ひとつ前からの続きです。文章だけです。長いし読みづらいです。
地震のあと、
旧職場の建物に入りました。思ったより被害ないな~と思って奥に進むと、土壁が剥がれその下の引戸が動かない状態。また、棚が倒れておりました。
後日建物を確認しましたが、天井にひびが入って、外観からも、ややひしゃげてました。
そして外に落ちた窓は、揺れた際に外れた際の自重で鍵が折れてました。
ガラスが割れたのもありますが、割れていないものもありました。
妻とこどもは、近くの広場に近所の人たちと避難してました。
白いモヤモヤした感じはなくなってきて
少しずつ青い空が見えてきましたが、すぐ夕暮れが迫ってきました。
寒くなってきたせいか、
地震から1時間ぐらいたったら、ヘルメットをかぶった近所の会社員たちも避難した広場から何処かへ消えて行きました。
そして妻と子どもも帰ってきました。
外壁のタイルが剥がれた辺りには、いちおう危ないので、
駐車場にあった工事中の柵を改造した無断駐車お断りと書いたものを置いて通行する人の安全を確保(おおそれたものではない)しておきました。
停電中の情報源として、電池を入れれるラジカセに電池入れるも、動きません。
仕方ないので、従業員が置いて行った、電池式のラジオを借りました。
残念ながら、誰一人ワンセグ携帯じゃないので、茨城放送のラジオだけがたよりです。
茨城放送は、茨城県の情報しか流しません。
強い余震があるかもしれませんが、明るいうちに部屋の中の居場所を確保しなくてはならないので、
歩ける程度に片付けを始めました。
そしてとうとう日が暮れます。
水はいつの間にか出ません。
停電下でLED懐中電灯下で食事を食べます。
この日は、となりの父親のところで4人で6時くらいに夕飯を食べ始めました。
丁度母親は東京に行っていて、父親一人なので作りおきのおかずが冷蔵庫に入っていたので、
それとカロリーメイトをたべました。開封していたペットボトルのお茶とね。
停電だし、することもないので8時ころもう早く寝ることにします。
この日はすぐ避難できるようにパジャマに着がえず、
火事とかアクシデント等の何かあった際避難できるように
食料等をカバンに入れたものを寝床に置きました。
するとメールが妻の父から届きました。同じものを妻にも送ったようですが、僕のほうに先に届きました。
これって、自分がいまさらMOVAだから?
ムーバの人少ないから回線が優位なのかな?
暫くは、こちらから掛けると繋がらないけど、家族の僕の形態だけは電話も受けることが出来たりしてました。
それから
不謹慎なのか?わかりませんが、
停電のせいで、星がとてもとてもきれいに見えました。
こんなに澄んだ星空を見たのは久しぶりでした。
この地震のせつなさを一瞬でも忘れさせてくれるような素敵な夜空でした。
布団に入っても、大きな余震があるかもしれないと思うと寝れるわけがなく、
ウトウトしてもおきるを繰り返し朝がやってきました。
ラジオを聴いていると、県南は停電が無いようでした。そして夜中起きた時に聞いていると、
県南部からどんどん停電箇所が少なくなっている感じだったので、明日起きたら停電終わっているかな~
と期待し起きましたが、朝も停電でした。
また、夜中に自動火災報知機のバッテリーが切れて、警報音が鳴っていたけど、介助の仕方がわからなかったけど
適当にボタン押していたらならなくなった。
朝5時半過ぎに起きました。
家の前では、昨日帰るのに疲れて車中泊している車が何台かありました。
そしてラジオでは、陸前高田市は、壊滅状態です。と言ってました。
朝食までは少し片付けをします。
天気がものすごくいいのですが、昨日の夜と同じごはん食べた後は、また片付けです。
電気が無いので、ガラス関係は掃除機が使えるまではキッチンは後回しです。
妻は、一応12日が4月から行く、保育園の1日入園の日なのでそう遠くない保育園に行きましたが、
(電話は通じないので、電話では確認のしようが無い)
1日入園はやることもなく(やれることもなく)、帰ってきました。
昨日壊れた敷地の旧職場の建物のドアの部分はもう戻らないので、
増築時に建設会社が置いて行ったべニアの板がたまたまあったので、
それで入り口を封鎖する準備を外でしていたら、
換気扇のファンがやかましく動き始めたので電気が来たことが分かりました。
ありがたいことに朝10時ころに電気が回復しました。
どうもこれは、水戸の中でもかなり早いほうでした。ちょっと先の路地の信号はまだ点っていません。
もう、ものすごくホッとしました。
電気が1日ないだけでも、ありがたみをひしひしと感じました。
水戸市全域の電気の復旧は、その翌日?翌々日までかかったようです。
そしてドアの作業をいったん中断して、家に帰り、
落下したテレビの配線をし直し、テレビをつけると、そこには広がる映像を見て絶句。
壊滅状態ってこういうことだったのかと・・・。
信じられない光景。
そしてこの地震が、東北から茨城の辺りまで(千葉も)
そして東京では電車が止まったりして帰宅難民が出た等の情報を得たのでした。
そして暫く情報を得るべくテレビを見てました。
被災した自分だけど、まだ恵まれているのかな?と・・・。
気持ちは切り替えられないけど、自分たちの生活を整えなければなりません。
水が出ないので、給水を貰いに行ってきました。
ひと家庭やかん1杯分の配給でした。
大きな施設の職員のボランティアでしたが、頭が下がりました。
ありがたかったです。
並んでいる人々がお互い頑張りましょう!というような励ましの言葉を交わしておりました。
うまくは言えませんが、ただそうでもしないと、自分たちの気持ちが下向きになり、
このさき待っているであろう苦難を考えているだけでは、
生きていけないだろうということの表れだったような気がします。
気持ちも少しですが昨日よりは楽になりました。
また、この給水の行き帰りで少し歩いた際に、近所の被災状況をかんたんにですが確認しました。
被災2日目の昼飯は我が家に父を呼んで食べました。
震災前にタイマーでセットしておいた1日水に浸ったご飯を炊いて食べました。
美味しいです。
この段階でも携帯電話は使えませんでした。
電気があるので掃除機使えるので、ガラス物を片付けていきます。
となりの実家もかなりやられているので、片付けを手伝います。
父親は、片付けしないで気晴らしなのか庭の家庭菜園をいじってました。
数日間は余震が続くであろうと、棚にはモノを載せないで、床にモノを積みました。
また、職場の機械、PCの業者の営業が、被災状況を確認しに来ました。目視だけですが。
そして
夜ごはんも父を呼び、あるものを食べました。
そしてこの日も、風呂に入ることもなく、何かあった時に困るので、服のまま寝ました。
この日は、電気が通ったこともあり、ホッとしたのか前の日より寝れました。
余震は続きます。
続く。