走れ、麦公

興味のあることや、その時思ったことなどを書いています

カエル

2016-03-03 14:29:24 | 小説
 二年四組が、理科実習室で授業の開始を待っていると、入って来たのは理科の受け持ちの釜口先生ではなく、校長だった。
「先生は突然の事故に遭われたために、本日はお休みになります」
 朝、学校へ来る途中、車と接触して緊急入院したのだという。
「幸い大事に至らず、二三日で退院できるそうです」
 校長はその禿げた頭を光らせつつ教卓へ歩いた。釜口先生の代理でやってきたらしい。
「入院って、骨でも折ったのかな」
 教室にしばし、釜口先生を心配する声が起こった。色白で、いつも派手なネクタイを締めて来る三十男で、ついでに頭はおかっぱという、妙な先生だったが、生徒はそこそこ彼を好いていた。
「検査の結果次第ですが、まず大丈夫でしょう。電話で話しましたが声はしっかりしていました」
 校長は安心させるためか、小さい手を横に振ってみせた。
 そこへ、つかつかと土井修司が進み出てきた。彼は今日の理科授業の実習当番である。
「じゃあ授業をはじめるぞ、みんな」
 土井は理科室の六つのテーブルに一個ずつ、プラスチック容器を配った。中には生きたカエルが入っている。
「これより解剖実習をおこなう」
 たちまち女子の間からおびえた悲鳴が起こった。カエルの腹を割いて内臓を観察しようというのだ。ニヤニヤしてテーブルを囲んでいる男子も、いささか尻込みしている様子である。
「授業だからさ、ちゃんとやらないと。これ中間テストの成績に入るんだぜ」
 土井は澄ました口調で言いながら、女子のほうへ目をやった。小日向ひながいる。彼の意中の女子である。茶色い目の上唇のちょっと尖った幼顔のひなは友達の後ろに隠れるようにしてこっちを見ていた。
「ふっ、クールな俺に惚れちゃうかもな」
 土井はこっそり呟いて、クロロホルムに浸した脱脂綿をカエルの口に当てた。カエルはもがく間もなく、すぐに白眼を剝いて気絶した。
「麻酔の掛けかたはこうする」
 土井が得意げに見回すと、囲んだ生徒たちから拍手が起こった。
 そのときである。なにやら妙な声が聞こえた。歌うような唸るような、そしてたまらなく陰気な調子の声である。
 生徒たちは顔を見合わせ、土井は後を振り返った。
 校長が黒板の下に正座して座り、手を合わせていた。膝の前に小さい本が開いて置いてあって数珠が乗っていた。校長はお経を上げていたのである。
「練習じゃよ、たまにやっとかないと忘れるでな。気にするな」
 そういえば、校長の家は道元寺という学校の近くにあるお寺である。住職も兼ねているのだからお経を読んで怪しいことはない。なるほどと皆は納得した。
 とはいえ、まさにこれから小動物の殺生を行おうとしているときである。土井は苦々しい顔つきをした。
「麻酔が掛かったら、こうして解剖台に仰向けにして乗せる」
 それでも土井はあえて校長を無視して、解剖手順の説明を続けた。
「どうしてお葬式のときには、お経を読むのですか」
 女子がかたまって、校長に寄って行っていた。
「それは、身体を離れた魂が迷わず成仏できるようにだよ」
 校長が答える。
「魂って、本当にあるのですか」
「あるとも。みんな持っているさ。猫にだって魚にだってあるのだ。そのカエルにだってある。みんな生きているもの」
「校長先生!」
 土井がキッとなって、身体を向けた。
「これからカエルの解剖をしようってところなんです。お経なんて読まれたら、いい気がしないじゃないですか」
 今しもカエルの腹を割こうという場で、霊魂の存在うんぬんの話をされるのは、純粋に学問のための行為を、暗に無慈悲だと非難されている気がしないでもなかった。
「ああそうか。そうだった。別に悪気があったわけじゃないのだ。経を読むにはいささか間が悪かったようだな。よしよしわかったから実習を続けてくれたまえ」
 土井がテーブルに戻ると、カエルの額になにかついている。たしかめると三角に切った白い紙が貼ってあるのだった。そこの男子たちのしわざだった。
「そうしないと、なんだか三途の川を渡れないような気がして」
 悪ふざけかと思ったら、カエルを見下ろしている男子たちの顔つきは案外神妙だった。
「これは授業だぞ。そしてこいつは教材だ。勉強のための材料なんだよ。人間扱いしてどうする」
「へへ」
 照れ隠しか、無理っぽい笑い顔を作っていた。
「おい、今年ってカエル年じゃないよな」
「サルだろ」
「よかった。カエル年にカエル殺したら縁起が悪いものな」
 なにか、調子がおかしかった。校長のお経のせいでなにかの情を揺り起こされたものらしい。どこのテーブルでもカエルに手を付けようとしていない。
「情が移っちゃって。なあ」
 頷き合っている。
 しかし、理科において自然界の秩序を学ばんとする徒が、実体のない感情論に捉われるなどあってはならないことである。
 無断で教室を出て行こうとする一人の気配を感じて、土井は出口に立ちふさがった。小日向ひなだった。手になにか隠している。
「ちがうの」
 問われる前に、ひなははげしく首をふった。
 土井にとってひなは意中の女の子だ。平たく言えば好きだ。だからできればひなからも好かれたい。しかし、土井はこの解剖実習の当番だ。その責務は全うしなければならない。土井はひなが持ち出そうとしていたカエルを取り上げ、逃亡未遂のひなの身柄を女子に預けた。
「だって、カエルさんかわいそうなんだもの」
 ひなは女友達のなかでわっと泣き出している。
「泣かせるなんてひどい!」
「鬼!」
 背中を向けていた土井に、女子といわず男子からも罵声が飛んだ。
「よく聞け、みんな」
 土井は教卓に上がって白衣をはためかせた。
「いまさらカエルごときに同情してどうなるんだよ。カエルなんてふつうに車に轢かれてぺちゃんこになってるだろ。お前らタイヤで踏んづけたやつを捕まえて詰ったりするか。人間と動物はちがうんだ。動物を犠牲にしなけりゃ人間は生きて行かれない。薬だって作れないんだぞ」
 土井が訴えていることはもっともで、そのもっともなところを皆は理解したようだった。
「車なんかに轢かれて死んじまうより、その最期は俺たちの勉強の足しになったほうがよほどカエルだって幸せだろう」
 熱弁に非難の声が止んだ。が、そのとき、土井がひなから取り上げてもっていたカエルが「キューッ」と鳴いた。細い短い声だった。
 とたん、女子の一人がふらふらと床に膝をつき、そのまま座り込んで胸の前で手を合わせた。それをはじまりとして、あとは収集がつかなくなった。ほかの生徒が彼女に倣い、手を合わせて座り込み始めたのだ。
 異常な状況に土井は動揺した。総じて罪業を悔いるような重苦しい空気である。いつのまにか実習当番としての彼の居場所があやうくなっていた。
「わたし、人間のためには動物の犠牲が必要だって知ってる。でも、わたし自分の気持ちに正直に生きたい」
 小日向ひなが大きな目を潤ませていた。そして、校長がまたしずかにお経を読みだしていた。
 科学の危機だった。人類の合理的精神が迷妄の闇に閉ざされようとしていた。
「目を覚ませ、みんな」
 土井は手にもっていたカエルを解剖台に押し付け、メスをかざした。
 しかし、どうしたわけか、メスを振り下ろすことができなかった。金縛りにあったように手が動かないのだ。何とも言えぬ冷たい汗が額に噴き出した。
 ドアがガラガラと開いて、事務員の菊池さんが顔をのぞかせた。退職してから再雇用された年のいった爺さんである。ずいぶん慌てた様子だ。
「校長先生、今病院から連絡があって釜口先生が亡くなられたと」
 女子が悲鳴を上げた。そしてこういう事態になると、かえって男子のほうの精神がより脆弱であるらしい。うろたえて号泣する者、床を叩いて「甲子園へ行っても釜口先生のことは忘れません」とかわけのわからぬ悔みを口走る者。
 じっさい、実習教材のカエルにさえ同情を寄せていたところに、受け持ち教諭の死というリアルな現実がもたらされたのである。灯っていた小さな火にガソリンが投下されたようなものだった。教室中が混乱し感情の荒波がぶつかり合っていた。
 が、そのなかで、土井だけは一人冷静な様子を保っていた。実習当番として責務遂行のためには、片思いのひなにさえ厳しい態度をとった男だ。
 周りに影響されないようにかたく瞑っていた目を開けると、そこにカエルがいた。解剖台の上に仰向けに土井のメスを待つ姿である。と、それが、釜口時雄先生に見えた。色白のおかっぱ頭の理科教師。ごしごし目を拭ってみたが、やはりカエルと釜口先生の姿が冷たい死の意味を通じて重なってしまうのだった。手からメスが落ち、土井はその場に頽れた。そしてごく自然に彼の両手は胸の前で合わせられていた。

「きみたちが嫌だって言うなら、カエルの解剖はやめますけどね。中間テストはペーパーだけでいいんですね」
 釜口先生は翌日になるともう元気な姿を学校に見せていた。『亡くなった』というのは、入院中の釜口先生がお昼を食べにこっそり病室から抜け出して『いなくなった』というのを、電話を取った事務の菊池さんが聞き間違えたのだった。
「それにしてもケロケロうるさいですね。なんとかしなさい」
 ハイ、と立ち上がったのは土井だった。今では教室の後ろの水槽に飼っている六匹のカエルの世話を、小日向ひなと一緒につとめている。
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