時事放談22 By半平太

好き勝手、自分勝手な放談です。
放談なんで、人の批判には絶対反論しません。でも読んでます。

教育基本法における人格の完成  カントと目的の王国

2006-05-14 | Weblog

題名は相当気合をいれてみたが、別に全然難しい話ではない

私は繰り返し、教育基本法の根本理念は「人格の完成」であり、それが看過または軽視されている状況のほうが「愛国心問題」よりずっと問題であると書いてきた。愛国心というのは激語だからもうそれだけで私は拒否したいが、「人格」があれば、自分で判断ができる。教師が押し付けても、国が押し付けても「いやです」と言えるし、反対に「はい、そう思います」とも言える。責任をもって自分の倫理観に照らして判断すればいいのだ。教師への押し付けを問題にする人もいるが、大人なんだから適当(適度ね。中庸の徳をもってということ)、に従ったふりして、あとは自分の考えで行動すればいいのだ。もっとも現実には先生の方が逆にが「人格」を持っていない場合が大いに想定されるので、その場合は大変危険で、それこそ「子供が危ない」ということになる。

たとえば、もし僕が高校生の時、愛国心をもて、なんて言われたら、その場で「遠慮します。自分で考えて決めます。」と答えたろう。ちなみにこの間小学生で僕は実験をした。「愛国心がたりないんだってさ」。小学生は答えた。「北朝鮮の子供みたいになればいいの?いやだ。」。小学生でもこのぐらいの「人格」は持っている子はいる。もっとも最近はこの程度の人格もなさそうなのがいる。だからこそ、人格に完成が大切だ、と私は思うのだ。

人格の完成。まあ、綺麗事だと思われているのだろう。現場でもほとんど問題になることはなかった。しかしこれは「キレイゴト」では全くない。

「完成」などというと、何か理想的な人間像があって、そこに近づこうとする動きのように見えるが、全く違う

道徳的人間のことである、というのも、まあ、違っている。

遅刻をしない人間、先生や上司のいうことをよくきく人間、真面目な人間、の形成、それも「全く違う」と言ってよいと思われる。

人格の完成という文言の大本は「カント」である。近代思想史で「人格」を最もまともに扱ったのはカントであり、近代教育が西洋思想を根底に持つ以上、これがカントでない、わけがない

唯一高校の時から持っている「倫理」の参考書から引用する。

①人格と真の自由

カントが人格の尊厳を説いた理由は、人間が自律性をもち、みずからがうちたてた道徳法則にみずから従うことができると考えたからである。真の自由は、このように自分を内面から命令するものが自分だけであるということで、たんに、外からの拘束がない、というような状態を言っているのではない。

②目的の王国

真の自由を得た「人格」同士が、互いに交渉しあうことによって、形成すべき共同体を「目的の王国」とよび、理想の社会と考えた。そこでは自律的人格を有する各個人が、互いに他の人格を目的として尊重し、けっして手段としては利用しないという理念がつらぬかれている社会である。

高校の参考書だから、これでも十分簡単だが、もっと簡単にすると、自律的な倫理をもった人間が人格で、(もともと倫理とは自律的に決まっているが)、教育の目的は「人格の完成」であるということになる。だからたとえば個性教育とも全く矛盾しない。各人が各人の倫理をもつことが人格の完成、ということ。勝手気ままとは全く違う。むしろ勝手気ままの逆である。

カントのいう倫理は元来「他者の尊厳への配慮」を内包しているから、むろん「万人の万人に対する闘争」などは起きない。

まあ、これはホッブス、ロック、カントという流れの中で出てきた考えで、すでに過去の哲学になったのかと思っていたが、どうやら歴史はまたホッブスの「万人の万人に対する闘争」または「競争」社会にもどってしまった。17世紀後半まで時代が戻ってしまったわけだ。

またホッブスから「やり直し」をしないといけないのだろう。現代のホッブスが出てきて、ロックがでてきて、カントが出てくる。それまでは「人格」など「万人の万人に対する闘争または競争社会」の中で「キレイゴト」として看過されてしまうのだろう。

私は「それはかなりまずい」と思っているので、アホの繰り返しのように「人格の完成」が教育の基本だと書いている。

私個人としては、こういう西洋の基本思想に加えて、東洋の「中庸の徳」を教育の基本に加えることも現実社会の状況からみて「本来学校教育でやることではなく、しつけ、社会教育が中庸の徳を磨かせるべきなのだが、それができない現状では学校でやるしかないのかな」と思っている。

中庸なんて、簡単な考えである。「なにごとも過剰、やり過ぎ、やらな過ぎは良くない」というだけのことである。

ナショナリズム。適度はいいが、過剰はよくない。

愛国心。適度はいいが、過剰はよくない。

競争。市場競争。適度はいいが、過剰はよくない。

政治主張。相手の話も聞いて過激に走らないこと。過剰はよくない。

小泉さん。そして特に竹中さん。中庸の徳ですよ。過剰すぎます。

共謀罪。今はテロ、暴力団、集団詐欺等をターゲットにしているようだが、「拡大解釈」によって過剰になる可能性が極めて高い。悪名たかい「軍人勅諭」や「統帥権」だって、最初は軍人が天皇の命令を軽視するから作られた。西南戦争前夜、薩摩士族が天皇の命令を無視して帰郷した。危機感をもった山縣らがのちに「軍人勅諭」を作る。それが過剰なものと変化していく。歴史的文脈から考えれば共謀罪はかなりの確率で過剰なものになっていくだろう。

戦争。は「外交における過剰な手段」だからもともと過剰である。適度な戦争なんてものはない。

 

今、気がついたのだが、振り返って自分のブログを読むと、だいたいこのカントの自律的倫理と、中庸が私の文章の基本にあるようだ。小泉氏にだって、ちゃんと尊厳を認めて「氏」をつけている。ただし東条にはつけていないし、石原さんにも過剰な攻撃をしている。しかしそれは仕方ないのだ。やりたくて人の批判などしない。東条さんは故人であるからまあともかく、石原さんの「他人の尊厳の無視、傲慢さ」「過激さと過剰の自己演出」はカント的「人格」の対極にある姿勢で、あの人が教育を語るのだから、笑止を通り越して、表現のしようもない。悲劇である。むこうにしてみれば僕の言うことが笑止すべき理想論なのだろうが、それは人間が作り上げてきた思想史(歴史)の否定である。どうしてあそこまで歴史を大切にしない、「歴史から学ばない」人たちが「保守」なのだろう?わけがわからない。このあたりは西部邁さんの受け売りです。その西部さんもどうして本では結構当然(まっとう)なことを言ってるのに、言動に「過剰」が抜けないのかな。戦後知識人の「サガ」なんだろうか?頭がよすぎるのだ。

ちなみに「目的の王国」が今日の「国連主義」の元となるのだが、今日は、ここまでとしたい。

少し感傷的なまとめを書くと、カントの倫理(人格)思想ほど高校生だった僕を感動させたものはない。倫理のO先生には本当に感謝している。

ブログ投票にご協力を。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。