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映画『東京家族』について

1946年の精神(4)

2017年11月11日 | 映画『東京家族』
 ではここで、第九条が制定後、どういう経緯を辿ったのかを確認しておこう。

【参考文献】 “後衛の位置から ―『現代政治の思想と行動』追補―” 丸山真男(未来社,1982年9月20日 第一刷発行,1982年10月25日 第四刷発行)


〔昭和24年11月〕 朝鮮戦争勃発の前年。吉田首相は第六回の衆議院本会議で、無軍備こそ最善の安全保障であるという答弁をしている。
 西村条約局長から、第九条は自衛戦争も放棄していると解釈すべきであるという公式の答弁がなされる。

〔昭和25年1月〕 マッカーサーが年頭声明のなかで、日本に自衛権があるというような示唆を与えた。

〔昭和25年6月〕 朝鮮戦争勃発直後、「警察予備隊令」が総司令部の覚え書によって、いわゆるポツダム命令として出た。
 この警察予備隊の成長をめぐり、それが違憲ではないかという問題が政治的な問題として登場した。
 この前後から、総司令部は日本の再武装の必要をかなり公然と説くようになった。

〔昭和27年3月6日〕 参議院の予算委員会において吉田首相が行った答弁と、すぐそのあとの同首相の答弁との間に喰いちがいが出る。自衛のための戦力なら、憲法第九条二項に言う戦力に入らないのかどうかという問題に関連して、あきらかに矛盾した答弁が行われる。
 左派社会党が警察予備隊の違憲訴訟を提起。
 その年の10月、最高裁によって、具体的ケースとして出て来ないかぎり違憲立法審査権はない、ということで却下。

〔昭和27年4月〕 片面講和と抱き合わせで最初の安保条約が発効。

〔昭和27年8月〕 保安庁法が制定されて、警察予備隊が保安隊とかわり、海上警備を担当する警備隊と並んで保安庁の下に統合。

〔昭和28年11月〕 ニクソン副大統領来日。戦争放棄条項を日本の憲法のなかに挿入させたのはアメリカの誤りであったという談話を発表。
 その直後、吉田首相は自由党のなかに憲法調査会を設置する要望を出す。

〔昭和29年1月〕 改進党は憲法改正によって自衛軍を保持すべきことを決議。
 護憲連合が結成される。

〔昭和29年3月〕 MSA協定ができる。これまで旧安保条約においては、前文で「直接および間接の侵略に対する自国の防衛のため、漸増的に自ら責任をおうこと」をアメリカは日本に期待する、つまり防衛力漸増の「期待」が表明されていたにとどまっていたところが、MSA協定においては、日本政府は「自国の防衛及び自由世界の防衛力の発展及び維持に寄与」する「義務」があるということにかわっていく。

〔昭和29年4月〕 自由党と改進党がそれぞれ党内に憲法調査会を発足させる。

〔昭和29年6月〕 防衛庁設置法案,自衛隊法案,MSA協定にともなう秘密保護法案が国会を通過。ここにおいてはじめて「外部からの侵略に対するわが国の防衛を明確に規定する等の目的」が立法趣旨として掲げられた。
 自衛隊法の三条一項には、「自衛隊はわが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする」とあり、公共の秩序の維持は二次的であって、直接・間接侵略に対してわが国を防衛するということが自衛隊の第一次的な目的としてうたわれた。

〔昭和29年11月〕 自由党の憲法調査会が「日本国憲法改正案要項」を発表し、全面改正を打ち出す。

〔昭和30年2月〕 総選挙。改憲問題を唯一ではないにしても、最大の争点として闘われ、護憲勢力が辛うじて三分の一を占める。

〔昭和30年11月〕 保守合同で自由民主党が誕生。その政綱には「平和主義、民主主義及び基本的人権の尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主改正をはかる」ことをうたう。改憲に抵抗する国民意識が以外に強いことが総選挙を通じてハッキリあらわれたので、これ以後の保守党は憲法の三原則というものはわれわれも堅持するのだということを強調しだす。

〔昭和31年6月〕 憲法調査会法公布。






















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