いまここ女子部

女性達の女性達による、女性達のためのリラックススペース!

ふつうの唄*愛はここに。

2010年04月28日 | いっちゃん
2、3日前、急にある唄が頭の中を流れました。
山根麻以さんの「ふつうの唄」という唄です。

彼女のライブを5年ぐらい前に初めて観たとき、この「ふつうの唄」も唄っていて、
これを聴いたとき、私はハートが膨らみすぎてはじけてしまうのではないかと思う程、感動で胸いっぱいになりました。

急に思い出してまた聴きたくなったので、動画を探してみたらちょうどライブの映像がありました。
このブログを読んでくれている皆さんにも是非観てほしく、紹介します。歌詞も添えます。


ふつうの唄 / Futsuno-Uta / 山根麻以 / Mai Yamane / Naked Soul 2008 !!!



ふつうの唄 

ひとりの朝 風が吹く朝
心に雨のおちる朝
どこに居ても誰と居ても
何故こんなに君はひとり

そんな日には体残して
夢のなかへ旅に出かけよう

昔行ったあの森のみち
ゆれるこもれびみどりの風

ひとみとじてその両腕で
自分のこと抱きしめてみて

ずっとずっと抱きしめていて
自分のこと愛してあげて

君の中に神様はある
君に出会うのを待っている

その人はいつも君をみていた
君を君だけをみつめていた

そして君をただ愛していた
君を君のまま愛していた

その人は愛 愛こそが君
踊れ光り 愛こそが君

おそれないで悲しまないで
忘れないで愛こそが君

君がここにいるから
夢は動きはじめる

君が君でいるから
愛が今おりてくる

愛は命 愛はよろこび
永遠の唄 ふつうの唄

愛は命 愛はよろこび
永遠は今




愛そのものですね・・・。
「ふつうの唄」というタイトルがまた素晴らしく好きです。
そう、ふつうの事なんですね。愛、よろこび、ふつう。


麻以さんは、ご自分の音楽をAwaking Musicと呼ばれているそうです。
「目覚めの唄」ですね。

何度でも聴いて下さい。
自分の中にある愛がどんどん目覚めて広がって行きます。


もう一曲麻以さんの唄を。

動画ではないですが、ネパールの民謡「レサムピリリ」のメロディーに乗せて
「愛はここに。胸の真ん中に、そう君の中に」と唄っています。


レサムピリリ Resam Piriri(愛はここに) 山根麻衣 with new archaic smile




 
↑愛はここに♪♪

優しい笑顔

2010年04月27日 | 
子供が安心するのは

お母さんの笑顔


みんなが安心するのは

お母さんのような笑顔


そんな笑顔に出会えると

私は微笑まずにはいられない




赤ちゃんの無垢な瞳

大人の慈愛に充ちた瞳


そんな瞳に出会えると

私はいつまでも見ていたくなっちゃいます




優しさは

言葉で表現できるけれど

内側からにじみ出るものは

言葉では尽くせないない

だからきっと涙が出ちゃうんだ


私はそんな涙を流すことが多い



つまり、私は、幸せなんです。





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今夜、マシマ氏の「ぷりぷりぽめろんツアー☆大阪前夜祭」開催です♪

はじけるような笑い声が既に聞こえてきそうです♪

楽しんじゃいますよ~~☆


ぽーーーーん☆




 
↑お祭りにつき、どうかご祝儀を♪♪

ひっくり返って、たからもの

2010年04月26日 | みりい
黒妻さんの「ひっくり返る」お話、あぁ、わかるな~と思いました。

それまでのルールやこだわりがなくなって来て
なんでもありなんだ~と、こころが自由になると、本当に
「ひっくり返った」感じがするんですよね。

そのへん、ちょっと書いてみます。


その時には、
「こうなればうまくいくのに」「これさえ解決できれば幸せになれるのに」と思っていたことが
「これでよかったんだ!」「そのままで完璧だったんだ!」って腑に落ちて
そんなふうにありのままの自分を認めたときに
それまでの「痛み」「弱さ」がひっくり返る。

ずっと苦しんできたこと、逃れられないかに見えた問題、
その中で思い知らされた自分のダメさや弱点・・・
そこにこそ、愛があったんだ、
他の誰でもなく自分だけのところに来た体験こそ宝物だったんだ、って気づく。

う~ん、もっとうまく言えないかな・・・。


例えば、
自分の思い通りにならない、不自由な環境におかれたことで
自由がないことがどんなに辛いものかを思い知り、
自由であることがどんなに尊いすばらしいものかに気づいたとすると

その時、あの辛かった体験は、この深い気づきに至るための
自分のためだけに用意されていた祝福だったんだ、って理解で
世界がひっくり返る。

自分をいじめていたかに思えた世界が、本当はただただ愛だったんだって知る。
それを恨めしく思っていた気持ちが、ただただ感謝に変わる。


私の身近な人の例で言うと

小さい時養護施設で育った方が
人の気持ちを敏感に感じ取る感性を身につけて
今はカリスマ心理セラピストとして大勢の人を助けていらっしゃる。

重症のアトピーで苦しんだ方が
その自分の体験を通して感じたことや学びを生かして
今はボディケアの世界で本当に身体にいいことを伝え活躍していらっしゃる。

もちろん、その方たちの内側で起きたことは
本当には私にはわからないけど
少なくとも、ひっくり返ったとき私に来たのは
「辛かった体験」の中に、私らしさというスペースがあった、って理解だった。

それを、「天命」とか「使命」に結びついている、と表現する人もいるかもしれない。


他の人が体験したことではなくて
確かに自分が味わったものしか、本当の意味で伝えられないから。

てことは、自分の体験の中にこそ、誰か同じ経験をするorしている人に
共鳴を起こして、その人の癒しを引き出す力があるということだから。

だから、ひっくり返ったあとで、人は、誰かに伝えたくなるんだと思う。
大丈夫だよ、それでいいんだよ、って。


・・・ありゃりゃ、思ったよりうまく言えなかったかな~。ごめんなさい・・・。

なんだか言いたいことの端っこしかつかめなかった気がしますが、
なにか少しでも感じてくれたらうれしいデス。

 
↑くるりんぱ。でお願いします♪↑

ひっくり返ってから

2010年04月23日 | 黒妻
気のゆるみからなのか
寒さからなのか・・

久々、発熱して、
只今激しい鼻水&鼻づまり中にて
いつも以上にぼんやり気味の黒妻です。^^;

切れ味がこんにゃく級に悪いですが
どうぞお付き合い頂ければ幸いです。

しかし人間って、こんなにも
鼻水を製造できる生き物なんですね(笑)
ほんと・・信じられません。

信じられないといえば・・
今まで信じてきたものが
だんだん違うかもしれないと思えてきた、
ここ1年位のお話をちょこっと・・

『価値観がひっくり返える話』

えっと・・今まで自分は
親の言いなりにはなりたくない
誰にも染まりたくない
割と自由気ままに
生きてきたつもりだったけど・・

知らぬまに親の考えをベースにした
思い込みみたいなものが
自分にも相当根付いていたんだと
ある時、気がつきました。
(ちょうど、独立の話合いの頃かなぁ・・?)

我慢できる人は
素晴らしい

苦労をいっぱい
しなくてはいけない

苦労しなければ
立派な人になれない

どうなんでしょう??
これはうちだけに限らず、
我慢の美学みたいなもの
この国にはありませんかね?

しかし、私の考えが
徐々に徐々にひっくり返っていき、
ある時、我慢ってそんなに必要かと
思えてきたんです・・

ふと気がつけば、
この人生も半分くらいは終わってるし・・
残り半分を我慢して過ごすのか?
それとも楽しんじゃうのか?って。
(おおげさだけど・・)

とにかく、ひっくり返ってからは
見え方がまったく変わってしまって
今までは、苦手だった人が
すげ~じゃん!と
思えてきたりもするんですよね!(笑)

協調性のない人は
どっちか言うと苦手だったんですが・・
今では、無理をしない所が逆に
好感もてたりするんですわ~^^

だから、もう何でもありになってきて(笑)
最近では、いろんな個性と
気軽に付き合えるようになってきたかな。
人間関係で疲れなくなった。^^

それは身体にも出ていて、
肩が全然凝らなくなったの。
そして頭痛もなくなった。
素晴らしい!薬に頼らない生活~☆

それが、価値観がひっくり返っちゃって
まず、良かった~と思えること。

何でもありだなと思えてきてからは
自分で勝手にあれこれルールを作って
ガチガチに固めないで
もっともっとラフでもいいのかなぁって。

もちろん楽しいことばかりはないけど
ストレス感じるわぁ~と思う時は
無意識にまたルールなんかを
作っちゃったりしてる場合も
あったりするじゃないかなぁ~?
癖でね、ついつい。

ルールがなければ
ストレスは生まれない。

みんなが楽になれば、
本当の楽園ができるって~☆


ではでは皆様、よい週末を~^^


 
↑押せば命の泉湧く by ジェット浪越↑

全てのものの奥にある光

2010年04月22日 | イリス(さわら)

こんにちは!ご訪問ありがとうございます。



そういえば、先週の週末、ツ○ヤが旧作DVD100円レンタル!をやっていたのをいいことに、ダンナががっつりアニメDVDを借りてきていました。

それはずいぶん前に深夜枠で放送されたもので、原作者は有名なものの、作品としてはあんまり人気がでなかったようです。


全体的に面白いか、面白くないか、と聞かれれば、うーむ…と返答に困るのですが、なぜかとても印象深く…


科学テクノロジーが進歩した、近未来ものなんですが、何気にそれを見ていたら、…あれ?あれれれ??と。


これを作った人は、知ってるんじゃないかなぁ~~~と思われる描写がたくさん出てくるんです!



その中でも印象的だったのが、全盲の少女が出てくる話でした。



先天性の全盲の少女は、取り立てて不都合や不便もなかったものの、健常者である両親の「娘に光を見せてやりたい」と言う希望から、目を「義体化」します。

義体化ってのは、肉体を機械的に補完することで、この技術が進んだ世界では、いわゆる「身体的障がい者」はいなくなっていたんですね。


で、初めて目が見えるようになって万々歳、かと思いきや…


「見えない」ことが普通だったその少女にとって「見える」ことがよく分からない。

今まで「感じて」いたものと、目に見えるもののギャップが大きすぎて、違和感を感じてしまうんですね。


先天性の全盲の場合、脳の視覚家を司る大脳皮質が聴覚や触覚や嗅覚などのほかの器官に割り振られているため、普通の「見える」人たちとは違う発達の仕方をしているそうなんです。

目を閉じているほうが、歩きやすかったり、目が見えているのに、対象物を触って確認したり…

すでに15歳になっていた少女は、突然の視覚機能に順応できず、「見える」世界、「見えない」世界、どっちつかずの住人となり、自己同一性を失ってしまったんですね。

「…どこにもない…」と呟いて、彼女は倒れてしまいます。


そこで、最先端のテクノロジーを発展させてきた権威である、科学者の悔恨のにじんだ言葉が印象的でした。


「人類は義体工学や医療の進歩によって障がい者のいない世界を実現させた。

が、障害を持つ幾多の人たちは長い歴史の中でそれを「個性」と捉え、それぞれの文化や世界を確立し、時に奇跡のような存在をも排出してきた。

我々のして来たことは、いわばそう言った人種、民族、個性集団を差別し、地球上から駆逐してしまった行為に等しくもある。」と。


障がい者であることが、「悪いこと」で、健常者であること、普通に生活できることが「いいこと」だとする認識が、障がい者であることを拒否させる。


だけど、起こることは、全て正しい。

そして、意味がある。



その少女は、目が見えることによって、同時にとても大切なものをなくしてしまっていたんです。

彼女は全盲でありながら、芸術家でもありました。

彼女の作るアートは、まさに「ぽめろん」そのもの。

すべての「源」からのインスピレーションを、創作の源泉としていたんです。
感性の赴くままに。


けれど目が見えることによって、それを感じられなくなってしまっていたのです。


で、意識を取り戻した彼女が出した結論は…「もう一度、あの光が見たい」と言って再び、「全盲」に戻ることを決意します。

彼女は、彼女が感じる「全てのものの奥にある光」を見えない目で見ていた。

それが彼女にとって「目が見える」ことよりも、遥かに「リアル」だった。

目に映る、目の前の「木」よりも、見えない時に感じていた「木」の方が遥かにリアルで、
目に映る、目の前の「人」よりも、見えない時に感じていた「人」の方が遥かにリアル。


両親は二人とも「見える」ことで、「見えない」本質があることを知らず、娘には「目に見える光」を見せたかったんですね。

私たちもまた、「見える」ことで、或いは「健常者」であることで、「全てのものの奥にある光」に気付かない場合が多い…

彼らの方が断然ピュアで、ダイレクトにそれに触れられているんだと思う。



今の世の中にも、様々な人がいます。

でも、それも「個性」。認めよう。


何かの機能が衰えているために、別の機能が驚くほど発達している場合もある。


与えられたものは拒否せずに、全て受け取ろう。

それがどんなものであっても。

いいとか悪いとかじゃなく、それが今の自分に必要なものだから。


…と、DVDを見ながら思ったのでした~!



 
↑見えてるけど、同時に見えない何かも見てるんだね。