北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

▲読売(地図)を制作・販売した宮大工―小林五藤

2017年01月26日 | ▲善光寺平の歴史

 今回は、趣向が異なります(宮彫中心というよりも郷土史)。前回紹介した小林五藤は本業の宮大工の他に、典厩寺の菩薩像を作る仏師のような仕事も手掛けています。さらに、善光寺地震で被災した彼自身が被害状況をわかりやすくまとめた地図を、地震後早い時期に制作・発行し、マルチな才能を発揮している。―宮彫師は明治になってからは、根付制作(立川啄斎、後藤正義)、大理石彫刻(北村四海)など生きていくために他分野にチャレンジしている。五藤の幕末期の地図製作は少し違和感を覚えるが、普通のことだったのかもしれない。

 善光寺地震は、弘化4年(1847)5月8日(旧暦3月24日)に発生した。その時に善光寺は御開帳を行っていて、発生が夜10時ということあって多くの県外からの参拝者も被害を受けることになった。被害は地震発生直後の、家屋倒壊、火災、地すべり、川の決壊による浸水と多岐にわたった。西方の岩倉山(虚空蔵山)の地すべりで犀川が堰き止められ、20日後の旧暦4月13日に決壊し、貯まった大量の水は川中島平に大きな被害を及ぼした。

 小林五藤の住んでいた稲荷山宿(千曲市)は、震源から少し離れていたが、地震直後に火災が発生し宿の多くが焼失してしまった。五藤の家族も4名亡くなっている。失意の中でも、小林五藤は「信濃国大地震火災水難地方全図(413x857mm)」、3枚つなぎの読売を制作している。その後2種の読売を世に出しているが全て無届出で公式なものではない。初版は、出版時期は旧暦6月末で「稲荷山住 宮匠」と書かれ、五藤の名はないが、「遠方の友人から地震の状況を尋ねられることが多く、対応できないので、被害の概要を記して出版した」と、公式でないがやむをえず出版した理由を述べている。地すべりの場所を茶色、洪水になった場所を青色で記し、被害が多かった場所の状況も書かれている。2版は、初版と同じ内容であるが、「稲荷山住 宮匠」の部分はなく、一乗山 唯念寺の出版になっている。3版「信濃国大地震火災水難地方全図(407x617mm)」は、図柄はかなり変更があり2枚つづりで、「上梓 茂喬(五藤のこと)、図画 蘭渓、 書記 栗軒」と、五藤の名前が記されている。

 

小林五藤の「信濃国大地震火災水難地方全図(413x857mm)」

写真は第2版(一重寺唯念寺版)で、図面、右上部の説明書きはほぼ同じ。唯念寺は、川中島にある浄土真宗大谷派の寺。寺由緒には、犀川の決壊による洪水で、本堂床上まで浸水し太子堂、本堂の回廊が流失したとある。

 

地図の右上部の説明書き-最後の段に 「遠境の諸友より右の実説を問う事しはしはにて/いちいち筆にまかせかたきをもてあらましをしるして/梓にものするになん」と書かれている。

地図拡大①―善光寺の西方。信州新町の手前の虚空蔵山(岩倉山)の山崩れで犀川が堰き止められた場所。 右の紫色塗りが犀川。虚空蔵山(岩倉山)から、図の上方に扇状に朱書きされた部分が山体崩落部で、崩落の左部には水が貯留したことを示す青書き部分がある。他に、虫倉山、大安寺でも崩落している。

 

現在の写真。犀川に架かった水篠橋の奥、画の左からの土砂で川が堰き止められ20日後に決壊した。

当時は松代藩領であり、藩が何もしなかったわけではなく、藩士の佐久間象山は爆薬で人工的に決壊させようという提言をしたが、物資面等不足し現実的ではなく実現できなかった。しかし、藩はノロシで下流への情報伝達、下流の人命対策がなされ川中島での人的被害は少なかったが、さらに下流の飯山では人的被害を受けた。

 

・長野市中条地籍。臥雲院の三本杉。地面から傾いている杉が、本来はさらに上部にあったが、地滑りで一緒に流され、傾いたまま生着した。直立している木は後から伸びてきた株。

 

地図拡大②―紫塗りは千曲川。青塗りは犀川。赤紫は裾花川。

 

善光寺では、「死失4200人余。旅人数不知」とある。川中島平(更級郡とあり)は多くが水色塗りで洪水で多くが浸水した。

 

善光寺境内の「地震塚」。地震直後、多くの方が荼毘に付されこちらに埋葬された。2014年11月の白馬神城断層地震で石塔は壊れてたが修復されている。

 

明治39年の善光寺境内図の部分 赤い部分に「ジシン横死人塚」とある。

地図拡大③―犀川と千曲川が合流した場所。長野市長沼(赤点)、須坂福島、小布施周辺(赤点)。 青塗りは犀川、紫塗りは千曲川。赤点の吉村では裏山が崩れ集落全体が埋まってしまった。

 

長沼の玅笑寺の本堂に向かう廊下の柱。長沼は千曲川に接した町で洪水被害を何度も受けてきた。歴代の住職は、浸水した位置を柱に記してきた。

緑線は、1742年(寛保2年)の千曲川の降水による大洪水「戌の満水」のレベル-天井に達する高さ。黄線は明治29年の洪水。赤線が弘化4年の善光寺地震後の犀川の決壊による浸水レベル。

 

同寺の境内に設置された、洪水のレベル表示。黄線は、「戌の満水」。緑線は明治29年の洪水。(前の黄色と緑が逆になってしまいました)。赤線が弘化4年の善光寺地震後の犀川決壊。

 

長沼の対岸の小布施羽場に設置されている水位標。黄線は、「戌の満水」。緑線は明治29年の洪水。赤線が弘化4年の善光寺地震後の犀川決壊。

 

地図拡大④―善光寺のかなり北方の飯山の被害。1200人死者が出ている。(実際の死者は 1515人、家屋の全壊 2453棟、焼失家屋 589軒)

 

飯山の大聖寺の入口の「黄金石地蔵尊」。大聖寺の修行僧が境内の石段を登ろうとした際に、白衣の老人が現れ「地震で亡くなった我々の霊を慰めてほしい」と懇願された。それを聞いた住職が、常盤街道黄金石地籍より石を運んで地蔵尊を作り地蔵堂を建立した。

 

地図拡大⑤―五藤の住んでいた稲荷山宿。死者180人余。旅人数不知。とある。五藤は家族を4人失っている。

 

約170年前の地震ですが。その詳細について、われわれ地元の人間は知らない状況です。長野は海がなく津波の心配はないのですが、山崩れ、川の堰き止め等の別のリスクがあります。地震はいつ来るか予知は難しいですが、構えておく必要はあるかと思います。

 

◆地図の詳細を見たい方のために・・・・地図の方向を上が北になるように変換して載せました。ご参考にしてください。

 

 

 

 

 

 


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