去る24日、前進座特別公演(法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌記念)『法然と親鸞』を観た。主演の中村梅之助は四半世紀前、『法然』を全国巡演、この時は公演回数二百四回、通算23万人の観客を集め、梅之助=法然が舞台で繰った数珠の数は120万8088回だったという(読売新聞社刊『法然と浄土信仰』)。今回の演目は浄土宗だけでなく浄土真宗(わが国最大の仏教教団)がらみで、しかも海外公演も予定されているというから、観客数は飛躍的に増えることだろう。
25年の歳月は、中村梅之助の容貌や声音にくっきり刻まれていたが、さすがに前進座の重鎮、“法然上人”を演じきった。(『一枚起請文』読誦は特別だった)
ところでこの劇では、“法然上人”に関してはこれまで学んだことがほぼ忠実にたどられていたが、親鸞の描写にはいくつかの疑問が生じた。とくに妻・恵信尼との関係はどうみても著しい「脚色」がみられた。1921(大正10)年、恵信尼晩年(1256~1268)に末娘の覚信尼に宛てた手紙『恵信尼文書』が西本願寺の倉庫から発見されるまでは、学者のあいだで親鸞の実在が疑問視されていたといわれるほど、親鸞関連史には今も不分明な部分が存在し、妻・恵信尼の生涯や子どもたちについても確定した史実は示されていない。野間宏は著書『親鸞』(岩波書店:1994年刊)で言っている。
<親鸞は日本に実在した人物ではないという意見が以前に出されて、関係者を驚かせ、またあわてさせたことがあった。しかしそれを否定するにも資料のととのえようがなくて困難をきわめ、辻善之助の筆跡鑑定によってはじめて、もはや親鸞の実在を否定するなどということは不可能となったのである。しかし、このようなことが起こるというのも親鸞についてのたしかな資料が欠けている故であって、ごく最近のことであるが、親鸞という人は実際には日本にいなかったとまだ主張する他宗派に属する人の言葉を私はきいたことがある。>
さらに野間は、親鸞の出自と叡山で20年もの間下積みの「堂僧」にとどまっていたことの不自然さを指摘したうえ、恵信尼に関し次のように述べている。
<…法然の教えをはやくから受けていた摂政藤原兼実の娘、玉日姫を法然のすすめに従って親鸞が妻にしたという伝説的な事柄についてはほとんどの学者が認めがたいとしている…。>
この玉日姫=恵信尼説が学会で否定されたあと創作されたのが、この劇での「恵信尼は時の関白・九条兼実など“上級公家”の屋敷に女房として仕えていて、親鸞と結ばれたのも京の都だった」との説ではないかと思われる。この説は、西本願寺が上越市板倉区米増に創設した「恵信尼公廟所」敷設「ゑしんの里記念館」所蔵の近年作成された『恵信尼伝絵』に登場しており、各所に見られる宗門による親鸞伝説美化の一つと言えるであろう。(これに関連する本ブログ記事を次にリンク)
『“親鸞”の教えとは?』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070920
『“親鸞”から「差別」の根源に迫る~河田光夫の「被差別民」』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080114
“法然上人”の教団に専修念仏停止の宣旨が下るのが1207(承元正)年、上人75歳の時だが、上人は土佐に、親鸞は越後に流罪となる。流罪後の親鸞に関しては『踊り念仏』(平凡社選書)などの著者・五来重氏が「堂僧」とは何かとの問いに答えながら、傾聴すべき話を披露している。
<…声のいい声明の得意な者が堂僧になる。だから親鸞という人は、かなり音曲に達者な人ではなかったかと思います。一遍も音曲に達者だったということが『一遍聖絵』に出ています。…意外に念仏の祖師というのは念仏を唄うこともできたんだろうと思います。…
私はね、越後で生活したのも、善光寺で生活したのも、関東でのはじめの生活も、堂僧で身につけた、唄う念仏で稼いだろうと思うんです。親鸞が生活の資を何から得たかということがあまり問題にされていない。…
その一つの証拠は、『恵信尼文書』のなかに、親鸞の次男か三男かわからないんですけれども、栗沢の信蓮房という息子が野積みの山寺の不断念仏に頼まれて行った、と出ています。
だから、親鸞の一家は詠唱念仏を得意としたのだろうと思います。>(佐藤正英・徹底討論『親鸞の核心をさぐる』/青土社)
上人流罪の折、死罪に処せられた安楽房らも詠唱念仏にすぐれ人々をひきつけていたといわれ、「唄う念仏」が浄土教布教に欠かせなかったことがうかがえる。してみると親鸞に関する五来重説は信憑性の高いものと言えるのではあるまいか。五来氏は、原始真宗教団にも融通念仏的なものがあったが、これが「坂東なまり」だったため本願寺を創設した覚如によって禁止され途絶えたといい、唯一、親鸞命日の11月28日、東本願寺でこの「坂東節」の念仏をいまもほそぼそと伝えていると言っている。
劇『法然と親鸞』の中でも「称名念仏」の場面がいくつかあったが、これが「天台声明」のような「詠唱念仏」だったら、きっと観客の反応も違ったものになっただろう。五来重氏は歯に衣着せないで「どうも真宗の篤い信者さんたちは、なんでも親鸞のやったことを美化しすぎますね」(同書89頁)と言っているが、現在「西日本新聞」に連載中の五木寛之『親鸞』もその一つと言えるのではなかろうか。
劇の概要を見るには次をどうぞ。
『法然と親鸞』:http://www.zenshinza.com/stage_guide/hounen/images/photo/hounen-photo.html
25年の歳月は、中村梅之助の容貌や声音にくっきり刻まれていたが、さすがに前進座の重鎮、“法然上人”を演じきった。(『一枚起請文』読誦は特別だった)
ところでこの劇では、“法然上人”に関してはこれまで学んだことがほぼ忠実にたどられていたが、親鸞の描写にはいくつかの疑問が生じた。とくに妻・恵信尼との関係はどうみても著しい「脚色」がみられた。1921(大正10)年、恵信尼晩年(1256~1268)に末娘の覚信尼に宛てた手紙『恵信尼文書』が西本願寺の倉庫から発見されるまでは、学者のあいだで親鸞の実在が疑問視されていたといわれるほど、親鸞関連史には今も不分明な部分が存在し、妻・恵信尼の生涯や子どもたちについても確定した史実は示されていない。野間宏は著書『親鸞』(岩波書店:1994年刊)で言っている。
<親鸞は日本に実在した人物ではないという意見が以前に出されて、関係者を驚かせ、またあわてさせたことがあった。しかしそれを否定するにも資料のととのえようがなくて困難をきわめ、辻善之助の筆跡鑑定によってはじめて、もはや親鸞の実在を否定するなどということは不可能となったのである。しかし、このようなことが起こるというのも親鸞についてのたしかな資料が欠けている故であって、ごく最近のことであるが、親鸞という人は実際には日本にいなかったとまだ主張する他宗派に属する人の言葉を私はきいたことがある。>
さらに野間は、親鸞の出自と叡山で20年もの間下積みの「堂僧」にとどまっていたことの不自然さを指摘したうえ、恵信尼に関し次のように述べている。
<…法然の教えをはやくから受けていた摂政藤原兼実の娘、玉日姫を法然のすすめに従って親鸞が妻にしたという伝説的な事柄についてはほとんどの学者が認めがたいとしている…。>
この玉日姫=恵信尼説が学会で否定されたあと創作されたのが、この劇での「恵信尼は時の関白・九条兼実など“上級公家”の屋敷に女房として仕えていて、親鸞と結ばれたのも京の都だった」との説ではないかと思われる。この説は、西本願寺が上越市板倉区米増に創設した「恵信尼公廟所」敷設「ゑしんの里記念館」所蔵の近年作成された『恵信尼伝絵』に登場しており、各所に見られる宗門による親鸞伝説美化の一つと言えるであろう。(これに関連する本ブログ記事を次にリンク)
『“親鸞”の教えとは?』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070920
『“親鸞”から「差別」の根源に迫る~河田光夫の「被差別民」』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080114
“法然上人”の教団に専修念仏停止の宣旨が下るのが1207(承元正)年、上人75歳の時だが、上人は土佐に、親鸞は越後に流罪となる。流罪後の親鸞に関しては『踊り念仏』(平凡社選書)などの著者・五来重氏が「堂僧」とは何かとの問いに答えながら、傾聴すべき話を披露している。
<…声のいい声明の得意な者が堂僧になる。だから親鸞という人は、かなり音曲に達者な人ではなかったかと思います。一遍も音曲に達者だったということが『一遍聖絵』に出ています。…意外に念仏の祖師というのは念仏を唄うこともできたんだろうと思います。…
私はね、越後で生活したのも、善光寺で生活したのも、関東でのはじめの生活も、堂僧で身につけた、唄う念仏で稼いだろうと思うんです。親鸞が生活の資を何から得たかということがあまり問題にされていない。…
その一つの証拠は、『恵信尼文書』のなかに、親鸞の次男か三男かわからないんですけれども、栗沢の信蓮房という息子が野積みの山寺の不断念仏に頼まれて行った、と出ています。
だから、親鸞の一家は詠唱念仏を得意としたのだろうと思います。>(佐藤正英・徹底討論『親鸞の核心をさぐる』/青土社)
上人流罪の折、死罪に処せられた安楽房らも詠唱念仏にすぐれ人々をひきつけていたといわれ、「唄う念仏」が浄土教布教に欠かせなかったことがうかがえる。してみると親鸞に関する五来重説は信憑性の高いものと言えるのではあるまいか。五来氏は、原始真宗教団にも融通念仏的なものがあったが、これが「坂東なまり」だったため本願寺を創設した覚如によって禁止され途絶えたといい、唯一、親鸞命日の11月28日、東本願寺でこの「坂東節」の念仏をいまもほそぼそと伝えていると言っている。
劇『法然と親鸞』の中でも「称名念仏」の場面がいくつかあったが、これが「天台声明」のような「詠唱念仏」だったら、きっと観客の反応も違ったものになっただろう。五来重氏は歯に衣着せないで「どうも真宗の篤い信者さんたちは、なんでも親鸞のやったことを美化しすぎますね」(同書89頁)と言っているが、現在「西日本新聞」に連載中の五木寛之『親鸞』もその一つと言えるのではなかろうか。
劇の概要を見るには次をどうぞ。
『法然と親鸞』:http://www.zenshinza.com/stage_guide/hounen/images/photo/hounen-photo.html