清水町とはどんなところ 9
新宮で知り合った「お万」という女性が同行したとの記述もあるが、
そこのところは定かでない。ただ、維盛さんを語るときに「お万」という
名の女性は捨てきれない。
先に記した、高野山で僧侶になりやがて熊野灘にて入水は真逆となる。
当時は熊野灘は当時の黄泉の世界であり、ゆえに補陀落渡海に繋がった
もので多くの僧侶は「補陀落」をめざし大海原に漕ぎ出したのであろう。
(補陀落とは南インドにある観音菩薩の霊場という)
筆者注:18人のお供を連れた上に少ない食料は瞬く間に尽きる。大海に
でることもままならない小さな舟は当時の事ゆえ粗末なものであった。
舟底に「ヒ」と言われる栓を拵えておき食料が尽きると、その栓を抜き
舟もろともに入水したと言われる。これが補陀落渡海の実態で、多くは
四国や九州まで行けばよかったという。
とてもじゃないが「補陀落」まで行けたものでなく、殆どが難破するか
海の藻屑と消えてしまったらしい。いわば捨て身の「行」であった。
思わぬところで平安時代のインド行き船旅=黄泉の国への話となって
しまったが、平維盛の行動は瀬戸内から大阪難波あたりを経由したのち
紀伊半島の陸地伝いに南下、新宮までたどり着いた後、京都に向かう。
これが当時の京都に向かうコースであったことは、落ち人と言う立場の
人のたどるべき道筋であったと考えられる。
(瀬戸内から難波へのコースは危険であったため別ルートをとったかも)
その途中に旧・清水町や奈良県野迫川村が登場することとなる。
野迫川村に行きたいと思っていたが、昨年旅の途中に通過したのみ。
新宮で知り合った「お万」という女性が同行したとの記述もあるが、
そこのところは定かでない。ただ、維盛さんを語るときに「お万」という
名の女性は捨てきれない。
先に記した、高野山で僧侶になりやがて熊野灘にて入水は真逆となる。
当時は熊野灘は当時の黄泉の世界であり、ゆえに補陀落渡海に繋がった
もので多くの僧侶は「補陀落」をめざし大海原に漕ぎ出したのであろう。
(補陀落とは南インドにある観音菩薩の霊場という)
筆者注:18人のお供を連れた上に少ない食料は瞬く間に尽きる。大海に
でることもままならない小さな舟は当時の事ゆえ粗末なものであった。
舟底に「ヒ」と言われる栓を拵えておき食料が尽きると、その栓を抜き
舟もろともに入水したと言われる。これが補陀落渡海の実態で、多くは
四国や九州まで行けばよかったという。
とてもじゃないが「補陀落」まで行けたものでなく、殆どが難破するか
海の藻屑と消えてしまったらしい。いわば捨て身の「行」であった。
思わぬところで平安時代のインド行き船旅=黄泉の国への話となって
しまったが、平維盛の行動は瀬戸内から大阪難波あたりを経由したのち
紀伊半島の陸地伝いに南下、新宮までたどり着いた後、京都に向かう。
これが当時の京都に向かうコースであったことは、落ち人と言う立場の
人のたどるべき道筋であったと考えられる。
(瀬戸内から難波へのコースは危険であったため別ルートをとったかも)
その途中に旧・清水町や奈良県野迫川村が登場することとなる。
野迫川村に行きたいと思っていたが、昨年旅の途中に通過したのみ。