Everyone gets old. Not everyone grows up.
年は取っても成長できないヒロイン、メイビス。
ステイ・ヤング・アダルト。
年は早く取りたくて、なのに成長したくなかった、あの頃。
ティーンエイジには、ファンがつまったクラブのメンバーだったのに。
例えビッチと呼ばれても、勝利のティアラが輝けば、
批判はすべて嫉妬のせい。きっと羨望してるだけ。
そして、彼女ら憐れむワタシ。世界がワタシを待っている。
お呼ばれしたから仕方なく、帰ってやるわよ、田舎町。
マーク・ジェイコブスもないメイシーズ。私に似合いの町じゃない。
だけど私に訪れる、人生最高時代の再来。イエスタデイ・ワンス・モア。
いいや、まだまだ愛のプレリュード。彼と私の第二章、いま始まったばかりなの。
◆ヤング・アダルト小説のライターであることも関係あるだろうが、
テレビ番組でも(オーデション番組)、ファーストフード店なんかでも、
ひたすら十代の動向に敏感なのは、そこに共感スイッチが留まったままだから?
無理して「わかる、わかる」な若年層への阿りよりも、更なるイタさの温床か。
職業病的な側面かもしれないが、素性が職業につながっているとも考えられる。
◆冒頭の覇気のない倦怠ムード充満な生活空間が一瞬憐れみ誘う・・・
しかし、テラスに出てみれば、そこから見えるハイソな眺望。
愛車に乗り込むやいなやのシンガロン。マイ・フェイバリット・ソングス、カセットテープ。
キティを着ている本人がキティまがいだったりする自虐(のつもりはない)。
徹頭徹尾アンバランス。笑えないほどのイタさの秘訣は、セロンの美力?
美しさにも、いろんな用法あるもんだ。
◆帰郷後に酒場でマット(パットン・オズワルト)に会ったとき、
彼から「 writer やってるんだって?」と訪ねられ、すかさず「 author よ!」と訂正。
クリエイティブな仕事であることを強調しようとしたのだろうが、
彼女の最重要アイテム《 authority 》への固執が露わになった瞬間でもある。
プロムクィーン的特権階級の賞味期限は短くて、
テレビ放映終了で在庫処分のノベライズ(原作本?)。
権威も失墜。・・・復権めざして、ティーンエイジ・ドリーム。
◆テレビ放映が終了すると見向きもされなくなるっていう切なさは、
「見られる」ことによってはじめて「承認される」という現実でもあって、
そうした他者からの承認によって保証されるのが、人気であったりするわけだ。
しかし、そうした人気に自らのアイデンティティを重ねてしまうとしたら、
どうしても客観指標の「上流」を目指してしまう。誰もが羨むだろうから。
しかし、主観指標に適う幸福は、必ずしも客観指標と一致しない。
それは、メイビス(シャーリーズ・セロン)がわざわざ田舎の平凡な男である
バディ(パトリック・ウィルソン)に拘る事実が証左。
想い出もまた、主観ばかりで出来ている。
◆バディを求めるのは当然、自らの「過去の栄光」を取り戻すためでもあるが、
取り戻すというよりも、最も輝いていた自分を知っていて認めてくれる存在として、
相手の記憶に期待することでもあるだろう。いまは落ちぶれてしまった自分でも、
かつて輝いていた頃の自分を知っている人間と話していると、勇気がわいてくる。
やばい、他人事じゃないぞ(笑)
◆しかし、そうした懐古にばかり走ってしまうと、
負の経験を受容せぬまま、トラウマばかりが裏庭純粋培養で。
結婚の失敗や、終盤で明かされる苦い経験など、
彼女はそれを直視しないまま(結婚式の写真を外せと両親に怒鳴ったり)。
抑圧封印かさねても、水面下では深化一途の傷となる。
ヌーブラをつけていることそれ自体より、その偽りを独りで引き受けねばならぬ懊悩。
ベスト・ヘア賞級の美しきブロンドこそが、禿げる程に毛むしりさせるプレッシャー。
完璧を装えば装うほど、粗はない(なかった)ことにしなければ。
爪先まで完全美貌な出で立ちも、目を瞑ってしまったら、そこに幸福なんかはない。
まぶたの裏に幸福が、滲むような自分になりたい・・・
◆鏡のまえでバッチリな自分をつくりあげる。
しかし、それは「鏡に映った自分」が完璧になったに過ぎず、
他者に映っている自分をつくっているだけで、自分に映る自分は手つかずだ。
だから、いつまで経っても体感も実感も無縁のままだ。
しかし、痛感する。ワタシはイタい。しかし・・・奴らもイタい。
イタくて何が悪いのさ。こんな町には居たくない。
私の街は、ミネアポリスなの。私のちっちゃな精神安定剤。
(「apple」は「精神安定剤の入った赤いカプセル」を指すスラングでもあるとか)
◆理想と現実の間を彷徨する、ある意味典型的な物語でありながら、
単純な二項対立として描かずに、両義性をもたせつつ双方を皮肉ってもいる。
メイビスの生活を空疎な「理想」の体現として描いておきながら、
現実を羨望できるくらいの人間味が残されているところには、誠実な情味を感じる。
腫れ物に触るような田舎の人々の憐憫は、寛容と慈愛に満ちた包容力を持っている
かのように見えて、実際は閉鎖的な共同体の事なかれ的均衡策として見え出す妙。
何だかんだ言っても(一言も口に出さないが)マイ・ホーム・タウン愛しいメイビス。
この町を脱出して都で暮らす者への羨望を抑圧するための、「善き」人々の連帯感。
メイビスが気づいたのは自分のイタさだけじゃなく、皆も「イタいところ」を抱えつつ、
それを時に騙し騙し生きてるってことなんだろう。
そのうえで、幸せを「感じようとする」努力。
◆ラストでメイビスに羨望語る女性には、幸せになるチャンスがあるだろう。
彼女の瞳にうつるのは、嫉妬と表裏な羨望なんかじゃない。
純粋な憧憬の想いだったから。
いつしかすり替わってた、憧れの的から羨望の的へ。
嫉妬されることが幸福なんて、ちょっと歪んだ快感だったかも。
私が羨むバディとベスの新婚生活は、嫉妬が芽生えちゃったから。
けっして憧れの幸福なんかじゃなかったわ。そうよ、憧れ、アコガレよ。
他人からも素敵な眼差し浴びながら、自分もハッピー気分になれちゃう、
憧れ生活、再出発。
そのためまずは、
憧れる([あくがれる]本来の場所を離れてさまよい歩く)。
◇まぁ、本作最大のイタさは、邦題な訳だけど。
こういうのって意外と自己満足的に流行りそうで怖い・・・