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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

J・エドガー(2011/クリント・イーストウッド)

2012-02-11 18:47:43 | 映画 サ行

 

開巻と同時に映し出される仮面。

それは、ジョン・デリンジャーのデスマスク。

FBIが彼に冠した名は、「Public Enemy No.1」。

しかし、その呼称には憧憬の倍音すらともなっていた時代。

パブリックの無力を歎じ、パブリックの脅威にこそ希望を見出そうとした時代。

それは、確かにアメリカ自身における《国民国家》の危機であり、

近代の機構が存続繁栄するか衰退滅却するかの分岐点に

さしかかっていたのだろうとも思う。

 

そうした関係の転覆を謀ったのが本作の主人公、ジョン・エドガー・フーヴァー。

FBI長官としての偉業を披露したり謀略を暴いたりする伝記映画とは異なる本作。

かといって、「人間」エドガーの内面をえぐるように掘り下げる感傷や干渉はない。

いや、そうした真相や実相に迫ることなどできない、するべきでない対象として描かれる。

オープニングの仮面はまさに、そうした表明であるように思われる。

 

英雄視された強盗たち。《義賊》というアンチノミーも、見方ごとでは一律オンリー。

つまり、民衆からみればヒーローで、国家にすればエネミーだ。

しかし、それでは民衆が《国民》になりはせず、二者の溝渠は増幅するばかり。

団結の手っ取り早い「鎹(かすがい)」は、共通の敵。排除と差別の暴力だ。

財貨の強奪のみならまだしも、大衆の心まで略奪しようとする「民衆の敵」。

彼らが名実共に民衆の敵となったなら、国民の敵として無差別に殲滅可能となるだろう。

マスメディアの成長と通信技術の進歩がもたらした、大衆社会の主導権争い。

科学の力(それ自身が内包する力のみならず、民衆を動かす確実性こそ重視)と

狂信的愛国心(成就が許されぬ自我の抑圧と、解放の捌け口としての昇華)で、

攻撃未遂のまま徹底的防御による不戦勝を続けてきたミスター・FBI。ミスターUSA?

冷戦時代の構造は、アメリカ国内でこそ培養された勢力均衡持続のメカニズム。

しかし、それは単に組織や国家のために醸成された「からくり」などでは決してない。

例えばそれは、フーヴァー長官という英雄が、J.エドガーという狂気を抑制し、

解放も暴発も回避するために必死だった悲劇的な喜劇に過ぎなかったのかもしれない。

 

本能のままに「常軌」を逸したデリンジャーは、大衆に許容され、賞賛すら浴びもした。

本能を拘束し「常軌」を死守したエドガーは、その異状が許せなかった。

同じ《異常》でも、賞賛に転化し得る強者への反抗と強奪といったヒロイズムと

徹頭徹尾共有の寄る辺なき個人の情動(やセクシュアリティ)では、

明瞭かつ絶対的な差異がある。

後者は暴力を伴わず、脅威をもたらすわけでもないのにだ。

それでも大衆にとってコモンセンスの逸脱は、受け皿がないという「正当」な理由から

《拒絶》のカテゴリーへと即刻放り込まれてしまって、終うだけ。

 

エドガーの輝かしい実績は、暗部を駆逐することで達成されただろう。

しかし、それは自らの「暗部」をも隠蔽し、「栄光」まみれになることだった。

外から見えなければ、内なる自己も見ずにすむ。それで事は済むのだろうか。

内なる衝動が理由なく向かう先に貼られた《異常》のレッテルを剥がそうとはせず、

貼られぬことにばかり躍起となった。そのかわり、自らの手で貼りまくる。

あるいは、貼ろうとしているレッテルをちらつかせ、脅迫による不戦勝。

そうやって「イメージ」の管理人として君臨し続けることをどんなに推し進めても、

自らの「イメージ」は《自我》を潤すことなく、脅かし続けるだけだった。

しかし、それはすべてフーバーが選んだ道だった。

J.エドガーが歩みたかった道とは合流することない、ルートUSA。

手をつなぐことなき孤独な旅人は、その掌を汚さない。

どんなに手を汚して「正義」を死守しても、求める「汚れ」は手に出来ない。

汚れちまった悲しみさえも、歎じることのできぬ人。

望まぬ汚れに身を纏い、望んだ汚れに包(くる)まれない。

星条旗との心中は、自由との添い寝じゃないだろう。

 

 

◆本作におけるエドガーとクライドの関係を

   「同性愛」といったカテゴリーの語彙で定義することには違和感をおぼえる。

   私は本作がそういう区別や分類の圧力に抗い続けているように思えるからだ。

   愛の対象を異性か同性かの二者択一に落し込み、

   情動を理性の管理下に置こうとする、《愛》を定義したい衝動への抵抗。

   二人の関係が「どのようなものだったのか」は作中であまり示されないが、

   それは行間を多分に残すのみならず、愛の形式から実質を定義する思考の回避では?

   異性愛であろうが同性愛であろうが、《愛》の実質も形式も千差万別なはずであり、

   その証拠に、異性愛のラブストーリーは「異性愛モノ」などと呼ばれることはない。

   「J.エドガー」という素性が(大衆にとって)判然としない《個人》を扱うからこそ、

   色分けから入らず、単純な色分けを忌避する筆致で脚本は書かれ、演出がなされた。

   同性愛者の物語などでは決してなく、人間の物語であり、個人の物語である。

   「0」と「1」の間には無限の固有性が溢れ、現実の人間に「0」や「1」はありえない。

   エドガー本人ですら割り切れず、《整数》になれなかったであろう存在なのに、

   明白な解釈や判断を忍ばせた表現など誠実でない。だからこそ、本作は「正しい」。

   それなのに、その宙吊りを解消すべく無理矢理引きずりおろすのは無粋で横暴。

   ただ、《小数点》を最も偏執的に排除しようとした人物こそが、

   本作の主人公であるという皮肉。

   二律背反を微塵も許さぬ思考は、究極の純粋を求め続けるなかで、

   高潔を目指して高慢に身をやつす「仮面の男」。

 

◆本作を観るにあたって、少しばかり「予習」をして臨んだ。

   マルク・デュガン『FBIフーバー長官の呪い』(文春文庫)を一読してから本作を観た。

   他にも興味深いフーバー本は出ているようだが、この本もなかなか読み応えがあった。

   (何よりアメリカの現代史の好い勉強になった。個人の視点から語られる「歴史」なので、

    既知の情報に新たな視座が得られたり、再構築によって全体像がより鮮明になったり。)

   なかでもエドガー個人の内面について窺い知ることができるような場面が出てくる。

   エドガーが精神科医に相談しにいくところだ。女性に関する質問を受けエドガーは、

   「俺には理想の女性像があり、その理想の女性が

    俺の中で非常に高い位置を占めているのだ。

    だから、どうしても女性は清らかで高潔でなければならないと考えてしまう」と語る。

   そして、二度ほど「理想の女性」と巡り会ったが肉体関係には発展しなかった、と。

   それは、「あまりにも強かった清らかなイメージを汚したくなかった」からだという。

   数週間に渡るカウンセリングの末、精神科医は

   「内的衝動と堅固な道徳観とが衝突して、文理の苦痛を伴う或る種の二重人格化」

   という診断を下し、「女性の神聖化のすぐ隣に同性愛に向かう強い衝動」があると言う。

   それに強い反発を示したエドガーはカウンセリングを数週間中断するが、

   その後もカウンセリングは死の直前まで続けられたという。

   カウンセリング内容は、結論よりもそこに至るロジックにドラマがある。

   つまり、エドガーは自らの内面においても究極の警察者だったのだ。

   社会が「正常」とみなさぬ情動は徹底的に排除しようと努める、自己の理性。

   その行為は、自らの外部における行動指針(FBIの方針)とリンクする。

   そして、そうした行為が社会的に評価をされればされるほど、

   自らの内部における闘い(というよりも情動の抑圧)は正当化され得るのだろう。

   「二重人格化」の様相を呈して分裂へ向かうと同時に、

   重なり合う《外》の顔と《内》の顔。仮面なのか、素顔なのか。

 

◆最初に観たとき、反感に近い違和感でしか視られなかった三人の老けメイク。

   しかし、あれこそまさに「仮面」なのではないかという個人的見解から観直してみると、

   視覚的な違和感は見事に消え去って、むしろその奇怪さこそが、

   彼らの本心を蔽う哀しき矜持として胸を締めつける。

   エドガーもクライドもヘレンも、三者三様の仮面で世を渡る。

   しかし、演ずれば演ずるほど、抑えれば抑えるほど、面の皮は厚くなる・・・

   それは外から見れば不遜な自我の表出と捉えられるかもしれないが、

   内なる自我の十全な隠蔽のために不可欠な「壁」だったのだ。

   そして、誰よりも完璧な要塞を築き続けたエドガーはいつしか

   醜いまでに肉厚な身体に。肥大化する腹蔵が、惨めに晒される死の場面。

   最後まで「隠蔽」し続けた自我の存在を、期せずして最後の最後に愛する者に曝け出す。

   そして、それを受けとめたクライドは優しく、再び蔽ってあげる。

   エドガーを愛して止まぬ自分を認めつつも、フーバーとしても慕い尊敬するクライドだから。 

 

◆本作が「変な映画」であることに異論はないが(私もそう思う)、

   その奇妙な感触は、本作でイーストウッドが描きたかったであろうテーマに基づくだろう。

   私の解釈では、それは前述の通り、《仮面》で告白することから派生するのみならず、

   分裂と統御が拮抗維持され続けるエドガーの精神を象徴するかに思えてならない。

   時間の錯雑とした飛躍は、服装・調度(物質)などにいくら時代が刻印されようが

   同一平面で機械的にプレスされるような、どこまでもフラットな語り口。

   散乱するカオスが強力な一律によって強制収斂に遭う事象たち。

   ロジカルなバッハの旋律に躍動したエドガーは、

   リリカルなイーストウッドの調べに戦慄すら覚えだす。

   それでもいつでも現実をフラットに保とうとする。

   しかし、本作の画の主役であるのは間違いなく「闇」だと思う。

   底知れぬ深度をたたえる闇で埋め尽くされた黒い画は、

   懐疑や逡巡を吸い尽くすかのようなブラックホール、いやブラックスボックス。

   しかし、光の美しさを「見る」ことができるのも、闇のなか。

   徹底的に闇の画で迫る本作は、どこまでも光を求めた物語だとも言えるだろう。

 

◇本作を私は三日と空かずに二度観てしまった。

   一度目では圧倒されるばかりで、思考が全くままならず、

   掬っても掬っても何ら残らぬほどの戸惑いのなかで観続けた。

   しかし、帰途につくや広がる記憶の海に、回収しきれぬ情念の残骸が。

   慌てて二度目を観に行くと、そこには無愛想に変わらぬ表情をした本作が、

   全く異なる物語を展開してくれていた。これほど不思議な感覚も珍しい。

   そして、私のなかには「未だ本作を読めていない」感覚が巣食ってる。

 

◇一度目の観賞はデジタル上映。

   闇がおおう画の美しさに、どうしてもフィルムで観たくなり、二度目はフィルム上映。

   全く異なる印象。デジタルでの《拒絶》の画、フィルムにおける《吸引》の画。

   デジタル化が本格化したその年に、フィルムを信じる確信犯。

   そんなところにも、本作が擁護と否定の二極に引き裂かれる運命があったのかも。