げたてのかまぼこのような味がして、
これは日本人には好評間違いなし、あぁ、書きながらまた食べたく
なってきました。アカラジェ。


さてそれでは、明日はリオへ戻りましょう。とっておきの場所へ
ご案内します。

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ブラジル点描 22:ブジオス(2)

2006年06月15日 | 雑記
カーニバルは日本の夏祭りと同じように、全国各地で繰り広げ
られます。ブジオスに行ったのは2月、カーニバルの直前でした
から、夜になると村の青年団がドラムの練習をしていました。

海岸に飲み物や簡単な食事を供するバーがあり、その前の広場に
50人ばかりの青年や少年が集まります。それぞれにドラムを
持っています。なかには、本物のドラム缶を半分に切ったような
手作りのものもありました。小さいスネア・ドラムから、大きい
ものは大人が腰に引っ掛けて地面に届くようなものまで、
いくつかの種類があり、それが一丸となって強烈なリズムを
刻みます。
和太鼓も素晴らしい迫力がありますが、ブラジルのドラムは
さらに荒々しい、地の底から湧いてくるような響きがあります。

既に夜も深く、暗闇が広がる中に裸電球の光を受け、中学生
ほどの少年から20代の青年までが汗を流しながら、ひたすら
ドラムを叩きます。一定の形で繰り返す荒波のようなリズム、
照りつける太陽のような灼熱のリズム、時に、煮えたぎるような
ドラムの響きを切り裂くかのように、鋭い笛の音が夜空を走る。
厳しい相貌のリーダーが指揮棒を振り、笛で合図を送って
いるのです。汗が流れて、ドラムの音が地を這い、陶酔の夜が
進行していきます。

カーニバルそのものはカトリック教国の祝祭ですから、ブラ
ジルに限ったものではありません。ブラジル、とりわけリオ
のカーニバルがよく知られているのは、ほかに類を見ない熱狂
によるものでしょう。
ヨーロッパからブラジルへとカーニバルが入ってきたのは、
19世紀の中ごろとされています。このカーニバルがアフリカの
黒人奴隷たちの宗教と混合し、ブラジル独自のエネルギッシュな
カーニバルが育っていったのです。


全国の村それぞれに、カーニバルのために組織された青年の
グループと踊り子たちがいて、その腕と華麗な踊りを競い合う
のです。
こうして選抜されたグループがリオに集まり、雄を決することに
なるわけで、優勝するとたいへんな名誉となるそうです。
そのために、ドラムの練習にも熱が入る。


今夜の練習でも、その周囲には村人や観光客が集まり、頼もし
そうに聞き入っていました。そしてまた、ドラムに合わせて
ステップを踏み鳴らす黒人の女の子たちがいます。

よーく見ると、この子たちは髪が何だか黒人らしくありません。
しかも、顔立ちも黒人というよりは白人に近い。

ブラジルは人種の坩堝です。黒、白、茶色、黄色、それから
これらの中間。さらにそのまた中間。
歴史的に見ると、大雑把に茶色は原住民、白はポルトガル人中心
のヨーロッパ人、黒はアフリカ人、黄色は中国および日本人
となるわけです。今日ではそれが混じりあっていて、この写真
に見るような混血が多く見られます。
アメリカでは人種差別問題がいまだに燻っていますが、ブラ
ジルでは、どういうわけか人種に関する柵は高くなかった。
青い目の黒人、肌が黒い金髪など、僕たちには不思議な光景
です。
が、これは1500年以降の歴史をとどめている、言ってみれば、
宿命です。外見に表れたものばかりではなく、血となって身体を
流れている宿命。長い歴史を通じて様々な人種が歩いてきた痕跡、
その果てにこの小さな命が背負っている宿命。そういうことを、
ちょっと考えたりしました。

目を返して、自分の本国を見れば、ガイジンに変身したいと
憧れているのではないかと勘ぐりたくなるような、度を越し
た茶髪の流行。
突然僕は口うるさいオヤジに変身して、
「ボク、オジョーチャン、流行もいいけどね、いつか自分の
アイデンティティのことを少しだけ考えてみようね」
なんてイヤミも言いたくなるのでした。
「流行は珍奇に始まり、滑稽に終わる」と喝破したのは三島
由紀夫でしたが、さて、珍奇と滑稽が同居する日本の現状を
何と見るか。


それはともかく、速いステップにキャッキャッと声を上げな
がら踊る、愛くるしい女の児たちを見ていて、いつまでも
飽きることはありませんでした。

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ブラジル点描 21: ブジオス(1)

2006年06月13日 | 雑記
これまでは、パラチという村で過ごしてきました。そこは、
リオから海岸沿いに、バスで5時間ほど西に走った所にあり
ました。

そこから同じ道を逆に辿ってリオデジャネイロに戻ります。
そして、そのままリオを素通りしてずっと北東へ3時間も
走ると、ブジオスという、これも海岸の町に着きます。

この辺りも岬が複雑に入り組んだ土地で、小さな湾があちこちに
ビーチを広げており、海水浴にもってこいです。多くの湾には、
こじんまりとした、ひなびた漁村が散見されます。そしてここ、
ブジオスも1960年代までは同様でした。
ところが、急にブジオスに人気が出た。それは何故か。

実は、ブリジッド・バルドーが避暑地として別荘を建てたのです。
世界中の男性を悩ませたB・B、周囲がうるさくて仕方がない、
たまには静かな場所でゆっくりしたい。というわけで各地に
人知れぬ静かな場所を探し、白羽の矢を立てたのが、このブジオス
だったわけです。

しかし、世間は面白いですねぇ、このニュースを聞いて、小さな
漁村だった村にはワンサカと人が寄ってきて、お金持ちの別荘が
海辺に並び、それまでは舟に乗って魚を捕っていた若者たちが
レストランやバーを開業し、海岸をぶらぶらしていた娘さんが
ブティックを始め、というわけで商業は増殖し、ちょっとした
リゾートができあがりました。

小さな港があって、その港を巡る小道に、ベンチに腰掛けたB・Bの
銅像がありました。その横に座って記念写真などを撮るように、
との配慮なんでしょうかね。ジーンズで T シャツ姿のB・Bは、
ほっそりしてて、あんまり本人に似ていなかったけれども、
似ていなくても、決して誤解されることはありません。そこで
観光客は記念写真を撮るのですが、両腿の上が腰掛けやすくて、
その部分がテラテラ、それから鼻の頭と唇もテラテラと光って
いました。


もちろん、もうB・Bはブジオスには来ません。その代わり
「ブリジッド」という自称インターナショナルなレストランが
繁盛し、物置のような小屋が「バルドー」という看板を掲げて、
村の青年のための一杯飲み屋をほそぼそと開いていました。



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ブラジル点描 20:パラチ(6)

2006年06月13日 | 雑記
フィルムがなくなったので(当時はまだデジカメをもって
いませんでしたからね)、カメラ屋さんへ行きました。
観光案内所の隣にお店を構えた小さなカメラ屋さんですが、
コダックだ、フジフィルムだ、どこでも同じです。
まぁ、どれでも同じだろう、などと言いながら買ったりした
のですが、その店のご主人、東洋系で年のころは60過ぎほどか、
ハンチングをかぶっている。おや、気がついてみると、
日本海軍の旭日旗バッジがついているではありませんか。
「あれ?あのバッジ見てご覧」
なんて二人で話していたら、そのご主人、ニタニタして
「あなたたち、日本から?」
何とこの方、日本出身でした。こんな小さなところに、日本
人が3家族いるそうです。その1つがカメラ屋さん、もう1
件がお寿司屋さん、最後は忘れました。

ブラジルへは日本からの移民が多い。先日も統計が発表され
ましたが、海外で日本人が多いのは1番がアメリカ、2番が
ブラジルだそうです。それからイギリスが続きます。それほ
ど日本に近い国でありながら、知られることの少ない国ですね。


パラチには有名な人形劇があります。Grupo Contadores de
Estorias という人形劇団ですが、Teatro Espaco という劇場
を根城に公演をしています。この劇場、100名を収容するのみ
という小さなもので、中は階段状の座席が5列くらい。舞台が
すぐ目の前にあります。
入場料を払って中へ入るとすぐに団扇を渡される。冷房がなく、
暑いのです。日本でも、昔の映画館などでは畳の桟敷があったり
して、団扇を持って出掛けたものですけどね。

暗い舞台の中央に照明を当てて演じられる人形劇は、まるで
浄瑠璃を思わせます。黒子がいて、人形を抱えるようにして
操作している。ただし、言葉はありません。音楽が流れ、
15分間ほどの小さなストーリーが披露されます。テーマは様々
ですが、いずれも人形が生きいきとしている。
ここでは1つだけ、観てみることにします。バックに流れる音楽は、
ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスの静かなギター音楽。

舞台の中央にテーブルが1つ。
夕食も終り、お婆さんが椅子に座って裁縫をしています。
お爺さんは手持ち無沙汰に、テーブルの上で木の実を転がして
遊んでいます。
お婆さんは黙々と裁縫。お爺さんはつまらない。
木の実を転がし、お婆さんを盗み見る。お婆さんは知らん振り。
お爺さんは、木の実を1個、テーブルからコロンと落とします。
木の実はコロコロと床を転がって、お婆さんはチラッとそれを見、
何事もないかのように裁縫を続けます。
お爺さんは、クスッと笑って、木の実をテーブルで転がす。
そして、もう1個木の実をコロコロッ、床に落とす。
お婆さんは裁縫の手を休めて、木の実の行方を追い、クスッ
と笑います。
そこへ、また木の実がコロコロッ、お婆さんは口を押さえて
クスクスッ。
お爺さんは、お婆さんの傍に寄り、耳元へ何か囁く。
と、お婆さんは口を押さえて笑う。お爺さんもヒッヒッヒッ
と笑い、また何かを囁き……、二人はクスクス笑いつづける。

ストーリーはこれだけ。おそらく、今まで共に生きてきた日々が
心の中に積っているのです。その挙句の夜の時間の沈黙、そして
二人のクスクス笑い。
この2人の人形は、はっきりと人生の黄昏を描いていました。

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ブラジル点描 19: パラチ(5)

2006年06月12日 | 雑記
さて、ボートに乗ってビーチ巡りです。パラチには漁民もいて、
小さな港があります。岩と木で組まれた波止場が静かな波に
洗われて、早朝の眠りを楽しんでいるかのようです。

これから海へ出るわけですが、40フィートくらいの白い船が、
陸路からは行けないビーチに連れていってくれます。褐色の
若者2人が案内してくれましたが、船員兼船長というところ
ですか。残念ながら、やっぱり英語は喋りません。

この白い船の同乗者はブラジル人の5人家族でした。、その後、
さらに夫婦1組が乗り込み、そろそろ船が出るかなという時刻
になって、リーとロベルトがやってきました。
僕たちはことばに不自由していますので、それを心配したのか、
今日もいっしょに付き合ってくれるといいます。


この付近には65の島と約200のビーチがあるといいます。
行き先はその日まかせ。だいたいは決まっているのでしょうが、
別に急ぐ必要もなし、太陽が頭上にある限り、どこに行っても
楽しめることは間違いありません。どのビーチもイパネマのようには
広くこそなかったものの、1つのビーチを独占するのは、実に
痛快です。

とあるビーチに近づくと、大きな岩に「BAR」とペンキで大きく
書いています。船を着けると、藁葺きの小屋があって、一通りの
飲み物が揃えてあります。で、早速カイピリーニャ。それから、
テーブルについて、ゆっくりとビール。また、椰子の実のジュース。
ここでものんびりしたものです。
船員兼船長の二人は、海で勝手に泳いでますが、自分たちが
飽きたら「次に行きましょう」と言って出帆です。こういう調子で
夕刻まで、この日に巡ったビーチは4、5か所だったでしょうか、
何ものにも気兼ねすることのない海のツアーでした。


パラチ滞在の3日目は川泳ぎのツアーに行きました。この日
もワゴンに乗って、例のガイド君の案内です。ポルトガル語
で、通訳はまたしても、リー。もちろんロベルトもいっしょに。

内陸にはジャングルが迫っています。その中に清流があり、
そこで泳いで回るというツアー。泳いでばかりですね。
これがブラジルで自然を肌で感じる最高の方法です。

この日のハイライトは岩場でした。滝があって、岩で囲まれて
いましたが、この岩が5メートルもあろうかという高さで、
ガイド君はさっそくその上から飛び込んで見せてくれました。
途端に(あぁ、こりゃ僕にも声がかかる)という雰囲気を感じた僕は、
自発的に(あくまでも自発的に)続いて飛び込んだものです。
それは怖かった。夢中でドッポーンと飛び込んで水上に顔を出したら
上のほうから拍手と歓声が聞こえましたね。エヘン。僕はもう、
続いて日の丸が掲揚されるんじゃないかと思った、それくらい自分の
勇気を称えたものでした。


この日は、サトウキビのプランテーションにも行きましたが、
これが今回の一連のツアーでおそらく唯一の観光地と呼べる
ような場所でしょうか。お土産が並べられてあり、レストランがあり、
昔の建物が記念物として保存されていました。
そういう出来合いの場所を巡って観光という、そんなパターンに
僕たちは馴らされすぎていますね。パラチで巡ったエコツアーに
比べると、なんとも味気ない観光でした。


この日のツアーの最後は、パラチの湾に面した小高い丘に登り
ました。海の向こうまで見晴らしが利くので、安全確保の砦と
なっていた場所です。
そこでガイド君は海を背景に立ち、僕たちを岩場に座らせて、
話を始めました。ポルトガル語です、どうせわからないし、
すぐに終わるだろうと思っていた彼の話は、長く続きました。
少ししゃがれた声で淡々と、彼の説明はいつまでも続きました。
土地の話、歴史の話、今日のパラチの話、そういうものでしょう。
僕はこの時になって初めて、このガイド君が、パラチという
自分の土地に心底からの愛着を抱いていることに気づいたものです。
自分の可能性を試すために都会を目指す、これも青春ならば、
一方では、このように田舎にとどまる若者がいる。
僕は彼に非常な好感を抱き、彼が、いつまでもパラチのガイド
としての職にとどまってくれるように願いました。
(それから、少し英語を勉強してくれると助かるな。)


もう1つ忘れられないこと。
この丘の上で説明を聞いていた時、僕たちのすぐ近くに
虻が止まったのです。それをリーが恐れた。僕は虻を叩こうと、
手にしていたバッグを振り下ろしたのですが、同時にガイド君が
「Nao(No)!」と叫びました。
しかし、僕の手はもはや止まらず、虻を殺してしまいました。
自然の中で、虻一匹も殺してはいけない、と言ったガイド君に
僕は「I'm sorry.」と言って深く後悔したものの、その時の
彼の気持ちを思うと、いまだに自分を責めても責めきれません。
これもパラチの思い出の1つ、心に大事にしまっています。

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ブラジル点描 18:パラチ(4)

2006年06月11日 | 雑記
陸路のビーチ巡りツアーに出発です。

ガイドは黒人の若い青年です。ワゴンを運転しながら、大声で
解説を加えてくれます。英語も大丈夫、という触れ込みだった
ので、まず「Hello!」と言ったら、ニコッと笑って、返事は
ポルトガル語。あぁ、やっぱり……。
このニコッというのがクセモノです。日本人もよくやるので、
意味はわかります。
「スイマセン、喋れません。だけど、僕たちはトモダチです」
という意味でしょう。
僕たちは英語⇔ポルトガル語の豆辞典を持ち歩いていますが、
そんなもの使うような状況ではない。とにかく言っていることばを
聞き取ろうとしても、早いし、人称変化してるし、どうも
訛ってる。まぁ、名詞がわかれば何とかなるわい、と思って
ワゴン車に乗り込みました。客は全部で6名、僕たち以外は
中年夫婦二人と若い夫婦二人で、いずれもブラジル人。
ことばの不便くらい、まぁいいか、こんな田舎に来た物好きが払う
代償としては安いもんだ、何とかなる。

車はでこぼこの山道を越えて走り、ちょっとした広場に出ました。
そこで車を降りて海岸まで歩きます。細い道を1列に並んで
しばらく降りていたら、白い砂のビーチに出た。そこには、
休憩所まであるではないか。炎天下を歩いたので暑い、
ビールです。

500メートルくらいの湾があって、そこで泳いだり日光浴を
したり、勝手に時間を過ごしてください、ということだな、
と見当をつけて、こちらはビールを飲んでいるのですが、何しろ
この後どうなるのか、不案内なので動きがとれない。
尋ねようにも、喋れない。

この広いビーチに、海水浴客は20人もいたかどうか。そういう
のどかな海を見ていると、割合に沖のほうを、湾の端から
端まで一直線に泳いでいるのは、我らがガイド君らしい。
仕事中だろうに、結構自分も楽しんでいます。クロールの
フォームも豪快に、さすがに若い、一度も休憩することなく
泳ぎきったのでした。
湾を泳ぎ切ったガイド君、休憩所へ戻ってきて
「さぁ行きますか」
と言ったのでしょうかね、ほかの2組の夫婦が荷物をまとめて
ワゴンのほうへ歩き始めました。遅れちゃいけない、僕らも
バッグを背負って、細い道を登ります。

ワゴンに乗り込んだら、さぁ次。でこぼこ道のくねくね道を
先へ、先へ。
着いたところは、またビーチ。白い砂の上を、さらに歩きます。
ここでも十分きれいなのに、もっといい場所がある、らしい。
わけもわからず付いて歩いていたら、若夫婦の奥さんが寄って
きました。
「ワタシ、Eliane と言います。英語スコシ」
なんてことから始まって、タドタドシイことばを使ってコミュニ
ケーションです。
ここで役に立つのが例の豆辞典。何しろ時間はたっぷりあります、
ことばに詰まったら立ち止まって、辞書のページを繰って
「コレコレ」ってやったら、相手もページをパラパラと繰って
「コレ」。
おぉ、そういうことか、じゃぁパラパラ、コレ。
返事がパラパラ、コレ。
おー、なるほど、スゴイスゴイ。
意思の疎通なんてまずこんなものです。相手を理解したいという
気持ちさえあれば、障害は氷解していく。
俄然楽しくなってきました。

Eliane は愛称でリー、小型のグラマーで、非常に可愛い。
ご主人は Roberto、こちらは英語は全然解さない、が、まぁ
それはどうでもいいでしょう。聞いてみると、二人は新婚旅行
だそうで、おっと、あんまりリーとお喋りしてると新郎に
悪いかな。


目当てのビーチに着くと、ガイド君はさっそく海に入ります。
何しろ太陽の下ですからね、歩くだけで暑い。それだけに海が
快適です。ガイド君、沖の岩場まで泳いでいって、潜水を
やってました。僕たちは近場でシュノーケル。リーたちにも
貸してあげたりして。
さて、ガイド君が戻ってきた。リーの通訳によると、貝を
食べてたらしい。
「貝を食べてた?」
と驚いてたら、彼はダーッと沖の岩場まで泳ぎ、数回潜ったら
またダーッと戻ってきた。手には小さな巻貝。おー、なるほど、
スゴイスゴイ。ガイド君、ニコッと笑って、真っ白な歯で
その貝をガリッと噛み砕きました。そして、僕に食べよと言う。
げっ。拒絶するのは失礼ですからね、食べました。
海水で洗って、バッチいところをちぎったら、笑われました
けど。

こんな様子で、この日はビーチを4つくらい回りました。
岩に囲まれた海岸で魚を追いかけたり、白い砂浜に寝転がったり、
それで汗をかいたら泳いだり。とりわけ何の変哲もない自然の中
です、自然の中でガイドも不要、地球の反対側くらいのところまで
やってきて、観光地を巡るでもなく、片田舎の海辺で、ゴロン。

そういうところで太陽と水と緑だけが贅沢でした。

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