Dr. 讃井の集中治療のススメ

集中治療+αの話題をつれづれに

続麻酔科臨床の書

2011-09-29 13:11:00 | 麻酔

 

以前に頂いておきながら本棚に積みっぱなしであった「続麻酔科臨床の書」(メディカルサイエンスインターナショナル)を出張の行き帰りの新幹線の中で読んだ。

心臓麻酔初心者から中級者にはとっても良い本。麻酔科医、心臓外科医の両者の視点から語られており、具体的で図もきれいでたくさんあり、執筆、編集にとっても苦労されたんだろうな、ということがよくわかる。

食道エコーについても基礎から実用的な知識まで、ポイントが非常にコンサイスにまとまっている。

結果的に心臓麻酔漬けの生活からフェードアウトして久しいので、偉そーなことは言えませんが、 自分のプラクティスとも結構違うのも知ることができて、興味深いです。

総じて、 著者の面々(内藤嘉之先生、吉田和則先生、井出雅洋先生)が、臨床が良くわかっていて、かつ好きなんだろうな、ということもよくわかる。

読み物として気軽に読むもよし、熟読するもよし。熟読すると、臨床にダイレクトに役に立つ知識も結構書いてあるのに気づくはずです。

 


二項対立

2011-09-25 12:25:11 | その他

 

 米国の集中治療医であるDr. Kellumは、イタリアで行われた敗血症性ショックに対するエンドトキシン吸着の多施設RCTのエディトリアルの中で(注1)、東京 - ニューヨーク間の飛行機の中でもし敗血症になったら、米国に着けばEarly goal-directed therapy(EGDT)と活性化プロテインCによる治療が行われるのに対し、東京に着けばそのかわりにエンドトキシン吸着が行われると、ユーモア混じりに日米の違いを描写した(注2)。

 このコトバを借りれば、東京 - ニューヨーク間の飛行機の中でもしARDSになったら、 ニューヨークに着けば、6cc/kgの一回換気量を目指してA/C(VC)換気がおこなわれ、輸液が絞られ、あとは原疾患の治療、早期経腸栄養、VAP予防などの支持的療法が行われる。東京に着けば、APRVが行われ、シベレスタットが投与され、その他の部分は変わりがないかな。

 さらに想像すると、もし急性膵炎になったら、ニューヨークに着けば、輸液、早期経腸栄養などの支持的療法、必要な時のみ内視鏡的、外科的、放射線科的介入を追加するのに対し、東京に着けば、蛋白分解酵素阻害薬の静脈内投与、予防的抗菌薬に加えて、それらの動注療法、血液浄化療法療法、経静脈栄養が行われる。内視鏡的、外科的、放射線科的介入に関しては日米でそれほど違いはないであろう。

 さらに想像すると、もしICU入院中に心房細動になったら、ニューヨークに着けば、心機能が悪ければアミオダロン、心機能が良ければエスモロールやジルチアゼムが使われるが、東京に着けば、Ia、Ic群の抗不整脈薬やベラパミルなどが使用されるかもしれない。

 あとすぐ思いつくものとしてはDIC(播種性血管内凝固症候群)か。米国では敗血症にともなうDICが治療対象とすべき独立した疾患概念と強く意識されていない。上記の活性化プロテインCは抗凝固薬の範疇に入るが、飽くまで適応は重症敗血症、敗血症性ショックであり、DICと診断して投与を開始する、という使用法はしない。経験上も、PT、APTT、血小板数以外のDIC関連検査を提出することも稀だった(肝移植ではfibrinogen、FDP出してましたか)。一方、日本では、蛋白分解酵素阻害薬、アンチトロンビン、リコモジュリンなど、“多種の特効薬”が存在する。

 なぜ両者はこんなに違うのか。

 まずは、日本 vs 欧米という二項が対立するものとして考えてみよう。その方が話が簡単だからだ。そして、容易に想像がつくように二項が対立すると、議論は平行線に陥り思考は停止する。民主党 vs 自民党、昔で言えば自民党 vs 社会党、あまり生産的な議論が行われた記憶がない。欧米派は「◯◯(薬剤名、治療名)は予後を改善し安全だとするエビデンスはなく、しかも高価である」と主張し、日本派は「しかし、◯◯はXXの△△に効果を現し(薬理学的、生理学的機序)、◯◯の有効性、安全性はという論文で有効性、安全性が確認されている(注3)。市販後調査でも明らかな有害作用は指摘されていない」、あるいは「生死の境を彷徨う重症患者なので何とかしてあげたい。エビデンス的には意味がないかもしれないが、お役人が効果があると認めた(保険適応がある)薬だし」と反論するかもしれない。

 両者ともいつでも述べる主張は同じで、どこまで行っても平行線で、歩み寄るようには見えない。なぜか。一つ一つ考えてみたい。

 その背景のまず第一は、多くの医療者が、(たとえばEBMの手順 [5ステップ] にしたがって)質の高い臨床研究で有効だと認められた治療を選択し、有効でないものは使用を避ける、わけではない、という紛れもない事実があるだろう。

 少し立ち止まって自分の過去を振り返る。レジデント時代に染まった“自分色”を変更することは実は結構難しい。三つ子の魂百まで。どんなに説得力があり、論理的な説明を聞いても、一度スタイルが確立されてしまうとそうやすやすと自分の好みは変更できない(ここでは、転向できない、というコトバを使わせてもらいます)。治療は、エビデンスがあるから選ぶのではなく、それ以外の部分、たとえば先輩の言いつけにより、レジデント時代に条件反射的に覚えたことを引き出しの中から引っぱり出して選択することが多いからである。

 おそらく米国の医師でさえ、EBMを何なく実践するのは、少なくとも刷り込み段階では、先輩の言いつけなどでその治療を選択し(注4)、あとでその過程の合理性を知って納得するからではないか。最初からEBMに目覚めて寝ても覚めても調べ尽くして、リスクとベネフィットを考えて妥当な結論を選択して選ぶ「生まれながらにEBMを身につけたレジデント」は多くないし(それを受け入れやすい土壌は子どもの頃から形成されますが)、比較にならないほど忙しいのでみんな要領が良く、かなりの省略スタイルで毎日をやり過ごす。逆に、みんながやる「当たり前のこと」としていったん習慣になってしまえば、それほど苦ではないだろう。

 現に、それがきわめてEBM的に妥当なプロセスを経て得られた結論であっても、米国の医療の現場で「今までそうやったことがないから」受け入れようとしないこともある(注5)。ただ単純に「今までそうやってきたからやる」という根拠に乏しい習慣的医療も少なからず存在する(注6)。

 そのほか、治療選択の重要な選択因子には、前述のように重症患者を診る臨床医が「生死を彷徨う目の前の患者に効く可能性があるなら、少しでもよいものをしたい」と思う気持ちもあるだろう。患者を何とか救いたいという誰もがもつ医師魂と言ってもよい。ただし、これも臨床医自身のココロに対する救いの部分(やれることはみんなやった、という満足感)もあるので、必ずしも患者の病態や、患者や家族のココロに対する救いにならない場合があることを十分に認識する必要がある。

 さらなる治療選択要因にコネクションも上げられるか。コネクションは、メーカーとのそれはもちろんのこと、教授、指導医、先輩、ときに家族との結びつきであったりする。人間は一宿一飯の恩義を感じやすいのである。これも洋の東西を問わない(注7)。

 このようにして、欧米派はエビデンスを尊重した診療が、“あたりまえだから”当然のようにその診療をつづけ、日本派はそうやってきたのが“あたりまえ”で、うまくやってきた自信がある(人間は大なり小なりみんなそう思いますよね)から、その診療をつづける。欧米派の言い分は論理的という意味ではどう見ても妥当であるのに、いつまでたても日本派に受け入れてもらえない。一方、日本派の言い分は、論理的という意味ではどう見ても不利なのに、その不利を解消するために、同じ土俵にあがろうとしてこなかった。果たしてこのような二項対立を解消する良い道はあるのだろうか。まだ長くなりそうなので、つづく。

 

 

 

注1: ちなみにこのエディトリアルのco-authorとは現在なぜか同僚である。Kellum JA, Uchino S. International differences in the treatment of sepsis: are they justified? JAMA 2009;301:2496-7.

注2:この文章を読んだ筆者の第一印象は、どちらに降りても高額な医療だな、と言う物であった。それぞれ1クール、フルに使用すると、活性化プロテインCは約$6,800(54万円)、エンドトキシン吸着は約70万円か。

注3:残念ながらその論文の多くはエビデンスレベルが低いとみなされてしまう。

注4:米国医療はかなり封建的ですからね、特に外科系は。屋根瓦式は教育だけでなく、組織としての命令系統、規律という意味も大きい。小児科インターンのときにインド系のきっつーい女性チーフレジデントに逆らって、プログラムディレクターに呼び出しを食らった経験がある。

注5:個人的経験でも、術後、低分子ヘパリンかつアスピリン投与患者の硬膜外カテーテル抜去について議論になり、悔しい思いをした経験がある。もちろん英語が下手だった(今でも)という部分は考慮に入れなければならないが。

注6:ルーチーンのポータブルX線写真、など枚挙に暇がない

注7:これも欧米の方が、医療ビジネスとして規模がデカイだけに根深い問題がある

 


JSEPTICセミナー、JSEPTIC-CTGにご参加下さった方々ありがとうございました

2011-09-18 14:44:35 | 集中治療

 

午前中のJSEPTIC-CTGは、はじめてのこころみとして会議の様子をUstreamで配信しました。

メイントピックである第3弾(CRBSI挿入時のクロルヘキシジン消毒、ICUにおける体重測定と輸液バランス、どちらが正式な第三弾になるか競争ですね)に関して熱い討論がかわされました。武蔵野赤十字病院の安田先生、試験前の忙しい中、ご苦労さまでした。また、セミナーの演者であった岡山大学の江木先生がディスカッションに加わってくれ、臨床研究のエキスパートの視点から、すばらしいヒントをもらいました。兵庫医大 竹田先生、井手先生、東北大学 志賀先生、JAとりで総合医療センター 佐藤先生、京都大学 山下先生、自治医大さいたま医療センター 笹渕先生、ありがとうございました。 

ためしにUstreamで配信しましたが、画像、音声、質などが悪かった、討論に参加できずにフラストレーレーションを感じた、というご意見を頂戴しました。まったくその通りで、もうしわけございませんでした。会場の関係でいつも配信が可能かどうか不明ですが、今後の検討課題とさせてください。

その他にもご意見がございましたら、遠慮なく。

次回は12月のセミナーの午前中です。技術的な問題でインターネット配信ができるかどうか未定ですが、お時間のあるかたはインターネットだけでなく一度ナマの空気を感じにいらしてください。そして是非研究にもご参加ください。研究の種類によりますが、今後ますますオーサーになれるばかりでなく、ファーストオーサーで書いていただくものが増えると思います(第2弾CRRTのパート2、パート3、第3弾など)。誰にでも門戸は開かれています。チャンスです。

 

午後のセミナーは、栄養に関する濃い内容になりました。150名の方にご参加いただきました。演者の筑波大学 寺島先生、神戸市立医療センター中央市民病院 東別府先生、東京大学 深柄先生、岡山大学 江木先生のご講演は、どれも知識のよい整理になったと思います。

最後のパネルディスカッションは、上記4人にパネラーとして再度ご登壇いただき、栄養を普段どのように行っているかをプロコン形式でディスカッションしてもらい、クリッカーよる投票をリアルタイムに表示して、フロアーの方々の意見がパネラーの方々のディスカッションでどのように変わるのか、他の人やエキスパートがどのような考え方を持っているか“あそびながら”知ることを主旨に行いました。

そして、パネルディスカッションの最後に、あらかじめ書いてもらった質問をパネラーに答えていただきました。たくさんあり、すべてにお答えするのは不可能でした(各演者の講演の最後の質問タイムに質問が出ないのに何で? と思うぐらい。学会と違いくだけた雰囲気のJSEPTICですから、人前でしゃべる、討論する練習と思って質問タイムにも是非ナマの声を聞かせて下さい http://blog.goo.ne.jp/jseptic/e/e6a3e75b3628816b489114b13c698c97 )。

有志による懇親会には、寺島先生、江木先生、東別府先生も参加して下さいました。ホンネトークが繰り広げられ、楽しいひとときを過ごすことができました。

自分がレジデントの頃にこのような機会あったら、きっと人生は違ったものになっていただろう、長い目で見れば楽観的になれる(呑気になり過ぎても困りますが)、とつくづく思い帰路につきました(贅沢をして東京から新幹線に乗ったら寝過ごして高崎まで行ってしまい、慌ててUターン)。

運営を行って下さったコンパスの方々、いつも熱心に聞いて下さるIntensivist編集部の方々、セミナーの運営を全面的にサポートしてくれた志賀先生、ありがとうございました。

 


とあるICUナースからいただいたメール

2011-09-12 17:24:34 | 集中治療

将来有望なとあるICU看護師からメールをいただきました。そのやり取りの抜粋。


> 集中治療における看護師の役割は先生はどうお考えでいますか? 看護師が医療的な考えをもつとミニドクターといわれ批判されます。看護部からは受け入れられず。方向性がみつからず、毎日の症例を振り返り知識だけは高めようとしてはいるものの・・・。


 「医療的な考え」とは、正確にわかりませんが、患者さんの病態を把握したり、診断をしたり(看護用語ではアセスメントと呼ばなければならないのでしょうか。看護に診断はタブーらしいので)、それによってどのような治療的介入がふさわしいか考察したり、ディスカッションしたりすることとしておきます。「ミニドクター」も正確にはわかりませんが、「医療的な考え」を行う主体としておきます入院するだけでいろいろ害を被る可能性がある現代の病院で[1]、ICUナースがこのような「医療的な考え」を持てば複数の違う角度からのチェックが加わり、まず患者にとって安全域が高くなると想像します。また「医療的な考え」を深く理解できれば、いわゆる「看護」への理解、なぜその場面でその「看護」をしなければならないか、そこでその「看護」は本当に必要なのか、理解が深まるかもしれませんね。

 逆に損になることと言えば、ご質問の中にすでに含まれているように、ナースが「医療的な考え」を発揮すると、即時型アレルギー反応を示すドクターやナースがいて、とやかく言われることでしょうか(アレルギー反応なので理性的な議論はあまり有効ではありません)。でも、機能的なICUチームとは何か知っていて、その機能を最大限に発揮したいと思うドクターやナースに、そのような方は少ないと思いますよ。理由は以下を読んでいただければわかると思います。

 ICUの看護って何ですか? ICUの医療とどう違うんですか? って回りの人に質問してみてください。だれも正確には答えられない。もともとその違いは漠然としたものですよね。正確な線引きはできない。私も答えられません。患者という同じ球面を違う角度から見ているに過ぎない。違う部分もあるが重なりも大きい。得意分野の違いと言ってもよい。レジデントと指導医が同じ「医療」の角度から見るよりも、医師とナースが違う角度から見た方が安全と質は上がりそうです。

  そして、ICU看護の目的は何ですか? ICU医療の目的は何ですか? って聞いてみてください。各人各様の答えが返ってくると思います。ちなみに、私はこうお答えします。「患者を安全に、不要なお金をかけずに、できるだけ早く社会復帰するのを手伝うこと」と。患者にとれば、病院は、ICUは、医療は、安全で、良くしてくれて、悪くならなければ、それでよいわけで、結果が満足いく物であれば、してくれた人の資格が何かは二の次なのではないでしょうか。気になるのは、むしろ、その担当してくれた人物が有能であるか否か、チームとして機能的か否かの方だと思いますよ。はたらいている僕たちの方が、自分の資格や縄張り、レッテルにこだわってしまう。

  先生、有名外科医や教授をTVや週刊誌を見て訪れる患者さんがいるじゃないですか? レッテルにこだわっている例ではないですか? という反論もあるかもしれません。確かに、高名な先生に診てもらい、結果はどうあれ、それだけで満足と思う患者はいまだに多いとは思います。しかし、ICU医療を考えた場合、僕らは遥かに地味なところで勝負しています。患者は、ICUの良否で病院を選ばないですし、ICU内で誰が何をしてくれたかは認識できません。「患者を安全に、不要なお金をかけずに、できるだけ早く社会復帰するのを手伝うこと」が目的なので、それがかなえば「誰が」にこだわる必然性は見いだせません。

 資格制度は、その人物が最低限その職業に相応しい能力があるかどうかを保証するためのもので、その人物の有能さを部分的にしか保証してくれません。レッテルには各種のバイアスが入り、なかなか「本当のところ」はわかりにくい。たまたま、医師は学ぶ範囲が広く深く、毎日、毎時、毎分、チームリーダーとして最終決断をしなければならない立場に立たされている関係で、必然的に求められる責任が大きく、その結果、勘違いしやすい下地がどうしてもできやすいのですが、その人がICUチームリーダーとして有能かどうかを保証してくれません。良いICUリーダーの運営する良いICUチームは、きっとチームプレイヤーがその得意分野で有能さを最大限に発揮するものであると思います(医師が苦手で看護師が得意なことはたくさんありますよね、CE、薬剤師、理学療法士、然りです)。

というお答えをしておきました。

[1] Kohn KT,et al, eds. To Err is Human: Building a Safer Health System. Washington, DC: Committee on Quality of Health Care in America, Institute of Medicine, National Academy Press; 1999.


シンポジウム vs プロコン

2011-09-03 07:17:00 | その他

学会のシンポジウムを観察して気づくことがあります。

それは、各演者の意見がだんだん集約される方向に向かうこと。

通常シンポ形式の演者は舞台に立つと、“みんないい子になり”、実際の臨床の現場でやっていることにオブラートをかけ、よそいきの姿を見せがちです。また、どうしても自分の主張、強烈な反対意見も言いにくくなる。これはどうしても致し方ないことですし、そのような場で自分の意見を強烈に主張すると浮いてしまいますし。“空気”の支配力は相当強い。

集約された結論は、実は舞台の演者全員が実際の臨床でやっていることと若干異なる架空の理想(ちょっと気持ち悪いですね)になったりして、何となくみんな違和感を抱きつつ、議論の流れでそうなると、もう“そうなってしまう”。“そうなってしまう”と「変だなー」と思いつつ、舞台は舞台側でそれなりに納得してしまう。

一方、フロアの参加者は、「文献的に見る標準的な見解」、「現在の主流の見解」、「実際どうやっているかの現場情報」を知り、「それを自分の臨床のヒントにしたい」という理由でシンポに参加します。

フロアから見ると、“そうなってしまう”舞台の議論の流れに共感できれば良いが、「自分の臨床のヒントにしたい」内容が含まれていないと、舞台とフロアとの間に透明な垂れ幕が下りたようになってしまう。仮に議論の流れに共感できなくても、自分の共感できる意見の演者を見つけられれば、坐っているのは苦痛でないかもしれません。

その“共感できる演者”を人為的に持ってもらうための一つの方法は、プロコン形式でしょうか。

プロコンは言わば、“見る劇”としても面白いように配役、役作りまで決めて自説擁護、他説攻撃する形式と言えます。これは、題目によって1対1にしてもよいですし(たとえば蘇生輸液に何を使う:晶質液 vs 膠質液)、題目によっては中間派を入れて1対1対1ぐらいにしてもよい(晶質液のみ派 vs 膠質液のみ派 vs 玉虫色派。その方がフロアの安心感を担保することができます)。いずれにしても重要なのは、全体のテーマと主旨を理解して配役になりきることでしょうか。自分が演者としてその配役になったら、実は信じていないことでもそんな素振りは微塵も見せてはいけません。プロレスと一緒です(全国のプロレスファンの方ごめんなさい)。「◯◯先生のご意見のように私もXXと思いますが.....」なんて前置きしないで「◯◯先生のご意見にはまったく同意できません」と前置きできる勇気のある演者を配置するとおもしろい。

このようにしてプロコンがうまくが機能すれば、“舞台とフロアーとの間に透明な垂れ幕”はなくなるでしょう。その成功の第一の要件は、演者の選択だと思います。私達は俳優ではありませんので、信じていないものはどうしても主張しにくく、本音、弱みが露呈してしまう。信じていることを述べられる環境に演者を置いてあげる、ことが簡単です。ときに俳優の素因をもったドクターもいるので、そういう方はユーティリティーが高いと言えます。

第二の要件は、状況設定、ストーリー、シナリオ、台本作成と綿密な打ち合わせ、予行演習。学会の出し物の多くに興味をそそられないのは、テーマ自体に興味を持てないこともありますが、“見る劇”としても手抜きが見えてしまうという理由があるはず。その背景に、打ち合わせの時間が当日の朝だけで、しかもサンドイッチ食べてコーヒー飲んで終わり、という準備不足があるのは否定できない。みなさん忙しいですからね。

第三の要件は、テーマの選択。これはプロコンだけでなく、シンポにも言えることで、プロコン向きのテーマとシンポ向きのテーマがあるのかもしれません。臨床に身近な、結論が得られていない、他の人がどうしているのか知りたい、異論の多いもの(たとえば、◯◯術後の患者の鎮痛の選択:麻薬 vs NSAIDS vs 硬膜外)がプロコン向きと言えますし、あらかじめ予定調和的に結論の予測がつくものや、誰も結論を知らない未開拓なエリアに関する討論(たとえば医学教育、グローバル・ウォーミング)がシンポ向きでしょう。

第四は最も重要かもしれない司会の技量ですか。学会で観察していても「ああ、この先生うまいなー」と感心する先生は少なからずいらっしゃいますね。これは、1~3の要件の欠点を補うきわめて重要なパートです。

パネルディスカッションとシンポジウムはどう違うのか、という疑問もありますが、ここではこれ以上の突っ込みはやめておき、同類ということでお許しください。実際自分ではこれらの違いがよくわかっていません。

フロア,舞台含めて、できるだけ多くの方に満足して帰ってもらいたいと誰しも思うのですが、なかなか難しいところです。