走れ、麦公

興味のあることや、その時思ったことなどを書いています

雨音

2015-09-11 21:36:49 | 小説
市の公園近くにあるアパートの、その二階の共用廊下。
 夕ご飯前の散歩に出ていたら、急に空模様が嫌な具合になってきたのでここへ非難してきた。202号室は近所の信用金庫のカウンターに座っているムツミの部屋だ。
 ムツミとは他人ながら、毎朝あいさつを交わしている仲だ。ぼくの顔を知っている。ドアの前に寝そべっていても、そう邪険に追っ払われることもないだろう。
 下から吹いて来る風が湿り気を帯びて、アパートの屋根の上はすっかり暗くなっている。じきに嵐になりそうだった。

 鉄階段が鳴って、ムツミが仕事から帰ってきた。二十歳そこそこの女で、信用金庫に入ると、まず一番に彼女の「いらっしゃいませ」の声を聞く。明るく活発で金庫でも人気者だ。
 ぼくは尻尾を振って起ち上がった。
 むつみは「あら」とびっくりしたが、すぐに出勤途中で毎日会っている柴犬だと気がついたようだ。
「あなたバス停の近くの家のわんちゃんね、どうしたの」
 困ったようすをして鼻先を廊下のそとへ向けてみせると、むつみも暗く濁った空へ目をやった。
「雷が怖いのね、わたしもそう」
 ドアに鍵を差し込んだ、
「おいで」と、いきなり足で身体を掬われた。そのまま玄関に入れられたのだが、こいつ、案外とぞんざいな性格だったらしい。

 一人暮らしの女の部屋というのへはじめて入ってみたが、ごく簡単に出来ているというのだか。六畳ほどの広さに座卓が一つ置かれてあって、あとはテレビと洋服掛けだけ。そこそこ片付いてきれいにしてあったが、味気ないっちゃ殺風景なほどだった。
 むつみは姿見の前に立って服を脱ぎだした。今どきは金庫の職員も決められた制服は無く、みな勝手な私服を着るようだが、それでも立場を考えたそれなりの格好をしている。窮屈なスーツを脱ぎ、ブラと取ってから、締め付けられていた乳房をつかんで揉みほぐした。
 新聞を読み始めたので膝の上へ行った。広告欄の週刊誌の見出しばかり見ている。なんのために新聞をとってるのだ。政治面を読ませろと鼻で新聞をめくろうとしたら嫌な顔をされた。
「あっちへ行ってなさい、じゃまだから」
 近頃の若者に国政や社会情勢への関心がないのは嘆かわしいかぎりだ。

 しかたないので部屋の隅でゴロゴロしていると、クズカゴのわきに一枚のはがきが落ちていた。なんだと思ったら結婚式の招待状である。封書に入れられて届いたものらしいが、その封筒はクズカゴに放り込まれてある。
 型通りの文面が記され、その後に『幸せを祈ってください』と書き添えてあった。修也という男からである。遠い仙台の消印がある。そしてこのはがきは、めっぽうむつみの気に入らないものであったらしく、途中まで真っ二つに引き裂かれていた。

 自分は顔を上げて、ふたたび女の一人暮らしの部屋を見回してみた。すると、殺風景ばかりではない、さっきは感じなかった寂寥感をつよく感じた。
 顔を伏せて新聞を見続けているむつみに、自分は、傷心の女の孤独な影を見ないわけにはいかなかった。  
 この女はきっと、昔つきあっていたその男に、裏切られたか捨てられたかしたのにちがいない。

 急に立ったのでついていくと、トイレだった。入る前にさっさとパンツを下ろしている。なんて適当な女だ。人目がないからいいものの、女としてそりゃあんまりみっともないだろう。
 便座に落ち着いて、ぼくと目が合うと、さすがにドアを閉めた。

 放り出してあった新聞を読んでいると、外はいよいよ風が強くなったようだ。庭木の辛夷の枝がアパートの窓を叩かんばかりに大きく揺れはじめていた。
 トイレから声が聞こえた。携帯を持って入っていたものらしい。
「悠斗? 急に掛けてきてどうしたの」
「うん大丈夫、予定空けてあるから。もっちろんよ行く行く。車借りてくれるんでしょ、久しぶりね海へ行くの」
 おやおや、デートの約束らしい。なんだもう別に男ができていたのか。
 それでよかろう、とんだ失恋をしたらしいが、なかなかたくましいじゃないか。だいたいが昔付き合ってた女に自分の結婚式の招待状を送ってくるような男なんてロクな奴じゃないのさ。修也とかいったか、そんな男のことは忘れて、さっさと別の彼氏を作ることだ。
「リクくんとあやめちゃんのカップルも一緒なの、ダブルデートね、楽しそう 」
 むつみの声は、金庫で聞くのと同じ、明るい調子になっていた。
 そうそう、人生なんて後ろを振り返っていたら生きて行かれない。それでいい。

 ところが戻ってきたむつみは様子が変だった。さっきまでとは別人のような顔つきである。青ざめて元気がない。おい、腹の具合でもなさそうだし、どうした。デートに誘われてうれしいのじゃなかったのか。
 座り込むと、しばらく放心したようにしていたが、なにかを思いついた様子でまた立ち上がり、クズカゴの下からさっきの招待状のはがきを拾ってきて、自分の前に置いた。
 むつみは美人なほうだと思うが、あごが小さくて唇がぽてっとしている。それがこの女にどこか頼りない幼い感じを与えている。
 
 しばし思案のあと、ぼくはそっとむつみの前へ出て、そのはがきからむつみの目を離させようとした。
 泣きそうになっているのを、放ってもおけなかったのだ。
 だが、すでに遅かった。
 まつ毛が震え、両目が涙で潤んで、大きくふくらんでみえた。
「私、どうしたらいい、修也。ねえ私どうしたらいいの」
 はがきに向かって、そんなことをつぶやいている。
 ゆれていた辛夷の枝が大きく風に振られて窓に当たると、花が含んでいた水気だろうか、大粒の水滴が点々と窓を走った。

「ねえ教えて、教えてよ修ちゃん。…わたしきっと今度のデートで悠斗に抱かれてしまう。だから。ねえ、どうしたらいいか。教えてよ!」
 突然、むつみがわっと泣き崩れたのと同時に、世界が、はげしい雨音に包まれていった。
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月の金貨

2015-09-11 21:35:18 | 小説
プロシアの首都フランクフルトの下町に、高い塀を回らせたユダヤ人の居住区があった。ゲットーである。
 一般市民から隔離された彼らは法外な重税を課せられ、人としての自由もその大方を奪われていた。自分の国を持たないユダヤ人は世界中のどこへ行っても迷惑な不法入国者だった。

 マイアー老人は古物商の店を開いていたが、恥知らずなほどのケチだった。五人の息子に対しても厳しく、兄弟は働ける年齢になればすぐ仕事に出された。
 古着を着て、その一日を働けるだけの食事をしながら、父親のために給金を稼いだ。
 長男のアムシェルは年頃になっても結婚させてもらえなかったが、その理由は『他人が家に入ればそれだけ無駄な経費がかかる』というものだった。

 1780年、そんな恐ろしいマイアー老人にも命の尽きる時が来た。
 五人の息子を枕元に集めると、最期の息の中で言った。
「テーブルの上に袋一杯の金がある。ザーロモンお前はウィーンへ、ネイサンはロンドン、カールはナポリ、ジャコブはパリへ行け。アムシェルはここに残って金を貸すのだ。全欧州に散れ、そして、そこで銀行を建てろ」
 当時十九歳だった末っ子のジャコブが怒って反抗した。それまで牛馬のように扱われたうえ、死んでからも言いなりにされるのは我慢がならなかった。
「いやなこった。ぼくは自分の好きなように生きる。これまでお父さんのためにさんざん働かされてきたのだ」
 マイアー老人は、粗末な床の中で不思議そうに目を見開いた。
「お前たちをわしのために働かせただって、お前たちは父親のわしのために働いたのではない。同じユダヤ人のために働いたのだ。これからも、そうだ」

 五人の息子は父親が言い遺したことば通りに、全欧州に散って行った。
 ヨーロッパの歴史を動かした富商一族、ロスチャイルド家の誕生である。

 彼らはヨーロッパじゅうの金融を牛耳って行くとともに、ヨーロッパ列強と対峙するナポレオンに莫大な戦費を融資してユダヤ人をゲットーから解放した。
 そしてついに、二十世紀に入り、アブラハムの時代に彼らが失った土地を取り戻した。イスラエル【STATE OF ISRAEL】である。

 今夜はたまたま月齢が半月だが、この世界の金融資産の半分を、ロスチャイルド家が握っているといわれる。
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秋雲

2015-09-11 21:33:37 | 小説
殿が、親友である溝口出雲守直義から『今度の江戸出府のときは、うまい鰻を食べたいのう』と言われ、
 味にうるさい直義公のこと、八百善や柳橋の川清ではあたりまえすぎて気に入らないに違いない、どこかによい店はないものか。と頭を悩ましていると聞いて、赤松正太郎はいそいそと御前にまかり出た。
「よい店を知っております」
 お調子者の赤松の参上に、殿、保科肥後守容貞は、広い額の眉を疑わしげに寄せてみせた。
 が、赤松は意に介さず、平伏したまま御前に進み出た。
「拙者、お役目柄、町商人との付き合いが多ございまして、舌には自信がございます」。
 許しを得ると、赤松は顔を上げた。勘定方を預かって十余年、有能な藩の渉外部長である。
 日頃、藩邸の勤務より好んで出入り商人との遊興に精を出しているので、あまり仕事をしていない。こういうときこそ主人のお役に立って、機嫌を伺っておこうという下心もあった。が、それもさりながら、実際、案内しようという店は、赤松がこれと自信を持って推挙できるうなぎの味だった。
「赤松めをご信用なさいまして、ぜひぜひ」

「ここか?」
 容貞はあきれ顔で、板葺きの小さな店をながめた。
「はあ」と首をすくめて赤松がうなずいた。たしかに見栄えがしなさすぎる。
 ちゃんとした看板もなく、ただ油障子に鰻の一文字があるだけだ。
「直義候をよもやこのようなところにのう」
「仰せの通り」
 いくら場末の店だといっても、いつ身分のある客が訪れぬとも限らないではないか、うなぎの味に合わせて、も少し店構えの体裁を考えてもよさそうなものだ。


 容貞はつかつかと大股に、店の縄暖簾をくぐった。
「ごめん」
 薄暗い店の奥で老爺が俎板に向かっていた。
「ここは鰻を食わせる店であるか」
「へい」
「ではここへ二つもて」大仰なそぶりで草鞋を脱ごうとした容貞に、老爺が素っ気ない声を出した。
「今日はごぜえません」
「何?」
「食わせる鰻が無えでございますよ」
 容貞は妙な顔で、土間に置いてある大きな盥に目をやった。
 太いうなぎが一匹悠々として泳いでいる。
「それには先約がございますんで」
 容貞は腕組みをして、隣にいた赤松をにらんだ。
「や、親爺。わしを覚えておらんかのう。ほれ、ここへたまに顔を見せる赤松という者じゃ」
「へい」
「じつはここにおいでのお方は、わしの主家の偉いお方じゃて。美味い鰻が食いたいと申される故、ここへお連れ申した。どうじゃな、なんとかならぬものかのう」
 拝むようにして赤松が言ったが、
 老爺は何も答えず、くるりと背中を向けた。
 上がり座敷に腰を掛けていた容貞が、財布から小判を一枚出すと老爺に声をかけた。
「無理を申してすまぬが。これを収めてそこの鰻に替えてもらえぬか」
 しかし老爺は奥へ引っ込んだまま、店へ出て来る気配も無かった。
「なんとつっけんどんな親爺じゃ」容貞は目をしばたたいた。
 殿の不興げな顔色におそれをなした赤松は、必死の交渉を試みたが、親爺は頑として首をたてに振らなかった。
「一口召しあがっていただければ、この店が江戸一番であるとおわかりいただけますものを」
 赤松はしかたなく酒だけ出してもらって来て、面目なさそうに容貞に酌をした。

 やがて店に、貧しい服装の親子連れが入ってきた。若いのにやつれたように見える両親と十一、二の娘である。
 娘はおどおどと父親の袖にしがみついていた。
 老爺は三人を上がり座敷の上席に案内すると、容貞と赤松達には目もくれず、盥の中のうなぎを掴み出し、勇躍板場に入って料理をはじめた。

 なんとなく窮屈な思いで、容貞と赤松が衝立越しに親子の会話を聞いていると、どうやら娘がかなり遠方の土地に奉公にでるらしい。
 鰻のご馳走はその送別の家族だんらんということらしかった。
 出された蒲焼を前に、娘が不安そうに声を出した。
「これ、お金がかかるのでしょ」
 父親がにこにこと、箸でつまんだ鰻を娘の口元に押しつけてやった。
「年季が明けるまで我慢して勤めるのだぞ、そのときにはまた父ちゃんと母ちゃんの三人で、またここに食いに来よう」

 外に出ると、容貞は大きなあごをさすりながら、鰻屋を振り返った。
「よし、ここにいたそう」
「は? 味も見ずに出雲守様をお連れしてよろしいので」赤松が驚いた。
 容貞は笑いながら、
「おぬしの舌は遊興の酒にしびれてあてにならぬ。が、子供の舌は正直じゃ」
 そう言って容貞が指差した店の格子窓から、「おいしい、おいしい」と涙ぐんだ声が聞こえてきていた。
「ま、小さい店じゃが、出雲守殿の駕籠は、あの軒下あたりに付けさせればよかろう」

 秋の空に明るい雲が一刷け、高く浮かんでいた。
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突風

2015-09-11 21:31:23 | 小説
俺は近藤恭弥『ホンダの契約社員にして、自称種馬』だ。童貞だがな。
 世の中なにがあるかわからない、美容室のジュンコ先生が独身だって知ったときは、空からのカラスのふんの急襲をかわすにも、よろこびのつま先立ち一回転を決めた。

 無理して月に二度、美容室の予約をとったが、べつに飽きない。
 その日もジュンコ先生の椅子に座った。
『女は肉として生まれ、肉として育ち、肉便器になる』だが、どうだ、鏡の中で俺の後ろに立ったジュンコ先生は、きれいな鼻筋、大きな目、ちょっとめくれた唇のそのやさしいほほ笑み。よみがえったマリアじゃねえか、女神だ。

「コンちゃん、わるいな。ちょくちょく来てもらっちゃって」
 ブロウが終わって椅子を下りた俺にニシダが声をかけてきた。中学のときの同級生だ。この店にはこいつの営業できた。店のスタッフだからいてもかまわないが、かなりじゃまだ。
「今度の芝3レース、スイッチマスターが鉄板なんだけど、連複どうしよう」
 おまえ、赤津さえ作品集のなかの田舎の子だろ、ちっこい目のぷっくりぽっぺが素朴すぎるよ。そのおかっぱ頭はギョーカイっぽいの狙ってるわけ?
「クロモンディールくるかなあ、わかんないよ、ゲップ」
 ゲップの音がでけぇよ、亀偏差値小せぇくせにそのギャップはなんだよ。
「クソ新聞に騙されてんじゃねえよ、そこはヨッカボールドでボロ勝ちだ」
「あら、大穴狙いね。近藤くんて度胸あるわ」
 片づけをしていたジュンコ先生が俺を見て、笑ってそう言ったとき、手からコームを落とした。
「あら」と、拾おうとして後ろ向きになり、上体をかがめた。後背位だ。うすいスカートに尻のかたちがくっきり見えた。俺は受付のティッシュをわしづかみにして鼻に当てた。我慢がきかない童貞っつーものはかなしいなと思った。

 その日から金魚を飼った。部屋の一番いい場所に金魚鉢を置いた。
「やだぁ~、フンしてる。これミドリ亀?」
 金魚だよ妹、亀は入ってないから。俺がいま幸せだっていうことのささやかな具象化だ。おふくろの差し入れ置いたらさっさと帰れよ、森のどうぶつたち貸す気ないから。

 ある日、俺は歩道橋下の路肩に車を停めて、ミラーでネクタイを直していた。リボンのついた栄養剤の箱を用意している。ジュンコ先生が風邪を引いたと聞いたのだ。これから店に行って手渡す。まさか俺が心配して見舞いに現れるなんて思ってないだろう。ニシダの友達の近藤君、ジュンコ先生の意識はそのくらいにちがいない。無防備だ。そのスキをつく。年下の男が自分を気にかけてくれていた。女心が動くはずだ。
『あら、近藤くんてやさしいのね』
 俺は照れながら『ジュンコ先生のためなら死んでもいいです』みたいなことを言う。俺は昔からなにをするにも策士で通ってきた。
 交際がはじまる。
 経験のない俺は、年上の女がどんなものか知らない。下僕にされる様子さえ想像してみたが、それも悪くはなかった。鞭を受けて逆説的楽園にはいつくばる。俺はそんな自分でも許せそうだった。ふとミラーをのぞくと、並木道を歩いていくジュンコ先生の姿が映った。

 アパートの階段を上がって行ったが、そこはニシダが住んでいるアパートだった。
 鍵がかかっていなかったので、俺はそっとドアの内側へ頭を入れた。話声がする。
「だめよニシちゃん、私風邪気味なんだってば、そんなことをしたら鼻水がついちゃうわよ」
「先生、んふ、んふ」
 卑猥な数語が続き、いきなりしーんとなった。

 アパートを離れた俺は、ふらついて歩きながら、何か大きなパワーが欲しくて、一度、松岡修造ばりのバンザイをしてみた。が、天地は引っ繰り返らず、この現実に何らの変化はなかった。
 俺はさとった。世の中ってのは、よくあるパターンで埋め尽くされているのだと。そしてその一つにいつ俺が当たったっておかしくないのだと。
 あこがれの女が友達とデキていたってパターン、よくあるよくある。だが、俺は、俺だけは、そんなジュッパヒトカラゲの大多数の中の一人のありふれた男でいいのか。

 唯我独尊の自意識のたましいが悲鳴を上げたが、いまさらアパートへ取って返したってどうにもならないことは明白だった。どんなふうにか知らないがニシダがうまくやったのだ。
 ばかやろう、俺はせめて一言残してそこを立ち去りたかった。そのとき、いきなりの突風が、開きかけた口をふさぎ、坂の下で父親とケンカをしていたガキの言葉をさらってはこんできた。
「ぼくのポチを返せ!」
 どんな事情があったものか、ガキは涙声だった。

「へへぇ~ジュンコ、パクパクしてないでもっと口を開けろよ、くわえてみろよ」
「ねえ、その金魚いつからジュンコになったの。はじめはハッピーって名前じゃなかった?」
 森のどうぶつたちをしながら、妹がふりむいた。
 俺は答えず、金魚鉢の曇りを指で拭いつつ顔を近づけた。俺の頭の中には相変わらずセックス!!しかない。俺が笑うと、幸せが一匹、尾を振りながら逃げて行った。
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ウィル・ロビンソン

2015-09-10 22:22:40 | 小説
 芝生でバレーボールをしていた学生の一人が、教授と出掛けて行くウィルを見つけると、大げさに指さした。
「おい、軍務を免除された秀才様だぞ、みんな敬礼」
 どっと笑い声が起こり、口笛が吹かれた。
「ケツをほられなくてよかったな、ウィル」
「兵舎のメシはまずいそうだからな、うまくやったよ」
「町に残ってせいぜい女をナンパしていろ」
 からかい口調で一斉にはやし立てた。
「黙れ、クズども!」
 ワーゲンから首をのばして、ウィルが怒鳴った。
「ほうっておきたまえ、みんなは特別待遇を受けた君がうらやましいのだよ」ハンドルを握った教授が笑ってなだめた。

 車が着いたところは、宇宙飛行士の訓練施設だった。空軍基地の宏大な敷地にある建物だ。
 ウィルの目は輝いていた。胸が高鳴っておさまらない。
「中を見学していくかね」フェンス沿いに歩きながら教授がきいた。
「いえ、試験に受かってからにします」
 本当はその提案を受け入れたかった。目の前の銀色に輝く建物は彼が子供の頃からずっと抱き続けている夢をかなえてくれる場所だった。が、自分はまだ学生だ、見学より、そこで訓練する候補生として、堂々と自分の将来への一歩を踏み出したかった。彼はぶるっと興奮した身震いをしてことわった。

 エリー湖畔のカフェバーでテスと会った。同じ体育大学の学生である。長い金色の髪が特徴の女だった。
 ほかの女子学生がそうであるように、テスも役所か企業に職を得て、落ち着いた暮らしをするものと思っていたが、ちがったようだ。
 フィラデルフィアへ行くという。そこは国の政府と敵対している革命軍の町だ。
「この国は間違っていると兄さんが言うの、毎日無実の人が大勢殺されているのだって」
「そんなうわさがあることは知っているさ、でも、うわさだろ」
 彼女の兄は革命軍に入っている。その話は以前から聞いていた。
「ウィルはこの国が間違っていると思わない?」
「どうかな」
「今の政府は月や火星からの移住者を差別して隔離しているわ。同じ人間なのにおかしいと思わない?」日頃になく熱を帯びた声だった。
「政府が何を考えているか、情報がすべて管理されているから、俺達のような市民にはわからない。それでも、この国は俺を太陽系の外へ送ってくれる。誰も見たことのない宇宙を冒険させてくれる国だ。銀河の果てへ、その先へも、俺の夢をかなえてくれる」
「さよなら、ウィル」彼女は立った、そして笑って両手を広げた。
「抱きしめてもらっていいかしら」
 ウィルは長身を屈めて彼女を抱きよせた。テスのそのほそい身体は、何度かこうして同じ夜を過ごしたままのしなやかさだった。
 さよならをして、二人は別れた。

 二十一番街のクリーニング店で試験に着て行くスーツを受け取り、ウィルが通りへ出たとき、走ってきた少年が彼の後ろに隠れた。
「お兄ちゃん自由市民だろ、助けて」
 面食らっていると、車道の車の間から見慣れた青い制服の保健局の人間が数人姿を現した。
「どうしてお前を助けなければならないんだ」
「ぼく殺されるんだ」
「まさか」
 保健局の一人が作ったような笑顔を浮かべて近づいて来た。
「市民証を見せていただけますか、ご協力ありがとうございます。その子供はマルス人で隔離対象のリストに入っています。お引渡しくださいますね?」
 マルスとは火星からの移住者の呼び名だ。たしかにその子には火星で世代を重ねた人間の特徴である巨頭症がみられ、耳もとがっていた。
 政府の役人にはおとなしく従うのが、ウィルのような市民にとって賢明なやりかただった。
「捕まったら、殺されるんだよ」
 子供は震えてウィルの足にしがみついた。
 保健局が手錠を掛けようとしたのを、ウィルはやめさせた。
「権利条約によって、この子は人権を保障されているはずだ。俺がいったん火星領事館へ連れて行く、あんたたちはそれから引き取ればいいだろう」
「あんた、邪魔をするとあとで後悔することになりますよ」
 無理やり連れて行こうとするので、ウィルは少年を奪い返し、そのまま車道に押し出した。
「走って行け!」
 どうしてそんなことをしたのか、後になって考えてみてもわからなかった。
 保健局員たちが険悪な目をウィルに向け、一人が無線を取り出した。逃走者あり、緊急手配を頼むと告げている。
 ウィルは少年を追って走り出していた。まずいことになった、相手は国の部局の役人だ。その気になれば自分を連行できる。面倒を起こした以上、役所でどんな不利益な扱いを受けるかわからない。このさい、この場から逃げてしまうのが最善だった。
 街なかの狭い路次で少年に追いついたが、ふりむくと保健局の人間が迫ってきていた。

 下水道のある街区の外れまで来て、ようやく逃げ切れたようだった。
 ウィルの脇の下から降ろされた少年は安堵の息を吐いた。しかしウィルのほうは、最悪の状況にそのとき気が付いて、度を失ってしまった。
 身分証を保健局員に渡したままだった。あれがなければ試験場の受付を通れない。といって、返しにもらいに行けば逃走幇助の罪科で警察に送られるだろう、どっちにしても三年に一度しかない上級資格試験が受けられない。
 夢も特別待遇も台無しである。
「お前のせいだぞクソガキ、みんなお前のせいだ!」
 ウィルは激昂した。突然の怒鳴り声に少年はふるえあがった。
「火星人間のクズ野郎、お前に会わなければこんなことにならなかった」
 ウィルは目をこすった。涙がにじんでいた。子供のころからの夢を失ってしまった。貧しい家計をやりくりして学費を払ってくれた両親の期待も裏切ってしまった。これからは兵役に就かなければならない。軍務は終身制だ二度と試験を受けるチャンスはない。
「お前たちは地球に来なければよかったんだ。俺たち市民から仕事を奪い、経済を破綻させた。おかげで市民の半分は貧困層だ、疫病神め。そのでかい頭の中でいずれ地球をのっとろうと考えているんだろう、ちがうか!」
 八つ当たりだった。少年をこわがらせてもなんの解決にもならないことはわかっていた。愚かなことを承知で、それでも、大声を出して誰かを責めないでは心の傷が破裂しそうだった。
 ウィルの異常な剣幕に圧倒されて、少年はその場をはなれようとした。
「火星のタコ人間ども、同じ人間だと思ううと吐き気がする。お前らは差別されて当然なんだ!」
 少年に迫り、正気を失った姿で、なおもウィルが言い募ろうとしたした背後に、特別警察の黒い制服が立っていた。
「ウィル・ロビンソン君、そこをどきたまえ」
 あっと言う間もなかった。拳銃が一発鳴り響き、少年の身体がはじけるように宙に浮いた。
「どうして」
 ウィルは下水に転落して行った少年の姿を岸から覗き込んでさがした。顔が真っ青だった。
「市民を火星移民の害毒から守るための自衛手段です、ウィル君。あの少年はあなたに危害を加えようとしていました。これは正当防衛なのです」
「ばかな、あんなに小さい子供だったじゃないか、俺に何もしていなかったじゃないか!」
 特別警察の手を振り切ると、ウィルは少年を追って下水に飛び込んだ。黒い水のうねりがたちまち彼の身体を攫っていった。

 生きているのか死んだのか、長い時間流された後で、ウィルが下水から顔を上げた。そこは社会から隠されている特別区だった。市民の誰も目にすることができない政府管轄の地区だった。
 鉄格子の中に多くのマルス人が閉じ込められ、絶望のうめき声を上げていた。みな裸で今にも骨が折れてしまいそうなほど痩せていた。正面の大きな穴に鎖で繋がれた数人のマルス人が引き立てられるのを見て、ウィルは再び水中に潜った。胸に抱いた少年に口移しで空気を与えながら、ウィルはこの社会の、ほんとうの姿を知った。

 教授はウィルの姿を、駅の操車場の空き地でようやく見つけた。
「探したぞ、ウィル。ご両親から連絡を受けたが、少しも心配することはない。警察には手を打ておいた。安心して試験を受けたまえ。教え子から上級飛行士を出すのはわしの夢でもある。さあ、車に乗りたまえ」
 ウィルはしずかに頭を振った。
「どうした、どうしてこっちへ来ない。広い宇宙が君を待っているのだ。あんなに冒険家になりたがっていたじゃないか」
「いまの俺は、冒険家よりも、ふつうの人間になりたいと思っています」
「ふつうと言ったって、君は地球のちゃんとした市民じゃないか」
 ウィルは教授に一礼すると、ベルを鳴らして今しも発車しようとする遠距離列車に向かって駆けだした。
 列車のデッキに二人の人影が見えていた。美しい長い髪のテスが頭の大きめな少年の肩を抱いて、ウィルを待っていた。
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