J’sてんてんてまり

はじまりは黎明期。今は、記憶と記録。

証されないこと

2010年11月17日 | ゆめ・夢

 フィギュアスケートにせよ、現在開催中のアジア大会にせよ、新たなスターが出てきている。

ヒトの身体総力には限界があり、また、最適な期間も存在する。
その中にさらに、好調不調がある。

プロであること、あるいは一流であるということは、その波の下限を高く保ち、
不調であっても存在感をあらわせるということだろう。
絶好調なときというのは、何かに操られているような気がするものだ。
自分の能力とは別なものが、そこに介しているような気にもなる。
ずっとそういう状態であるならば、そんなことには気づかない。
波が在るからこそ、気づく。

その場合、どの状態が、そのヒトの能力だといえるのだろう。
ベストの結果をとって、その人を評価する。
スポーツでも、アートでも、あるいは職業においても、そういうものではないか。

しかし、常識外れの成績を収めても、その後にその能力を発揮できなくなると、すべてなかったことになる能力がある。

超能力というと、怪しげに聞こえる。
ほかに言い方がないのだから仕方がない。
五感の統合した能力のことを言うのだと、思ってはいる。
言い方を替えれば、五感をつかさどる能力、とでも言おうか。

証できないものの、何度か経験はある。

不思議だといわれるこれらの現象について、何とか研究をしたいという人々は、古今東西、いなくなることがない。
自分が体験した経験について、科学の答えを欲しているのかもしれない。
ワイアードヴィジョンに、こんな記事が載った。 

超能力とはすなわち、物理的に説明のつかない、情報やエネルギーの異常な伝達過程のことだ。
(一般的には超能力とは、テレパシーや透視能力、念力などを指す)

そうなのか。
異常なのか。

「1000名余りの被験者に対して行なった、9種類の異なる実験の結果」が発表されたという記事だ。

ねらいは、厳密でコントロールされ、別の実験者も結果を再現できるような実験手法を確立することにあった。
というわけで、科学的な実証実験として再現性を持たせられる、つまり、誰でもが再び同様の実験を行い、結果を得られる方法を編み出すことに在ったらしい。

@「超能力を実証」:性的対象だと特に発揮2010年11月17日
http://wiredvision.jp/news/201011/2010111723.html

だが、これで超能力があると言おうがないと言おうが、何かが変わるようにも思えない。
起きた出来事はその人固有のもので、しかもその能力には、他の能力と同様変動があり、
その能力が優れているからといって、何かに影響するものでも、世の中を変えるものでもない。
変えるほどのヒトがもし存在するとしたら、既に隔離でもされているだろう。
どのみち、今ある能力の次の能力というより、個の全体性による身体能力ではないかという気がする。

誰かの考えが読めたとき、相手と同化するヒトとしての能力がうまく働いて、受信機として振動をキャッチしているのかもしれない。
あるいは、自分の想念が強すぎて、相手が同化してしまったからかもしれない。
そして、ただの偶然かもしれないのだ。

そうなってみると、スポーツの世界にしろ、芸術や科学の分野にしろ、一流の人たちは、十分超能力者だと改めて思うのだ。



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