-VERI-情報0508
暑中お見舞い申し上げます。
夜空に打ち上げる音の響きと、交錯する色とりどりの光線に魅了されて、どこの花火大会にも大勢の人出です。清涼の夕べを求めて、わが家で線香花火などを楽しんでいる方も多いのではないでしょうか。
あつい国会論戦も、郵政民営化法案の不成立で、いよいよ国会解散です。論戦の場は、小泉改革への評価を争点に政権交代の是非を問う総選挙へ移り、この夏一番大きな花火となる様相です。
さて、西友への資本参加で日本でも身近となったウォルマートですが、今回はその経営理念を探求したいと思います。小さな政府ならぬ小さな本社にこだわったのは、創業者のサム・ウォルトンでした。
ウォルマートの基本理念
・ 「われわれは顧客に価値を提供するために存在している」 -価格を引き下げ、品揃えを増やして顧客の生活を充実させること、それ以外はすべて二次的である-
・ 流行に逆らい、常識を覆す
・ 従業員をパートナーとする
・ 仕事に情熱を持ち、打ち込み、熱心に取り組む
・ 無駄をなくす
・ 常に高い目標を追求する
(ビジョナリーカンパニーp114)
------------------------------------------
<小売業の成功>
ウォルマートは、アーカンソーの北西の単一の店から、アメリカ合衆国の最も大きな会社と民間の雇い主となり、世界一大きい小売業者になりました。
アメリカ南部、アーカンソー州はミシシッピー川の西側にあります。
ジェトロ(日本貿易振興機構)の案内では、2代・3代にわたって州内に定住している家族が多く、勤勉で定着性の高い労働力と、日本に似た四季があり、美しい自然に恵まれた環境がある記されています。
コメの生産量が全米1位で、カリフォルニアは2位。アーカンソーから出た初めての大統領が民主党のクリントンで、アイゼンハワー元帥の出生地。
ウォルマートは、フォーチュンFORTUNE誌の最も賞賛される会社の1つとして毎年リストに載っています。
世界最大の会社 [ THE 2005 GLOBAL 500 ]では1位。
1 Wal-Mart Stores 売上2879(億ドル(31兆円)) 利益 102(億ドル(1兆円))
2 BP 同2850 同 153
3 Exxon Mobil 同2707 同 253
4 Royal Dutch/Shell Group 同2686 同 181
5 General Motors 同1935 同 28
世界最優秀の会社 [ 2005 GLOBAL MOST ADMIRED COMPANIES ]では2位。
1 General Electric (Electronics /U.S.)
2 Wal-Mart Stores (General Merchandisers /U.S.)
3 Dell (Computers /U.S.)
4 Microsoft (Computers /U.S.)
5 Toyota Motor (Motor Vehicles /Japan)
同時に、大きくなったウォルマートは、しばしばその雇用に対する姿勢を批評され、より大きな経済とコミュニティに対するその影響のために標的となっています。
<創業者家族の成功>
ウォルマートを開店する前に、創業者サム・ウォルトン(Sam Walton (Samuel Moore Walton) 1918-1992)と妻ヘレンはかなり綿密な家族計画を立てていました。子どもは4人欲しく、ヘレンは三十代までに産み終えて、自分が経験したような家族の一体感をつくり出し、二人が幼い頃に触れたのと同じ価値観で子どもを育てるために、小さな町で生活することを、そのとおりに実行しました。
サムとヘレンの二人は、ロブ、ジョン、ジムという男の子3人と、まだ赤ん坊だったアリスという女の子を、店や家庭での労働や、家族全員の旅行や公園キャンプで家族一緒の時間を過ごすことなど、毎日の生活を通して勤労、実直、隣人愛、倹約の重要性を信じる昔ながらの基本的価値観で教育しました。
自分の子ども時代にしたのと同じような活動に参加する機会を与えるべく、子どもたちは新聞配達をし、ボーイスカウトに入り、男の子は全員フットボールで活躍しました。アリスは馬の品評会に出かけ、家族全員が教会や日曜学校に通いました。
店の仕事に家族全員が関わりながら、ロブは法律学校に進み、ウォルマートの初の弁護士となりました。ジムは、店舗用地の設定や買収など不動産の交渉術を叔父のバドから多くを学び、その仕事の後を継ぎました。ジョンとアリスは、少しの間ウォルマートで働きましたが二人とも独自の事業に進出していきました。
妻の実家のロビンソン家は成功し幸福で豊かそうな家族として、サムとヘレンの家族像に大きな影響を与えました。一方、サムのウォルトン家は、自分と弟バドは両親に愛されて育ったものの、一緒に暮らしながら実に喧嘩ばかりしていた父母であったことから家庭不和の痛手を感じて育ちました。
サムは、ヘレンの父親の助言で、1953年に事業を家族との共同経営の形で運営するようにしました。この方式で、贅沢をするために無駄なお金を使うことなく、長年にわたり利益を財団の資産として累積することができ、ウォルマート社の資産を一括して家族で管理できました。
家族関係には、家族の誰もが事業運営に参画し、その事業展開やビジネスの成長の可能性を左右する立場にあるのだという責任が新たに生じました。贈与や譲渡にかかる高額の課税もありませんでした。
1992年に遺言となったサムの自伝、「MADE IN AMERICA MY STORY(ロープライスエブリデイ)」の中で、「私がこの本を書こうとした本当の理由の一つは、私の孫や曾孫たちが何年も後にこの本を読むだろうと思うから」と、述べています。
そして、怠惰な金持ちに身を落とすことなく、「ヘレンや私、その子どもたちが常に大切にしている価値観が、世代ごとに何とか受け継がれることを切に願っています」。
また、「小さな未来のウォルトン家の子孫たちが、勘定の支払いに追われないために夜明けから夜遅くまで働く必要はないとたとえ思ったとしても、何か生産的で有用な挑戦的なことを命がけでやらなければという気になればいいなと思う」と希望を述べています。
今年2005年6月、米ワイオミング州で一人乗り超軽量飛行機を操縦して離陸直後に墜落し、ベトナム戦争ヒーロー、ウォルマート役員会のメンバー、及び慈善家であるジョン・ウォルトン、ウォルマート創設者、サム・ウォルトンの次男が亡くなった、と報じられました。
Forbes2005世界の長者番付
[ The World's Billionaires ]では10~13位、家族合わせて1位。
1 465億ドル ビル・ゲイツ(マイクロソフト・ソフトウエア)
2 440億ドル ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイ・投資)
3 250億ドル ラクシュミ・ミタル(ミタル・スチール・鉄鋼)
4 238億ドル カルロス・スリム(カルロス・複合企業)
5 237億ドル アル・ワリード(サウジ王子)
6 230億ドル イングヴァル・カンプラード(イケア・家具)
7 210億ドル ポール・アレン(マイクロソフト共同創業者)
8 185億ドル カール・アルブレヒト(アルディ・小売)
9 184億ドル ラリー・エリソン(オラクル・ソフトウェア)
10 183億ドル ロブソン・ウォルトン 61歳(ウォルマート・小売)
11 182億ドル ジム・ウォルトン 57歳
11 182億ドル ジョン・ウォルトン 59歳
13 180億ドル アリス・ウォルトン 56歳
13 180億ドル ヘレン・ウォルトン 85歳
( ウォルトン家5人 total 907億ドル(10兆円))
------------------------------------------
<サムの青年時代>
1918年、オクラホマ州キングフィッシャーに生まれたサム・ウォルトンは、ミズーリ州内の町を家族とともに転々とする中、幼少の頃から家計を助けるために予約購読の雑誌を売り、ウサギ・ハト・乳牛を育てて売り、ミズーリ大学卒業まで新聞配達をして、1ドルのお金を稼ぐことがいかに大変か、また、いかにやりがいがあるかを学びました。
サムは、物心ついた頃からいつも教会に行き、日曜日には日曜学校に行きました。母のナン・ウォルトンは、何をするにせよ、できるところまでやるようサムを励ましました。
サムは、13歳でミズーリ州では史上最年少のイーグル・スカウト(ボーイスカウトの最高位)となり、少年フットボールにも熱中し、高校では一生懸命勉強して生徒会長に、背は170センチメートルそこそこしかないのにバスケットボールの選手として州大会に優勝。また、アメリカンフットボール・チームではクォーターバックをつとめ州大会で優勝。
サムはこのフットボールの試合で一度も負けたことがなく、その記録が、その後の小売業において、どんな競争にも勝てる気を起こさせ、力強いチャレンジ精神をもって常に勝利を導いくことになります。「攻め」の性格、「いま、やろう」のモットーの原点です。
父のトーマス・G・ウォルトンは大変な働き者で、農地抵当のブローカーで牛・馬から住宅・農場・車に至るまで取引し、父から懸命に働くことと正直であることの大切さを学びました。
大恐慌時代も過ぎ去った1940年、22歳で経済学の学位を取って大学を卒業したサムは、それまでやっていた新聞配達やウェイター、プールの監視員など一切を辞め、社会に出て本当の仕事で成功したいと、アイオア州デイモンにあるデパートのJCペニーに管理者見習として入社しました。
その後、サムは生涯にわたって小売業の業界で過ごすことになります。
「おそらく私は生まれつきの商人で、これが宿命だったのだろう」。「私は生来商売が好きだった」。
<妻ヘレンの経営参加>
1942年、戦争が始まり、サムは入隊するために会社をやめましたが、不整脈のために身体検査で引っかかり、戦場へ行くことなく除隊を迎えました。この間、オクラホマ州クレアモアに住んでいたヘレン・ロビンソンと1943年に結婚し、翌年に男の子が誕生します。
1945年の27歳のとき、最終任地のソルトレイクシティで除隊後、大都市の百貨店の経営を夢見ていたサムに対して、妻のヘレンが言いました。「大都市に住みたいと言わないかぎり、私はあなたの行きたいところどこへもついていくわ。人口1万人以上は町はだめよ」。また、妻の家族が他人との共同経営で失敗した例もあり、やるなら自分だけの手で、と強く主張しました。
サムは経営学の学士号は取っていたものの、通貨や金融の知識はあまり実際的ではなかったので、やり手のセールスマンであり、弁護士であり、銀行家であり、農場主であるヘレンの父親、L・S・ロビンソンの話を聞くこと自体がよい教育の機会でした。そして、支援を約束してくれました。ヘレンは、当時の女性では珍しい金融で学士号を取得していました。
こうして、ヘレンの意見でサム・ウォルトン家は人口1万人以上の町には立ち入り禁止となり、小さな町に自力で出店するという出店政策が始まることになりました。サムは、どこに住むか、やれる店がないかと探しはじめ、ニューポートにある「ファイブ・アンド・ダイムズ(5セントと10セント)」あるいは「ダイム・ストア」と呼ばれていたバラエティ・ストアのチェーン店の一つを買い取ります。
ニューポートは、アーカンソーの西部、ミシシッピ川のデルタ地帯にある人口7000人の綿花と鉄道の町でした。バラエティ・ストアとは 衣料やアクセサリー、文具、家庭用品など多種多様な日用雑貨品を低価格、均一価格で大量販売する雑貨店で、コンビニエンス・ストアの4~5倍の大きさのものです。
それは赤字続きで全く繁盛していない店で、通りをはさんだ向かい側にあるライバル店が、その店の2倍の売り上げを誇っていました。しかし、自信はあったものの、バラエティ・ストアの経営には素人で無知であったサムには、このライバル店こそ、値段やディスプレイを知る感謝すべき存在になりましました。
また、フランチャイズ・プログラムに沿って店舗を経営することで、多くを学ぶことができました。個々の店舗に見合ったプログラムもあり、独自の会計システムがありました。後に、ディスカウントストアのウォルマートを始めて5、6店舗までは、この会計システムを使っていました。
フランチャイズの仕組みが理解できるようになってしばらくてから、店に置く商品の80%をフランチャイズ本部のベン・フランクリンから仕入れ、自由にしていい残りの20%については、独自の販売促進計画を立てて、メーカから直接商品を仕入れ始めるという実験を開始します。
サムのような小さい取引先にも、ベン・フランクリンの提示よりも安く卸すという業者に会うために、車に古い手作りのトレーラーを牽引して閉店頃に出かけ、よいビジネスになるものは何でもその車とトレーラーに詰め込んで帰りました。
遠くのテネシー州まで足を伸ばすこともあり、たいていは「柔らか」路線で、婦人用のパンティとかストッキング、男性用のシャツなどで、それらは価格を安く抑えると飛ぶように売れました。
また、ニューヨークのメーカー代理店にも手紙を出すなど、型破りのメーカーや卸業者をいつも探しました。大通りの向こう側、競争相手の隣にも店を持つことでき、戦地から戻った弟バドも手伝うようになります。
こうして、わずか5年でアーカンソー州一番のバラエティ・ストアへと成長し、ベン・フランクリンのチェーン店でも売り上げ、収益ともナンバーワンになりました。しかし、突然、地主から借地契約の更新拒否を受け、結局、店を手放さざるをえなくなります。
サムのビジネス生活で最悪の時期でしたが、トラブルとは自分に突きつけられた挑戦状だから、その挑戦を受けて立たなければならないと考え、サムはヘレンの父親と一緒に再び店探しを始めました。
<ウォルマートの始まり>
そして、ヘレンの故郷に近いアーカンソー州の北西、人口たった3000人のベントンビルというさびれた田舎町にも店探しに行きました。その町の規模からすると1店舗で十分なところに3軒ものバラエティ・ストアがあり、その1軒は売ってもらえるということで、競争を愛するサムには、もう一度やり直すには格好の場所のように思えました。
綿花と鉄道で栄えたニューポートから、リンゴと養鶏のベントンビルへ、店舗設備の分解と引っ越し、そして組み立てです。また、新しいセルフ方式が始めた遠方の店を見に行き、これが気に入ったので、ベントンビルの店はセルフ方式で始めました。
ウォルマート社の歴史がここから始まります。
(つづく)
----------------------------------------------------------------
いかがでしたか。
ウォルマート社以前の歴史でした。
アーカンソーの周囲には、西にはサムとヘレンが生まれたオクラホマ、北西に少し離れてカンザス、北は学生時代を過ごしたミズーリ、東はテネシーとミシシッピー、南はルイジアナ、南西はテキサスです。
(google地図参照)
アメリカ南部の文化、自然を愛し、教会を中心としたコミュニティ、サムとヘレンが愛した価値観のもとに、ウォルマート成功の秘訣と秘密が、そして経営理念が磨かれていきます。
続きは次回に。
ではまた。
暑中お見舞い申し上げます。
夜空に打ち上げる音の響きと、交錯する色とりどりの光線に魅了されて、どこの花火大会にも大勢の人出です。清涼の夕べを求めて、わが家で線香花火などを楽しんでいる方も多いのではないでしょうか。
あつい国会論戦も、郵政民営化法案の不成立で、いよいよ国会解散です。論戦の場は、小泉改革への評価を争点に政権交代の是非を問う総選挙へ移り、この夏一番大きな花火となる様相です。
さて、西友への資本参加で日本でも身近となったウォルマートですが、今回はその経営理念を探求したいと思います。小さな政府ならぬ小さな本社にこだわったのは、創業者のサム・ウォルトンでした。
ウォルマートの基本理念
・ 「われわれは顧客に価値を提供するために存在している」 -価格を引き下げ、品揃えを増やして顧客の生活を充実させること、それ以外はすべて二次的である-
・ 流行に逆らい、常識を覆す
・ 従業員をパートナーとする
・ 仕事に情熱を持ち、打ち込み、熱心に取り組む
・ 無駄をなくす
・ 常に高い目標を追求する
(ビジョナリーカンパニーp114)
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<小売業の成功>
ウォルマートは、アーカンソーの北西の単一の店から、アメリカ合衆国の最も大きな会社と民間の雇い主となり、世界一大きい小売業者になりました。
アメリカ南部、アーカンソー州はミシシッピー川の西側にあります。
ジェトロ(日本貿易振興機構)の案内では、2代・3代にわたって州内に定住している家族が多く、勤勉で定着性の高い労働力と、日本に似た四季があり、美しい自然に恵まれた環境がある記されています。
コメの生産量が全米1位で、カリフォルニアは2位。アーカンソーから出た初めての大統領が民主党のクリントンで、アイゼンハワー元帥の出生地。
ウォルマートは、フォーチュンFORTUNE誌の最も賞賛される会社の1つとして毎年リストに載っています。
世界最大の会社 [ THE 2005 GLOBAL 500 ]では1位。
1 Wal-Mart Stores 売上2879(億ドル(31兆円)) 利益 102(億ドル(1兆円))
2 BP 同2850 同 153
3 Exxon Mobil 同2707 同 253
4 Royal Dutch/Shell Group 同2686 同 181
5 General Motors 同1935 同 28
世界最優秀の会社 [ 2005 GLOBAL MOST ADMIRED COMPANIES ]では2位。
1 General Electric (Electronics /U.S.)
2 Wal-Mart Stores (General Merchandisers /U.S.)
3 Dell (Computers /U.S.)
4 Microsoft (Computers /U.S.)
5 Toyota Motor (Motor Vehicles /Japan)
同時に、大きくなったウォルマートは、しばしばその雇用に対する姿勢を批評され、より大きな経済とコミュニティに対するその影響のために標的となっています。
<創業者家族の成功>
ウォルマートを開店する前に、創業者サム・ウォルトン(Sam Walton (Samuel Moore Walton) 1918-1992)と妻ヘレンはかなり綿密な家族計画を立てていました。子どもは4人欲しく、ヘレンは三十代までに産み終えて、自分が経験したような家族の一体感をつくり出し、二人が幼い頃に触れたのと同じ価値観で子どもを育てるために、小さな町で生活することを、そのとおりに実行しました。
サムとヘレンの二人は、ロブ、ジョン、ジムという男の子3人と、まだ赤ん坊だったアリスという女の子を、店や家庭での労働や、家族全員の旅行や公園キャンプで家族一緒の時間を過ごすことなど、毎日の生活を通して勤労、実直、隣人愛、倹約の重要性を信じる昔ながらの基本的価値観で教育しました。
自分の子ども時代にしたのと同じような活動に参加する機会を与えるべく、子どもたちは新聞配達をし、ボーイスカウトに入り、男の子は全員フットボールで活躍しました。アリスは馬の品評会に出かけ、家族全員が教会や日曜学校に通いました。
店の仕事に家族全員が関わりながら、ロブは法律学校に進み、ウォルマートの初の弁護士となりました。ジムは、店舗用地の設定や買収など不動産の交渉術を叔父のバドから多くを学び、その仕事の後を継ぎました。ジョンとアリスは、少しの間ウォルマートで働きましたが二人とも独自の事業に進出していきました。
妻の実家のロビンソン家は成功し幸福で豊かそうな家族として、サムとヘレンの家族像に大きな影響を与えました。一方、サムのウォルトン家は、自分と弟バドは両親に愛されて育ったものの、一緒に暮らしながら実に喧嘩ばかりしていた父母であったことから家庭不和の痛手を感じて育ちました。
サムは、ヘレンの父親の助言で、1953年に事業を家族との共同経営の形で運営するようにしました。この方式で、贅沢をするために無駄なお金を使うことなく、長年にわたり利益を財団の資産として累積することができ、ウォルマート社の資産を一括して家族で管理できました。
家族関係には、家族の誰もが事業運営に参画し、その事業展開やビジネスの成長の可能性を左右する立場にあるのだという責任が新たに生じました。贈与や譲渡にかかる高額の課税もありませんでした。
1992年に遺言となったサムの自伝、「MADE IN AMERICA MY STORY(ロープライスエブリデイ)」の中で、「私がこの本を書こうとした本当の理由の一つは、私の孫や曾孫たちが何年も後にこの本を読むだろうと思うから」と、述べています。
そして、怠惰な金持ちに身を落とすことなく、「ヘレンや私、その子どもたちが常に大切にしている価値観が、世代ごとに何とか受け継がれることを切に願っています」。
また、「小さな未来のウォルトン家の子孫たちが、勘定の支払いに追われないために夜明けから夜遅くまで働く必要はないとたとえ思ったとしても、何か生産的で有用な挑戦的なことを命がけでやらなければという気になればいいなと思う」と希望を述べています。
今年2005年6月、米ワイオミング州で一人乗り超軽量飛行機を操縦して離陸直後に墜落し、ベトナム戦争ヒーロー、ウォルマート役員会のメンバー、及び慈善家であるジョン・ウォルトン、ウォルマート創設者、サム・ウォルトンの次男が亡くなった、と報じられました。
Forbes2005世界の長者番付
[ The World's Billionaires ]では10~13位、家族合わせて1位。
1 465億ドル ビル・ゲイツ(マイクロソフト・ソフトウエア)
2 440億ドル ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイ・投資)
3 250億ドル ラクシュミ・ミタル(ミタル・スチール・鉄鋼)
4 238億ドル カルロス・スリム(カルロス・複合企業)
5 237億ドル アル・ワリード(サウジ王子)
6 230億ドル イングヴァル・カンプラード(イケア・家具)
7 210億ドル ポール・アレン(マイクロソフト共同創業者)
8 185億ドル カール・アルブレヒト(アルディ・小売)
9 184億ドル ラリー・エリソン(オラクル・ソフトウェア)
10 183億ドル ロブソン・ウォルトン 61歳(ウォルマート・小売)
11 182億ドル ジム・ウォルトン 57歳
11 182億ドル ジョン・ウォルトン 59歳
13 180億ドル アリス・ウォルトン 56歳
13 180億ドル ヘレン・ウォルトン 85歳
( ウォルトン家5人 total 907億ドル(10兆円))
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<サムの青年時代>
1918年、オクラホマ州キングフィッシャーに生まれたサム・ウォルトンは、ミズーリ州内の町を家族とともに転々とする中、幼少の頃から家計を助けるために予約購読の雑誌を売り、ウサギ・ハト・乳牛を育てて売り、ミズーリ大学卒業まで新聞配達をして、1ドルのお金を稼ぐことがいかに大変か、また、いかにやりがいがあるかを学びました。
サムは、物心ついた頃からいつも教会に行き、日曜日には日曜学校に行きました。母のナン・ウォルトンは、何をするにせよ、できるところまでやるようサムを励ましました。
サムは、13歳でミズーリ州では史上最年少のイーグル・スカウト(ボーイスカウトの最高位)となり、少年フットボールにも熱中し、高校では一生懸命勉強して生徒会長に、背は170センチメートルそこそこしかないのにバスケットボールの選手として州大会に優勝。また、アメリカンフットボール・チームではクォーターバックをつとめ州大会で優勝。
サムはこのフットボールの試合で一度も負けたことがなく、その記録が、その後の小売業において、どんな競争にも勝てる気を起こさせ、力強いチャレンジ精神をもって常に勝利を導いくことになります。「攻め」の性格、「いま、やろう」のモットーの原点です。
父のトーマス・G・ウォルトンは大変な働き者で、農地抵当のブローカーで牛・馬から住宅・農場・車に至るまで取引し、父から懸命に働くことと正直であることの大切さを学びました。
大恐慌時代も過ぎ去った1940年、22歳で経済学の学位を取って大学を卒業したサムは、それまでやっていた新聞配達やウェイター、プールの監視員など一切を辞め、社会に出て本当の仕事で成功したいと、アイオア州デイモンにあるデパートのJCペニーに管理者見習として入社しました。
その後、サムは生涯にわたって小売業の業界で過ごすことになります。
「おそらく私は生まれつきの商人で、これが宿命だったのだろう」。「私は生来商売が好きだった」。
<妻ヘレンの経営参加>
1942年、戦争が始まり、サムは入隊するために会社をやめましたが、不整脈のために身体検査で引っかかり、戦場へ行くことなく除隊を迎えました。この間、オクラホマ州クレアモアに住んでいたヘレン・ロビンソンと1943年に結婚し、翌年に男の子が誕生します。
1945年の27歳のとき、最終任地のソルトレイクシティで除隊後、大都市の百貨店の経営を夢見ていたサムに対して、妻のヘレンが言いました。「大都市に住みたいと言わないかぎり、私はあなたの行きたいところどこへもついていくわ。人口1万人以上は町はだめよ」。また、妻の家族が他人との共同経営で失敗した例もあり、やるなら自分だけの手で、と強く主張しました。
サムは経営学の学士号は取っていたものの、通貨や金融の知識はあまり実際的ではなかったので、やり手のセールスマンであり、弁護士であり、銀行家であり、農場主であるヘレンの父親、L・S・ロビンソンの話を聞くこと自体がよい教育の機会でした。そして、支援を約束してくれました。ヘレンは、当時の女性では珍しい金融で学士号を取得していました。
こうして、ヘレンの意見でサム・ウォルトン家は人口1万人以上の町には立ち入り禁止となり、小さな町に自力で出店するという出店政策が始まることになりました。サムは、どこに住むか、やれる店がないかと探しはじめ、ニューポートにある「ファイブ・アンド・ダイムズ(5セントと10セント)」あるいは「ダイム・ストア」と呼ばれていたバラエティ・ストアのチェーン店の一つを買い取ります。
ニューポートは、アーカンソーの西部、ミシシッピ川のデルタ地帯にある人口7000人の綿花と鉄道の町でした。バラエティ・ストアとは 衣料やアクセサリー、文具、家庭用品など多種多様な日用雑貨品を低価格、均一価格で大量販売する雑貨店で、コンビニエンス・ストアの4~5倍の大きさのものです。
それは赤字続きで全く繁盛していない店で、通りをはさんだ向かい側にあるライバル店が、その店の2倍の売り上げを誇っていました。しかし、自信はあったものの、バラエティ・ストアの経営には素人で無知であったサムには、このライバル店こそ、値段やディスプレイを知る感謝すべき存在になりましました。
また、フランチャイズ・プログラムに沿って店舗を経営することで、多くを学ぶことができました。個々の店舗に見合ったプログラムもあり、独自の会計システムがありました。後に、ディスカウントストアのウォルマートを始めて5、6店舗までは、この会計システムを使っていました。
フランチャイズの仕組みが理解できるようになってしばらくてから、店に置く商品の80%をフランチャイズ本部のベン・フランクリンから仕入れ、自由にしていい残りの20%については、独自の販売促進計画を立てて、メーカから直接商品を仕入れ始めるという実験を開始します。
サムのような小さい取引先にも、ベン・フランクリンの提示よりも安く卸すという業者に会うために、車に古い手作りのトレーラーを牽引して閉店頃に出かけ、よいビジネスになるものは何でもその車とトレーラーに詰め込んで帰りました。
遠くのテネシー州まで足を伸ばすこともあり、たいていは「柔らか」路線で、婦人用のパンティとかストッキング、男性用のシャツなどで、それらは価格を安く抑えると飛ぶように売れました。
また、ニューヨークのメーカー代理店にも手紙を出すなど、型破りのメーカーや卸業者をいつも探しました。大通りの向こう側、競争相手の隣にも店を持つことでき、戦地から戻った弟バドも手伝うようになります。
こうして、わずか5年でアーカンソー州一番のバラエティ・ストアへと成長し、ベン・フランクリンのチェーン店でも売り上げ、収益ともナンバーワンになりました。しかし、突然、地主から借地契約の更新拒否を受け、結局、店を手放さざるをえなくなります。
サムのビジネス生活で最悪の時期でしたが、トラブルとは自分に突きつけられた挑戦状だから、その挑戦を受けて立たなければならないと考え、サムはヘレンの父親と一緒に再び店探しを始めました。
<ウォルマートの始まり>
そして、ヘレンの故郷に近いアーカンソー州の北西、人口たった3000人のベントンビルというさびれた田舎町にも店探しに行きました。その町の規模からすると1店舗で十分なところに3軒ものバラエティ・ストアがあり、その1軒は売ってもらえるということで、競争を愛するサムには、もう一度やり直すには格好の場所のように思えました。
綿花と鉄道で栄えたニューポートから、リンゴと養鶏のベントンビルへ、店舗設備の分解と引っ越し、そして組み立てです。また、新しいセルフ方式が始めた遠方の店を見に行き、これが気に入ったので、ベントンビルの店はセルフ方式で始めました。
ウォルマート社の歴史がここから始まります。
(つづく)
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いかがでしたか。
ウォルマート社以前の歴史でした。
アーカンソーの周囲には、西にはサムとヘレンが生まれたオクラホマ、北西に少し離れてカンザス、北は学生時代を過ごしたミズーリ、東はテネシーとミシシッピー、南はルイジアナ、南西はテキサスです。
(google地図参照)
アメリカ南部の文化、自然を愛し、教会を中心としたコミュニティ、サムとヘレンが愛した価値観のもとに、ウォルマート成功の秘訣と秘密が、そして経営理念が磨かれていきます。
続きは次回に。
ではまた。
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