福田康夫首相は、最後っ屁で公明党・太田昭宏代表に意趣返しか?

2008年09月02日 17時01分01秒 | 政治
◆やっぱりこの人には、総理大臣は無理だったのか、と思い知らされた。福田康夫首相が、突然、政権をポイ捨てしたからである。2007年10:月、光文社から拙著「老害政治―『希望も安心もない国』にするシステム」(ペーパーバックス)を発刊してもらったけれど、この本で書いた通りに、福田首相は、「老害」以外の何者でもなかった。
福田首相が、政権をポイ捨てしたのは、一口に言えば、「小沢恐怖症」が最大の理由だろう。8月1日夜から2日にかけて行った「内閣改造」で支持率を浮揚しようとしたものの、アテが見事に外れた。報道機関の世論調査は、20%から31%に回復(読売新聞だけは、40%台の異状数値)した程度で、これ以上、上昇は見込めず、「小沢恐怖症」は募るばかりだったようだ。
◆そのうえ、公明党からは、足元を見透かされ、こずき回されっ放しだった。臨時国会開催日、会期幅まで強要され、財務省が嫌がる「定額減税」をゴリ押しされた。自動車のハンドルを公明党・太田昭宏代表にハイジャックされたのも同然だった。自民党内からは、「福田首相では総選挙を戦えない」との声がジワジワ湧き上がり、兄弟分の森喜朗元首相まで「ポスト福田は麻生太郎」と触れ回わられ、文字通り「四面楚歌」の窮地に立たされた。「お友達もなし」「参謀・補佐役もおらず」「泥を被ってくれる側近を持たず」、まさに「我がままなお坊ちゃま育ちの孤独な秀才」の哀れな末路となったのは、すべてこの人の「人徳のなさ」と「プライドの高さ」が招いた、「身から出た錆」でもあった。かくて、小沢恐怖症に苛まれた挙句の果てに、「敵前逃亡」の格好悪い姿を晒すハメになったのである。
◆それでもプライドだけは、相変わらず顕在だった。しっかりと公明党に意趣返しすることだけは、忘れていなかった。麻生太郎幹事長に後事を託し、自民党総裁選挙を派手に盛り上げて、国民人気を集め、その勢いで解散・総選挙を断行して、「日本列島秋祭り」を挙行する「秘策」を授けていた。その心は、「公明党・創価学会に頼らず、自力で勝負せよ」という福田首相一流のいわば「最後っ屁」であった。
◆それにしても、福田首相が「民主党の小沢一郎代表が話し合いにも応じてくれなかった」と恨み節交じりの泣き言を漏らしていたのには、ガッカリした。2007年11月初め、党首会談の場で、小沢代表が「公明党を切ってくれ」と要求したのに、福田首相は「それはできない」とすげなく断り、これが原因で「大連立話」がまとまらなかったと言われている。「もしあの時、福田首相が公明党を切っておれば、大連立は成功したかも知れない」と思うにつけ、福田首相が退陣に追い込まれたのは、「自らの判断ミス」にあったと言っても過言ではない。自分のミスをいつも他人のせいにしたがる。福田首相、おん年72歳の老害政治家と揶揄されながら、「お坊ちゃま育ち」がいまでも抜けきれないようである。
 思いがけず総理大臣になり、父親・福田赳夫元首相が果たせなかった「サミット議長国のホスト役を高給ワインを飲みながら果たし、北京オリンピックに招待されて、北京ダックとショウコウ酒で堪能し、「食い逃げ」も出来たのであるから、もっと瞑すべしであろう。
板垣英憲マスコミ事務所
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