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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

硫黄島のがじゅまるの木の根元の話(4)

2007年11月19日 | 硫黄島・小笠原村
【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】

ワシモ(WaShimo)様が、
「故郷の廃家」について、このブログに書いたものを
ご紹介下さっているメール・マガジンが届きました。
「照れくさい」ですが、硫黄島での慰霊祭、島民の集いについても
書いていただき本当にありがたいと思います。


(前回(3)からの続き)



落下したショックの衝撃は感じませんでした。
落ちた場所が柔らかかったからだと思います。

落下した垂直の高さは、
その後にこの話を、人にすると時には、
「5メートルはあっただろう。」などと、オーバーに
言ったこともありましたし、「2メートルぐらいだったと思います。」
と伝えたこともありました。

正直なところ、どれぐらい落下したのかは、自分でも
よく覚えていません。
身長よりは高かったので、「2メートルから3メートルの間」
ぐらいだったと思います。

気がつかずに落下した理由についても、
「がじゅまるの枝が、あのように斜め下に向けて
入り組んで、大きな幹でつながっている下は
細かく枝分かれして下方に枝・根を向けている。
その部分に上から落ち葉

(落葉樹の葉がそれほど多い植生かは疑問ですので、
他の低木の葉などだったかもしれません)などが落ちて
重なると普通の地面に見える。
まさか、枝と枝の間に大きな窪みがあるとは思わずに
走り抜けた。」と話すことが多いです。

しかし、本当にそうだったのか、
薄暗かったことは間違いありませんので、
枝の間は注意してみれば、間が十分に人体が落下するぐらい
の隙間があるのが見えるはずだったのに、
パニックで慌てて全速力で走っていたので、不注意で
落下したのか、
そのどちらかが、今、冷静に思い出そうとしても
分かりません。

落下した箇所がどのような場所であるのかは、
案外、冷静に分析できました。
がじゅまるの枝・根が、何本も斜め上方にも斜め下方にも
何本も向かっているのが見えたからです。

上を見上げると、ますます、空は見えませんでした。

がじゅまるの枝は、堅くて、
摑んでもしなるようなことはありませんでした。
あまり、腕の力が強いほうではありませんが、
何本かの枝につかまりながら、
おそらく足も枝を捕らえて、しっかりと足場も確保して
上って行きました。
細かい枝々が大きな幹になる高さ、
その辺りの本当の地面の高さまで上るのに
5分はかからなかったと思います。

今度は慎重に、がじゅまるの枝の間に落ちないように
うまく足場を選んで、地面にたどりつくことができました。

安堵して、息を整えながら、
「どっちに向かえば、舗装道路で、戻れるだろうか?」が
分からなくなっていることに気がつきました。

森に入って、200メートルから300メートルぐらいだったはずで、
どんなに長くても500メートルは入っていないのは分かっていました。

「落下」までは、「来た方向へ戻ればいい。」という方向感覚が
ありましたが、
落下して這い上がってみて、向かっていた方向、入ってきた方向が
全く分からなくなっていることに気がつきました。

その時、初めて、「この森から、出られるだろうか?」
「集合時間に間に合うかという、当面の問題もあるが、
それよりも、ひょっとすると、この森から出られず、
島からも帰れないかもしれない、、、、、」と、
ちょっと、怖くなりました。

(次回(4)へ続く)

(2008年6月6日 写真を掲載しました。
手前 硫黄ヶ丘から、島中央部、空港方向を撮影)

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硫黄島のがじゅまるの木の根元の話(3)

2007年11月13日 | 硫黄島・小笠原村
【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】

森の中に入っていったパパイヤ探索隊に着いていった時に、
一隊を案内して下さっていたリーダーに
「もう、戻らないと、集合時間には間に合わないのでは?」と
質問をしましたところ、

その方が、
「君のグループは? 我々はC班なので、13:00に厚生館に
戻ればいいから、あと、少し行ったところの木まで行くのだけれど?」


「私はB班です。12:30、あと15分後に集合です。!」
私は、班ごとに集合時間が違うなどとは、その瞬間まで、これっぽっちも
思っていませんでした。 「まずい!」

C班からパパイヤ採りに参加のどなたかが、
「今すぐ、急いで戻らないと、間に合わないね。
あちらの方向だから、気をつけて、急いで戻るようにね。」と、
私も方角はおよそ、分かっていた、入ってきた方角を指差して
言いました。

「一人で戻りかよ、、。」と心の中で思いながら、
「はい、では、ここから戻ります。」と、
皆さんから離れて、逆戻りを開始しました。

「戦場で丸裸にされてから、戦後でよくこれだけ木々が生長したな。
亜熱帯気候だからだろう。」という木々の高さと量で、
上を見上げても、見える空の面積はあまり多くありません。

走って戻らないと、集合時間に間に合わないことは分かっていましたので、
入ってきた方向をまっすぐに目指して、急ぎ、戻り始めました。

山を走ったり(昨今の健康ブーム、アウトドア・トレーニングのブームで、
今は、トレイル・ランニングと呼ばれてファンが多いですが、当時に
そのような呼ばれ方をしていたかは定かではありません。)は、
好きなほうです。陸上部だった頃には、クロスカントリーという
山道を走るトレーニングも経験してました。
多少の邪魔が枝がありましたが、起伏もそれほどではなく、
快調に森の中のランニング、で、舗装道路を目指していました。

と、その時、突然、
物音と同時に、前に見えていた森の木々の姿の視界が、消えました。
物音の直後ほぼ同時に、自分の身体が  

(続く)

写真は昨年の9月の訪島の時に撮影した、硫黄島で見事に花を開かせてくれているハイビスカス。
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硫黄島のがじゅまるの木の根元の話(2)

2007年11月11日 | 硫黄島・小笠原村
【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】

最初に硫黄島に行った時の、その日も、
昼食は厚生館でしたので、お弁当を出してもらったのだと
思います。

昼食後に、午後の行程に出発までに時間がありました。
各班ごとに集合して午後の島内視察への車が出発という
指示を受けて、昼の自由時間になりました。

班ごとに責任者がいました。
私の属した班の責任者は2005年に故人となった
母の兄弟の長男と伯父(以下、上の伯父)でした。
温和な人でしたが規律には厳しい人でもありました。

食事を終えて昼の自由時間。
まわりの皆さんを見ていると、
何やら、藪を進むような鎌などを持って、
数人グループで出かけていくところでした。

目当てはパパイヤ。

ちょうど、おいしく実る季節だったのだと思います。

厚生館から舗装道路を南に緩い坂を下りていくと、
島の南側を東西に走る舗装道路に出ます。

写真の地図の「神山海岸」「南波止場」の方面に向かって
降りて行ったあたりです。
その東西の道路より南には道路はありません。

そのあたりまで、降りてきた、パパイヤ採りに森に入ろうとしていた
人たちが、二つのグループになって、左右に分かれて別の海に向かって下っている
森を目指している様子でした。

その二グループが分かれた舗装道路の所まで、
母のすぐ上の兄、次男の伯父(以下、下の伯父)も一緒に
来ていました。
その下の伯父が私の名前を読んで、
「あっちの左の森を目指しているグループと一緒に行くと
いいと思うぞ。あの人たちは、よくこの島に来ていて詳しいようだから
良いパパイヤの実っている木も知っていそうだ。」と言いました。

私は、自分は森にまでは入ろうとしていない、下の伯父に向かって、
「分かった。あの人たちと一緒に、森に入ってくる。」と答えて、
その人たちのグループに着いて行かせていただくことにして、
最後尾で森に入って行きました。

初めての硫黄島なので、事情はほとんど、分かっていなかったのですが、
その時の墓参訪島にも、父島在住で、島の施設の維持や清掃に
または、遺骨収集などで、何度か硫黄島に来ていて詳しく知っていらっしゃる
方々もいらっしゃったのです。

初めてだった、私が知らなかったのは、どういう方々がどういう機会に
島に来ているのか、
どういう施設があるのかなどだけではなく、
硫黄島の自然が、分かっていませんでした。

上陸した1日目から、硫黄が吹き出ている様子などは見ていましたが、
硫黄島の森がどういう様子なのかは、さっぱり分かっていなかったのです。

私が最後尾についたグループは、やはり島に詳しい方々で、
入りにくいところは鎌、鉈で、枝を切り払って、上手に
森の中を進んで行きました。目当てのパパイヤの木がどこにあるのかを
明確に位置が分かっていて、進んでいることは、すぐに分かりました。

森に入って10分ほど進んだ頃だったでしょうか。
私が腕時計を見て、「ここから舗装道路まで戻る時間と
そこから厚生館まで戻る時間を考えると、ちょっと、
奥まで入りすぎているのではないだろうか?目当てのパパイヤの
木には、まだ着かないのだろうか?」

それでも進んでいく一行を導いて下さっている方に、
「まだ先なんでしょうか?集合時間は厳守ですから、
そろそろ戻り始めないと、間に合わなくなると思うのですが?」

(続く)

写真は厚生館の壁に掲げられている島道路地図です。
昨年9月の日帰り(入間基地から輸送機)訪島の時に撮影させて
いただきました。



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硫黄島のがじゅまるの木の根元の話(1)

2007年11月09日 | 硫黄島・小笠原村
【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】


前の「故郷の廃家」について書いたものに、ワシモ(WaShimo)様からコメントをいただきました。ありがとうございました。いただいたコメントに、回答をさせていただきました。


「「がじゅまる」という木の写真は撮影してきておりません。」
と思ったのですが、1枚今年撮影してきた写真の中に森を撮影したものが
ありました。おそらく、大きくはないですが、がじゅまる だと思います。
「このあたりが旧元町集落に一番近いはずだろう。」と思われる
あたりで撮影した写真です。

大木は「硫黄島見聞記」に、硫黄島の貴重な写真と一緒に
ご紹介いただいております。
http://kougabubusitu.hp.infoseek.co.jp/ioujima.html

(「硫黄島見聞記」管理人の「HP管理者 光画部副部長」様、
断りもなくここに紹介させていただいてしまっており、すいません。
問題があるようでしたらこの部分を削除いたします。
掲載いただいたいているのと同じ輸送機に昨年の秋に、乗せていただきました。
東京都主催の旧島民の墓参(入間基地から日帰り)でした。
掲載いただいている水平高射砲の写真は、今年のおがさわら丸での墓参訪島の
時に撮影してまいりましたが、
まわりに一緒に行ったメンバーの方々が多く映ってしまっているので
掲載することができずにいました。
硫黄島のがじゅまるの木の写真を掲載下さってありがとうございます。)

私が、
最初に行った時は、1994年でした。
人数も大規模だったと思います。

長男の伯父(故人)夫婦、次男の伯父、母、母のすぐ下の妹(次女)
と、一同6人で参加しました。
母の従兄弟なども含めると、かなりの親類と一緒に参加しました。

おがさわら丸での墓参がまだ、毎年定期的に開催されるようになる前でした。
父島では本当に盛大な歓迎パーティーを開いていただきました。

まだ、平和祈念館も出来ていませんでしたので、旧島民も、夜は船に戻って
2泊しました。旧島民だけで数十人規模の参加だったと記憶しておりますので、
平和祈念館では泊りきれない人数でした。

新聞記者の方も同行していたこと。
今年の墓参のようなマイクロバス以外にも、
荷台の両側には幌が張ってある軽トラックも、島内移動に
使われて木々が多い道では、ゆっくり進んでもらいましたが、
腕や頭に木々の枝が当たったことを覚えております。

参加人数が多かったのですが、
集合や解散の中心地は今の墓参訪島と同じ厚生館で、
出身など考慮しての班分けがされての
グループ行動であったのは、基本的には今年の墓参と
同じでした。

大きく違ったのは班の数の多さと一つの班の大きさ
(今年の墓参は、元町出身班は村役場スタッフの方1名と
私ともうお一方の三人でした。)です。

20人とかが班行動をしました。

今でも忘れられないその事件があったのは、
島での2日目だったと思います。班行動での島内移動、
出身の見学などが中心だった日でした。

その忘れられない事件があった日は、
暑い暑い日でした。

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