時事放談22 By半平太

好き勝手、自分勝手な放談です。
放談なんで、人の批判には絶対反論しません。でも読んでます。

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山本太郎、辞職の必要なし。

2013-11-05 | Weblog

個人的には山本太郎の過剰な行動は好きではありません。しかし好悪と判断は別です。彼は辞職などしなくていい。その理由は以下のとおりです。

1、天皇の政治利用について

かつて鳩山総理が天皇を中国の要人と会談させた時、自民党は「天皇の政治利用」だと批判しました。仮に、あの時、鳩山内閣が「少数与党でかつ自民党が多数野党」であったなら、あの件は「政治利用である」とされたでしょう。このように何が「政治利用であるか」については、時の国会の状況に左右される可能性があります。憲法には政治利用についての項目はありますが、それは主に政治利用できる権力者、政党、または軍などの権力団体を想定したものです。山本氏のような一介の権力をもたない政治家の行動については特に想定はしていません。想定されていなければ、時の権力者が自由に基準を左右できます。ある事件を、「事後に基準を作って裁く」ことは、近代政治が行ってはいけない行為です。

2、不敬罪は存在しないこと。マナー規範は各人によって違い「あいまい」であること。

不敬罪という罪は日本の法にはもはやありません。したがって適用できるわけもありません。
マナー違反という意見もありますが、マナー規範は各人によって違い、つまりは「あいまい」です。
そんな「あいまい」なもので政治家を辞職させるという重大事が決められてよいわけがありません。
実際「何がいけないの。労働者の命がかかったことなのに」という意見も少なくありません。
確かなのは「辞職するほどのマナー違反であると、国民の全てが認定しているような行為ではない」、ということです。

3、山本氏には天皇を政治利用できる権力がないこと。

国会議員の全てが政治利用できる権力を有しているのではありません。安倍総理には輔弼責任という天皇の行動を左右できる権力があります。与党有力者にもあると言ってよいでしょう。安倍総理は色々と異議のあった、また沖縄県民の多くが反対した「主権回復の日」に天皇を出席させました。あれは限りなく「天皇の政治利用に近い行為」でしょう。しかし山本氏にはそんな力はありません。もし山本氏が懲罰されるなら、同時に安倍総理の行為も「審議」されなければ「著しく不公平」ということになります。

4、権力はなくとも「売名に利用した」という理屈が成り立たないこと。

山本氏は支援者も敵視者も多い人物です。天皇を使って売名しなくとも、国会前の24時間長期座り込み、または抗議の断食といった、かつての政治家が行った行動をとるだけで十分ニュースになるのです。わざわざ天皇を使って売名しなくても彼は敵も味方も多い「有名人」です。

5、むしろ今回の件で天皇への忠義を売名しているのは各政党であるということ。

声高に「天皇へ不敬」を主張することによって、「自分たちは天皇を限りなく尊重する保守政党である」ことを「売名」している野党、与党がいます。これもまた限りなく「天皇の政治利用に近い」行為です。このような自己の利益をはかるために山本氏を必要以上に批判している政党の意見を尊重する必要はありません。また、左派は左派で保守的世論の批判を恐れ、というより保守層の選挙での不支持を恐れ、本音を隠して辞職勧告に同意しようとしているという情報もあります。情けない話です。

7、山本氏の行動が想定外の形で「天皇の政治利用という概念」を国民に広げる機会となったこと。また山本氏や他の議員が同じ行動を繰りかえすことはまずありえないこと。

山本氏の行動は「天皇制が潜在的に大きな政治力を持ち、だから憲法によってその政治力の行使がコントロールされていること」を国民に広く周知する結果を生みました。これは彼の無知(私にだって知らないことは沢山あります。知らないことだらけです。)ゆえの行動がもたらした「想定外の成果」でありましょう。またこのように彼が大きく批判されれば、同じような行為を繰り返すことはないでしょう。天皇制と憲法の関係を学ぶ。彼はそれをすればいいわけで、辞職の必要などありません。

8、山本氏を「つぶそうとする大きな力の存在」を多くの国民が知っていること。

これは言葉をつくすまでもありません。彼には大きな権力をもった政治関係者、経済関係者、電力関係者、原子力および原子力の軍事利用を考える人間たち、マスコミの半数以上、総じて「原発推進派」という大きな「敵」がいるのです。
今回の件で、そうした敵の力が働かないと考えるのは無理というものです。マスコミにも「隠れ原発推進派」は多くいます。そうしたマスコミに登場する「識者」の意見に左右されるのは愚かなことです。識者のいう「常識」になど、反論はいくらでもできます。彼らの意見など基準になりません。繰り返しになりますが「彼をつぶそうとする大きな力」があることを忘れてはいけません。さらに彼は、今回の件で、「象徴天皇制に不満を持ち、天皇に政治力をもたせ、自らがそれを利用したい勢力」も敵にまわしました。この勢力の力は「あなどりがたい」ものです。また時に暴力行為に出るため、危険でもあります。

9、立憲君主に手紙を渡したから国会議員が辞職した、というニュースを世界がどう受け止めるかという問題

これも言葉を尽くす必要はありません。ただでさえ、今の総理は国粋主義者ではないか、と米国にすら警戒されています。今回の騒ぎを世界はどうみるでしょうか。異常としか思えないはずです。「日本は民主主義国家ではない」「神道原理主義国家なのか」という反応がでるのは容易に想像できることです。立憲君主に手紙を渡したから辞職。外国人の目にどう映るのか。これはとても大切な問題です。

10,一般に人に手紙を渡すという行為は「非礼」ではないこと。


「政治利用」についてはもう書きましたから、ここでは「非礼か否か」だけを書きます。
人に手紙を渡すことは非礼ではありません。相手が天皇ではなく、渡し手が議員でなければ、誰も何の問題にもしません。たとえ相手が天皇であっても、小学4年生の女の子が訪問に来た天皇に手紙を渡しても、問題になることはないでしょう。「女の子が手紙を渡す」、などという場合は、普通は宮内庁の許可を事前にとるか、または宮内庁が事前に「渡すように演出」をするのですが、突然渡したとしても、宮内庁では少し問題になるでしょうが、一般的には問題になりません。それは「手紙を渡すという行為が一般通念からして非礼ではない」からです。宮内庁すら「ふさわしくない」と批判はしているものの、「非礼」とか「政治利用」とかいう用語を使って批判はしていません。

天皇は日本の象徴です。象徴天皇と主権者である国民の関係は、「身分関係」ではありません。「天皇に手紙を渡したから非礼」という考えは、天皇と国民の関係を「身分関係」と考える発想をもとにしているように思えてなりません。仮にそうだとしたら、それは戦後民主主義体制が分かっていない人間の発想ということになるでしょう。


「まとめ
私には、今回の件で天皇への崇拝を強調している政治家、および一部マスコミのほうが、より悪意を持って天皇を利用しているように見えます。そのような状況で、山本氏だけが一方的に辞職を強要されることは著しく不公平です。また彼の主張する「原発労働者の過酷な労働環境」、つまり大事故につながりかねない、国民の生命にかかわるような状態のことが、ほとんど今回の論議の中で論議されていないことも異常です。

以上の理由をもって、山本太郎は辞職をする必要など全くありません。

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東京裁判、山本太郎、そして英霊

2013-11-04 | Weblog
このブログに記事を書くのは何年かぶりで、「山本氏辞職の必要なし」を書いた時、自分でもちょっと気になる表現を使いました。

ある行為を、行為のあとになって基準を作って裁いてはいけない。

私はこう書いたのですが、「これは東京裁判でのアメリカ弁護人の主張とそっくりだ」と気がついたのです。

「平和に対する罪などは戦争の前に存在しなかった。存在しなかった法律を事後になって作り、人を裁くことは近代法の精神に反する」

キーナン判事には黙殺されましたが、アメリカ弁護人は東京裁判でそう主張しました。

これは正論です。じゃあ戦犯に罪はない、かということになると、それは違います。

彼らは無能な作戦指導によって自国の兵を無駄に餓死、または病死させました。また非戦闘員を自国の兵が殺すことを黙認もしくは看過、もしくは推進しました。前者は重過失致死。後者は殺人です。これらの罪は戦争前にあっても存在するものです。

英霊、というと、お国のために華々しく戦って死んだ人のようです。しかし、戦争後期においては、兵士の死因はその多くが、餓死、または栄養失調による病死です。無能な作戦指導によって、補給物資が送られなかったから生じた事態です。戦争指導者たちは、その無能さのために「自国の兵を虐殺した」といえるでしょう。このかわいそうな兵隊さんたちはもしかすると「真の英霊」なのかも知れませんが、そう呼ぶにはちょっとみじめでかわいそうすぎます。

私がどうしても英霊という言葉になじめないのは、「その英霊が殺した罪なき民間人の命はどうでもいいの」という思いが消えないからです。

「罪なき民間人ではなくゲリラ兵だ。またはゲリラ兵の協力者だ。戦闘員と同じである。」

なんてこと、聞き飽きました。殺された全ての民間人がそうであったと正気で信じているのでしょうか。また、ゲリラ兵というより「レジスタンス」でしょう。最初は解放軍の顔をしてやってきた日本軍の軍政があまりに過酷だから、抵抗しないわけにいかなくなったとうのが実態でしょう。そういう罪なき人々を殺した人間を讃えよと言われても、困ってしまいます。

靖国には大村益次郎(村田蔵六)の銅像があります。僕はこの人。司馬さんが描いた「花神の主人公」がたまらなく好きなのですが、その銅像を実際の目で見ることは一生なさそうです。
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再開

2013-11-04 | Weblog
期間限定で再開です。
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「国家の品格」についての断章

2006-05-15 | Weblog

さらっと読んだだけで、精読はしていない。なるほど分かりやすい。売れるわけだ。

「国家」とか「品格」とか「国柄」いう言葉は西部邁さんたちの決まり文句で、書いてあることも西部さんと大筋では変わらない。では何故売れたか。平易が決め手である、と筆者本人もおっしゃっている。西部さんのように「悪いイメージ」もないからだろう。なにより西部さんの文章のように難しくない。(西部さんの文章も相当分かりやすいのだが、もっとわかりやすい)

☆民主主義より武士道精神

☆論理よりも情緒

☆英語よりも国語

☆「独立不羈」「高い道徳」「美しい田園」「天才の輩出」

と、こう書けばいかにも「右」風である。しかし、筆者は「8割は共産党の言っていることと同じ」と言っており、まあ、僕も同じことを感じた。

この本が売れた最大の理由を書けば、

☆「アメリカ的民主主義への疑い」(あくまでアメリカ的な、強者に有利なエセ民主主義の否定)

☆「市場原理の万能性、競争原理の万能性への疑い」

を「わかりやすく」書いているためだと思われる。

手前味噌、我田引水(用法あってるだろうか?)、で申し訳ないが、僕がこのブログで書いてきたこととほぼ同じである。自説を誇ろうというのではない。僕はこのブログで全くもって「平凡で当然なこと」を書いてきた。「中庸」「倫理」(道徳ではない「民主主義は衆愚政治の危険をはらむ」「司馬さんの描いた日本人(武士)は美しい」「過剰な競争は危険である」「市場万能主義は格差を生んで結局国を衰退させる」というようなことを書いてきたわけで、「僕が書けばよかった」と思った(笑)。しかし僕が書いたのでは売れないだろう。「御茶ノ水大学の数学の先生」が書いて、しかも内容が当然(平凡)だから売れた。

ちなみに司馬さんの描いた日本人は史実ではない。「こういう日本人であってほしい」という司馬さんの願いである。司馬史観なんてものはない。これも散々書いてきたことだ。藤原さんの「武士道精神」も司馬さんなんかを参考にしながら読まないと、とんでもない誤解を受ける。

これもちなみにだが、僕は竜馬はカッコよすぎて好きではない。一番カッコ悪い村田蔵六が好きである。

たとえば司馬さんは江戸時代の武士と戦中の「武士道精神」は全く違うものだと書いている。江戸が倫理(内面道徳)だとすれば、戦時中のニセ武士道は押し付け道徳である。戦争中、作戦指導を間違った部下がいると、官僚である上司はその部下の机に「拳銃」を置いて自決をせまった。こんなの武士道でもなんでもない。官僚お得意の「責任転嫁」である。その官僚の大親分が東条である、ってことはいつも書いている。

藤原さんの「武士道精神」という言葉に国家主義を読み取るとしたら誤解であろうし、筆者も明確にそれは否定している。「論座の5月号」

まあ共産党の主張と西部邁さんの主張を足して二で割って「わかりやすく」書いたような本である。(と筆者が言っている。西部さんの名は出してはいないが)

国家の品格を買った100万以上の人がみんな筆者の主張に「同意」しているわけはないが、今の社会に感じている「何かおかしい」雰囲気を平易に説明してくれたのが良かったのだろう。

自分が書いてきたこととほぼ同じ平凡で当然な内容なので、正直、特に参考になることはなかった。けれど一つだけいい「言葉」を見つけた。「祖国愛」(パトリオティズム)という言葉である。僕は今まで「適度なナショナリズムはむしろ必要」と書いてきたが、それを短く表す言葉を使えなかった。愛国心が非常に「戦闘的」なイメージを持つのに対して、パトリオティズムにはそれがない。「祖国愛」もやや激語だが「郷土愛」ならなおいいだろう。日本人にとっての郷土は日本であり、朝鮮人の郷土は朝鮮半島である。ナショナリズムという「格闘語」に代わるよい言葉を見つけた。

さらに言えば、東アジアは僕らの郷土である。反日とか嫌韓流とか、愛国とかいう「激語」に比べ、「東アジアへの郷土愛」という言葉はいかにも美しい。

まだ、書き足りないのだが、今回はここまで。(続く)。

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教育基本法における人格の完成  カントと目的の王国

2006-05-14 | Weblog

題名は相当気合をいれてみたが、別に全然難しい話ではない

私は繰り返し、教育基本法の根本理念は「人格の完成」であり、それが看過または軽視されている状況のほうが「愛国心問題」よりずっと問題であると書いてきた。愛国心というのは激語だからもうそれだけで私は拒否したいが、「人格」があれば、自分で判断ができる。教師が押し付けても、国が押し付けても「いやです」と言えるし、反対に「はい、そう思います」とも言える。責任をもって自分の倫理観に照らして判断すればいいのだ。教師への押し付けを問題にする人もいるが、大人なんだから適当(適度ね。中庸の徳をもってということ)、に従ったふりして、あとは自分の考えで行動すればいいのだ。もっとも現実には先生の方が逆にが「人格」を持っていない場合が大いに想定されるので、その場合は大変危険で、それこそ「子供が危ない」ということになる。

たとえば、もし僕が高校生の時、愛国心をもて、なんて言われたら、その場で「遠慮します。自分で考えて決めます。」と答えたろう。ちなみにこの間小学生で僕は実験をした。「愛国心がたりないんだってさ」。小学生は答えた。「北朝鮮の子供みたいになればいいの?いやだ。」。小学生でもこのぐらいの「人格」は持っている子はいる。もっとも最近はこの程度の人格もなさそうなのがいる。だからこそ、人格に完成が大切だ、と私は思うのだ。

人格の完成。まあ、綺麗事だと思われているのだろう。現場でもほとんど問題になることはなかった。しかしこれは「キレイゴト」では全くない。

「完成」などというと、何か理想的な人間像があって、そこに近づこうとする動きのように見えるが、全く違う

道徳的人間のことである、というのも、まあ、違っている。

遅刻をしない人間、先生や上司のいうことをよくきく人間、真面目な人間、の形成、それも「全く違う」と言ってよいと思われる。

人格の完成という文言の大本は「カント」である。近代思想史で「人格」を最もまともに扱ったのはカントであり、近代教育が西洋思想を根底に持つ以上、これがカントでない、わけがない

唯一高校の時から持っている「倫理」の参考書から引用する。

①人格と真の自由

カントが人格の尊厳を説いた理由は、人間が自律性をもち、みずからがうちたてた道徳法則にみずから従うことができると考えたからである。真の自由は、このように自分を内面から命令するものが自分だけであるということで、たんに、外からの拘束がない、というような状態を言っているのではない。

②目的の王国

真の自由を得た「人格」同士が、互いに交渉しあうことによって、形成すべき共同体を「目的の王国」とよび、理想の社会と考えた。そこでは自律的人格を有する各個人が、互いに他の人格を目的として尊重し、けっして手段としては利用しないという理念がつらぬかれている社会である。

高校の参考書だから、これでも十分簡単だが、もっと簡単にすると、自律的な倫理をもった人間が人格で、(もともと倫理とは自律的に決まっているが)、教育の目的は「人格の完成」であるということになる。だからたとえば個性教育とも全く矛盾しない。各人が各人の倫理をもつことが人格の完成、ということ。勝手気ままとは全く違う。むしろ勝手気ままの逆である。

カントのいう倫理は元来「他者の尊厳への配慮」を内包しているから、むろん「万人の万人に対する闘争」などは起きない。

まあ、これはホッブス、ロック、カントという流れの中で出てきた考えで、すでに過去の哲学になったのかと思っていたが、どうやら歴史はまたホッブスの「万人の万人に対する闘争」または「競争」社会にもどってしまった。17世紀後半まで時代が戻ってしまったわけだ。

またホッブスから「やり直し」をしないといけないのだろう。現代のホッブスが出てきて、ロックがでてきて、カントが出てくる。それまでは「人格」など「万人の万人に対する闘争または競争社会」の中で「キレイゴト」として看過されてしまうのだろう。

私は「それはかなりまずい」と思っているので、アホの繰り返しのように「人格の完成」が教育の基本だと書いている。

私個人としては、こういう西洋の基本思想に加えて、東洋の「中庸の徳」を教育の基本に加えることも現実社会の状況からみて「本来学校教育でやることではなく、しつけ、社会教育が中庸の徳を磨かせるべきなのだが、それができない現状では学校でやるしかないのかな」と思っている。

中庸なんて、簡単な考えである。「なにごとも過剰、やり過ぎ、やらな過ぎは良くない」というだけのことである。

ナショナリズム。適度はいいが、過剰はよくない。

愛国心。適度はいいが、過剰はよくない。

競争。市場競争。適度はいいが、過剰はよくない。

政治主張。相手の話も聞いて過激に走らないこと。過剰はよくない。

小泉さん。そして特に竹中さん。中庸の徳ですよ。過剰すぎます。

共謀罪。今はテロ、暴力団、集団詐欺等をターゲットにしているようだが、「拡大解釈」によって過剰になる可能性が極めて高い。悪名たかい「軍人勅諭」や「統帥権」だって、最初は軍人が天皇の命令を軽視するから作られた。西南戦争前夜、薩摩士族が天皇の命令を無視して帰郷した。危機感をもった山縣らがのちに「軍人勅諭」を作る。それが過剰なものと変化していく。歴史的文脈から考えれば共謀罪はかなりの確率で過剰なものになっていくだろう。

戦争。は「外交における過剰な手段」だからもともと過剰である。適度な戦争なんてものはない。

 

今、気がついたのだが、振り返って自分のブログを読むと、だいたいこのカントの自律的倫理と、中庸が私の文章の基本にあるようだ。小泉氏にだって、ちゃんと尊厳を認めて「氏」をつけている。ただし東条にはつけていないし、石原さんにも過剰な攻撃をしている。しかしそれは仕方ないのだ。やりたくて人の批判などしない。東条さんは故人であるからまあともかく、石原さんの「他人の尊厳の無視、傲慢さ」「過激さと過剰の自己演出」はカント的「人格」の対極にある姿勢で、あの人が教育を語るのだから、笑止を通り越して、表現のしようもない。悲劇である。むこうにしてみれば僕の言うことが笑止すべき理想論なのだろうが、それは人間が作り上げてきた思想史(歴史)の否定である。どうしてあそこまで歴史を大切にしない、「歴史から学ばない」人たちが「保守」なのだろう?わけがわからない。このあたりは西部邁さんの受け売りです。その西部さんもどうして本では結構当然(まっとう)なことを言ってるのに、言動に「過剰」が抜けないのかな。戦後知識人の「サガ」なんだろうか?頭がよすぎるのだ。

ちなみに「目的の王国」が今日の「国連主義」の元となるのだが、今日は、ここまでとしたい。

少し感傷的なまとめを書くと、カントの倫理(人格)思想ほど高校生だった僕を感動させたものはない。倫理のO先生には本当に感謝している。

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小泉純一郎の「新自由主義」

2006-05-11 | Weblog

前回のブログは、やや意図的に「問いかけ調」を採用してみた。そういえば、最近私は「オイラ文体」を使っていない。いろいろな文体で文章を書くのが好きである。そろそろ「オイラ文体」で書いてみたいのだが、内容的にそうもいかないようである。

で、今回も前回の続きということなので、オイラ文体は諦めて「私文体」で書く。

政治家としての小泉氏とは何か。こんな単純な問いはない

小泉純一郎氏と竹中氏の政策はまさに典型的な「新自由主義」である。これは例の発音のしにくい辞書、「ウィキペディア」にもその通り書いてある。

引用

新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、政府の機能の縮小(小さな政府)と、大幅な規制緩和市場原理の重視を特徴とする経済思想富の再分配を主張する自由主義(リベラリズム)や社会民主主義と対立する。

ご丁寧に例の「ウィキペディア」にも「日本の小泉純一郎政権の政策も、新自由主義の典型である」と書いてある。まさに「典型」である。

英国ではサッチャリズムがその典型であった。その結果、失業率の増加(おそらく正社員の減少であろう)と所得格差が拡大し、今ブレアはその修復に追われている。

英国では既に実施され、社会状況の悪化を招来した。ブレア政権は既に「サッチャリズムとの決別」を宣言している。すでに歴史的に否定された政策を小泉氏は推進しているのである。

新自由主義がもたらす社会の不安定化はすでにいくつもの国が経験している。

☆所得格差の拡大

☆所得格差、貧富の差の拡大による犯罪の増加、時に麻薬汚染。

☆フリーターや派遣社員の増加、正社員の減少

☆企業栄えて、民は滅ぶ。首都は栄えて、地方は滅ぶ。

☆長期的に見た場合の経済悪化

ブレアは今、これらのサッチャーの残した負の遺産と戦っている。

小泉氏や竹中氏がこのことを知らないわけはない。知っていて推進しているはずである。理由は、、、、、まだ書けるほど私の頭で整理されてはいない。

英国が既に行い、失敗した歴史を小泉氏はたどっている。歴史から学ぶつもりがないのか、歴史を知らないのか。それはわからない。彼の語彙の貧弱さからみて、学ぶ能力が欠けていそうにも思える。しかし、少なくとも竹中氏が知らないはずはない。知っていて推進しているのである。その理由が私にはまだ明確に見えていない。「今は必要」程度が答えのような気もする。

前回のブログで私は「政治の対立軸は何か」と書いた。その一方に「新自由主義」がある。小泉イズム、竹中イズムと戦うとは「新自由主義」と戦うことである。ちなみに小沢氏は真性の「新自由主義者」である。著作もある。「変わった」と言っていたが、どう「変わった」のだろう。本当に知りたいところである。小沢氏の考えが変わっていないとすれば、小泉氏と小沢氏は同士である、という「へんてこりん」な事態が起こってくることになる。

新自由主義の対立項は何か。真に考えなくてはいけない問題はそれである。ウィキペディアにあるように、伝統的なリベラリズムなのか、社会民主主義なのか。その点を明確にしない限り、小泉氏との「真剣勝負」、現実的でリアルな戦い、は不可能である。反感を買うことを承知で書けば、小泉氏をファシストよばわりするのはから騒ぎでしかない。なにしろ「新」がつくにせよ彼は「自由主義者」なのである。もっとも彼と竹中氏が新自由主義原理主義者だ、というならそれは当然のこととして納得できる。

新自由主義と犯罪の増加は必然のつながりがある。貧富の差が拡大するからである。犯罪が増えれば刑法の適応に寛容さがなくなる。共謀罪もそうした文脈の中で見ていかなくてはいけない問題であろう。

今日はここまでとしたい。眠い。

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リベラルと保守について

2006-05-10 | Weblog

(おそらく)10代から20代の若者を中心に、ネットの世界で「バトン」なるものが流行している。質問項目を作り、数名に回すという単純な仕組みである。むろんその答えをめぐって論争がおきるわけではない。ただ「他の人はどう考えているのだろう」、という素朴な興味がこの流行のもとになっているのだろう。例えばこうである。

【現在恋人は?】

【元彼/元カノは何人?】

【告白はする方?される方?】

【初恋はいつ?】

【浮気/不倫ってどう?】

【過去最高の恋人ってどんな人?】

実にたわいもない質問で、微笑ましいかぎりである。

ところが、これらの項目を見ているうちに「政治的バトン」が私の心に浮かんできた。人の意見を聞くためではない。自分の意見を確かめるためである。

①あなたは「民主主義」が普遍的な原理だと思いますか。

②あなたは「個人の権利」が普遍的なものだと思いますか。

③あなたは自由を尊重しますか。

④市場経済における自由主義を認めますか。

⑤あなたは個人の権利よりもネーションや国家が優位に立つと思いますか。

⑥あなたは進歩主義者ですか。伝統主義者ですか。

⑦あなたは民意の価値が普遍性をもつと思いますか。

私がはっきりと否定できるのは⑦だけである。私には「民意の価値の普遍性」があるとは思えないし、むしろ民意という「わけのわからぬもの」に恐怖すら感じる。どこで製造され、だれが「正統なる民意」と判定するのか、もわからない。非合理的で気まぐれで残酷である。「東横イン」へのバッシングはどこに行ったのだろう?ホリエモンをめぐる武部発言(私の息子です)へのバッシングはどこにいったのだろう?「民意」とは不思議なものである。マスコミが扇動して作るもの、と単純には言えない。朝日と読売の論調は大きく違っている。それでも「民意」は形成されるようである。「民意」とは「気分」「その時々の感情」に近いものなのだろう。

となれば、当然①の「民主主義」を全面肯定などできるはずがない。民主主義が全体主義を生み出す可能性があることは歴史をみれば自明である。ただし「民意」と民主主義は全く無関係というのなら別である。しかしそれを無関係とする論理の構築は私にはできない。

ただし現在においては民主主義より優れた政治原理はなさそうである。イスラム圏の政治原理に詳しくない私には断定はできないが。

私は小泉氏の政治(市場主義自由経済の全面的肯定、民意(気分)の政治利用、東南アジア等外交政策)が間違っていると考えている。間違っているとは正しくないというのではなく、「善き社会」はもたらさないだろうという意味である。しかし小泉ファシズムという批判にはかなりの違和感を感じる。小泉氏は民主的で合法的な選挙の結果生み出された政権だからだ。小泉ファシズムという人々とは民主主義の擁護者であるようだが、もし小泉ファシズムという表現を使うなら、そこには小泉氏を生んだ「民主主義」への「懐疑」がなくてはならない。私の見るかぎり、そのような懐疑はあまりないように思える。「少数意見も聞け」程度の主張であれば、「ファシズム」という表現は過剰である。ファシズムと批判するなら、投票した国民に対しても「衆愚」という批判をしなければ「つりあい」があわない

②の「個人の権利」はいたるところで「伝統的社会秩序」との軋轢を起こしている。②、③、④、⑤、⑥についても「何の条件もつけずにどちらかを明確に選択する」ことは「私には」できない。(できるかたもいるだろうが、私にはできない)

⑥について言えば私は「歴史からものを考える」ことが好きであるから伝統主義者なのだろう。しかし私はPCの操作もでき、パーツを組み合わせてPCを作ることもできる。「がん治療の進歩」も望んでいる。VHSテープなどとうに使わず、HDD録画とDVDR録画でTVを見ている。明らかな進歩肯定派である。どうやら私は進歩主義者でもあり伝統主義者でもあるようである。

また⑤について。国家が優位にたつことに反意を示す論調は人権派を中心に多い。しかし麻原の問題はどうだろう?オウムの麻原は極度の心身喪失状態だという。漏れくる情報だけからしか分からないが、かなりの信憑性をもっていそうである。とすれば麻原は死刑にはできない。(と思える)人権派や市民派の人々はそれを許容できるだろうか。麻原個人の権利が、国家の安寧の上位に立つと明確に割り切れるだろうか。私にはそうわりきることはできない。国家が悪、市民が善などという構図はもう過ぎ去りし過去の「思い出」でしかない。「民意」なるものを市民が形成するとすれば、市民が悪という論理構成も十分可能であると私は考える。

リベラル、またはサヨクと「保守」の区別がほとんどできない時代になった。という平凡な意見を私は述べている。平凡だが私にとってはこの上なく重大な課題である。歴史的には民主、民意、自由はリベラル派の側にあった。しかしそれは今、保守党の小泉氏のもとにある。旧来の保守、リベラルの基準はもはや通用はしない。民主的に民意によって選ばれた首相が、「個人の自由」を楯にして靖国を参拝している。小泉氏が「サヨク」と言われるゆえんであり、革新の党であった政党が守旧的な態度をみせているゆえんでもある。

価値喪失の時代、などという決まりきったことを言おうとしているのではない。リベラルと保守の対立軸がなくなり、現在、は何が対立軸となっているのだろうか。そこに私の興味がある。

私は私自身が、自分が「保守」なのか「リベラル」なのかを考えた時、全く答えがでないことに気がついて驚いた。そうした驚きをブログで政治論を書く方々はもっていないのだろうか。ただしこれは「バトン」ではない。いつもと同じで私は「私が思ったこと」を述べているだけである。

私としては価値相対主義に陥らないためには、「歴史から学ぶ」「伝統の中の善き部分から学ぶ」しか方法はないのだろうと、現在のところ、考えている。「伝統」にも悪き部分は多くある。

現在における真の本質的な対立軸はなんなのか。それを模索するために私はこの文章を書いている。

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戦争とは   「責任なき戦場」から考える。

2006-05-09 | Weblog

イラクで戦争が続いている。戦争とは何か。インパール作戦から考えてみたい。

私は戦後教育を受けた。教科では社会科が好きであった。今、高校では「地歴公民科」と言う。なんか長々しい名前だ。

学校の授業の内容(進行)は1945年8月15日をもって終わった。高校の授業は二学期までで、時間がないのである。試験にもあまり出ないと、先生は言っていた。20年も前の話だ。

太平洋戦争については習ったはずであった。しかし「インパール作戦」についての知識はまるでなかった。NHKの番組「ドキュメント太平洋戦争、責任なき戦場」を見て知った。そして角川出版から出された「責任なき戦場」(番組を本にしたもの)を読んでさらに詳しく知った。

知れば知るほど「補給を無視した無能で無責任な作戦行動」「軍部官僚主義の硬直化」が見えてくる。司馬さんの言う「60年前の高級将校は軍人というより官僚である」という言葉の意味も理解できてくる。自国民に対する虐殺といっても過言ではない作戦である。いや過言どころか虐殺そのものである。

私が知らない理由は「山川日本史用語集」1995年版を見てわかった。19ある教科書会社のうち、載せているのは2社だけなのである。用語集の叙述もまことにそっけない。

ビルマからインドへの侵攻作戦。1944年3月開始。インド領インパールに迫ったが、英印軍の反撃で成功せず。7月撤退。

これだけである。僕が知らなかったのは当然であった。

むろん教科書に以下のような叙述を載せろとまでは言わない。

前線から後方へ下がってくる兵隊たちは日増しに多くなった。栄養失調でガリガリに痩せ、血便をたれ流しながら、ボロボロの軍服で歩いてくる。

できれば載せてほしいが、なにしろ「インパール作戦」自体を載せている会社が2社しかないのだ。その2社に「白骨街道」という表現があるかは確かめていない。おそらくないであろう。

この作戦の立案者は15軍の牟田口中将、認可者はビルマ方面軍河辺正三、南方軍寺内寿一元帥、参謀総長杉山元元帥。彼ら指導者たちの責任はほとんど問われなかった。牟田口は予科士官学校の校長になる。河辺は航空総軍司令官の要職に昇進する。寺内は南方軍現職に留まる。杉山は小磯内閣で陸軍大臣となる。

この作戦での将兵の死亡者は少なくとも5万。多くて6万5千。ビルマ戦線での全死亡者19万の3分の1の死者が、この無謀きわまる作戦によって虐殺(戦死というより)された。

牟田口は一応参謀に対し、「腹を切らねばならぬのう」と言ってみたようである。それに対し藤原参謀は言った。「そう相談されましたら、私は幕僚の一人として閣下が腹を切るのを止めねばなりません。腹を切るんだったら、黙って切ってください」

むろん牟田口は戦後まで生き延びた。

現場の指揮官が何度補給を要求しても軍は応じなかった。参謀も派遣しなかった。補給計画など考えてもいなかった。また山脈を越えて補給を行うことは最初から無理であった。何も考えていなかったのである。

補給なしの作戦による栄養失調で兵が死んでいく惨状を前に、現場指揮官である佐藤中将は命令を無視して撤退する。天皇が任じた師団長を処断することもできず、また軍法会議でこの作戦の全貌が明らかになることを恐れ、軍は佐藤を心神喪失者とし、軍法会議にかけなかった。彼はその後ジャワ島に左遷され終戦を迎える。

大本営・総軍(南方軍)・方面軍・第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである。と佐藤中将はのちに書いている。その通りであろう。

撤退した佐藤中将は牟田口を斬るつもりで抗議に出向いた。牟田口は逃げた。「おれは牟田口を叩き殺すんだ。牟田口に会わせろ」と佐藤は叫んだ。

最後に何か自分の意見を書こうと思ったが浮かばない

言葉もでない。ただそれだけである。あ、一つだけ加えておこう。こういう自国民を虐殺した軍人たちの作戦(他にも同じような例はある)を最終的に許可したのが東条さんたち、A級戦犯(の中の大将級の軍人)である。その人たちに(戦死された兵と同じような)礼を尽くしておられるのが小泉総理大臣である。

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削除した文章に寄せられたコメント  布引洋様より

2006-05-09 | Weblog

布引洋様のコメント

コメント:イラク人質事件の時、政府やマスコミが、溺れる人に浮き袋を投げるのでは無く石を投げた時に、多くの普段善良な普通の人々が此れに加わり非難の大合唱が起きました。絶対助けなければ為らない人を皆で攻撃する。此れは何でしょうか。何が起こったのでしょうか。
謎解きの鍵は感情です。政府やマスコミは理性では無く感情に訴えたからです。テレビで人質が首に刃物を突きつけられて『アーラーアクバル』と叫ぶ姿を繰り返し放映しました。あれ程哀れで情けない姿は有りません。哀れで情けない姿を晒している弱い人質達。弱者は醜い、強者は美しい、小泉政治の正に真髄です。
颯爽とした自衛隊と弱く卑怯で情けない人質達。マスコミにまんまと、してやられました。
今回の事件では本来弱者である被害者家族の復讐宣言による強者への変身。此処に問題の秘密が隠されています。テレビは繰り返し被害者の悲惨なイラストを放映しました。弱く卑怯な醜い弁護士と言うイメージを作りました。今回の目的は何か。 18歳の犯人を死刑にして少年犯罪の厳罰化何としてもを進めたい勢力の計画的策動です。感情ではなく理性で判断したいものです。

コメント:『世に倦む日々』を何回も読みました。犯行の残虐性の書き込みは有りましたが年齢は無視しています。不思議な事です。あれ程長文で一言の言及も有りません。事件が二十歳の犯人に因る物ならマスコミは有り触れた事として済ましていたでしょう。大問題に為ったのは本村氏の発言ではなく犯人が未成年だったからです。『世に倦む日々』が単に無知なのか、何か他の目的が有るのでしょう。

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悪と往生  「昭和80年」戦後の読み方

2006-05-08 | Weblog

両方とも本の題名です。悪と往生、は山折哲雄さん。中公新書。「昭和80年」戦後の読み方、は対談形式で、中曽根元総理、西部邁氏、松井孝典氏、松本健一氏、です。文芸春秋の新書。

昔から同時並行で本を読む癖があって、「韓国の歴史教科書」も読んでいます。

「悪と往生」は二度目ですが、まだちょっと理解不足な点があって、じっくり読んでいます。「歎異抄」は親鸞の思想を伝えてはいない、という本です。(単純化しすぎていますが)。オウムが直接の契機になって書かれた本ですが、本村氏の問題や今日起きている様々な犯罪(悪)を考えるさいにも、参考になると思います。

「昭和80年」戦後の読み方、は対談ですので、読みやすい。まだ最初の方ですが、相変わらず西部さんが「とばしている」という印象です。西部さん、御免なさい。

あまりPCの前にいるとメタボリックシンドロームが進行するので、これから散歩をしてきます。

 

 

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反省

2006-05-08 | Weblog

アルバイシンの丘、さんの記事を読むと、僕はやはり「世に倦む日日」さんに対して随分と「トンチンカン」な批判をしているらしい。

「非礼を謝ります」とは書いておいたが、もうちょっとちゃんと謝っておいたほうがよいのかも知れない。

正直に書くと、読んでも、何を書いているのか論理的にたどれないのだ。僕の頭が悪いのだ。それに本村氏の記事とあと10ぐらいしか読んでもいないのだ。分からないから。

半平太は「半分ぐらいは正しい」という意味で、僕の文章に影響されたり、感化されたりしないよう、また決して「正論という怖ろしい主張」をしないように、あえて、あまり好きでもない武市半平太からつけた。みんなが同じ考え。という世界が耐え切れないのだ。

というわけで、すぐに削除はしませんが、「トンチンカン」なようです。僕がどんな馬鹿なことを書いているのか発見してください。(数日したら削除いたします)

やはりもう二度と人の批判はしないようにしよう、と反省しました。

 

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韓国の高校の教科書(歴史)を読んでいます。

2006-05-07 | Weblog

やはり「人への批判」がブログの先頭にあるのは非常に気分が悪いので、短いブログを書いておこうと思いました。

もちろんハングルは読めませんので、「明石書店」の邦訳です。

前に軽く「ひどい」とか書いたことがあります。ざっと読んで、民族主義の強調が過剰すぎると感じたからです。でもそれはちゃんと理由があるのだと、訳者が解説していました。「ひどい」は訂正します。

「日帝」の行為が色々書かれていますが、僕はあまり反応したくありません。それより、「最後」に、つまり未来に向かってどのような言葉が書かれているか、に今回は注目しています。それと「山川」の「日本史」の最後を比較したいと思いました。もうすでに結構面白い発見があるのですが、これは前の文章を「隠す」ための文章ですので、おってまた書いてみたいと思っています。

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教育基本法改正  原案前文への「感想」

2006-05-06 | Weblog

連休でもともとたいして良くもない頭が連休ボケしている。以下は「教育基本法改正案」の「原文」(たぶん現時点での原文はこれだと思うけど、もっと新しいのがあるのかもしれない。でも同じようなものだろう)、への「感想」である。批判とか意見とか書くような頭の状態ではない。それに趣味のベランダ菜園のお仕事があって忙しいのだ。あまり深くは考えてないから許してくださいね。

えーと、まずこれ、最初。


 われわれ日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うこと。

文化的」って何だろう。今日のTV欄を見てみます。教育テレビはなるほど文化的みたいです。でもNHK、探検ロマン世界遺産でしょうか、文化的に見えるけど、あれ、あまり文化的じゃないんだよね。ロマンですなー、が決め台詞だもの。世界不思議発見も基本的にはバラエティだよね。トンデモ古代史本とかよくとりあげるしね。テレビ東京の「美の巨人たち」は文化的かな。あと文化的な番組探すの非常に難しい。僕はバラエティ好きだからよく見ます。よく見るから分かるけど文化的じゃありません。「加トちゃん大暴走、安めぐみとビキニ混浴に興奮」「和田アキ子乱入、紅白裏話」。バラエティよく見ます。でもこの二つは見ないな。加藤ちゃんと安めぐみは好きですがね。安めぐみ。「内P」に出た時から、この子伸びるなと思いました。「エンタの神様」は録画して好きな芸人だけ見る。桜塚とかは見ない。「NHKスペシャル」は好きです。受信料ちゃんと払っています。

今日も信じられないような殺人や車の暴走による事故が起きている。

長々しく書きましたが、これが文化的な国家でしょうか。別にバラエティはいいのです。バラエティは個人的には好きです。でも文化的じゃないでしょう。もっとも笑いはギリギリ文化だとは言える。でもワイドショーはとても文化的とはいえない。その場その場の事件を追っているだけだ。

きちんと書いてしまうと「文化的な国家」を「経済至上主義の国家」に変えないといけない。「築いてきたギリギリ民主的だがあまり文化的ではない経済至上主義の国家を」と変えないといけない。それじゃあ、あまりに本当すぎる。綺麗事も仕方ないのだろうか。それにしてもテレビ東京って一番「文化的」だ。「世界遺産を巡る旅」とかもゴールデンでやっている。「地球街道」なんてのもある。

☆今度の改正では、やたらと愛国心が問題になっています。それも問題でしょうが、この改正案のねらいは「若者の犯罪、マナー低下」「ニート等の増加、税収の衰え」「経済国家発展政策停滞の打破」「経済発展に寄与する人材の育成」なのは改正案と現行のものを比較すれば明確なのです。だから前文の最初に「経済」という言葉がないのは、「まやかし」とはいわないが、僕にとっては「すっごく変」なのです。兵隊さんを作ろうとしてるのではなく、経済戦士を作ろうとしてるんだと僕はよんでいます。というよりそう原案に書いてある、といっても言いすぎではないと思います。直接書いてはいませんが。

ニートさんと話したことないし、理由は様々でしょうが、経済戦争という「戦争」への恐怖があるんじゃないか。これは推測ですがね。


 この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進すること。

ここは「公共の精神」と「とともに、伝統を継承し」がポイントでしょうね。うーん、公共の精神は特にいちゃもんつける必要ないかな。「お国の為に死ね」は公共の精神じゃないと思うし。批判できる人がいたら教えてください。なんか素晴らしい批判があると参考になります。「伝統」はなんなんでしょう。明治以降の「伝統」だと「近代化の伝統」ですよね。「経済発展、進歩主義の伝統」です。江戸だと儒教、武士道精神?室町だと風雅?庶民文化?戦国だと天下布武(まさかね)。それとも相撲、柔道、神道、仏教、歌舞伎、能?「伝統」って何?


 日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り開く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定すること。

「わが国の未来を切り開く」はやはり「経済発展」が中心で、ちょっと「共生思想」とか「環境政策」が混じってる感じがします。でも基本は経済発展。東アジアの安定は触れていませんね。

別に経済発展が悪ってわけじゃない。個人的にはもうこれぐらいでいいと思ってますが、悪ではない。だから少しぐらい経済って言葉を使わないと「まやかし」に見えてしまう。「今まで築いてきた文化的な国家を発展させる」はちょっときれいごともほどほどにという感じです。文化的=民主的なのかな。でも民主が衆愚になることもある

頭ボケボケなので、変なこと書いてると思います。どんな国にしたいのか。作成者のねらい通りになるかならないかは別にして、その青写真が見たい。でも見えてこない。

ボケボケ文ですので、どうぞ批判してください。特に「公共の福祉の、じゃなかった、公共の精神の重視」が今度の改正で強調されたことへの批判が見てみたい。凄く独創的な発想がそこにはありそうで興味深い。あ、反論とかコメントありがとうとか、挨拶はしません、苦手なんです。御免なさい。

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教育基本法改正反対、だけではいけない。

2006-05-05 | Weblog

昨日いつものように図書館に行った。休憩所で小学4年ぐらいの子がニンテンドーDSで対戦ゲームをしていた。ややうるさかった。図書館で行う行為ではなかった。司書が優しく静かに注意をした。その後ずっと子供たちは「あのババアうざい」と5分ほどつぶやいていた。「うざい」を50回は言っていた。つい昔の教師根性がでた。彼女らに近づき僕は言った。「本当にうるさいんだよ。わかるよね。」と言った。ポカンとしていた。

短かった教師生活だが、教え子がいる。時々メールをくれる。ホームステイ先から書いてきた。23才の日本人の女の子がいる。何をしてもらっても「ありがとう」も言わない。私は同じ日本人として恥ずかしい。私が変なのか?彼女たちが変なのか?このメールをくれた女の子も23の女の子と5つぐらいしか変わらない。学生時代から筋は通った子であった。親のしつけの成果である。それでも時々、掃除をさぼったりした。僕は彼女の目を見据えて、静かに短く説教をした。彼女にはその記憶はないという。唯一説教をしなかった教師が僕だという。何回もしたのに。不思議な話だ。

さきほどの小学4年ぐらいの女の子。彼女たちを救わなくてはいけない。「内省心」をもった「人間」にしなくてはいけない。あのままでは「人間ではない生物」になってしまう。23の女の子はもう救えないだろう。悲劇だが。

教育基本法改正反対だけではいけない。憲法改正につながるから反対。心を縛る教育、教員の良心を縛る教育反対、だけではいけない。

彼女たちをどう救うのか。処方箋をしめさなくてはいけない。私は第一目標である「人格の完成」の意味を現場教員が深くほりさげて考えること(加筆、個人個人のそれぞれの倫理意識の涵養)がその一歩だと思っている。民主主義や、個性尊重や個人主義への懐疑(否定ではなく)を持つことも必要である。フロムのいう「自由からの逃走」が何故起こるかを考えることから初めてもよい。今度の改正案はあまりに網羅的で「拡大解釈の余地」がありすぎ、悪用がいくらでもできる。「人格の完成」への深いほりさげがない。だから僕は明確に反対である。しかし、多くの反対論者の反対理由にも大きな疑問をもっている。いや、疑問をもちつつ応援している。

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日本の一番長い日  何故天皇を政治に近づけてはいけないか。

2006-05-04 | Weblog

「日本の一番長い日」というドキュメンタリーがある。半藤一利氏原作。ただし小説ではない。映画としても有名である。

昭和20年8月14日夜、近衛師団の椎崎中佐、畑中少佐は近衛師団長を殺害した上、ニセの命令書を作り、近衛師団を宮中に乱入させた。

玉音放送のレコードを奪うためである。

天皇のいた「ご文庫」の周りを兵が囲った。空襲でも閉められなかった鉄の扉が閉められた。

近衛師団(天皇直属の軍隊)が天皇に銃を向けた。といっても言いすぎにはならない。実際、乱入に備えて鉄の扉が閉められた。「ご文庫」以外の宮中は荒らされ放題荒らされた。レコードが発見できなかったからである。

天皇制軍隊の本質がここにある。一方に硬直した軍部官僚主義があり、一方に狂気ともいえる過剰なナショナリズムが存在した。前者を統制派、後者を皇道派という。

クーデターは結局東部軍の森司令官に寄って鎮圧される。畑中らは自殺する。田中司令官もその後の小規模の反乱を鎮圧したあと自決する。

阿南陸軍大臣は事態を知っていた。が、あえて止めることもなく自決する。

そして玉音放送は無事流される。

古来、天皇を握ったものが官軍(正統)となる。

 

天皇を政治の場に出してはいけない。それは今上天皇が最もよく理解されている。近代日本史が教える最も大切な教訓である。「聖断」は憲法上許されない行為であったが、あの場合はあれ以外になかった。それ以後、昭和天皇は聖断どころか「判断」も示さなかった。アルバイシンの丘さんのコメントを引用させていただく。

(将棋の米長氏が昭和天皇に言った)『全国の教育現場に日の丸・君が代を普及させるために頑張っています』といった趣旨だったでしょうか.
これに対して天皇が『強制にならないように』といった趣旨の返事をされたわけです.


この件は覚えておられよう。本来天皇は「強制にならないように」という判断も口にしたくはなかったろう。しかし何も答えないと認めたことになる。仕方なく米長氏を諌めた、わけである。

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