U^ω^U~”
自分は一度他家へもらわれるチャンスがあった。言うのもなんだが自分は栗色の毛並みの愛らしい雑種の小型犬である。
里子になりかけた家は山間の旧家である。昔は庄屋をやっていたらしい。そこの伊藤爺さんから「うちの飼い犬にならんか」との招請があったのだ。
知り合った頃、爺さんはJA中央会の会長で、地元を離れて主人の家の近くのマンションに一人暮らしをしていた。窓から隣の寺の墓地が見えるのを嫌って自分が散歩の順路にしている道端のベンチでよく時間を潰していたのだ。やがてこの爺さんは主人とも仲良くなった。
JA中央会の会長というのは兼職の肩書がめちゃくちゃ多い、日本農業新聞理事、家の光協会参事、厚生連会長、あと諸々、数えたら四十だか六十あったそうだ。とても一人でこなせるわけがないから爺さんには秘書課という優秀な事務がぴったりと付き添っていた。実務はすべて彼らがやるのである。実際、中央会の会長は各農協の組合長が持ち回りでやっている役職で、実務能力があるわけではないのだ。伊藤爺さんも、シリアの肥料工場へ視察に行くとき英字の名刺を持たされたのだが、自分で読めなくて苦笑いしていた。
が、代々の会長と違って、この爺さんは秘書課ならびに組織の連中から多大な尊敬を受けていた。
爺さんは只者ではなかった。JAは県内に十ばかりの総合病院を経営している。その一つを二百億ほどかけて新築する際、買収した土地の近辺の住民から〝迷惑料。を請求された。広大な駐車場から溢れる雨水が周辺に被害をきたすというのだ。要求額は七億円である。中央会では会議の結果しかたなかろうということになったが、伊藤爺さんは断乎反対した。そして秘書課が止めるのも聞かず、単身敵地に乗り込んだのだ。そのときの演説の様子は伝説的語り草だそうだが、要は値切ったのである。
爺さんの地元は雪深い寒村である。昔は暮らしに困ると娘を売って食いつないだほど貧しい村だ。庄屋といっても暮らしは楽ではなかったようだ。小学校を出てすぐその土地ではじめて酪農をやりだした父親を手伝って牛の世話をした。だから爺さんの手は年取った今でも固く大きい。生活の信条は「質素倹約」である。以前主人が送った銘酒のお礼にと粗末な〝醤油の実。が送られてきて驚いたことがある。
爺さんは値切り倒して七億を二億に負けさせた。五億の儲けである。かつてそんな大金を担いで戻った会長はいなかったから、それまでお飾りとあなどっていた秘書課の連中は度肝を抜かれた。秘書課で会計士の資格を持つ上野くんなどは主人の家に来て『伊藤会長は、不世出の大人物だ』と口を極めた賛辞を惜しまなかったものである。
その伊藤爺さんは任期が終わって田舎へ帰って行った。それからまもなくして自分は主人と一緒に、辺鄙な土地の屋敷で無興をかこっているにちがいない爺さんの見舞いに出かけたのだ。
爺さんは案外元気そうだった。藁の笠を被って畑からのしのし歩いてきた。独り暮らしなんだが、お手伝いさんと近くに住んでいる息子さんが世話をしてくれるからちゃんとアイロンをかけたシャツを着て身ぎれいにしていた。
「町にいたときはおもしろかったな」爺さんは機嫌がよい。それはそうだろう。歴代の会長が張り子の置物で祀られていたのを、自分は身に備わった才覚で衆目を見返してやったのだ。痛快だったろうし、なによりそれが等身大の地力だったのがうれしかったろう。飾りのない実力を評価されて、爺さんはその老体に言うに言われない満足を感じているようだった。
そのとき「麦公は、うちの犬にならないか」とのお誘いを受けたのである。もちろんである。言をまたないの心境であった。敷地はざっと七百坪はある、屋敷は古いがでかくて豪勢なものだ。ここに飼われれば毎度おいしい食事にありつけるに決まっている。主人の家の昨夜のメニューは〝キャベツとたまねぎとドライソーセージのカレー煮込み。だった。こう書くとうまそうに見えるかもしれないが、あんたいっぺん自分で作って食べてみろ。
尻尾を振ってごつごつした足になついていると、爺さん太い腕を庭の池に向かって突き出して言った。
「鯉をな、猫がよく取るんだ。その見張りにちょうどいいわい」
自分は決然とその招聘を断ることにした。爺さんが不世出の大人物なら自分は稀代の賢犬である。しかも栗色の愛らしい小型犬だ。しかもだからどうだってこともないが、こんな田舎じゃ散歩姿を振り返るプードルのお姉ちゃんもいねえじゃないか。ということで断ったのである。だれが野良猫の番なんかできるものか。爺さんも否やは言えなかったろう。身の丈に合わない役回りは、その仕事が実力に対して高くても低くても辛いということをよく知っているはずだからである。
これからお昼である。主人がトーストを焼いている匂いがする。
「マヨネーズかけるか、麦公」まだパジャマ姿の主人が縁側に出て来た。
・夏立つや貝殻混じる波寄せて 麦
イジス:
なつかしいな、あの爺さん
自分は一度他家へもらわれるチャンスがあった。言うのもなんだが自分は栗色の毛並みの愛らしい雑種の小型犬である。
里子になりかけた家は山間の旧家である。昔は庄屋をやっていたらしい。そこの伊藤爺さんから「うちの飼い犬にならんか」との招請があったのだ。
知り合った頃、爺さんはJA中央会の会長で、地元を離れて主人の家の近くのマンションに一人暮らしをしていた。窓から隣の寺の墓地が見えるのを嫌って自分が散歩の順路にしている道端のベンチでよく時間を潰していたのだ。やがてこの爺さんは主人とも仲良くなった。
JA中央会の会長というのは兼職の肩書がめちゃくちゃ多い、日本農業新聞理事、家の光協会参事、厚生連会長、あと諸々、数えたら四十だか六十あったそうだ。とても一人でこなせるわけがないから爺さんには秘書課という優秀な事務がぴったりと付き添っていた。実務はすべて彼らがやるのである。実際、中央会の会長は各農協の組合長が持ち回りでやっている役職で、実務能力があるわけではないのだ。伊藤爺さんも、シリアの肥料工場へ視察に行くとき英字の名刺を持たされたのだが、自分で読めなくて苦笑いしていた。
が、代々の会長と違って、この爺さんは秘書課ならびに組織の連中から多大な尊敬を受けていた。
爺さんは只者ではなかった。JAは県内に十ばかりの総合病院を経営している。その一つを二百億ほどかけて新築する際、買収した土地の近辺の住民から〝迷惑料。を請求された。広大な駐車場から溢れる雨水が周辺に被害をきたすというのだ。要求額は七億円である。中央会では会議の結果しかたなかろうということになったが、伊藤爺さんは断乎反対した。そして秘書課が止めるのも聞かず、単身敵地に乗り込んだのだ。そのときの演説の様子は伝説的語り草だそうだが、要は値切ったのである。
爺さんの地元は雪深い寒村である。昔は暮らしに困ると娘を売って食いつないだほど貧しい村だ。庄屋といっても暮らしは楽ではなかったようだ。小学校を出てすぐその土地ではじめて酪農をやりだした父親を手伝って牛の世話をした。だから爺さんの手は年取った今でも固く大きい。生活の信条は「質素倹約」である。以前主人が送った銘酒のお礼にと粗末な〝醤油の実。が送られてきて驚いたことがある。
爺さんは値切り倒して七億を二億に負けさせた。五億の儲けである。かつてそんな大金を担いで戻った会長はいなかったから、それまでお飾りとあなどっていた秘書課の連中は度肝を抜かれた。秘書課で会計士の資格を持つ上野くんなどは主人の家に来て『伊藤会長は、不世出の大人物だ』と口を極めた賛辞を惜しまなかったものである。
その伊藤爺さんは任期が終わって田舎へ帰って行った。それからまもなくして自分は主人と一緒に、辺鄙な土地の屋敷で無興をかこっているにちがいない爺さんの見舞いに出かけたのだ。
爺さんは案外元気そうだった。藁の笠を被って畑からのしのし歩いてきた。独り暮らしなんだが、お手伝いさんと近くに住んでいる息子さんが世話をしてくれるからちゃんとアイロンをかけたシャツを着て身ぎれいにしていた。
「町にいたときはおもしろかったな」爺さんは機嫌がよい。それはそうだろう。歴代の会長が張り子の置物で祀られていたのを、自分は身に備わった才覚で衆目を見返してやったのだ。痛快だったろうし、なによりそれが等身大の地力だったのがうれしかったろう。飾りのない実力を評価されて、爺さんはその老体に言うに言われない満足を感じているようだった。
そのとき「麦公は、うちの犬にならないか」とのお誘いを受けたのである。もちろんである。言をまたないの心境であった。敷地はざっと七百坪はある、屋敷は古いがでかくて豪勢なものだ。ここに飼われれば毎度おいしい食事にありつけるに決まっている。主人の家の昨夜のメニューは〝キャベツとたまねぎとドライソーセージのカレー煮込み。だった。こう書くとうまそうに見えるかもしれないが、あんたいっぺん自分で作って食べてみろ。
尻尾を振ってごつごつした足になついていると、爺さん太い腕を庭の池に向かって突き出して言った。
「鯉をな、猫がよく取るんだ。その見張りにちょうどいいわい」
自分は決然とその招聘を断ることにした。爺さんが不世出の大人物なら自分は稀代の賢犬である。しかも栗色の愛らしい小型犬だ。しかもだからどうだってこともないが、こんな田舎じゃ散歩姿を振り返るプードルのお姉ちゃんもいねえじゃないか。ということで断ったのである。だれが野良猫の番なんかできるものか。爺さんも否やは言えなかったろう。身の丈に合わない役回りは、その仕事が実力に対して高くても低くても辛いということをよく知っているはずだからである。
これからお昼である。主人がトーストを焼いている匂いがする。
「マヨネーズかけるか、麦公」まだパジャマ姿の主人が縁側に出て来た。
・夏立つや貝殻混じる波寄せて 麦
イジス:
なつかしいな、あの爺さん