重粒子線治療患者の生きた証し by imas

前立腺ガン患者の平凡な日々を綴ります

それぞれの震災1年

2012-03-11 13:21:35 | 日記
桐生では3日連続の雨が降っています。

今は薄日がさしていますが、予報では午後少し晴れてその後は又曇りが続くようです。

本日予定していた、ジャガイモの植え付けは延期です。


日本人にとって、3月11日午後2時46分は忘れる事の出来ない日ですね。

日本の万人が記憶に留め、後世に語りつかれる日です。

月日が経つのは早いもので、記憶もうすれてきています。

しかし、決して忘れてはいけない日です。

思い出したくはありませんが、風化させてはいけないと思い、敢えて記録として投稿します。



本日の読売新聞の一面です。

全面をこのようなレイアウトにした記事は初めてです。



被害も甚大で、その数値の大きさは想像できません。


2011年(平成23年)3月11日(金)午後2時46分



その日は事務所でパソコンに向かっていました。

いつものように、揺れてもすぐに落ち着くだろうと思っていましたが、

もうだめだと感じ階段を伝わりながら、やっとのおもいで外にでることができました。

そこで見たものは切れそうに揺れている電線でした。

これは尋常ではないと感じ、家族の安否確認と思い、携帯で連絡を取りましたが、不通。

唯一の情報源はツイッターの情報でした。

その後、テレビから流れてくる大津波の映像は、今でも眼に焼き付いています。

工場の設備と人命の安全が確保できたので、帰宅する事になり、

夕方の6時頃には、帰宅できました。


帰宅後の様子は眼を覆いたくなる光景でした。

桐生は震度6弱の揺れでした。

太田は震度5強で、ほとんど被害はありません。

震度の違いで大きな被害の違いがあります。

この写真は家内が震災直後に撮ったものです。




自身の部屋の様子、本が散乱していますが、ほとんど無傷でした。




長男の部屋。クロゼーットの扉がベットを直撃していました。

もし、この地震が夜であったなら、頭部を直撃です。(ぞっとします。)

テレビ(旧型)も落ちていました。

出窓のプラモデルは無事でした。



娘の部屋は漫画が詰まった本箱が移動していました。

3部屋とも3階ですので、揺れが大きかったのですね。



2階の家内の押入れも、戸が開いて中身が散乱しています。




キッチンも同様に物が散乱していますが、大きな被害ではありませんでした。



家内が必死で戸を押さえていた食器戸棚は、食器がいくつか割れていました。



ウエッジウッドより、ヨン様グッズのほうが悔しかったようです。



何故か一階の飾り棚は無傷です。カップも動いていないようでした。


大きな被害がなく、ホットして、風呂でもと思い、風呂場にいって、思わず唖然でした。



いたる所でタイルが落ちていました。

その後の修理は3度も手直しました。

タイルが修理の振動で割れて、別の修理箇所ができてしまうようでした。



隣の義母の屋根の瓦も傷みました。

その後の計画停電で夕食もロウソクの灯で食べました。





あまりに現代は便利さを追及しすぎたのではないかと、そのロウソクの灯りのしたで感じました。


ひとへの思い、ひとの温かみ、ひととの絆、今までわすれていたものを、もう一度考え、

見つめ直す機会を今回の震災は与えたのだと思います。


ひとはひとりでは生きていけません。手を取り合って前をみて生きていきましょう。

日本人として、日本人の気高い気質をもって、世界へ日本人魂を発信しましょう。