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和食の大戸屋も大変だったんですね~。「お家騒動」の調査報告書が、まるで昼ドラのような骨肉の争い

2016-11-07 00:02:38 | 産業・企業情報

大戸屋「お家騒動」の調査報告書が、まるで昼ドラのような骨肉の争い

2016.10.31 MAG2NEWS

 今年5月に創業家が突然、会社側の人事案に「待った」をかけたことで表面化した、定食チェーン大手「大戸屋ごはん処」のお家騒動。創業者の三森久実前会長が57歳で急逝してから1年足らずで勃発した社長人事に関する内紛劇は、10月3日に発表された第三者委員会の調査報告書によると、まるで「昼ドラ」のような展開になっていたことが判明。今後も長期化する見通しが予測されていましたが、その後あの騒動はどうなったのでしょうか? 無料メルマガ『店舗経営者の繁盛店講座|小売業・飲食店・サービス業』の著者で店舗経営コンサルタントの佐藤昌司さんが、大戸屋「骨肉の争い」の背景と原因、そして未来の展望までを詳しく分かりやすく解説しています。


定食「大戸屋ごはん処」骨肉の争い

あなたは大戸屋の社長として不適格。相応しくないので、智仁に社長をやらせる」。お家騒動で揺れる定食屋「大戸屋ごはん処」の実質的な創業者で急逝した前会長・三森久実氏の妻三枝子氏は現社長の窪田氏にそう言い放ちました。息子である智仁氏を社長に据えるとの主張です。


三枝子氏は遺骨を持ち、背後に位牌・遺影を持った智仁氏を伴いながら、裏口から社内に入ってきて、そのまま社長室に入り、扉を閉めた上、社長の机の上に遺骨と位牌、遺影を置き、その後、智仁氏が退室し、窪田氏と二人になったところで同氏を詰問しました。


「あなたは会社にも残らせない」、「亡くなって四十九日の間もお線香を上げにも来ない」、「何故、智仁が香港に行くのか」、「私に相談もなく、勝手に決めて」、「智仁は香港へは行かせません」、「9月14日の久実のお別れ会には出ないでもらいたい」などと詰め寄りました。このことは社内で「お骨事件」と呼ばれています。


10月3日に第三者委員会が発表した調査報告書にはテレビドラマのような内紛劇が描かれていました。第三者委員会は、お家騒動で悪化した大戸屋のイメージを回復させるため、コンプライアンス及びガバナンスの観点から審議するために8月に設置されたものです。2ヶ月後を目処に報告書をまとめるとしていました。


あまりにも深刻なお家騒動、事の発端は?

久実氏は1983年に店舗展開を目的として、株式会社大戸屋を設立しました。女性客が気軽に入れる雰囲気や、健康志向のメニューといった大戸屋のコンセプトが多くの消費者に受け入れられ、事業は拡大していきました。国内での出店はもちろん、香港やアメリカなどの海外にも展開していきました。2016年6月末の店舗数は、国内に344店舗、海外に93店舗、合計で437店舗にもなります。


2015年7月に久実氏は急逝しました。急逝以前から余命がいくばくもないことを医師から告げられていて、後継体制を整えることが急務となっていました。そういった状況の中、2015年3月頃に「功労金問題」と呼ばれる騒動が発生します。創業家に対し功労金を拠出する話が持ち上がりました。しかし、大戸屋のメインバンクである旧三菱信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)や一部の取締役が難色を示します。久実氏は激怒し、反対した取締役の役を外すといった争いが発生しました。


久実氏の後継体制についてもまとまりがありませんでした。久実氏は息子の智仁氏を将来の後継者にすることを望んでいました。しかし、その希望は周知の事実ではあるものの、その時期がいつなのかは必ずしも明確にはなっていなかったことが問題を複雑にしています。現社長の窪田氏が10年間社長を務めた後に智仁氏に社長を譲ることを久実氏が望んだと言われていますが、文章があるわけでもなく明確な意思表示とはなっていません。また、26歳(当時)と若くさしたる実績がない智仁氏が早期に社長に就くことに異論を挟む役員もいました。


久実氏の葬儀後、智仁氏の処遇の話が持ち上がりました。海外事業で研鑽を積ませるというものです。具体的には香港への赴任の内示が示されました。しかし、間もなくのこととして、智仁氏は「父が亡くなって、すぐなのに」と怒りを表します。三枝子氏も「相続の問題の整理がついていない最中に香港に行かせるというのか」と抗議の意を示しました。そして、既述の「お骨事件」につながっていくことになったのです。

創業家と経営陣が歩み寄り、一時は合意に至るも

「大戸屋ごはん処」は急成長を遂げました。一方で、思うような収益を上げることができていない事業もあります。洋食店「祇園ミクニ」や上海の「大戸屋ごはん処」、山梨の工場用地、植物工場といった事業が、赤字あるいは減損を生じさせている問題を抱えていました。これらは「負の遺産」と呼ばれています。そうした中、創業家に対する8億円を超える功労金の支給の話が持ち上がります。しかし、「負の遺産」がある中で功労金を支払うことにメインバンクの三菱信託と一部の役員が難色を示しました。そのため、功労金の支払いは先送りされます。


功労金が支払われないことに智仁氏は不信感を抱くようになります。功労金が支払われないと相続税などの支払いが難しくなります。功労金が支払われないのであれば、株を売って相続税などを支払う必要が生じます。そうなると、持ち株比率が低下してしまいます。智仁氏としては納得ができるものではありません。会社側が智仁氏の株を買い取る提案をしたことに対しても、智仁氏は不信感を募るようになりました。会社側が創業家の持ち株比率を下げる動きに出たと捉えたのです。功労金問題でも両者の間に溝が広がっていきました。


会社側と創業家の間では5回にわたって調停が行われましたが、智仁氏は早期の社長就任にこだわりました。一方、会社側は智仁氏の早期の社長就任に難色を示し、実績を上げた上での社長就任を要請しています。智仁氏は大株主とはいえ、公開している上場企業である以上、下積みが必要であるという理由です。しかし、智仁氏は納得がいきませんでした。


会社側は経験を積ませるという理由で智仁氏を香港に赴任させようとしました。しかし、智仁氏は海外にいる間に会社の雰囲気が変わることを恐れました。三枝子氏のアドバイスもあり、香港赴任日の直前に取締役辞任届けを提出しました。智仁氏は会社を離れることになりました。


会社側と創業家の対立は先鋭化していきましたが、両者はなおも和解の道を模索していきます。数回の調停を経て、両者は歩み寄りました。智仁氏については、2年後を軸に経営に参画し、当面は米国の合弁事業の事業責任者として認知し、特別顧問として処遇すること、功労金については、一定額の支給をここ1両年中に株主総会に諮ることが調停の合意文書に盛り込まれました。三枝子氏は幸せにしてもらったと会社側に謝意を述べ社長の窪田氏は和解に深く安堵・感激して落涙しています。

貼られてしまった「消費者を無視する店」という最悪のレッテル

しかし、両者はまたも決裂します。合意書には「2年後に復帰」とあるものの、よく読むとそれらのくだりは単なる努力目標に過ぎないと智仁氏は受け止めました。そのため、合意書は破棄されました。その後、両者は互いに代理人弁護士を立てるなど、直接対話ができないほど関係がこじれています


調査報告書や報道を確認する限り、会社側と創業家の双方に問題があります。さらに、メインバンクの三菱信託の介入が話を複雑にしています。三菱信託は智仁氏が社長に相応しいとは思っていなかったのでしょう。取締役時の智仁氏の年齢は26歳です。経験を積んでからの智仁氏の社長就任、または経験不足を理由とした排除を狙っていたと思われます。「お骨事件」が象徴するように、智仁氏が母親の三枝子氏に頼っている姿を見ると、上場企業の社長としては物足りないと思われても不思議はありません。


会社側の対応も後手に回っていました。功労金は経営上大きな負担です。おそらく三菱信託が待ったをかけたと思われますが、一度話を俎上に載せたのであれば、迅速に支払うべきだったといえるでしょう。契約金額が12億円超の保険金を原資とすれば大きな負担ではないはずです。創業家への配慮も足りませんでした。海外での修行といえば聞こえはいいのですが、排除のための左遷と捉えられても不思議はありません


大戸屋のお家騒動は事業承継の難しさを浮き彫りにしました。公開の上場会社とはいえ、創業者が家族に事業を承継させたいと思うのは当然の心理です。一方で、会社の経営陣は創業者の意思を尊重しつつ、株主やメインバンクといったステークホルダーに配慮を示すことも当然に必要です。両者の利害は必ずしも全面的に一致しません。ただ、完全な利害の一致は無理にしても早い段階で両者が納得できる妥協ができたのではないかと思えてなりません。コミュニケーション不足の感が否めません。


大戸屋は消費者不在の論理をかざしています。お家騒動が勃発した企業のご飯を好んで食べたいと思う人はいないでしょう。消費者のそうした思いを無視した形でお家騒動を起こしたことは、会社側と創業家の双方に問題があるといえます。はたして、不味い飯を食わされている消費者の気持ちを考えているのでしょうか。早期の解決を願ってやみません。


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 大戸屋、創業家が明かす"乗っ取り"の全内幕

沈黙を破って「不信の起点」を語った

2016年08月05日 東洋経済オンライン
 
 

7月27日、「大戸屋ごはん処」の創業家関係者が山梨市に集まった。この日は大戸屋ホールディングスの実質創業者で、1年前に57歳で亡くなった三森久実の命日だ。久実の生家近くに設けられた墓には、創業家や苦楽をともにしてきたフランチャイズ(FC)オーナーなど20人弱が訪れた。


墓前で、妻の三枝子は「病気になっても弱気な姿は見せず、次は仏パリ(に出店する)と言っていた。魂は今でも世界を駆け回っているのではないか」と、亡くなる直前まで海外出張をしていた亡夫をしのんだ。


息子である智仁も「父は、トヨタ自動車やソニーを引き合いに出し、日本の食文化を世界に発信したい、大戸屋はそれができるとよく言っていた」と語った。

だが、この日。現経営陣は最後まで墓参りには現れなかった。

 

「定食屋のモスバーガー」を目指した大戸屋

大戸屋の歴史はやや複雑だ。もともとは久実の叔父、三森栄一が1958年に「大戸屋食堂」として池袋に開業したことにさかのぼる。当時、全品50円という価格設定の大衆食堂で人気を集めた。

久実は1957年に、山梨県で観光ぶどう園を営んでいた三森家の三男として生まれた。池袋で食堂を営んでいた伯父に子どもがいなかったため、15歳で養子入りしている。1979年に養父が亡くなると、久実は事業を引継ぎ、1983年に株式会社「大戸屋」を設立、現在に至っている。

大衆食堂から、女性にも入りやすい定食チェーンへの転換にはきっかけがあった。実は久実は「モスバーガー」のFCを山梨県内で経営していた時期がある。

大戸屋が2001年に店頭市場(現ジャスダック)に上場するまで、社外取締役を数年間務めた、あるOBは「健康的で女性も入りやすい、モスバーガーの定食版をつくりたいというのが大戸屋の出発点。久実さんは松下幸之助を尊敬しており、世界に日本の食文化を伝えたいと繰り返し語っていた」と当時を振り返る。

その理念を具現化し、久実は1992年に現在展開する「大戸屋ごはん処」のモデルとなる店を開業。店内調理や健康志向を売りにしたメニューと、女性でも気軽に入れる雰囲気を持つことで人気を博し、国内342店、海外94店という規模まで拡大。モスフードと同じように、国内の6割近くはFCが運営している。

久実は2012年、従兄弟である窪田健一に社長の座を譲り、会長に専念した。国内事業を窪田に任せ、自らは大戸屋の味を世界に広めていくため、海外事業に心血を注いだ。


早すぎた久実の死

順調だった拡大路線の歯車が狂いだしたのは、今から2年ほど前、2014年7月にさかのぼる。久実は突然、末期の肺がんで余命1カ月と宣告されたのだ。

この時点で久実の持ち株比率は約18%、遺族が株を引き継いだ場合、多額の相続税が発生することが見込まれた。

久実は自らの保有する株を、創業家として三枝子と智仁に保有し続けて欲しいという意向を示していた。そこで、会社の内部では、密かに久実に対する功労金支給の検討を始めた。株の相続に伴い発生する、多額の相続税への対策だった。

久実は、次兄で東京慈恵会医科大学・消化器外科の医師である教雄を主治医とした。だが、抗がん剤の治療を受けながらも、息子の智仁を伴い、海外のFCオーナー訪問を続けていた。将来を継がせるため、顔見せ的な意味合いがあったとされる。

実際に久実は生前、「智仁を後継者に」という意向を周辺の親族だけでなく、窪田など主要な経営幹部にも伝えていた。

2015年6月25日の定時株主総会で智仁は常務取締役・海外事業本部長に選任された。その時点で、久実はもはや壇上にあがる体力もなく、別室のモニター越しに息子の”晴れ舞台”を眺めた。同年7月27日、久実は容態が急変し、帰らぬ人となる。

8月1日、生まれ故郷である山梨市で営まれた告別式では、元会長で相談役の河合直忠が弔辞を読んだ。三枝子と智仁の希望によるものだった。河合は、大戸屋のメインバンクである旧三菱信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)で常務取締役を務めた人物で、久実が2002年に会長として招き入れた。その後、2010年に取締役を退任し、この時点では相談役となっている。

智仁によれば、河合は「智仁を育て上げることこそが大戸屋の存続する道であり、創業者(久実)の願い。周りでサポートをするべきだ」という弔辞を読み、参列者の胸を打ったという。

その後、智仁を始めとする創業家は河合との対立を深めていく。智仁は一連の騒動について「これお家騒動ではない、会社の乗っ取りだ」として、その主犯として河合を名指しで批判する。「事実ではないことを理由に経営に介入した」(智仁)と見るからだ。

8月3日に智仁は、葬儀の礼を伝えようと社長の窪田のもとを訪れた。返ってきたのは、海外事業本部長の智仁に対して「10月1日から香港への赴任を命ず」という辞令だった。

智仁はその頃から「何かがおかしい」と感じるようになった。窪田と久実は、年齢が13歳離れてはいるが、母親が姉妹という、れっきとした従兄弟同士。「にもかかわらず、窪田は1度も線香をあげにきたことがない」(智仁)。

業務面でも引き継ぎがされていないことに業を煮やした智仁は、8月下旬、酒席の場で窪田に「なぜ引き継ぎをしてくれないのか」と迫った。智仁によると、窪田は「お前にできるわけがないだろう」と答えたという。

一方の窪田は、創業家との行き違いについて「何か具体的なものがあったかと言われると、はっきりしたものはない」と言う。

創業者久実氏の従兄弟の窪田社長

宙に浮いた、巨額の功労金

智仁と窪田の関係が緊張感を増す中、会社は粛々と、功労金の支払いの準備を進めていた。東洋経済が入手した文書によれば8.7億円の支払いが水面下で固められている。

会社側は9月14日に、臨時株主総会開催の基準日設定公告を発表し、年内の総会開催を決めている。功労金支給を決定するためには株主に諮る必要があるからだ。

ところが、この臨時株主総会は突如撤回される。それまで滅多に出社しない相談役の河合が、この頃から頻繁に会社へ出社するようになった。そして「さまざまな介入を始めた」(智仁)

智仁によれば、河合が「メインバンクの三菱UFJ信託銀行が功労金は出すべきではないと言っている」「海外の子会社や、国内の植物工場など、”久実会長の負の遺産”が多いため、銀行は資金の引き揚げを検討している」と発言したという。さらに河合は、智仁の今後10年にわたるキャリアプランと役職を示した文書を作成。署名を求めた。

智仁がメインバンクである三菱UFJ信託銀行に確認すると、河合が発言した内容は事実無根だったという。にもかかわらず、会社側は11月6日に臨時株主総会の開催を撤回。さらに「意思決定のスピードアップ、組織のフラット化を図るため」(窪田)という理由で、河合が提示した文書の通り、智仁は常務からただの取締役へと降格した。

こうした経緯について会社側は「功労金の金額も含めて検討していたのは事実。実際には、8億円も支給する余裕はないことを今年になって創業家に伝えた。河合は当初から、一貫して支給すべきと主張している。金融機関は功労金を出せとも出すなとも明確に表明していない」とする。

その後、創業家と会社は冷戦状態となる。智仁によれば、「窪田社長は、(降格を命じた)昨年11月6日以降、今年5月7日に面談するまで、目も合わせてもらえなくなった。河合さんからも連絡が途絶えた」という。

河合はその後、相談役から相談役兼最高顧問に就任、一方で智仁は2月24日に取締役を辞任し、会社を去った。3月に、三枝子と智仁はそれぞれ13.15%、5.64%の株式を相続。功労金が得られなかったことで、三枝子の株式を担保に資金を借り入れ、相続税を支払った。

撤回された合意文書

3月、河合は創業家に連絡をとった。智仁を始め、久実の長兄である智文、次兄の教雄へ「智仁が大戸屋と縁を切ってはいけない」という趣旨だ 。一部の親族には「会社側に(持ち株を)売却してはどうか」という打診もあったという。

4月に入り、この3人に三枝子を加えた創業家4人は河合と数回の面談を実施。最終的に、同月26日、両者で合意した条件を書面にした文書を交わした。

東洋経済が入手した文書には「智仁氏が2年後に取締役に復帰できるよう、今後、窪田、創業家、河合にて詰めていく」「1年後に功労金を支給できるよう努める」という創業家の意向が目につく。一方で「河合氏を取締役に推薦する」「創業家の議決権行使書を会社側に渡すこと」といった条件も並んでいた。

創業家の面々は「智仁の2年後の取締役復帰と1年後の功労金支給はなんとかするので、私を取締役に入れてほしい」と河合が発言したとする。が、当初8億円近くを見込んでいた功労金は3分の1に減った。

この文書には、最終的に関係者全員が文書に署名した。だが、改めて文書を確認してみると、智仁の取締役復帰、功労金の支給といった話は盛り込まれていても、確約されていない。創業家側は5月16日、合意の撤回を会社に伝えた。

にもかかわらず、会社は5月18日に、株主総会の議案として、河合が取締役に復帰するなど、大半を入れ替える人事案を公表。不信が頂点に達した創業家が反対を表明したことで、対立は世間が知るところとなった。

ただ、創業家側は反対を表明するのみで表立った動きはなかった。智仁は「3月に株を相続したばかりで、準備が整わなかった」と説明する。6月23日の株主総会後では、賛成多数で会社側の提示していた取締役の人事案は可決された。


巻き返しを狙う創業家

創業家側によれば、「準備が整い次第、独自の人事案を会社側に提案する」(智仁)意向だ。

9月以降に大株主として、臨時株主総会の招集請求を行うか、2017年6月に開かれる定時株主総会に向けて、対抗策を進めるという。

ただ、久実の実子で後継者候補と目されているとはいえ、智仁には目立った実績がないのも事実。窪田については2012年の社長就任以降、売上高は増えているが、営業利益は横ばいにとどまっている。

ある社員は「窪田社長は仕込みや調理の手数を減らすなど、合理化を進めてきた。メニューを変えても、客数は減り続けている。なぜ取締役を大幅に入れ替えなければならなかったのか、新体制で何を生み出していくのか見えてこない」と嘆く。FCオーナーも「食材費や人件費が高騰し、経営は苦しい。まずは今の事業をどうするかが最優先。内輪揉めはその次だろう」と手厳しい。

大戸屋を巡る対立は混迷の度合いを深めている。