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1999年32歳で乳がん発覚、2007年に再発した女のぶっちゃけトーク

祈り

2007-12-07 18:45:26 | 再発してから
再発してから 7

私は神の癒しを信じていた。
癒されたと信じていたのだ。

それなのに、また病気が出てきてしまった。

だけれど、なぜ?!という問いや、神をうらむという気持ちは
まったく出てこなかった。
病気で死ぬ運命なら、その前に自分を救い、信仰を
与えてくださった神に尚更感謝だ。

それに、一度キリストの救いを体験した者にとって、
キリストのいない生活というのは考えられない。
そこでも私がすがるのはキリストしかなかった。

子供は大きくなったとはいえ、小学校高学年と中学年。
まだまだ親が必要だ。
まして別れた夫は外国人であったので、彼に任せたら
ろくなことにはならないことは容易に想像つく。

どうしてもまだ生きていなければならない。
だけどこのままだと死んでしまう。
再発すると、根治は難しい。多くの人は2.3年内に死んでいくのを
今まで嫌と言うほど見てきた。

だから、もうキリストの癒しにすがるしかないのである。
自分の力では及ばない。
大きな力、奇跡を起こす力が必要だ。


季節は夏に移っていた。

夜中に、胸壁を刺すような痛みが走り、目を覚ます。
また、腰から足にかけて、骨盤の転移のせいか
痛みが走って、家の中でも歩くのが大変だった。


7月ごろは朝早くから明るくなる。
寝付けないということはなったが、早朝に目覚めてしまう。
そういう時は神が祈りを求められている、と以前牧師から
いわれたので、そのまま起きて祈ることにしている。

動けなくなってはマズイと思い、近くにある大きな公園を
歩きながら祈ることにした。
まだ5時にもならないのに、公園には人が結構いる。
犬の散歩やジョギングをする人たち。

それに紛れてぶつぶつ祈りながら歩いた。
30分から40分。
ことばで祈り、異言で祈り、賛美する。
そのときばかりは自分の不自由さを忘れる。

それから毎日、朝は祈りながら歩き
昼はギターを片手に賛美した。

去年から初めたギターがこのとき本当に役に立った。
二時間も、それ以上もひたすら賛美する。歌うのだ。
ようやく頭が晴れて来て力が湧いてくる。

そしてネットで聞ける色々な教会の牧師のメッセージを聞く。

そんな毎日が続いた。
そうしないといられなかった。
そうしないと、死の恐怖とイメージにおぼれてしまいそうだった。






出家

2007-11-28 17:42:01 | 初発時の経緯
初発時の経緯 7

 最初の抗がん剤治療から5日で退院した。さすがに二日酔いのような気持ち悪さがあったり、吐き気止めの副作用で(デカドロン)眠れなくなったりしたが、食事も普通に取れるし、副作用は思ったより軽く、拍子抜けしたほどだった。
 注射を打ってから二週間後位から毛髪が抜け出すという。そして三週間後くらいには白血球が下がる時期があるので、生ものとかを食べないように、そして風邪を引かないようにということだった。体調を崩すとスケジュールが狂ってしまうのである。
 
 家に帰って、普通の生活をしていたが、それほど調子は悪くない。髪の毛も一向に抜け落ちる気配さえもないので、100%脱毛するといわれたが、自分は大丈夫なんじゃないかとさえ思えてくる。バカみたいに楽観的で強気な思い込みだった。二週間が過ぎて、だんだんパラパラと抜け始めた。テレビドラマで見るように、ごっそりというほどではなかった。しかし、風呂に入ってシャンプーしようと液をつけて洗い出したとたん、髪が固まりになって動かなくなった。初めての感触で、一瞬何が起こったかわからなかった。見ると、ごっそりと固まりになって髪が抜けた。手指からとって、また残った髪を触ると、それも抜けた。一度にかなりの量が抜けてしまった。台所から、ビニール袋を持ってきてつめる。ロングヘアーだったのだが、抜けるといわれて短く切っておいたのだが、それでもすごい量だ。風呂を上がって見ると、無残な姿が鏡に映っていた。サザエさんの波平お父さんのように、下の部分が残っていたが、あまりに見苦しいので、全部剃った。

 高校時代に出家したいと思ったことがあったが、そのときは絶対剃髪にするつもりだった。頭だけは念願かなって、坊主あたまになった。

 尼になるならともかく、自分の意志ではこのスタイルはなかなか踏み切れない。そう思うと、最初は新鮮であちらこちらの角度から、見たりして楽しんだ。しかし、それもつかの間、見飽きてしまう。
 その時期は冬だったので、とにかく寒い。頭もそうだが首周りが冷えて、困る。そのマンマでは到底眠れないので、毛糸の帽子をかぶって寝ていた。

 そういえばスキンヘッドの友人のベッドわきにも、同じような毛糸の帽子があったよなぁ。ハゲになったら、剃った方がいいとか、無責任に言ってきたけど、髪の毛ってやっぱり暖かいし、あるとぶつかった時にも痛くないのだ。
 この時、ハゲ男の悲しさが寒さ、寂しさを真実に理解できた。

昔はハゲの男は勘弁、と思っていたが、このときの経験から今は広い心を持ってハゲ男を受け入れることができる。



お酒は麻酔?それともマズイ・・?

2007-11-26 12:22:15 | 再発してから
再発してから 6

 祈りを唱えながら、約束の駅に着いた。友人の顔を見て一安心。
彼は私がガンだということを知らないし、再発したことももちろん知る由もない。

 今日、言おうか言うまいか?挨拶しながら、頭の中を駆け巡る。
とりあえず、流れに任せてみよう。と思う。


 ガンであること、また再発したことを言うのは私は全然苦ではないのだが、聞いた相手がどう思うか考えると、迷ってしまう。突然そんなことを聞かされて、どう反応していいのか分からないのがほとんどだろうし、その後心配させるのもの気の毒だ。


 どこへ行こうか決めていなかったので、店を探してそぞろ歩き。でも頭の中は脚の痛みの為に緊張している。近場で探したいところだ。とにかく早めに切り上げようと思う。
  

 適当な店に入り、先ずはビールで乾杯。興が乗ってきて、杯を重ねる。私の好きな日本酒、青森の田酒があったのがまずかった。酒が病気にはよくないことはわかっているが、まぁ今日くらいいいか。

 独身の友人は「sは再婚しないの?」と聞いてきた。何気ない話題だったんだろう。何も知らないから仕方ないけど、こっちは再婚どころの話ではないのだ。そう思うとおかしくなる。「N君は結婚しないの?」と振り戻す。「相手がいないからなぁ、」とか何とか。「私は無理だなぁ、もう。」とつい本音で答える。病気のこともあるが、そうでなくても、他人と一緒に暮らすことは正直考えられない。もともと私は結婚生活には向かないタイプだと思う。

 「無理じゃないよ~。」酒のせいか饒舌になったNは言う。こっちの気も知らないで、のんきだよなぁ、と思うと、少し意地悪したくなった。
「じゃぁN君結婚してよ!」
 我ながら、ナイスな切り返し(笑)
 あまりの急展開に焦りながら、「いやぁ、俺は金ないし・・。」などと、しどろもどろに答えてる。40過ぎると女も可愛げないよね。こういうことを平気でいってしまうのだもの。そしてこのとき、やっぱり病気のことを言うのはやめようと思った。
 
 そんなこんなで、入ったときは外もまだ明るかったのに、既に11時を回っている。酒のせいか、脚の痛みもどこかに行ってしまった。
 再発告知を受けてから、暗い雲に覆われたようなどんよりした気持ちだったけど、雲間から光が差すようなひと時だった。

 ああ、大好きなお酒ももうあんまり飲めなくなるんだな。
 彼とはまたいつか会えるだろうか・・。
 葬式にきて、彼は今日の事を思い出すんだろうか。

 飲み屋のトイレの中、酔った頭でそんな暗い想像をした。
 

 

臨床試験のための入院

2007-11-22 18:55:53 | 初発時の経緯
初発時の経緯  6

1999年12月半ばから、臨床試験のための入院が始まった。当時4歳だった娘を新幹線にひとり乗せて、実家の仙台に帰した。実家の母は病弱で、私の96歳の祖母もまだ寝たきりで健在だったため、誰も東京に来て手伝ってくれる人は居なかったのだ。

 指定席の隣は親子連れだったので、仙台に着いたら降りるように促してもらうように頼む。親子連れの母親は私を責めるかのように、冷たく視線を送ってきた。仙台のホームで私の父親が待っててくれるとはいえ、二時間、四歳の子をひとりで乗せたのは大胆な選択だった。だけど私にはそうするほかなかった。

 下の一歳の娘は児童施設のような所に一時預かりをお願いした。私の夫は早朝にでてしまうので、保育園に預けて迎えに行くような事はできなかったのだ。
 
 全て準備を整えて、いざ入院。臨床試験だったせいか、個室入院になった。部屋にシャワーもトイレもついているし、病院は新しくなったばかりだったので、非常に居心地よかった。他の入院患者もいないので、音楽もスピーカーから流すことができる。外は夜景もきれいだった。
 
 初めて注射する日、看護士が最初の一時間くらいを共にして話し相手になってくれたので、かなり気が紛れた。もちろんそうやって看護士は様子を観察していたのだろうけど、心強かった。

 今時は副作用止めの薬が色々とあって、それほど辛くないと聞かされていた。単純な私はそういうものなのかと信じていたので、実際に大した副作用は起こらず、確かに気持ちよいものではなかったけれど、吐き気も起こらず急性のアレルギー反応のようなものはでなかった。
やれやれ、一安心だ。

心の痛手、体の痛み

2007-11-20 09:51:05 | 再発してから
再発してから 5

 再発しているかもしれない、と思っていながらもはっきりいわれるまではどこか気持ちにも余裕がある。逃れられないだろうと思っていても、実際にまのあたりにするのとは格段の差がある。
 これは経験してみないと分からないことだろう。PET-CTのレポートが頭を離れない。肋骨などに痛みを感じていたから、予測はしていたけど、あんなに多発だなんて・・・。しかもホルモン治療が始まるのは、落ちついて治療法を選択するためか、二週間後からということになっている。


 再発告知を受けてから、私の身体は一気に重く、痛みも増した。胸壁にあった張り感は、胸壁再発と縦隔リンパ節の転移のためだったのだ。腰も痛い。告知を受けた週の週末は、以前から大学時代の友人と飲む予定になっていた。こんなときに飲む気分じゃないけど、後はいつ会えるかわからないと思い、そのまま予定を変更しなかった。その日になり、駅まで歩いている途中、前から痛かった腰から右足にかけて更に重く痛みを増してきた。引きずるように、歩きながら駅の階段を登る。息が切れて苦しい。やっとの思いでプラットフォームに立つと、すごい勢いで不安が襲ってきた。本当に約束の駅までたどりつくだろうか?途中で救急車を呼ばれるような大変な事態になったりしないだろうか。電話して取りやめるべきだろうか?頭が混乱して、汗が出てくる。軽いパニック状態だ。


 心の中で、神に必死に祈った。どうか無事にたどりつけるように。友人と会い、その時が守られますように。クリスチャンの祈りには”異言の祈り”という特殊な祈りがある。普段話している言語とは全く違う、いうなれば神の言語で捧げる祈りである。私自身は何を祈っているのかわからないのだが、私の中にいる聖霊様が深くうめきながら私の為にいのってくださるのである。私は異言の祈りをしながら、目的の駅までの電車に乗った。

モルモット

2007-11-19 10:44:39 | 初発時の経緯
初発時の経緯 5

 臨床試験を受けるかどうか、悩みに悩んだ。抗がん剤というのは博打のような治療だ。投与したら、誰でも効くのかというとそうではなくて、およそ三分の一の人たちにしか効かないと当時言われていた。残りの人たちの中には悪化する人もいるのである。

 しかし、もともとチャレンジャー的性格があり、新しいものに目がない私には、この新しい効果のありそうな治療は魅力だった。どうせ効くか効かないか分からないのなら、この試験をすることによって、後の人たちに結果を残すことで人に貢献したいという思いもあった。どうせ博打を打つのなら、セコイ博打は打ちたくない。


 私はそのとき、クリスチャンの信仰をもっていなかった。神が居ることは信じていたが、それがどれか特定の宗教の神といわれると、ぴんと来なかった。当時の夫がイスラム教の神を信じており、選択に困ったときに占いのようなものがあるという。どうにも決めかねて、それをやてもらう。

 アラビア語で何か書かれた文字の周りに妙な図形を描き、ボウ線を沢山。なにか数を数えていた。何がなんだか分からないけど、結果は臨床試験を受ける方になった。まぁ私も受けてみたい気持ちの方が強かったし、アラーの神様のお墨付きを得たので、W医師に試験を受けると診察時申し出る。W医師は意外、という表情を浮かべたが、向こうにしてみれば試験が進むのだからよい知らせ、上機嫌であった。

人生の転機

2007-11-16 11:09:07 | クリスチャン的
クリスチャン的 1

 8年前になるから、1999年の今日、初めて自分が乳がんであることを知ったのだ

った。

 結婚・出産・離婚など、様々な人生の転機を経験したけれども、この日私に訪れ

た転機は、人生の中でもっとも大きなもののひとつだ。

 病気にならなかったら、どんな人生だったのだろう。8年前を遡ってみると、私

は32歳。子供は上の子が4歳下の子が1歳。当時はまだ結婚していた。下の子がその

の4月から保育園に入れることができて、これから仕事に本格的に復帰しようと焦

っていた。今から考えれば、まだまだそんな時期ではなかったのだが、私はどうし

ても自分の仕事で成功したかった。出産をしたことによって、思うように仕事がで

きなくなっていたのだ。そんな再スタートを切ったばかりの時に、大きな困難が目

の前にある私の新しい計画を阻んだ。経験したことのないような大きな、大きな挫

折だった。今までは自分が努力すれば、何とか乗り越えられる問題だった。時間が

掛かることであっても、少しずつでも現状は改善していっていた。しかし、病気と

なると別である。運命を完全に他のものに乗っ取られたように感じ、自分ではもは

や手も足も出ないような暗闇の中に引き込まれていった。


 今振り返って見ると、この経験がなかったら私は上っ面の人生を今も生きていた

に違いない。この経験をしたからこそ、多くのことに目を開かれていった。そして

何よりも、真にキリストと出会う事ができたのだ。キリストとは宗教ではないの

だ。これを理解してもらうのは非常に難しいことだ。キリストとは教会の前に飾っ

てある、青い目をした美しいナイスガイではないのだ。完全な孤独と絶望の中で

で、唯一私を助けてくださった方、これが生きるキリストだ。あなたの人生におい

てもその出会いが待っていると私は信じる。そのとき、彼の差し出す手を振り払う

ことの出来る人は、そんなに多くはない。人は皆、孤独に弱い。神は私たちをその

ように造られたのだ。隣人と、神を愛するために。

面談票の驚くべき内容

2007-11-15 12:50:29 | 再発してから
再発してから 4

二枚複写になっている面談票には、再発がん治療の目標と書かれた項目がある。



以下はその内容。

____________________________________________________________________

再発ガンの治療の目標


再発がんは残念ながら、完全に治癒させてしまうことは困難。

1.がんと上手に共存を目指していく

2.がんの進行をくい止めていく

3.抗がん剤だけでなく、緩和治療(ガンの症状に対する治療)も大切

4.緩和治療の専門病院(ホスピス)に紹介・連携していく、こともある


-----------------------------------------------------------------

 末尾には「説明をうけました」との文字と共に、ご丁寧に年月日と署名の欄が設

けてある。もちろん、医師と看護婦の署名欄も。

まったくもって、力の抜ける内容である。これから厳しい状況と戦っていく患者に

とって、これほどばかげた書類に署名しなくてはいけない屈辱。

そもそも、この面談票の主旨はなんなんだ?「あんたはもう治らないから、ゴチャ

ゴチャ文句つけるんじゃないぞ、そこんとこヨロシク!」みたいなこと?

 その場で破り捨ててやろうかと思ったが、主治医も仕事でやってんだし、そんな

ことですったもんだして、生きている貴重な時間を浪費したくない。

ハイハイとばかりに署名する。今日は美術館でどうしても見たい展覧会があるの

だ。この病院は患者の心情より、病院の危機管理(訴訟対策のみね!)の方を優先

するわけだ。ここに通って7年になる私にはそれを痛感させる様々なエピソードが

ある。
 
 




臨床試験

2007-11-14 18:34:24 | 初発時の経緯
初発時の経緯 4

このブログは初発時の状況と、再発時の状況を交互に書き進めています。カテゴリ

ーに分けてありますので、続けて読む方はそちらでおねがいします。



 さぁ、この病気で三人目の医師である、腫瘍内科医の登場だ。

医師というのはつくづく個性的な人たちだと思う。それぞれインパクトがある。

 W医師は、診察室の小さなイスに後ろに倒れるのではないかと思うほどふんぞり

返って座り、大きな身体をイスからはみ出さんばかりだった。この人は権威的な圧

力を与えるタイプの医師で、とにかく「できる男」的アピールがすごい。その辺の

ヘボい医師とは一緒にされたくない、というオーラを出しまくっている。

 治療の説明の段になって、意外な提案が出された。術前化学療法というのは変わ

らないのだが、私のような病態の人を対象にした臨床試験があて、それをしてみな

いか、といわれた。何でも、薬自体は認可されているものであって、乳がんの治療

に使用されているのだが、それを術前でやった場合どうなるかということと、薬剤

の組み合わせが新しいらしく、従来の方法と比べてどうなのか試験するものだっ

た。それによる副作用についても調べるらしい。

 詳しい方法が書いてあるものを書面で渡された。今度の診察まで、どうするか考

えてきて欲しいといわれた。
 
 臨床試験・・。私はその頃、知人から薦められて、慶応大学病院の近藤 誠医師

の書いた本を読んだ。それには抗ガン剤なんか、効かないし臨床試験なんて、もっ

てのほか、というようなことが書かれていた。う~ん。どうしよう。W医師は非常

に効果が期待できるし、それで腫瘍が全くなくなった人もおり、その状態で二年間

キープしているというのだ。

 まぁ、W医師はもちろん参加して欲しいのだろうから、いい事を言うに決まって

いる。そんな効くか効かないか分からない治療に命を賭けていいものだろうか?マ

ウスみたいに、実験されるなんて。

 小さい頃みた、「白い巨塔」という医学ドラマが頭によぎる。
 
 

再発告知の続き ~診察室で

2007-11-13 11:10:31 | 再発してから
再発してから 3 

 今後の治療について説明がなされた。

 前回の診察の時に、もし再発していたらどんな治療になるのかと聞いていた。初

発の時から7年経っている事、ホルモンの受容体がある事から、セオリー通りに先

ずはホルモン治療になるといわれていた。

しかし、このレポートを見ると肺転移もしているらしいし、臓器転移の場合抗がん

剤が第一選択肢になる可能性もある。

 だが今回提示された治療法も、ホルモン治療だった。第一、第二、第三のホル

モン治療の選択肢の説明がなされ、その中で医師がよいと思っている選択肢をひと

つ上げてきた。まさに王道的なその治療法だったので、私自身もそれを選択した。

ゾラテックス+アリミデックスである。

ゾラ+タモフェキシンの治療をゾラ2年、タモ5年終えている私は、まぁ似たような

治療法なので、それほど効果が期待できるわけでもなかった。違うのは閉経後に使

われるアリミデックス。その時点で閉経してなかったけれど、ゾラテックスを打てば

閉経は確実だ。

何よりも、抗がん剤だけは打ちたくなかった。初発時にかなりキツイ治療をシッカ

リしている。もちろん、それから七年経っているしあの頃のシビアな病態を考えれ

ば、再発するまでの時間稼ぎには充分なったとは思う。だけど、それで根こそぎに

できたわけでななかったのだ。



 こうやって7年も患者をやっていると、色々な乳がん患者さんと出会うことが多

くなる。その中には再発した人たちもいたし、もう会えなくなってしまった人も多

い。その生き様や治療を見てきた私は、抗がん剤が与える影響の大きさを目の当た

りにしてきた。その副作用は、肉体だけに留まらず、精神的にも、社会的にもあ

る。
  
 「何かほかに聞きたいことは?」と医師にほどこされ、PETの詳しい内容を聞

く。骨転移だけなら、それほど切羽詰った問題でもない。しかし肺転移もあるなら

別だ。その辺を聞いていくが、はっきりしない。PETだけでは判断できかねるら

しいのだ。それで更なる検査のオーダーをだされた。骨の単純レントゲンと、胸部

のCTだ。


 痛みもあったので、それについても聞く。痛みには基本的に痛み止めだそうだ。

胸壁の転移らしいところと、腰や胸の骨に痛みがあったが、とりあえず眠れている

し我慢できない範囲ではないので、痛み止めの処方はしてもらわなかった。

 もうひとつ、痛みに関して考えるのは末期時の痛みだ。私は痛みに関しては弱

い。痛いとマトモな判断力もなくなるし、性格もひん曲がって当り散らしたい欲望

に駆られる。痛みが私を乗っ取ってしまうのだ。死ぬのはしょうがない。死は人間

に定められたものだ。だけど、痛みの中で死ぬのは嫌だった。

耐え難い痛みが襲ってきた時に、セデーションといって意識レベルそのものを下

げてしまって、痛みを緩和する方法ある。それを受けることについて宗教的にどう

なのか、質問してみた。ある意味死をコントロールすることにもなるからである。

 今の主治医はありがたいことに、わたしと同じクリスチャンなのである。(まさ

にこれも神の導きであろう。)主治医は宗教的な見地では答えなかったが、セデー

ションについて、それをはじめる時期が難しいと教えてくれた。まだまだ充分普通

のモルヒネの投与で済む状態なのに、あれこれケアの必要な末期患者を面倒くさが

り、早い時期で投与している医師もいるという。全く信じられない話だが、それで

は逆に患者のQOLを下げてしまう。

だから慎重な判断が必要だということだった。


そんな話を終えて、次回から治療を始めることになった。そのとき、おもむろに医

師が出してきた紙ペラがある。

 そこには面談票と書かれていて、再発ガンの説明のほかに、再発ガンの治療の目

的が書かれていた。 (続く)