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台湾の友人のベトナム工場について  Ⅱ

2006年05月16日 | アパレル放談
台湾のK氏がベトナムに工場を建設するに至った経緯は1990年頃の台湾の国内事情が起因しています。
アジアの開発途上国を見てると歴史的に同じような経緯があります。

日本でも1950年代後半から70年代初頭にかけて、綿、合繊のシャツやブラウス等の対米への繊維製品の輸出が盛んだった時代があります。

日本の1ドルブラウスといわれたポリエステルブラウスは、1$が360円の為替と、安価な労働力、特恵国待遇が対米輸出の根底になっていました。

綿や合繊の原料とそれの縫製の加工が輸出産業として発展しました。

香港、韓国や台湾も対米輸出により繊維産業が発展したと言えます。

中国もノー・クオーターのアイテムのシルク製品の輸出が繊維産業を牽引した時代がありました。
香港のニット製品、韓国の合繊、インドネシアの合繊、台湾のアクリルセーター、デニムなど自国の原料(素材)と加工(縫製)が対米のクオーター制度のもと開発途上国の基幹産業になりました。

それらの国も新たな開発途上国からの追い上げと自国の産業構造の変化により、コンピュータやその周辺機器、電化製品等へより付加価値性と生産性の高い産業へシフトし、繊維製品の衰退が始ました。

アジアの優等生といわれた日本の繊維産業の盛衰と同じような歴史の道を他のアジアの開発途上国も歩んでいるといえます。

台湾も1990年頃のNT$の引き上げと輸入関税の低減策により、台湾のアパレルや輸出メーカーが質的変化を求められました。
台湾国内の流通も「そごう」の本格的な百貨店の出店で、それまでの東急百貨店や京王百貨店等が行なっていたライセンス契約方式の台湾のローカル百貨店を完全に駆逐してしまいました。

樫山、三陽、イトキン、レナウンなどの現地法人も撤退(縮小)や質的な変更を余儀なくされました。
台湾の国内アパレルは従来のWHOL SALEからSPAに変革した新興のアパレルが太平洋そごう百貨店やその後相次いで進出した新光三越、高島屋などの日系百貨店中心に成長しました。

輸出メーカーの多くは中国に進出しアパレルは日本や欧米ブランドの輸入にその活路を見出しました。

1990年前後が台湾のアパレルとその流通の大きな変化の時代だと見えます。

台湾のK氏との出会いはその時期でした。
長く続けてきた自社のアパレル体質を日本のアパレルとの商売により自社の企業の体質を変えようとしたのではないかと想像します。

生地と製品の仕入れの商談に1年間に10回ほど来日していました。
常にデザイナーと店の店長と同行し、商談と市場調査を熱心にしていました。
日本にいる私より、百貨店の売場のことやブランドの事はよく勉強していました。
時間を見つけて大阪市内にある現金問屋で自店で販売するアクセサリーや雑貨をハンドキャリーしていました。
(それだけで充分出張経費が補填できている感じでした)

商社や専門の機能を使っていなくても、氏独特のネットワークを生かして幅の広い情報をもっていました。

ベトナムの工場建設についても、華人的な彼独自のネットワークを生かしています。

単独で工場建設をするのではなく、K氏の長年の二人の友人と共同で建設しニット工場とシューズの工場とK氏の布帛の縫製工場の3工場を造りました。
共有できる部分は共有する合理的な方法をとっています。

もう一つはベトナムに良きパート-ナーを造っています。
ドイモイ政策とは言いながら社会主義の国であり、その辺の難しいことは彼を介して対応しています。

いずれもネットワークや人との信頼関係が基本になっています。

詳細な契約等はあまりなさそうで、全てお金(資本金)で割り切った関係が背景になっているようです。

この点は日本人はなかなか理解ができないかも知れません。

以下次回・・・・。


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