市の公園近くにあるアパートの、その二階の共用廊下。
夕ご飯前の散歩に出ていたら、急に空模様が嫌な具合になってきたのでここへ非難してきた。202号室は近所の信用金庫のカウンターに座っているムツミの部屋だ。
ムツミとは他人ながら、毎朝あいさつを交わしている仲だ。ぼくの顔を知っている。ドアの前に寝そべっていても、そう邪険に追っ払われることもないだろう。
下から吹いて来る風が湿り気を帯びて、アパートの屋根の上はすっかり暗くなっている。じきに嵐になりそうだった。
鉄階段が鳴って、ムツミが仕事から帰ってきた。二十歳そこそこの女で、信用金庫に入ると、まず一番に彼女の「いらっしゃいませ」の声を聞く。明るく活発で金庫でも人気者だ。
ぼくは尻尾を振って起ち上がった。
むつみは「あら」とびっくりしたが、すぐに出勤途中で毎日会っている柴犬だと気がついたようだ。
「あなたバス停の近くの家のわんちゃんね、どうしたの」
困ったようすをして鼻先を廊下のそとへ向けてみせると、むつみも暗く濁った空へ目をやった。
「雷が怖いのね、わたしもそう」
ドアに鍵を差し込んだ、
「おいで」と、いきなり足で身体を掬われた。そのまま玄関に入れられたのだが、こいつ、案外とぞんざいな性格だったらしい。
一人暮らしの女の部屋というのへはじめて入ってみたが、ごく簡単に出来ているというのだか。六畳ほどの広さに座卓が一つ置かれてあって、あとはテレビと洋服掛けだけ。そこそこ片付いてきれいにしてあったが、味気ないっちゃ殺風景なほどだった。
むつみは姿見の前に立って服を脱ぎだした。今どきは金庫の職員も決められた制服は無く、みな勝手な私服を着るようだが、それでも立場を考えたそれなりの格好をしている。窮屈なスーツを脱ぎ、ブラと取ってから、締め付けられていた乳房をつかんで揉みほぐした。
新聞を読み始めたので膝の上へ行った。広告欄の週刊誌の見出しばかり見ている。なんのために新聞をとってるのだ。政治面を読ませろと鼻で新聞をめくろうとしたら嫌な顔をされた。
「あっちへ行ってなさい、じゃまだから」
近頃の若者に国政や社会情勢への関心がないのは嘆かわしいかぎりだ。
しかたないので部屋の隅でゴロゴロしていると、クズカゴのわきに一枚のはがきが落ちていた。なんだと思ったら結婚式の招待状である。封書に入れられて届いたものらしいが、その封筒はクズカゴに放り込まれてある。
型通りの文面が記され、その後に『幸せを祈ってください』と書き添えてあった。修也という男からである。遠い仙台の消印がある。そしてこのはがきは、めっぽうむつみの気に入らないものであったらしく、途中まで真っ二つに引き裂かれていた。
自分は顔を上げて、ふたたび女の一人暮らしの部屋を見回してみた。すると、殺風景ばかりではない、さっきは感じなかった寂寥感をつよく感じた。
顔を伏せて新聞を見続けているむつみに、自分は、傷心の女の孤独な影を見ないわけにはいかなかった。
この女はきっと、昔つきあっていたその男に、裏切られたか捨てられたかしたのにちがいない。
急に立ったのでついていくと、トイレだった。入る前にさっさとパンツを下ろしている。なんて適当な女だ。人目がないからいいものの、女としてそりゃあんまりみっともないだろう。
便座に落ち着いて、ぼくと目が合うと、さすがにドアを閉めた。
放り出してあった新聞を読んでいると、外はいよいよ風が強くなったようだ。庭木の辛夷の枝がアパートの窓を叩かんばかりに大きく揺れはじめていた。
トイレから声が聞こえた。携帯を持って入っていたものらしい。
「悠斗? 急に掛けてきてどうしたの」
「うん大丈夫、予定空けてあるから。もっちろんよ行く行く。車借りてくれるんでしょ、久しぶりね海へ行くの」
おやおや、デートの約束らしい。なんだもう別に男ができていたのか。
それでよかろう、とんだ失恋をしたらしいが、なかなかたくましいじゃないか。だいたいが昔付き合ってた女に自分の結婚式の招待状を送ってくるような男なんてロクな奴じゃないのさ。修也とかいったか、そんな男のことは忘れて、さっさと別の彼氏を作ることだ。
「リクくんとあやめちゃんのカップルも一緒なの、ダブルデートね、楽しそう 」
むつみの声は、金庫で聞くのと同じ、明るい調子になっていた。
そうそう、人生なんて後ろを振り返っていたら生きて行かれない。それでいい。
ところが戻ってきたむつみは様子が変だった。さっきまでとは別人のような顔つきである。青ざめて元気がない。おい、腹の具合でもなさそうだし、どうした。デートに誘われてうれしいのじゃなかったのか。
座り込むと、しばらく放心したようにしていたが、なにかを思いついた様子でまた立ち上がり、クズカゴの下からさっきの招待状のはがきを拾ってきて、自分の前に置いた。
むつみは美人なほうだと思うが、あごが小さくて唇がぽてっとしている。それがこの女にどこか頼りない幼い感じを与えている。
しばし思案のあと、ぼくはそっとむつみの前へ出て、そのはがきからむつみの目を離させようとした。
泣きそうになっているのを、放ってもおけなかったのだ。
だが、すでに遅かった。
まつ毛が震え、両目が涙で潤んで、大きくふくらんでみえた。
「私、どうしたらいい、修也。ねえ私どうしたらいいの」
はがきに向かって、そんなことをつぶやいている。
ゆれていた辛夷の枝が大きく風に振られて窓に当たると、花が含んでいた水気だろうか、大粒の水滴が点々と窓を走った。
「ねえ教えて、教えてよ修ちゃん。…わたしきっと今度のデートで悠斗に抱かれてしまう。だから。ねえ、どうしたらいいか。教えてよ!」
突然、むつみがわっと泣き崩れたのと同時に、世界が、はげしい雨音に包まれていった。
夕ご飯前の散歩に出ていたら、急に空模様が嫌な具合になってきたのでここへ非難してきた。202号室は近所の信用金庫のカウンターに座っているムツミの部屋だ。
ムツミとは他人ながら、毎朝あいさつを交わしている仲だ。ぼくの顔を知っている。ドアの前に寝そべっていても、そう邪険に追っ払われることもないだろう。
下から吹いて来る風が湿り気を帯びて、アパートの屋根の上はすっかり暗くなっている。じきに嵐になりそうだった。
鉄階段が鳴って、ムツミが仕事から帰ってきた。二十歳そこそこの女で、信用金庫に入ると、まず一番に彼女の「いらっしゃいませ」の声を聞く。明るく活発で金庫でも人気者だ。
ぼくは尻尾を振って起ち上がった。
むつみは「あら」とびっくりしたが、すぐに出勤途中で毎日会っている柴犬だと気がついたようだ。
「あなたバス停の近くの家のわんちゃんね、どうしたの」
困ったようすをして鼻先を廊下のそとへ向けてみせると、むつみも暗く濁った空へ目をやった。
「雷が怖いのね、わたしもそう」
ドアに鍵を差し込んだ、
「おいで」と、いきなり足で身体を掬われた。そのまま玄関に入れられたのだが、こいつ、案外とぞんざいな性格だったらしい。
一人暮らしの女の部屋というのへはじめて入ってみたが、ごく簡単に出来ているというのだか。六畳ほどの広さに座卓が一つ置かれてあって、あとはテレビと洋服掛けだけ。そこそこ片付いてきれいにしてあったが、味気ないっちゃ殺風景なほどだった。
むつみは姿見の前に立って服を脱ぎだした。今どきは金庫の職員も決められた制服は無く、みな勝手な私服を着るようだが、それでも立場を考えたそれなりの格好をしている。窮屈なスーツを脱ぎ、ブラと取ってから、締め付けられていた乳房をつかんで揉みほぐした。
新聞を読み始めたので膝の上へ行った。広告欄の週刊誌の見出しばかり見ている。なんのために新聞をとってるのだ。政治面を読ませろと鼻で新聞をめくろうとしたら嫌な顔をされた。
「あっちへ行ってなさい、じゃまだから」
近頃の若者に国政や社会情勢への関心がないのは嘆かわしいかぎりだ。
しかたないので部屋の隅でゴロゴロしていると、クズカゴのわきに一枚のはがきが落ちていた。なんだと思ったら結婚式の招待状である。封書に入れられて届いたものらしいが、その封筒はクズカゴに放り込まれてある。
型通りの文面が記され、その後に『幸せを祈ってください』と書き添えてあった。修也という男からである。遠い仙台の消印がある。そしてこのはがきは、めっぽうむつみの気に入らないものであったらしく、途中まで真っ二つに引き裂かれていた。
自分は顔を上げて、ふたたび女の一人暮らしの部屋を見回してみた。すると、殺風景ばかりではない、さっきは感じなかった寂寥感をつよく感じた。
顔を伏せて新聞を見続けているむつみに、自分は、傷心の女の孤独な影を見ないわけにはいかなかった。
この女はきっと、昔つきあっていたその男に、裏切られたか捨てられたかしたのにちがいない。
急に立ったのでついていくと、トイレだった。入る前にさっさとパンツを下ろしている。なんて適当な女だ。人目がないからいいものの、女としてそりゃあんまりみっともないだろう。
便座に落ち着いて、ぼくと目が合うと、さすがにドアを閉めた。
放り出してあった新聞を読んでいると、外はいよいよ風が強くなったようだ。庭木の辛夷の枝がアパートの窓を叩かんばかりに大きく揺れはじめていた。
トイレから声が聞こえた。携帯を持って入っていたものらしい。
「悠斗? 急に掛けてきてどうしたの」
「うん大丈夫、予定空けてあるから。もっちろんよ行く行く。車借りてくれるんでしょ、久しぶりね海へ行くの」
おやおや、デートの約束らしい。なんだもう別に男ができていたのか。
それでよかろう、とんだ失恋をしたらしいが、なかなかたくましいじゃないか。だいたいが昔付き合ってた女に自分の結婚式の招待状を送ってくるような男なんてロクな奴じゃないのさ。修也とかいったか、そんな男のことは忘れて、さっさと別の彼氏を作ることだ。
「リクくんとあやめちゃんのカップルも一緒なの、ダブルデートね、楽しそう 」
むつみの声は、金庫で聞くのと同じ、明るい調子になっていた。
そうそう、人生なんて後ろを振り返っていたら生きて行かれない。それでいい。
ところが戻ってきたむつみは様子が変だった。さっきまでとは別人のような顔つきである。青ざめて元気がない。おい、腹の具合でもなさそうだし、どうした。デートに誘われてうれしいのじゃなかったのか。
座り込むと、しばらく放心したようにしていたが、なにかを思いついた様子でまた立ち上がり、クズカゴの下からさっきの招待状のはがきを拾ってきて、自分の前に置いた。
むつみは美人なほうだと思うが、あごが小さくて唇がぽてっとしている。それがこの女にどこか頼りない幼い感じを与えている。
しばし思案のあと、ぼくはそっとむつみの前へ出て、そのはがきからむつみの目を離させようとした。
泣きそうになっているのを、放ってもおけなかったのだ。
だが、すでに遅かった。
まつ毛が震え、両目が涙で潤んで、大きくふくらんでみえた。
「私、どうしたらいい、修也。ねえ私どうしたらいいの」
はがきに向かって、そんなことをつぶやいている。
ゆれていた辛夷の枝が大きく風に振られて窓に当たると、花が含んでいた水気だろうか、大粒の水滴が点々と窓を走った。
「ねえ教えて、教えてよ修ちゃん。…わたしきっと今度のデートで悠斗に抱かれてしまう。だから。ねえ、どうしたらいいか。教えてよ!」
突然、むつみがわっと泣き崩れたのと同時に、世界が、はげしい雨音に包まれていった。