人には、それぞれ背負うものがある。
桜田淳子さんと山口百恵さんがまさにそれだろう。
僕が、どうしようもなくときめいたのが、『花物語』だった。
まだ、中学2年の時だったが、こういう人もいるのか、と思っていた。
部活が終われば、一目散に家のテレビをつけ、休みの日曜日はラジオの歌番組を聞いた。
僅かなお小遣いで、レコードを買い。しかし、ほとんどレコードを聴くことは無かった。
テレビで見る淳子ちゃんは、幸せそのものだった。
それが、僕らの明日への活力だった。
その日の嫌なことをリセットし、常に前向きになることができた。
百恵ちゃんを見るのも楽しみだったが、それは自分のためではなかった。
テレビ、雑誌で、淳子ちゃんと並んで、あるいは淳子ちゃんが百恵ちゃんの話題を出すので、意識していた。
翌年の1974年、百恵さんに転機が訪れ、そして、努力は実を結ぶこととなる。
性路線とか色々な形で揶揄されようと、百恵さんは、芸能界で名を挙げることが、家族を幸せにする唯一の方法だと確信していたと思う。
背負うものがあまりにも大きかったのだ。
しかし時代は百恵さんに追い風となった。
1974年『エマニュエル夫人』が流行し、女性の性が解放され始め、そうした番組がテレビを通して、中学生、高校性の話題になっていった。
1973年は苦渋をなめたが、時代の風を受け、やっと足掛かりをつかんだのが1974年であり、賞レースに影響を与えたということだろう。
その苦労が、涙となる。
そして、司会者が、『山口百恵さん』とコールし終わるより早く、誰よりも早く、拍手をしたのが左端に座る淳子さんだった。
かつて、淳子さんは、百恵さんがそうした歌を歌わされているのを悲しみ、新人賞を百恵さんと一緒に取りたいと願っていた。
しかし、周りの大人には、二人の思いは理解されることは無かった。
ここで、時を逆さに考えることが必要だろう。
百恵さんが一身上の問題を克服して幸せになるには、スターダムにかけ上がることしかなかったが、
そのためには、高いレベルでのライバル関係と、そのライバルを超えるというのが必要なこととなる。
プロデューサーの酒井政利さんが、『淳子の天真爛漫さが百恵の陰りを引き出した』というのも、そうした文脈から読み取るべきだと思う。
中学時代、席を並べていた淳子さんが願ったのは、百恵さんの幸せだったと思う。
淳子さんの周りには幸せがあふれているのに対して、百恵さんの周りは必ずしもそうではなかったかもしれない。
その公式を解くカギは、淳子さんにあったのでないかと思う。
『秘話、サンミュージック』のなかで、淳子さんが福田時雄さんに語った、百恵さんは引退したら、『帰ってきませんよ』というのは、1980年は、百恵さんの結婚・引退といったフィナーレ―への演出をしますよ、ということだったような気がしてならない。
そうして二人の『美しい夏』は、誰にも知られることなく、過ぎていったのではないだろうか。
百恵さんは、引退するとき案じたのは、淳子さんのことだった。
そして、淳子さんが芸能界から離れるとき、池田文雄さんらに、淳子さんのことを頼んだのもまた、百恵さんだったという。
やはり、一途な二人には、姉妹のような、永遠に続く強い絆があったというべきだろう。
叶わぬ夢であろうが、もう一度二人の共演を見たいと思う。
動画をUPされた方に感謝します。
不世出の百恵さん、淳子さんの友情に免じて。