普通の日々?ブログ

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自己満足北海道一周の仮想旅 23年3月分

2011-04-20 21:13:28 | 仮想北海道一周ランニング


自己満足北海道一周の仮想旅!

あくまでも、仮想な北海道一周な旅です。

ジムでランニングした距離を足して行くだけ。

宗谷岬を出発です。

 1月2月と走り、トータル92キロ走りました。

枝幸町市街を越えた辺りからのスタートです。

 

3月の集計です。

4日8k、
9日7k 合計15キロ

震災のためジム閉鎖。だから11日前の2回行ったきりになりました。
ジムはいつ復旧はするかは分からない状態です。

前回から15キロ進んでも、特に変化のある景色もありません。


写真、この辺りを撮影したものが無いので、

関係無い写真を。

北海道監視車!!


リンク先のはきっと地図は表示されないでしょう

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x5f9f59209f6c888b:0x1c3cc3564fce038f,0&msa=0&msid=211331666799577837009.00049b4c0c1591a8a929e&ll=45.094853,142.316895&spn=0.998521,1.95282&t=h&z=9


雪も解けて蕗の塔が路傍に沢山見れるころでしょうか?

トータル107キロ。

 


るーてしあん トランクの下には

2011-04-17 00:18:39 | ルーテシア 回想記

ラストモーニングなので

いろいろ撮ってみました。

トランクの黒いのめくると、こんな風にスペアのタイヤが入ってます。

次世代のルーテシアでは車内ではなく、車体下につり下げていたかと思います。
カングーもそうですかね?。

タイヤのサイズは、コンチネンタルの標準的なものが付いてます。きっと。
この車買ったとき、4つのタイヤも当然コンチネンタルの物でしたが、

その後変えたブリジストンと違って?溝が無くなるの早かったかな?

そのコンチネンタル、

フランス製でした。

 


るーてしあん ラストモーニング

2011-04-16 08:13:34 | ルーテシア 回想記

ルーテシアのお別れするのに、

ラストナイトの翌日、

車の中にあったものを下します。

ドアを全部開けて撮影。

ボンネットも開けた状態で撮影すれば全部開けた状態だったか??

トランクの中を空にします

ゴミばっかり・・・、ってこともなかったけど、積みっぱなしになっているものって意外にありました。

この車、トノカバーに付いているスピーカー、購入当時のキャンペーンで付けたものです。

ベビーシートともお別れです。娘もこれを機会にベビーシートからチャイルドシートへ移行です。

こういう角度で撮影したこと無かったわい。

ネタがあまりないので、次回も同じようなネタでいきますわ。


東北地方太平洋沖地震の記録 5

2011-04-12 00:51:04 | 震災

4月11日で震災から1カ月が経ちました。

そんな日の夕方5時16分ごろ福島や茨城鉾田では震度6弱の揺れ。水戸では5弱。
結構、強烈でしたね。
ちょうど仕事終わりのころでした。保育園から娘迎えに行く前に地震。
地震が終わった後、腕の脱力感と言うのか震えというのか、恐れを感じてそう感じたということなのでしょうか?
うまく言い表せません。

そのあと、水戸は雷雨です。地震の後の雷雨ですよ。

地震のころは、気持ち悪い色の空。そのあとは、雷前の天から吹き下ろすような強風。そして雷。

その後は、3月11日の地震と同様、今日は余震が多いです。

今日の揺れは、3月11日の地震の半ばに来た地震と同じ感じでした。
その前にあった宮城の余震の揺れは3月11日の出だしの長い揺れの感じでした。
ということは、後半の強烈な揺れも、余震で来るということなのかしら?

それだけは絶対に勘弁です。

 

さて3月14、15日の話に戻ります。

明日の計画停電の予定は、早朝6時過ぎか?9時ころからスタートの予定です。

そういうわけで、15日は、仕事をしないことに決めました。


計画停電を行った初日14日は東京では電車がの本数が極端に少ないから交通網が混乱したようです。

で、前出の通り、インターネットで東京電力のページを見ても茨城だけは細かいグループ分けが発表されていないため
私の住んでいる茨城は第3グループだか第4グループだかはっきりせず、


朝起きたら停電では困るので、6時前に起きるべく、早寝しました。

 

 

朝起きて、インターネット見たら午前0時発表で第4グループと言うことが分かりました。
っつーか対応遅いな~といった感想でした。

 

ま、起きたけど、朝早くからではなかった訳です。

 

8時ころ外出てたら、避難していた近所の人が、
今日から計画停電じゃなくなったよ!

と言ってました。その前までテレビ見ていたけどそんなことは言ってませんでした。

半信半疑でいましたが、停電は起きませんでした。

これは、茨城県知事が、昨日の被災地である茨城を真っ先に計画停電にしたことに
疑問を感じ、抗議したため?
被災地の茨城は計画停電から外れたといことでした。

ただ、これニュースでは見なかったんですよね。

仕事は休みにしたので、部屋の片付けをまたします。

その他、職場の地震によって出来た内装壁のクラックの確認等をしました。

あとは何をしていたか覚えておりません。

従業員一人とやっと連絡が付きましたが、水がまだ出ないのと電気もまだ…とのことでした。

16日は普通に仕事しましたが、人はあまり来なかったです。

また、異常に疲れました。

とりあえず一旦記録は終了します。。

以上。


東北地方太平洋沖地震の記録 4

2011-04-10 08:34:29 | 震災

日曜日の13日が終わり、

14日の月曜日です。

朝起きると、3階のリビングの水は出ましたが、7時くらいには、他の家でも水をいっぱい使うようになったせいか
出なくなりました。

いちおう、今日は仕事日です。

福島の原発の被害があり、日曜日の夜になって、電力が足りないから計画停電を行おうというニュースが。

ただ、計画停電で私の住んでいる茨城は第3グループだか第4グループだかはっきりせず、
どちらのグループでも午後から時間が早いか遅いかというだけで停電になる予定。

ってことで、午前中だけでも仕事をしてみることにしました。

従業員はガソリンも不足していることだし休みにします(連絡とれない人も)が、人が集まるかは、やってみないと分かりません。

翌日営業しているのかい?
屋根つぶれた、電車が動かないから行けない
という電話が朝からありました。

朝一に来た人は、近くの人。
マンションで、断水後水が出るけど少なく、水がとても濁っていて汚いということで
ポットに水を分けてあげました。
また、給水所等の情報も持ち合わせていなかったので、教えてあげましたけど、
もし水が必要だったら言ってくださいと言っておきました。

そして、この方は年配の人でしたが、震災があってから、初めて人と会話らしい会話をしたと言ってました。
地震のことや、遠く離れた家族のこと、
いろいろ話せて少しホッとしたと言ってくれました。

マンションで一人暮らしでは、そうなってしまうのも仕方が無いかしらね。

 

大きな余震はなかったのですが、結局計画停電前11時には仕事はやめてしまいました。

精神的にも仕事しているのは終わってみると辛かったです。
地震があったらどうしようという気持ちでいるから、精神的に疲れるんですかね。
2時間やっただけでも今までに感じたことのない変な疲れが、といったらいいのか。

仕事辞めた後は、停電になる前に買い出しです。

といっても、食料品ではなく、一歳半児のおむつです。

いちおう1週間分以上はあるといえばあるのですが、暫く買えるかどうか分かりません。
おむつが無くなってしまったら大変ですもの。

ティッシュやトイレットペーパーが売り切れているという情報は有りましたが、
ストックがあるのでこちらに関しては問題ありません。

コレ書いているとき思うのですが、頑張って買いに行きましたが後日比較的流通しましたね。

おむつ買いに行くのは、車は利用せず、自分の足で買いに行きました。
自転車は、暫くのっていたかったので、タイヤに空気ないし、鍵付いていないので乗れません。

車だと途中、何かあったらやだし、どこの店がやっているか分からないし、
ホームセンターとか駐車場が大丈夫なのかとかわからないことだらけだったしね。

途中スーパーの買い出しの行列を見ました。店内で買い物している人は少ないですが、
入場制限することで人がたくさん入った店内で再度大きな地震があったりすると危険だからでしょう。
このスーパーには売っていないのはしっているので素通りです。

次にドラックチェーン店があるのでまずそこに行きましたが、閉まってました。

次の店へ向かいます。

途中開いていないコンビニにも開店待ちの行列を見ました。

大谷石、煉瓦の塀が崩れていたり、地震によって橋脚部分のつなぎ目の段差が出来た跡、
車道は応急処置してあって通れるようになってますが、
歩道までは応急処置があまりなされていませんでした。

ホームセンターに到着。

12時前でしたが、店内に入れてもられませんでした。
これから始まるであろう計画停電が起きた場合に、暗くなった店内は危険だからということと
レジが使えないということで、店頭で店員が欲しいものを聞いて持ってきてくれるという風に対応すると言うことでした。

列の前のほうだったので30分くらい並んでおむつを買うことが出来ました。
並んでいる間は後ろにいたオジサンや、家族連れの人と話をしてました。
みなさん礼儀正しく、我先にと言う人は一人を除いていませんでした。

並んでいた人の多くは、ポリタンクだの電池だの、屋根の補修の応急処置としてブルーシート、他にはペットフード等を
買ってました。

おむつを持って帰りました。

途中帰り道、馴染みの知り合いに会い、売り物だったお菓子をいただきました。

遅い昼食を食べて、そのあと何をしていたかは思い出せません。

娘とちょっと遊んだような気もします。

夕方、肉屋がやっていたので豚肉買いましたが、食べてみたらちょっとおいしくない。

が、この際仕方が無いことでしょう。

 

結局ウチの周りで計画停電はなく、夕方この日唯一、断水が続いているような鹿島方面で行われて、
電力会社は被災者のヒンシュクを多いにかったわけです。

 

 

 

夜は、自宅でふろを入れたのですが、ウチはエコキュートで、地震明けに水圧も弱くてコレがうまく動かず、
熱い風呂にするのに、キッチンで鍋にお湯沸かしたり、電気ポット駆使してなんとか風呂に入りました。

 

続く。

 

 

 


東北地方太平洋沖地震の記録 3

2011-04-09 00:59:00 | 震災

地震から4周間経ちました。昨日は、宮城で6強の余震とはいえない規模の地震がありました。
心が休まってきたところにコレです。茨城でも強い地震は起こらないとは言い切れませんが、
再度被災した宮城の人々は本当に気の毒だと思います。

頑張るべ!という気持ちも萎えてしまいそうです。

 

話を戻します。
3月11日に震災にあい、

3日目の13日、日曜日です。

この日はすこし買い出しです。

大人の食べるものはストックがありますが、1歳半児の食べ物を確保しなくてはなりません。

といっても、お店も被災してやっているところが限られます。

10時過ぎに京成デパートに行ってみました。

店内のパン屋は大行列が出来ておりました。

先行きがこの段階では全く見えないので、パン屋に並ぶのもわかる気がします。

我が子はご飯を食べるものの、パンが大好きです。食べさせてあげたいけど、

ただ、パン屋に並んで何時かえるのかもわかりません。

 

店内を物色してみました。

野菜売り場にもすごい人だかりができておりました。

肉屋さんは混んでましたが、鮮魚売り場にははあまり人がいません。

ま、魚を焼ける環境下ではないということなのでしょう。

とりあえず、鮭の切り身と、樺太シシャモなどを購入。

それから、総菜コーナーの対面販売で、割高な鳥肉の総菜を買いました。

その際、自分の家の片付けもしないといけないであろう中、お店で販売してくれるありがたさを

感じていたので、

こういう中、本当にありがとうございます。お互いがんばりましょう!

と、店員のおばちゃんに感謝の言葉をかけたら、

おばちゃんも、そんな風に言われると思っていなかったのか、

逆に、そう言われたことに対し、感謝されてしまいました。

しかも、サツマイモ揚げを、こんなときだから・・・と言って

赤ちゃんに食べさせて!といってひとつかみ頂いてしまいました。

 

早速お昼に食べました。

水道ですが、午後気づくと1階で少し水が流れるようになりました。
少しと言うのは水圧が低いということです。2階3階は水が出ません。

少しでも水が出るというのは有りがたいことです。
これは、水道管が破損している個所が多いために、圧をかけられないためでしょう。

水戸は幸い水道施設の大本に大きな損傷個所が無かったために早く復旧しましたが、
ちなみにとなりのひたちなか市は、取水口が壊れてしまい、水が暫くでない状態が続いておりました。

 

午後も片付けをします。

片付けも単調で休憩が増えます。

 

夕方になり、気晴らしにもなるし、歩いて行けるスーパーに行ってみようということになり、
父親とウチの家族で散歩することにしました。

スーパーまで行くと、スーパーは営業していませんでした。
というより、スーパーの天井が落ちていて営業できる状態ではありませんでした。
これを書いている日でも、何時営業できるのか分からないような状態です。

街の中の被災状況もこの時少しずつ分かってまいりました。

大きな通りに面したショーウィンドウが割れたり、ローソンの看板が落下していたり、
歩道が波打って舗装ブロックの段差ができていたので、下を見て歩かないと危なかったです。

 

再度京成デパートに行きました。

 

もうパン屋さんは品切れ閉店、野菜売り場は、葉物系が、肉売り場も高級すぎる肉を抜かして全て売れ切れでした。

グローサリーコーナーは、カップ麺や缶詰の他、普通の水は売れ切れたので、高い海洋深層水が並んでおりました。

1歳半児も食べれるものを探し、サバ缶を3缶、誰も見向きもしない安くなって売っていたトマトスープ缶等、
大人向けに、ご飯は炊けるけど、電気がまたストップするかもしれないので、カップ麺を何点か買いました。

見ていて、箱で買うような、買占めるようなことをする人はいませんでした。(いたのかもしれませんが)

どこぞやの店員が、売りきったら入荷するまでは入らないものもあるような旨を言ってました。
これ聞いて、不安な気持ちになりました。

ここは被災地、東京とは異なり、
道路が寸断されている個所もあり、配送センターにないような商品は暫く手に入らないかもしれない、
また、これだけの地震、食品製造工場自体が被災して作れないのではないのか? とか、
この先、どうなるのか全く見えてこないので、

読んでいてもわかるとおり、少しずつ買いだめをしました。

 

魚売り場は午前中同様、結構売れ残りがあります。

夜ごはんは午前中買った樺太シシャモと決めてましたが、
父のリクエストで、いつ入荷するか判らないであろう刺身、イカの一夜干しを買いました。

夜ごはんを食べて、風呂に入れないのでタオルで体を拭いて、

ニュース、インターネットで、原発のニュース、そして計画停電の話があり、

ま、12時前に寝ようと思ったら、

となりの実家に戻った父から、チョロチョロ水が出たのでお風呂入れるよと11時半過ぎに電話があったので

入りに行きました。

ウチと同様、2階に風呂があるにもかかわらず、ウチは水が出にくいようです。

ただ、風呂出て12時半過ぎには3階でもチョロチョロ水が出るようになりました。
これはきっと、周りの世帯でもう、水を使っていないからなのでしょう。

現に、翌朝、6時ころは水が3階でも出ましたが、7時には全く出なくなりました。

続く。


東北地方太平洋沖地震の記録 2

2011-04-06 01:03:32 | 震災

ひとつ前からの続きです。文章だけです。長いし読みづらいです。

地震のあと、

旧職場の建物に入りました。思ったより被害ないな~と思って奥に進むと、土壁が剥がれその下の引戸が動かない状態。また、棚が倒れておりました。

後日建物を確認しましたが、天井にひびが入って、外観からも、ややひしゃげてました。

 

そして外に落ちた窓は、揺れた際に外れた際の自重で鍵が折れてました。

ガラスが割れたのもありますが、割れていないものもありました。

妻とこどもは、近くの広場に近所の人たちと避難してました。

 

白いモヤモヤした感じはなくなってきて

少しずつ青い空が見えてきましたが、すぐ夕暮れが迫ってきました。

寒くなってきたせいか、
地震から1時間ぐらいたったら、ヘルメットをかぶった近所の会社員たちも避難した広場から何処かへ消えて行きました。
そして妻と子どもも帰ってきました。

外壁のタイルが剥がれた辺りには、いちおう危ないので、
駐車場にあった工事中の柵を改造した無断駐車お断りと書いたものを置いて通行する人の安全を確保(おおそれたものではない)しておきました。

 

停電中の情報源として、電池を入れれるラジカセに電池入れるも、動きません。

仕方ないので、従業員が置いて行った、電池式のラジオを借りました。

残念ながら、誰一人ワンセグ携帯じゃないので、茨城放送のラジオだけがたよりです。

茨城放送は、茨城県の情報しか流しません。

強い余震があるかもしれませんが、明るいうちに部屋の中の居場所を確保しなくてはならないので、
歩ける程度に片付けを始めました。

そしてとうとう日が暮れます。

水はいつの間にか出ません。

停電下でLED懐中電灯下で食事を食べます。

この日は、となりの父親のところで4人で6時くらいに夕飯を食べ始めました。

丁度母親は東京に行っていて、父親一人なので作りおきのおかずが冷蔵庫に入っていたので、
それとカロリーメイトをたべました。開封していたペットボトルのお茶とね。

 

停電だし、することもないので8時ころもう早く寝ることにします。
この日はすぐ避難できるようにパジャマに着がえず、
火事とかアクシデント等の何かあった際避難できるように
食料等をカバンに入れたものを寝床に置きました。

するとメールが妻の父から届きました。同じものを妻にも送ったようですが、僕のほうに先に届きました。

これって、自分がいまさらMOVAだから?

ムーバの人少ないから回線が優位なのかな?

暫くは、こちらから掛けると繋がらないけど、家族の僕の形態だけは電話も受けることが出来たりしてました。

 

それから

不謹慎なのか?わかりませんが、

停電のせいで、星がとてもとてもきれいに見えました。

こんなに澄んだ星空を見たのは久しぶりでした。

この地震のせつなさを一瞬でも忘れさせてくれるような素敵な夜空でした。

 

布団に入っても、大きな余震があるかもしれないと思うと寝れるわけがなく、
ウトウトしてもおきるを繰り返し朝がやってきました。

ラジオを聴いていると、県南は停電が無いようでした。そして夜中起きた時に聞いていると、
県南部からどんどん停電箇所が少なくなっている感じだったので、明日起きたら停電終わっているかな~

と期待し起きましたが、朝も停電でした。

また、夜中に自動火災報知機のバッテリーが切れて、警報音が鳴っていたけど、介助の仕方がわからなかったけど
適当にボタン押していたらならなくなった。

朝5時半過ぎに起きました。

家の前では、昨日帰るのに疲れて車中泊している車が何台かありました。

そしてラジオでは、陸前高田市は、壊滅状態です。と言ってました。

朝食までは少し片付けをします。

 

天気がものすごくいいのですが、昨日の夜と同じごはん食べた後は、また片付けです。
電気が無いので、ガラス関係は掃除機が使えるまではキッチンは後回しです。

妻は、一応12日が4月から行く、保育園の1日入園の日なのでそう遠くない保育園に行きましたが、
(電話は通じないので、電話では確認のしようが無い)
1日入園はやることもなく(やれることもなく)、帰ってきました。

 

昨日壊れた敷地の旧職場の建物のドアの部分はもう戻らないので、
増築時に建設会社が置いて行ったべニアの板がたまたまあったので、
それで入り口を封鎖する準備を外でしていたら、
換気扇のファンがやかましく動き始めたので電気が来たことが分かりました。

ありがたいことに朝10時ころに電気が回復しました。

どうもこれは、水戸の中でもかなり早いほうでした。ちょっと先の路地の信号はまだ点っていません。

もう、ものすごくホッとしました。

 

電気が1日ないだけでも、ありがたみをひしひしと感じました。

水戸市全域の電気の復旧は、その翌日?翌々日までかかったようです。

そしてドアの作業をいったん中断して、家に帰り、

落下したテレビの配線をし直し、テレビをつけると、そこには広がる映像を見て絶句。

壊滅状態ってこういうことだったのかと・・・。

信じられない光景。

そしてこの地震が、東北から茨城の辺りまで(千葉も)
そして東京では電車が止まったりして帰宅難民が出た等の情報を得たのでした。

そして暫く情報を得るべくテレビを見てました。

被災した自分だけど、まだ恵まれているのかな?と・・・。

 

気持ちは切り替えられないけど、自分たちの生活を整えなければなりません。

水が出ないので、給水を貰いに行ってきました。

ひと家庭やかん1杯分の配給でした。

大きな施設の職員のボランティアでしたが、頭が下がりました。

ありがたかったです。

並んでいる人々がお互い頑張りましょう!というような励ましの言葉を交わしておりました。

 

うまくは言えませんが、ただそうでもしないと、自分たちの気持ちが下向きになり、

このさき待っているであろう苦難を考えているだけでは、
生きていけないだろうということの表れだったような気がします。
気持ちも少しですが昨日よりは楽になりました。

また、この給水の行き帰りで少し歩いた際に、近所の被災状況をかんたんにですが確認しました。

 

 

被災2日目の昼飯は我が家に父を呼んで食べました。

震災前にタイマーでセットしておいた1日水に浸ったご飯を炊いて食べました。

美味しいです。

この段階でも携帯電話は使えませんでした。

 

電気があるので掃除機使えるので、ガラス物を片付けていきます。

となりの実家もかなりやられているので、片付けを手伝います。

父親は、片付けしないで気晴らしなのか庭の家庭菜園をいじってました。

 

数日間は余震が続くであろうと、棚にはモノを載せないで、床にモノを積みました。

また、職場の機械、PCの業者の営業が、被災状況を確認しに来ました。目視だけですが。

 

そして

夜ごはんも父を呼び、あるものを食べました。

そしてこの日も、風呂に入ることもなく、何かあった時に困るので、服のまま寝ました。

この日は、電気が通ったこともあり、ホッとしたのか前の日より寝れました。

余震は続きます。

続く。


東北地方太平洋沖地震の記録 1

2011-04-03 23:24:38 | 震災

平成23年3月11日14時46分(金)に発生した東北地方太平洋沖地震。

三陸沖を震源に、国内史上最大のM9.0の地震。

宮城県北部は震度7、水戸も震度6弱の強い揺れを観測しました。

 

地震の話、被害状況をいまさら何を公開しているのか?そういう話はうんざりした

思っていれば読まないでください。

 

書いておかないと忘れてしまうもので風化させないために書きます。

 

 


水戸市内でも、大きな被害が出ました。

 

 

震災時は、仕事中で、パソコンを入力終わり、ちょっと窓の辺りを見ていたんです。すると地震が来ました。

さいしょ震度4くらいかな?揺れているな~と思った時間が長かったですね。2分くらい揺れているかな

まだ終わらないのかな~と窓の外みていたら向かいの店の瓦がぼろぼろと落下しているのが見える、震度5くらいあるの?。
なんて考えたか考えないうちに、電気が消えました。

ま、このくらい揺れたらもう地震終わりだろうと思った矢先、立っていられないほどの強烈な揺れ。

近くの物にしがみつきましたが、それでも手が離れていく…しゃがみ込んで必死にどこかをつかみました。

モノが倒れる音。何か割れる音。

そして揺れがおさまったので、従業員の状態やお客様の安全を確認。

無事家に帰れるか判らない、お客様を見送った(どうするか聞きましたが)後、

外に出ると、瓦が落ちて道路に、近くのビルの窓ガラスが粉々に割れて、近くのビルには亀裂が…

仕事場の天井落ちてこなくてよかったよ。

ウチの建物は、10月に増築部分が新築で引き渡されたもののタイルが一部はがれてしまってました。

 

そして、その日の天気は曇っていた訳ではなかったと思うのですが、何とも言えない埃っぽい風と、よどんだ空気が漂ってました。景色がやけに白いというのかな?うまくは言えませんが、そんな感じだったです。

 

周りの建物から外に出た人々は、みなさんどうしたらいいのか判らないような茫然とした顔の人々、会社のマニュアルに沿って、ヘルメットをかぶって黙々と強張った顔で避難する会社の人々。

がれきが転がる中、異様な光景でした。

 

市内全域で電気、ガス、水道のライフラインが地震と共に停止したようです。

 

携帯電話なんて当然つながりません。

 

 

従業員が落下して破損したガラスのケース等を処理している間、自宅部分へ。

 

ざっと家の中を見る、ちょうど家族の妻と娘は外出中で、もしかしていると帰ってきているかと思っていたけどいませんでした。

階段上がると、階段には飾ってあったミニカーが散乱、そしてリビングとキッチンは酷い状態で、

液晶テレビが倒れ、引出付きの再度ボードが倒れ、棚にあった本が落ちてました。

キッチンはレンジが落下、その他もろもろの物が落下。

食器棚は耐震ラックになっているので、開いて落下はしていないものの

食器棚の中で動いて割れています。

冷蔵庫も動いて扉が開いた状態。

醤油さしが倒れ割れ、その辺に醤油のシミが散乱。

 

そして僕の書斎へ。

デスクトップのパソコンが落下。
本棚の本が落下。また、

机、本棚等が50センチくらい動いています。

足の踏み場なし。

 

そしてなんとかカメラを探しだしました。

この状況を写真に残しておこうということもありましたが、

なにかに役に立つような気がしたからです。

 

外にいる間に強い余震が来ました。そして

仕事を打ち切り、従業員に途中帰れないと思ったらここに戻ってくるようにと言って、帰宅を指示しました。

 

まず、蛇口から水が出るうちにバケツ等に水を汲みました。

暫くすると従業員が一人戻ってきて、200m進むのに30分かかったということで車を置いて行きました。

 

渋滞の根源は、停電で信号が止まったこともそうですが、

被災した建物のがれき、道路のくぼみなどですが、

一番の原因は、市内を流れる那珂川を渡る橋がことごとく渡れなくなったことにあるようです。

河口のひたちなかと大洗からさかのぼると渡れる橋は6号線の水戸大橋までない状況。そして水府橋も通れた?みたいだけど、ここの他は上流部分に行っても渡れるかどうかという状態でした。

要するに水戸から北部に行くためには橋が1本か2本しか渡れないという状態だったので、

 

深夜まで市内は渋滞しておりました。

 

余震は、最初の強烈な地震の後、強烈な余震が20分くらい後かな、建物の外にいるとき感じました。

そのあとはもう数え切れないほどの余震が続きます。

地震があってようやく30分くらい経って、妻と、1歳6カ月の娘が無事帰ってきました。

予防接種を受けに行っており、病院で会計待ちしているときに遭遇。

リビングの状態を見たときに、普段の日であれば、テレビの近くで午眠している時間なので
もしいつも通りであれば、テレビの下敷きになって大変なことが起きていたかもしれません。

 

余震が続きますが、敷地の建物の古い窓枠が5個ほど落ちたので、それを回収するのと被害状況を確認すべく
今使っていない旧職場の玄関を開けたら、玄関のヒンジが折れて扉が取れてしまいました。

このドアやたらと重くて、向かいの会社員が慌てて押さえてくれました。

 

続く

 


 

 

 

1日も早い復旧に向け、皆さんが精一杯頑張っています。

復興に向けて活動している方々には、感謝しております。