耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“捨ててこそ”~今日は“空也上人”の忌日

2007-11-13 16:30:44 | Weblog
 空也上人は972(元禄3)年9月11日に没したが、晩年、東国へ出立する際の遺言により、出寺の日とされる11月13日を「空也忌」としている。

 まず、有名な国宝『空也上人像』を観てみよう。(『上人像』画面をクリックすれば拡大します)

 “六波羅蜜寺”の『空也上人像』:http://www.rokuhara.or.jp/cal/#a1

 「南無阿弥陀仏」を唱えながら遊行する上人に思わず掌を合わせずにおれなくなる、写実性に満ちた類を見ない「立像」である。東大寺南大門の金剛力士像ほか著名な彫像を残す“運慶”の四男・康勝作というが、よほどの“仏心”がないとこうした創作表現は不可能だろうと想像する。

 “空也上人”はわが国で「上人」と呼ばれた最初の人とされているが、市井の間に隠れて乞食(こつじき)し、布施を得れば自分のものとはせず、貧民や病人に分かち与え、いつも南無阿弥陀仏を唱えていたので「市の聖(いちのひじり)」または「阿弥陀聖(あみだひじり)」と呼ばれていた。

 <「聖(ひじり)」は「日治り」であり、神聖な火を管理する宗教者に与えられた呼称である。元来、日をかぞえ、日の吉凶を占うことを職とする人であった。こうした宗教者は隠遁性、苦行性、遊行性、呪術性、世俗性、集団性、勧進性を持っていたという。…
 聖は聖人ともいわれ、呪験行者、念仏行者、起塔造像・写経などの修善行者、社会事業等の菩薩行を積んだ修行者などに対して付せられたものである。>(中村敬三著『念仏聖の時代~人間福祉を読む』/校倉書房:以下<>は同書より引用)

 この「ひじり」の性格を念仏行に盛って、山上の隠遁行から市井の信仰に移したのが“空也上人”だという。

 “空也上人”は903(延喜3)年の生まれだから69歳で没している。出自については明らかでないが、少壮の頃から宗教心があつく、優婆塞(うばそく:男性の在家仏教信者)として諸国をめぐり、橋をかけ、井戸を掘り、ときには野に捨てられた死骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えて廻向した。この“空也上人”にはさまざまな伝説が残されているが、目を引く話をひとつ。

 <むかし、京都の有名な泉である神泉苑の水門の外に一人の病女がいた。高齢で、容色は衰えていた。空也はこの病女を哀れんで朝夕見舞い、袖の中に籠を隠して病女の欲するままに、なまぐさいものなどを買い与えて養っていた。二ヶ月ほどして病女は元気を回復した。しかし、なにか乱れてものが言えない。空也がなぜかと尋ねると、女は精気がでてきたので交接したいという。空也はしばらく考えていたが、ついにこれを許そうとした。病女は感嘆し、われは神泉苑の老狐なり、上人は真の聖人であると言いおいて、忽然と姿を消してしまったという。>

 戒律では、なまぐさいものを食べたり、男女の交接を禁じていたが、その戒律を破ってでも他人の救済に身を捧げた“空也上人”を讃仰した話である。“空也上人”の言葉としてよく知られているのが「捨ててこそ」。この言葉に“空也上人”の人間性が凝縮されていると言えよう。同じ遊行の上人だった“一遍上人”は「捨ててこそ」について次のように語っている。(『一遍上人語録』:大橋俊雄校注/岩波文庫)長くなるが、現代文明に耽溺しているわれわれにとって示唆的な言葉と思うので全文引いておく。

 ≪むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申(もうす)べきやと問ければ、「捨(すて)てこそ」とばかりにて、なにとも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄に載(のせ)られたり。是誠に金言なり。
 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨(すて)、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ。かやうに打あげ打あげ(注:高く高く)となふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求(もとむ)べからず、厭(いとう)べからず。
 よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預(あずかる)にあらず。またかくのごとく愚老が申事も意得(こころえ)にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申事をも打捨(うちすて)、何ともかともあてがひはからずして、本願に任(まかせ)て念仏したまふべし。
 念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願に欠(かけ)たる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申べき。ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏≫

 さすが“捨聖(すてひじり)”と称された“一遍上人”だけに、“空也上人”の「捨ててこそ」との言葉の理解は奥深い。

 五味重著『踊り念仏』(平凡社選書)は、

 ≪さて其所に念仏往生をねがふ人ありて、聖をとどめたてまつりける比(ころ)、すずろに心すみて念仏の信心もおこり、踊躍歓喜の涙いともろくおちければ、同行共に声をととのへて念仏し、ひさげ(杓)をたたきてをどりたまひけるを、(中略)然者(しかれば)行者の信心を踊躍の貌(かたち)に示し、報仏の聴許を金[けい](注:[]は欠字。「金けい」は楽器の一種)のひびきにあらはして、長き眠の衆生をおどろかし、群迷の結縁をすすむ。≫(『一遍上人絵詞伝』)

をあげ、「一遍が空也にならって踊念仏をはじめ」た趣旨の説明をたどって、こんにち京都「空也堂」ほか各地に伝わる「六斉念仏」について詳しく検証している。五味重氏は、「空也その人が踊念仏をしたかどうかには、疑問をなげかける学者が多い」が、検証を通じ「空也の時代に踊念仏があった…」と断定している。

 こんにち伝わる京都「空也堂」の“踊躍念仏踊”は、毎年、11月13日の「空也忌」に観られるそうだが、ご参考に関連ブログをリンクさせていただいた。

 “踊躍念仏踊”:http://blog.kansai.com/sango/693