戯言

暇潰し

ニヒリズム

2020-03-09 00:06:29 | 日記
スマホを投げ捨てる。

例えば私が気になったワードをネットで検索しても、全く見当違いの結果が表示される。
頭の悪い連中が収益目的で書いた、知りたくもない無価値なまとめ記事が優先的に表示されるのだから当然である。
私にとって驚くほど無意味な言葉の羅列が眼前に広がっている。

* * *

他人に自身の信条を投影する――つまり他人を自身の生き方のモデル・見本に見立てる――という行為自体がそもそも間違っている。
宗教でも政治イデオロギーでも哲学思想でも何でもいいが、自分が信じたい考え方や価値観を自分以外に求めるという姿勢が間違っているのだ。


回想、そして決別

2020-02-18 21:05:46 | 日記
なぜ将棋を続けてしまうのか

将棋がもたらす圧倒的不利益にもかかわらず、将棋を続けてしまう原因について考察する。考えられる原因として以下の5つの仮説を掲げる。

(ⅰ)暇つぶし
(ⅱ)ホメオスタシス
(ⅲ)断念への躊躇、心理的抵抗
(ⅳ)賭博者的依存症状
(ⅴ)将棋関係者への憎悪

(ⅰ)暇つぶし
最大の原因は「退屈」「暇」である。この傾向は、比較的時間が余りやすい週末に顕著にでる。端的に言うと、他にやることがない、だから仕方なく将棋でもして時間つぶすか、ということである。
この依存症状に拍車をかけているのがスマホの利便性である。実際、将棋というのはやろうと思えばスマホ片手に簡単にできるので、思考停止的に将棋を始めることができてしまう。このような利便性の発達が、前述の安易な暇つぶし手段としての認識に寄与しているのは明らかだ。

(ⅱ)ホメオスタシス
ご存じのように、人間にはホメオスタシスという性質がある。ここで詳しく紙面を割いて説明するのは面倒なので、かなり大雑把な定義をすると「現状を維持しようとする機能」である。このホメオスタシスが将棋を辞められない原因なのではないかという説。

(ⅲ)断念への躊躇・心理的抵抗
これは、他の原因に比べやや哲学的側面が強い。今まで長い年月をかけて積み上げてきたものを辞めるのは、やはり心理的には決断が難しい。これだけ時間を費やしたもの断念するのは、悔しさというのはどうしても伴う。

(ⅳ)賭博者的依存症状
平たく言えば「次こそうまくいくかもしれない」という、賭博者の心理構造に類似した病的要因。この心理構造の背後にあるのは盲目的楽観主義である。いわば理性が感情によって完全に抑え込まれている状態であり、事実に即した冷静な判断ができなくなっている。誇大妄想、自己の過大評価、刹那的快楽の追求などを原動力に事実無根の勝手な未来を思い描いている。これは、論理的裏付けに基づいた「ビジョン」とは全く異なる。ただの「夢」「幻想」「ファンタジー」の類である。

(ⅴ)将棋関係者への憎悪
過去に将棋関係者から受けた迫害に対する憎悪が将棋を惰性的に続けさせているという説。将棋関係者から理不尽な理由から迫害を受け、それ以来将棋関係者とは一切関わっていない。これからも永久に関わる気はない。将棋関係者と関わる気がないならもう辞めてしまえばいいではないかと言われればそれまでだが、そんな簡単に辞めれるならとっくに辞めている。逆説的だが、そのような憎悪や怨恨が将棋への執着や未練を惹起しているのだ。
過去に受けた仕打ちにたいする憎悪やトラウマといったものは簡単に消えることはない。過去の出来事への怨恨や憎悪を長引かせるのが、自分にとって何の利益もないことは、無論頭ではわかっている。ただ、理性は感情には基本的に勝てない。ベトナム戦争の帰還兵に「トラウマを引きずるのは合理的でない」と説いたところで水泡に帰すことは想像に難くない。


さて、これら5つの有力な原因に対し、将棋という呪縛から解放されるためには、どのような方策を講じる必要があるだろうか。

(ⅰ)の解決策は明白で、ほかに夢中になれるものを見つければよい(それを見つけるのが難しいのだが)。週末に顕著になるので、仕事に直結しないと意味がないとか、そういった雑念は度外視して純粋に趣味として楽しめるものを探求すればよい。新しい領域に果敢に挑戦していく積極性が肝要である。

(ⅱ)は、今まで続けてきた習慣を改めるため、当然療養期間は長期間にわたる。根気強く取り組んでいく必要があるため、相応の覚悟と粘り強さを要する。

(ⅲ)に関しては、(ⅰ)と同様、ほかに夢中になれるものが見つかれば、案外コロッと心変わりするように思う。元々将棋に特段の拘りもない。将棋より自分の人生にいい影響を与えたゲームなど腐るほどある。

(ⅳ)については、突拍子もない願望ではなく、あらゆる物事に対して現実的な視点を持つ癖をつけるのがよい。現実に即した実践的な方法を用いて現状を徐々に改善していくことを目指す姿勢が大切だろう。

(ⅴ)に関しては、これは年月とともに忘却の彼方に消えるのを祈るしかない。どうせ心療内科なんて行ったところで理解されるわけがない。ただ、将棋自体から離れれば忘れやすくはなると思う。将棋と直接的に関係はないが、幼少期に受けたトラウマの多くは、年月とともに記憶から消えていった。心にどんなに深い傷を受けてもいつかは回復するという事実は、未来に希望を与えてくれ、大きな心の支えになる。

雑念の処置

2019-10-27 16:25:12 | 日記
単純作業の場合、飽きや退屈といった感情が生まれやすく、それ故雑念の想起につながる。雑念の中には、高確率で過去のトラウマといった記憶に残りやすい情報が含まれ、憤怒や羞恥心、憎悪といった負の感情を生む。結果、作業パフォーマンスの著しい低下につながる。
他方、作業対象が作業者の知能に対して複雑すぎる場合も、作業への集中力を維持するのは極めて困難である。

作業者と作業対象の複雑さがつり合っている場合のみ、作業者は作業対象に没頭し、作業への集中力を維持することが見込まれる。

ところが、実際の生活において、作業者と作業対象の複雑性がつり合っているケースはむしろ稀である。例えば単純作業というのは、日常生活において思いのほか発生する。皿洗いや入浴、掃除といった作業が生活をするうえで不可欠な存在であることは論を俟たない。

こうして作業者の知能と作業対象の複雑性の間に齟齬が生じ、往々にして負の感情によるパフォーマンスの低下を招く。
この問題を解決するには、作業対象の複雑性に合わせて、作業者が自身の雑念をコントロールする能力を身につける必要がある。


ゲームの人間関係

2019-10-24 14:25:27 | 日記
信用のできない人間との関係を一切断ち切ること。
ゲームの人間関係は一切断ち切ること。
信用できない人間関係とは、精神的・肉体的危害を加えようと試みてくる人間。

ゲーム自体は好きなのに、それに纏わる人間関係は嫌な記憶しかなかった。
いやむしろ、ゲームを基盤とした人間関係だからこそ、言い換えれば信用できない人間との関係ゆえに、
そういった嫌な記憶しか残っていないのではないか?

ゲームを基盤とした人間関係というのは、どれだけ信用に足るものなのか?

そういった信用できない人間からの危害によって、どれだけ自分の人生が滅茶苦茶にされてきたか?

人間嫌いになれというわけではない。
信用できない人間との関係など何の価値もないといっている。

所詮ゲームを基盤とした信頼関係など簡単に崩れ去る。ゲームなどその程度のもの。
これまでどれほどゲームに関係する人間関係のせいで人間不信や自尊心の低下やニヒリズムに悩まされてきたか?

そういった信用できない人間から自らの身を守る術として、相応の対応を講じなければなるまい。

自らの人生が色あせないようにするために。
人間に対する幻滅や失望を消し去るために。


軸の不在

2019-05-02 21:47:24 | 日記
軸、信念ともいうべきものがない。

信念ともいうべきものなら、自分なりに納得できるものでなければそうは呼ぶまい。その信念への執着心が強ければ強いほど、より堅固な信念と呼ぶことが出来る。
信念・軸ともなれば、一般的なレベルと比較して、より群を抜き、一芸に秀でたものでなければ信念・軸とは言わないだろう。実際、私はこれまで「これがオレの信念・軸だ」と考えていたことが何回かあったが、結局それらは全て思い込みに終わった。

だからそんなものを持つという行為自体馬鹿らしくなってやめてしまった。

周囲の環境によって自らをそういった軸・信念といったものに束縛させるというやり方もある。しかしそうしたからといって、その信念に沿った、確立した自己を築き上げられるという保証などない。結果は、専ら個人の力量や才能に左右される。

結局、軸というのは、ある程度才能のある人間が初めて対象に触れたとき以来、成功体験が一般人よりも多く、それによってモチベーションが掻き立てられ、結果人より多くの経験を積むことに成功するというプロセスを踏む。

私の現在の仕事も、別に誰でもできる職務内容であるとは思わない。きわめてマニアックなジャンルである。そういう意味で、信念・軸ともいえる存在なのかもしれない。しかし、それを主観的に信念・軸として受け入れられるかというと、答えはノーだろう。どこか、やはり受け入れられない、違和感ともいうべき感覚が残るのだ。今のキャリアを強化するため、休日に勉強するかといえば、全くそんな気は起きない。そこには何かしらの距離感がある。

自己と、外部世界との乖離が起こっている。世界に対する関心を失い、期待は絶望感やしらけ、冷笑といった感情に取って代わる。世界と共鳴しあった経験というのは、久しくしていない。