井頭山人のgooブログ

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こどものころ

2024年01月23日 18時06分25秒 | 日本の古典

 秋が深まり平地の紅葉が彩を増すころ、父は散歩にでも行くかと言って谷地の田圃をかこむ広葉樹の森が美しい道を父と歩いた。抜けるような青い空、田んぼ沿いの広葉樹の林が子供の眼にも美しかった。白い雲が静かに青空をすべってゆく。時々、立ち止まっては持って来た手帳になにか書いている。こどもの私は親父にきいた、お父ちゃん何かいている?、うん、短歌を書いて居るんだ、ことばを探している、あたらしいことばをつくりだそうとしているんだ。ことばって探すものなの。そうだよ、ことばってつくり出すものなの、そうだよ、いちばん感じの好い、かんじる事にピッタリのことばを探している。ことばは探し出すものなのか、探せなければことばは創り出すものなのか、と、子供ながらに納得した。子供ながらに親父は詩を創るのがすきだったらしい。57577のことばで歌をつくる。いくつもの小学校の校歌を作詞した。わたしが詩を愛するのは親父の血がそうさせるのだろうか。詩は内的なリズムが要る。詩は作るのではなくどこからかやって来るのだそうだ。頭で作った詩には碌な物が無いらしい。情緒が詩を創り、さらに詩が情緒を紡ぎ出す。

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日本古典文学の様相ー最も日本的なもの

2023年12月03日 08時36分06秒 | 日本の古典

 日本の古典はすでに白鳳期に端を発し懐風藻以前の超古代の古文献「秀真伝」にも、その影が残されている。だが現代に残る出版された古典文学ではやはり平安朝の文学が、特に女流文学(女房連の)が、量・質ともに傑出している。それを一々挙げる事はしないが、此処では平家物語、方丈記、徒然草、などの現在の日本古典文学を考える上で欠く事の出来ない物を取り上げたい。上に挙げた三つの作品は日本人ならば殆どの者が知って居る筈である。中学や高校の教科書には必ず取り上げられて居て、日本人の最低限の教養の土台に成っいるからだ。この最低限の作品を知らない者が居るとしたら、辛辣な事を謂うが、それは高校の過程が済んで居ない証だろう。それは日本人としての最低限の教養である。

琵琶で語る「平家物語」の哀調は何とも一度聴いたら忘れられぬものだ。詠嘆とも祈りとも付かない其の語りは古代ギリシャの「オデッセイ」にも似ている。「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・」、栄華を極め滅びゆく平家の一門、女房、郎党、を思わしむる。平家物語の作者は誰なのだろうか?、これ程の哀調をもって吟ずる文章は、只の者には書き得まい。物語は長いが一度は全巻を味わってみるべきだろう。

「方丈記」も、実に薄い本だがこれまた詠嘆と共にルポルタージュとも付かない面白さがある。鴨長明は鴨神社の神官の家に生れ、なかなか鴨一門の中でその地位を得ることが出来なかった。己の人生を諦めた長明は方丈の庵に住み、この回想記を書いたのだろうか?、もっと上手くやれなかったのだろうか?、後鳥羽院は其れなりの眼を掛けて居たのだが、長明の頑なさが彼をして方丈の庵に住まわしめた。この薄い回想記には実におもしろい事も飢饉の悲惨な実体も書かれている。長明が嘘を書くとは思えないので、飢饉の死者は京都だけで4万人を超したのだろう。何故飢饉が起きたのかは、当時の台風、冷害などの、今で謂う小氷河期気象の結果だろう。現代の気象科学の知見では、太陽活動に基づく冷害に起因する飢饉は容易に起きるのだ。

「徒然草」は、吉田兼好法師の随筆である。兼好法師は硯で墨を擦り筆に恃み、己の見たり聞いたりした事件や些事を書いた。今で謂うところのコラムにも似ている。一段、一段、読んでみると、ああ法師はこんな考えや人生観を持って居たのだな、と、遠い過去の人にもかかわらず、不思議と親近感を抱かせられる。当時の世相、人々の考え方や、物事への反応が手に取る様にわかり、面白いしまた感心させられる。読んでみて損はない随筆と言うべきだろう。

話は変わるが、わたしのブログは一日平均すると20人位、多い時で50人位の方が見ているらしい。「殆んどコメントは呉れないが」、どういう人が見ているのかは、多少気に成ります。主婦なのか?高校生なのか?サラリーマンなのか?、はたまた小中高大の教師なのか?、徒然草の兼好法師と同様に小生のブログは、徒然なるままに、そこはかとなく書きつればもの狂るおしけれです。誰がご覧に成っいるかに付いては、まあ気にしない事にします。

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日本語とは何か

2023年09月20日 08時31分59秒 | 日本の古典

 私たちは日本語を習うのに何の困難も感じません。うまれた所が東北であっても関西であっても、その方言に幾らかの違いが在っても、子供の時代にはどんな地方の方言でもたちどころに覚えて仕舞う。現代の東京弁と比べて地方出身ですと幾らか訛りがありますが、それは18歳で大學に入る為に上京すれば、4年間にあるは6年間に東京弁を話すようになります。そうすると、つい生まれ故郷の方言が懐かしくなります。方言は大切な地方文化の証です。意思疎通の道具である言葉を覚えるのは、子供時代です。この時代は成長期の段階として他の時代には無いとても大切な時期で、この時期に音に対する一つの根本的な言語野の微細構造が形成されると云う。この時期に母語形成に関する音声への感受性が形成される。この時期が子供に取って如何に大切かが思われます。此処で音へのスイッチ機構が数年を掛けて出来上がる。その凡その時期は、研究者に依って若干の差異はありますが、9歳ないし10歳くらいであろうと謂われています。この時期に脳内に母語の基本が設定される。

ですから、この時期以前ならば子供はどんな言語でも労せずして習得できる。日本は永く動乱の世界と隔絶し、その文明は世界最古の文明でもある。日本語は世界の言語に比べても最も古い言語であることは、世界の言語がいずれにせよインドヨーロッパ語族とかの系統樹化で説明できるのに、日本語だけは世界の如何なる言語とも異なっていることを挙げれば十分です。更に、言葉と謂うのは一種の眼に見えぬ国境であり、それは如何なる悪意を持つ者が、犯す事の出来ない防壁線なのです。日本語が滅びない限り日本文明が滅ぶことは無いと私は確信しています。

ですが、そのように難しい日本語を容易に習得してしまう子供でも、20歳を超えると他の言語の習得が困難になります。ことばが固定されて「母語」が確立されたいるからです。とは言っても、現代の日本に取って必要なのは、大陸の外国語を読解する力です。外国語の日本語への解読です。これは掛け値なしに絶対と言って良いほど不可欠なものです。話せなくても好いのです。要は読んで意味がつかめ、自分で文章を外国語で正確に然も上品に美しく書けることです。言葉の習得は、古来から、その不思議さを人々は思って居た事と想像します。言葉の習得は、他人との意思疎通に不可欠の物です。言葉無くして自分の思いを届けることが出来ない。言葉は美しく、相手の気持ちに伝わらなければならない。ですが言葉は難しいものです、自分の言った言葉に誤解を招くことも在るからです。言葉は或る意味では、相手次第であることも確かなのです。言い足りない稚拙なコトバでも相手が優れた感性の持主であれば、その真意を掴んでくれるかも知れないが、それを誰にも期待できる物では無い。言葉はその表現の意味や理解が、人それぞれに異なって居ます。それが伝達を難しくしている。

7歳~9歳と言われる、音声への感受性の形成が、あらゆる言語の母語形成の時期なのでしょう、それはどんな言語でも大体は同じ時期であるのは、大抵は人間の脳神経系の成長時期は同時期であるからです。多くの日本人は改めて日本語表現を学校では習わない。これは不思議な事です。ことばの仕様という物は習わなければ巧みで深く美しい表現が、そう簡単に出来る物では有りません。国語の授業の中でそんな教程があっても好さそうなのに、有りません。言葉は人間の技術の中で最も大切な物です。私が不安に想うのは、子供の大切な言語習得の時期に、母語形成を阻害する要因が無知の為に導入されている事です。それは小学校で英語と押し付けると言う様な、誰が考えても馬鹿げたことが、大手を振って強制されている事です。日本人の全てが英語など出来る必要は在りません。それよりもズーッと大切なのは、日本語を深く学ぶ事なのです。

日本語は簡単だと多くの人が誤解しているが、その様な、かんたんな言語ではないのです。一番大切な7歳~10歳の小学校の時期に英語を導入するという、英語というのは日本語と全く反対のことばです。これはまったく馬鹿げたことです。こんな事をしていると、その子供は日本語の母語形成が劣り、かと言って、一般の人には殆ど身に付く事の無い英語を、中途半端で挿入するという愚挙を犯している。文部省は知って居て遣っている。こんな馬鹿げたことを何故するかと云うと、寧ろ、これは日本人の知能を劣化せせる為の謀略のように感じてしまう。

日本人の聡明さは日本語の力であろうと思う。知的な日本語を使う者が見かけなくなる時代に成った。日本語の助詞は外国人が一番苦労する点であり、この点が日本語の独特な点であり、外国人には回りくどさがあるのだろう。外国語は云いたい事が最初に来る。日本語は最後まで聞かないとその趣旨が分らない。日本語は変幻自在でありたとえ主語を抜かしても充分に通じる言葉だが、例えば英語はそういうわけには行かない。単語の配置を違えては意味のないSentenceが出来上がる。それは謂わば通じないでたらめなSentenceになってしまう。その様なコトバであるが私たちは日本語の文章校正法という物を学校の教程で習った記憶はない。外国ではそのような文章を書く手順を習う課程があるらしい。何故、小学校に国語で文章作成法を学習しないのだろう。或る教材を与えてそれを読ませて放って置くという物に近い。日本語はそんな方法で身に付くほど簡単なコトバではない。言葉の問題をなぜ諄く言うかというと、日本文化は日本語で成り立っているからで、日本語が消滅すれば日本の文明は消え去ることは確実だからです。

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夢十夜について

2020年08月07日 06時25分39秒 | 日本の古典

 漱石ー夏目金之助はその作家人生のなかで、「猫」から「明暗」まで多くの長編小説を書き上げている、然し作家としての創作期間はわずか十年ほどに過ぎない。それは彼が持病の胃潰瘍の為に49歳で死んだ為である。今で云えば若死にの部類に属する生涯であった。仮に彼が長生きし80歳まで創作を続けて居れば、その創作の傾向と内容は、漱石文学の研究家に因って何段階かに分ける事が為されて居た事であろう。漱石の幾つもの長編をすべて読んでいる訳ではないが、投稿者は、長編より「硝子戸の中」とか「永日小品」とか、此処で取り上げる「夢十夜」などの随筆や短編の方を好んでいる。短編は短いだけに一気に読めると誤解し易いが、果たしてそうか?、むしろ脚色することなく即興で書く短編随筆に、漱石と云う人物の性格や拘りが出て居て興味深い。まあ、短編は、漱石という創作者の個人的な特徴を知る事が出来るのではと思うからで、それは元より投稿者の好みや思い込みに過ぎない。投稿者は作品の単なる鑑賞者でしかないので、感想を書き下す際に独断と偏見を交えて書くことを許して貰えると思っています。

明治という言う時代は、日本がその縄文時代以来の二万数千年の歴史的連続性の中で、最も基本に在るものは、多神教的自然信仰であり、また後年はその上に常に外国の文化を参考にしつつ、それを日本人の心性に合った独自の加工を通じて、日本文明に取り入れて来た。(漢字)も(仏教)も(儒教)も、日本的神道に溶け込み、全てではないが好い所は根付いた。唐の制度を見て、それを真似した律令制度もその様な物である。だが支那人の核心部である、宦官も科挙も日本は取り入れなかった。その意味では日本文明に合う必要なものは何でも取り入れ、合わない物は真似しなかった。結果的に日本的な民族性に加工して導入し、更に発展させるという方法を取った、これは世界的に見て特異な文明である。島国という特殊な事情が反映されているのでは無かろうか?。わたしはその様な文明を他に見た事がない。日本人は長くその事に気が付かなかったが、外圧による開国の「明治」という時代を迎えて、日本の特性は次第に明らかになった。まったく異なった文明同士が、日本に取って否応なく交渉に晒されたのが幕末であり、更に国内での攘夷か開国かの紛争の後に多くの有為な人物が亡くなった。明治という時代は、開国の時代のそれに伴う軽薄さ(廃仏毀釈)があり、また江戸の精神的資産をすべて否定して、事情も分からず脱亜入欧の欧化政策を迎えざる得なかったのが実情である。

江戸時代人ー夏目漱石が体験した時代は、文明の急速な変化のストレスが個人の精神の上に残った時代でもある。江戸から明治へ、彼が生きた時代は、そのような日本の歴史に於いても特異な時代なのである。軍事力を背景にした植民地化の危機は、当時の為政者は皆共通に持っていた。押し寄せてきた一神教文明にとは、本質的に異なる日本在り方、日本の社会的要素と精神構造の差異に、ある種の被害を受けたのは一方的に日本文明の方である。その困惑は特に明治という時代の特色であり、それらは漱石の文学には深い影を落としていると私は想う。それは江戸時代人が産業革命を通して武闘力を発展させて来たイギリスという国と正面から対峙し、そしてどう折り合うかという方法論にも起因している。

江戸時代の新宿の永代名主の倅は、明治という時代に連なる為に英語を学んだ。そして教員として自分が生きている時代の本質と状況に向き合わねばならなかった。彼の最初の人生の出だしは、その出生からして多難だった、勿論のこと、それは彼が選んだものではない。幕府が瓦解した後は、これからは教育程度が社会的地位と、食う為の生活を左右するという雰囲気が有って、13~16くらいまでの若い時代に大いに悩みもしたであろう。共立学校とかの英学塾で英語や二松学舎で漢学を学んだ。漱石の本音は英語より漢学の方が好きだったが、英語を選んだのは、時代が縦の物を横にする事でしか立身ができなかった為でもあろう。そして大学予備門に入学し、その後帝国大学に進んだ、彼はいわゆる知識人インテリとして、社会の知的な頂点に立つ事を厭わなかったが、学生に英語を教え続ける人生に確信が持てなかった。漱石の心の動きという物、また悩みという物は、それは小生にも分からない。(私の個人主義)という様なものも書いて居るので、公表した立場は確認出来ようが、それ以上の内面は分からない。わたしは今になって、元号はその時代の目的と特性を現して居る事に気が付く。明治という時代はもっと研究されていい時代だ。大正・昭和・平成・令和、と続くが、どの時代にも暗に歴史的な目的が有った様に思う。歴史の法則などは無いが、自ずと要請される時代の特徴は必ずあるのだ。

さて、「夢十夜」とのタイトルの如く、この小品には「こんな夢を見た」という書き出しで十篇の夢が書かれているのだが、勿論の事、漱石自身が実際に見た夢ではない。夢の記述に付いては日本でも幾つかは知られている。例えば鎌倉初期の僧、明恵上人の「夢記」がある。夢に託して、現実を批判する形式もある。ただ漱石の夢十夜は、人の生活上の描写としては中々明治と云う時代の意識の側面を知る上で参考に成るものだ。この十夜は今までも多くの人に読まれているに相違ない。中学生の夏休みの課題にさえも挙げられている。一種の小話やスリラーとしても面白かろうが、読む人の年代によつても絶えず感想が変わる作品でもある。



(第一夜) 気が付くと、ある女の枕元に座っている。いつの時代でも理想の婚約者を見つけて結婚をするのは、現実にはまず不可能に近い。この男も道ならぬ思いを寄せる女(誰かという詮索はやめよう)の枕元に居て女の最期をみとる場面になっている。おんなは「もう死にます」というが、おとこにはおんなが到底死にそうには見えない。「でも死ぬんですもの・・・」、「そうかね、死のかね」、「ハイもうすぐ死にます」。死んだら庭に穴を掘って埋めてください。必ず百年後に会いに来ますと謂う。そうする内に段々に目の色は光を失い、おんなはパタリと死んでしまった。自分は庭に穴を掘って、おんなを埋めて丸い石を一つ乗せた。そうして、一つ、二つ、と自分は数えだした。そして幾つもの、幾つものノッペリとした陽が出ては落ち、出ては落ち、幾ら数えたかわからない。自分は嫌気がさして数える事を止めた。じぶんはウトウトと眠りだし、気が付くと苔生した墓から一本のユリの茎が伸びてきて、じぶんの鼻先で骨身に堪えるほど匂った。自分はその時もう百年は来ていたのだなと悟った。そういう話の筋である。

*この夢十夜の作品のなかで、百年という語句は幾つか出て来るが、漱石の云う百年は時計の針の百年ではない。心に刻まれた思いの消え去る時間、煩悩の溶ける或いは消滅する心の時間だ。こころの時間の定義は難しいが、それが物理的時間の長さじゃない事は確かのようだ。執着は残るのか?は、自分には分からない、或る思いが仮に中空に残るとすればそれは余り気味の好い話ではない。Freud流に言えば、恋は性欲の昇華した欲動に過ぎないのだが、好きと云う感情は性欲論では充分な納得の説明が出来るとは思えない。相性の好くない結婚は有る、それは互いを不幸にする。相性が悪いと云って離婚するのは大昔では考えられなかった。

統計によれば現代では普通の男女が一年に何千組も離婚するという。昔は「子は鎹」といった。子供のために互いに不満を持って居ても離婚までには至らない。互いに自制して破局を避ける。そういう夫婦は現代でも何万組もいるに違いない。明治以前の世の中では、夫婦は家を継ぐ子孫を残すための基本だった。そして結婚して子を産みながらも、女子ばかりを産む妻は、女腹とか謂われて離婚された。生殖の基本を知らぬ時代の珍事であり、丸で理不尽な理由である。男か女かを決めるのは、性遺伝子のX・Yで、それは精子の中に含まれており、精子にはX・Yがある。男女を決定するのは男の方なのだが、それを女のせいにしている。

むかしから、日本は母系社会であった。女が家を取り、男は女の家に通う通い婚であった。日本文明南方説の根拠の一つだが、これは日本文明独特の基層なのではないだろうか。江戸時代は武士の時代で、亭主関白の世の中だという者がいるが、然し、武士という戦闘集団の家は、一般的なものではない。農民・町人の家では、女の力は大きい。現在でも世界的に見て、男が働いた稼ぎを、すべて妻が管理している家庭は多いに違いない。こんな何気ないところに、その文化の基軸が現れるものだ。アメリカ人の様な連中に言わせると、日本人はバカではないか?、命の次に大事な金銭を、選りにもよって妻に預けるとは狂気の沙汰だ。と、云う事に成るらしい?。我々にはアメリカ人の価値観が理解できない。なぜ離婚に至るのだろう? 理由は幾らでも挙げられるが、端的に謂えば離婚の敷居が低くなった為だ、女一人でも努力すれば食えるという世の中。離婚の原因は、先ずは「飲む打つ買う」の三道楽であろう。次は「生活費が稼げない夫」、「それから破産した夫」という事に成る。そういう切実な経済的理由の外に、なかには夫の靴下が臭いので離婚するなどと言う馬鹿げた理由もあるらしい。そんな女とは早く離婚しろと云いたい。離婚の理由が陳腐化しているらしい。結婚する最初からお互いに配偶者を見誤ったと云える。然し内面は表から見えない為に単なる容姿のみで選択することが多い。然しそれだと間違うのだと謂う。女の方から見ても学歴もシッカリとした稼ぎの好い職業の立派な体格の男を選びがちだが、それで上手く行かない例は多い。AとBは相性が悪いが、AとCは好い、BとCも好い、CとDは相性が悪い、AとDは好いがBとDは相性が悪い。これは単なる組み合わせの例だが、この様な関係の中で相性が好いとか悪いとか言うのは、なんなのだろう。相性とは何か?妻からのクレームと夫からのクレームが有る。どちらも公正に聞かないと正しい判断は出来ないのだが。漱石と細君は、あまり相性が好いとは思えない、モット相性の好い女を細君に迎えて居たら、彼は早死にしなかったかも知れない。



(第二夜) どうやら寺の一室らしい、雰囲気からすると禅宗の寺か? 自分は悩んで参禅し、和尚の指導を受けている侍(武士)である。設定は鎌倉か江戸時代か、何に悩んでいるのかは書いて居ないが「悟り」が核心らしい。悟りは仏教の永遠のテーマである。それは原始仏教の最初からある。実際に仏陀は生老病死を超える心の在り所を「悟り」と云った。釈尊の仏教は誤解を恐れずに謂えば、心理学それも意識を探求する「深層心理学」なのである。後年には実際にそうなった。唯識、説一切有部、瑜伽、である。そしてモット言えば治療をさえ行う精神医学の原型であろう。

この侍は悟りを、強く和尚に求められていて、和尚は侍を追い詰めて嗤っている。侍はイザと成ったら和尚の命を取る、刺し違える積りである。和尚は「今度会うまでに悟ってこい」と謂う。なぜ悟れない、悟れないとすれば、お前は本当は侍ではないのだろう、人間の屑じゃ!と、和尚に嘲られて部屋に帰り、座布団の下に手を伸ばすと隠して置いた短刀が有るのを確かめる。匕首に触れて侍はやっと「安心」する。その朱鞘の匕首を抜くと、匕首の蝋燭に光る刃の殺気は只物ではない、狂気そのものである。もしも定刻に悟れないなら、此れで和尚をズブリと行くのだ。悟りの定刻が迫りつつある。隣の部屋の時計がチーンと時刻を告げつつ鳴り出した。自分は朱鞘の匕首を握り直した。という筋書きである。

この作品では「安心」という二文字が悟りの根源だ。和尚を殺る朱鞘の短刀を握ったとき、侍は例えようも無く「安心」するのである。安心こそ悟りなのだ。侍は悟った証拠に朱鞘の短刀を見せる以外に在るまい。自分は和尚を殺る、この短刀を握ったときに深く安心立命したと。和尚はそれに納得するだろう。悟りとは揺らぎを鎮めることである。生きて居る事は白色ノイズの雑音に揺らいでいる事であり、人の意識も判断も、この揺らぎの結果である。



 (第三夜)  梅雨時の雨が降りそうな細い道である。どういう訳か六つになる子供を負ぶって暗い道を歩いて居る。子供は不思議な事に目が潰れて青坊主になっている。いつお前の目は潰れた?、なに昔からさ、と云う。声は子供だが話し方は対等だ。しかも自分の子供である。
「田圃かかったね」、
「どうして解る」、
「だって鷺が鳴くじゃないか」
すると鷺が果たして二声ほど鳴いた
自分は少し怖くなった
こんなものを背負っていては、この先どうなるかわからない
どこかに打っ遣るところは無いか、と見ると向こうに大きな森が見えた
あすこならば、と思ったとたん
「ふふん」と云う声がした
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった
「おとっっあん重いかい」
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と子供は言った

森に行く道は暗く手前で二股になっている
「石が立っている筈だがな」と子供が謂う
暗がりの中で好く見ると確かに石柱が建っている
石柱の文字は、イモリの腹のように不気味な赤だ
「左がいいだろう」と小僧が謂う
自分は少し躊躇したが、
「遠慮しなくてもいい」と小僧がまた謂った
森に向かって歩き出すと
「どうも目暗は不自由でいけない」と云った
「だから負ぶってやるからいいじゃないか」
「負ぶってもらって済まないが、どうも人に馬鹿にされていけない、
親にまで馬鹿にされるからいけない」
何だか嫌になり、早く森に捨ててしまおうと急いだ

「もう少しゆくと解る、ちょうどこんな晩だったなあ」と独り言をいっている
「何が!」と自分はきわどい声を出した
「何がって、知っているじゃないか」と子供は嘲るように答えた
すると何だか知ってるような気がした
けれどもハッキリとは分からない
ただこんな晩であったように思える
もう少し行けはわかるに違いない
わかっては大変だから、早くこの子供を捨てて安心しなくてはならない。

雨はさっきから降っている、道は段々と暗くなる
背中に小さい小僧がくっ付いていて
その小僧が自分の過去現在未来をことごとく照らしていて
寸分の事実も漏らさぬように光っている。
自分は堪らなくなった

「ここだ、ここだ、ちょうどその杉の根の所だ」
雨の中で小僧の声はハッキリと聞えた
いつしか森の中に入っていたのだ
一間ばかり先に在る黒いものは杉の木と見えた。
「おとっあん、その杉の根の所だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった
「文化五年辰年だろう」なるほど文化五年辰年らしく思われた
「お前が俺を殺したのは、いまからちょうど百年前だね」
ハッとした自分は、小僧の言葉を聞くや否や、今から百年前の文化五年辰年の
こんな晩に一人の按摩を殺したという自覚が忽然として浮かび上がった
「俺は人殺しであったのだ」 途端に背中の子供は、石地蔵のように重くなった。



*ここにも第一話と同じく「百年前」という言葉や「安心」という言葉が出て来る。
分かって仕舞っては大変だ、分からない内に捨ててしまおう。
漱石のこころの中に,何か言い知れぬ不安があったのではなかろうか。
この言葉には、たぶん漱石文学の「創作の核のようなもの」、
何かの重いものから、身軽になりたい。その拘りが埋まっているのだろう。
それは漱石論として解明すべき語句かも知れない。
生まれた時代と置かれた環境。

拘りは、その人間を深い部分で拘束し、常の何気ない意識や決定に作用する。
それは見えない人間の無意識の部分を説明する可能性は確かにある。
誰しも生活・健康・経済・人間関係・に何らかの不安を持って居るのが常である。
だがあまりにもそれらの事が行動を左右し、真の生き方を曲げるとしたら、
それは病的なものに変わる。

なるほど、漱石が世の中の人と人、男と女、兄弟と自分、
そういう関係のなかで互いに理解し得ない苦しみを、
厭になる位クドクドと飽きもせず長編で描いて来たのは、
漱石自身の中にそう云う物が、
他人には言えない形で鬱積していた事の証明でもあろう。

文化五年辰年とは西暦で1808年である。
それから百年経つと、明治41年、西暦1908年に成る。
彼に取って百年は輪廻の回る充分な時間を現しているのだろうか。

日本仏教の教理では、死者も49日の中陰を過ぎれば、
早いものは何者かに生まれ変わるという。
生まれ変わる以前の自分が殺めた目暗が、
自分の子供として、次の代に互いに親子として出会う事も無いではない。
自分もまた何者かの生まれ変わりであればである。
生きているすべての物が生まれ変わりであるとすると様相は複雑である。

記憶の影が宿しているものは、自己意識ではなかなか探求の届かぬところではある。
時たま過去の記憶している子供がいると話題に成るが、それは本当か?
青坊主がハッキリと覚えている事をこの作品では仮定している。
江戸時代には、人の前世は確実に信じられていたに違いない。
果たして親の因果が子に報う事はあるか?
漱石はどこかで聞いた話を脚色したのだろう。
だが、漱石は自分の秘密を持って居た。
ゆえにその自分の秘密を詮索する探偵を極度に嫌った。


(第四夜) これは仙人の話かと思う。飄々として茶店で酒を飲んでいる老人。
支那の文学や、山海経などの逸話には道教を起源に持つ多く仙人が登場する。
例えば神社の壁面の透かし彫りには、張果老、菊慈童、張騫、鉄拐仙人、張良吹笙、蝦蟇仙人、郭巨、費長房、琴高仙人、盧傲、などが透かし彫りとして本殿の壁を飾っている。この四夜の話は、琴高仙人であろう。琴の名手で、ある時河に入り巨大な鯉の背中に乗り中々河から出て来ない。やがて河から出て、龍門の滝を登ると鯉は龍となり、天に昇って行ったとする。五月の節句である、鯉のぼりの縁起である。
この様に日本の神社の透かし彫りには、多く支那の仙人が彫られている。
仙人は何人かいるが、必ず琴高仙人は登場する。
琴の名人で鯉に乗るという、大河の中を鯉に乗り水中深く潜り出て来ては巨大な鯉を乗りこなす。鯉はやがて登竜門の瀧を登り龍に変わるという。
五月の空に泳ぐ鯉のぼりの歌そのものだ。琴高仙人はこのように深く水に係わる。
飄々とした、この仙人も茶店で酒を飲み、ほろ酔い加減でいるところに、店の者が
声をかけて、縄が蛇になると言いつつ河に入りとうとう出て来なかったという話である。縄が蛇に、そして蛇が龍になることは無かった。仙人が好まれるのは、自由闊達でありあらゆるしがらみに囚われず、縛られない思いのままに生きる理想を現わしているからだろう。先にも書いたが、仙人は道教の理念の中に在る。本来の道教は、老子や荘子の著作に始まるものだが、後年は、その理念を失い、不老長寿の薬の調合、そんなに生きてどうなるの?。今や日本では80歳の生存年齢に達するという。古代や近代の人には、目をむく驚きであろう。生き物は必ず生老病死が自然である。与えられた時間を精一杯生きる事にこそ智慧・英知が込められる。後の道教は利得・財産・金銭の追求となるのだが、霞を食べて生きる仙人に、およそ銭の勘定をしているなど考えられる筈も無い。それはそれで目くじらを立てる性質のものではないが、長命、利福は庶民の夢なのであるから。
第五話 - 

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絵巻物から漫画への道

2019年08月04日 10時47分13秒 | 日本の古典

 小学校に入ると父は講談社の「楽しい一年生」という学齢期の子供の雑誌を買ってくれた。これと同じ物で小学館の「小学一年生」という雑誌も在りました。 父が講談社の「楽しい一年生」を選んだ理由は、とうとう聞くことが有りませんでした。今から思えば、大した事では有りませんが、聴いて置けば好かったなと強く思います。其れの理由など、大したことでは無かったでしょうが、それでも父への感謝をもって聞いて置けばと今でも思います。父は毎月出る、この雑誌を6年生まで買ってくれたと思います。この雑誌は、当時の教育的配慮で編集されていたものでしょう。絵がとても奇麗で、子供の心を育てる配慮が成されているのを、今見ても感じられます。

 小学校4年位に成りますと、講談社や小学館の雑誌の他に、子供向けの漫画雑誌を借りて読むようになりました。5年ほど先輩の人が、自分でアルバイトをして漫画雑誌を自分で買っていたからです。それを借りて読んだ。今思い出すと、少年サンデー、とか、少年キング、冒険王、などであった気がしますが、何しろ遠い昔ですので、ハッキリしません。

 中学に成ると、漫画は卒業して、今更、漫画でも有るまいと思って居たが、絵巻物との関連から思い出を一つ書いてみたい。もう大分昔の事だが、漫画のインパクトを知った事が有る。漫画は、みな長男が購入した物であろう。長男が小1の頃に、どこかで買って貰ったものだろう。

 放り投げられていた本を拾って開いてみると。1つは、ますむらひろしの猫が演じる「宮沢賢治の一連の作品」であり、もう一つは、ペンネーム藤子不二雄Aの出した「傑作選」である。先ず、ますむら作品であるが、彼の描く風の又三郎は、賢治作品を忠実に表して居るわけではないが、彼の愉快なコンテから受ける作品には独特の情緒があると思う。二学期が始まる九月一日の始業式の日に、「一年生の子供が、チョハーカグリ、チョハーカグリ、オラが一等だぞ!、オラが一等だぞ!と」、尋常小学校に登校して来る。まだ九月の空には入道雲が湧きたち、夏の朝の、露に濡れた瑞々しさを感じさせるものだ。東北の山村の爽やかな小学校の朝を伝えている。漫画なのに不思議と情緒を感じさせる作品だ。小説には挿絵があるが、この挿絵の出来で、物語のイメージが膨らむ。挿絵は重要な力を持っているのだ。ここに登場する又三郎(髙田三郎)は、九月一日に突然登場し、わずか十日でこの小学校から消えてしまう。なんと子供たちには、彼と過ごした期間は一つの幻想的な時間なのだ。又三郎は都会の少年であり東北の田舎に子供にとっては、まさに異質の世界から来た少年なのであろう。現在の日本語は画一化されてしまい東北だろうが四国だろうが、何だろうが言葉の通じぬ地方は存在しない。方言でさえ激減している、方言は日本の謂わば文化的な資産なのであるが、私達はそれをどこまで自覚して居るだろうか。

 画一化のために失った物の価値に初めて気が付いた時にはそれは致命的に遅く、たぶんもう二度とは取り返すことは出来ないだろう。今更、元に戻れるはずがないのではないか。だが、日本語の根源に関して、方言はそれを調べる宝であり扉を開ける鍵なのだ。この事は誰もが意識しないだろうが、真の宝と言える。

 ところで、もう一つの漫画も長男が買ったものだろう。小4の頃だろうか?私は買って上げた記憶が無いので、私の父母か、妻が買ってあげたか、それとも子供が自分の貯金から小遣いで買った物かは知らない。漫画の題名は「藤子不二雄傑作選」と言う3巻本である。ショートストーリーが、何作か収録されて居て、読んでみてこの作品のレベルが高いのには驚嘆した。 藤子不二雄は相当に多くの色々な知識を、漫画に反映させている。主に未来物SFと云うべきジャンルであるが、怪奇伝承じみた物もある。フランケンシュタインの怪物の様な人造人間とか、老いた肉体を新たな若々しい肉体に交換するとか、好きだった若くして亡くなった少女の霊と出会う話とか、中々漫画とは言っても内容的に斬新で大変面白いものであつた。藤子不二雄は二人の漫画家の共通の「ペンネーム」であり、藤子不二雄AとFがあり、傑作選はAが書いている。

 この二人は1950年代に日本が漫画ブームを呼び起こす切っ掛けとなった手塚治虫に憧れて、裏日本の地方から出て来た若者たちの一人であった。戦後の漫画伝説の「ときわ荘」の住人である。現在の日本の漫画は、この時代が無ければ、今の隆盛を迎える事は無かったであろう。不思議なことだ、「或る求心軸」が有り、その下に多くの若者が憧れて集まり、切磋琢磨して個性ある数々の作品を生み出す。この構図は漫画に限らず小説や俳句、連歌や茶の湯でも同じ事だ。傑作選の作者は我孫子素雄という。彼は珍しいくらいに、自然科学や生物科学、分子遺伝学に、その作品の種を求めた稀有の人でも有ったようだ。彼は、多くのSFなどを読んでいる筈だ、例えばコナンドイルやHGウェルズが挙げられる。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、HGウェルズは極めてインパクトの強い作品を世に送り出している。透明人間とかタイム・マシーン、モロー博士の島などで、恐ろしい生体移植を通じて新生物の創造とか。藤子不二雄Aがもっと長生きして居たら、子供たちを唸らせる素晴らしい作品を描き続けたであろうと思うと、誠に残念に思うのは、私だけではないと思う。私の子供の頃、町の教育ママの親は漫画を見ていると余り好い顔はしなかったという話を聞いた。其れよりも偉人伝や百科事典を読めと云われたらしい。幸い私の親たちは何を読もうとうるさい指図はしなかった。今思えば漫画にも内容のレベルが在る事が分かる。好い漫画は大いに将来に対する動機付けを持って居る。

 日本漫画が突然降ってわいた物では無く、それは、既に遠い昔に、その原型は在ったのである。漫画の起源は、日本語の特徴のなかにも胚胎されているのかも知れません。さて、日本の絵巻物は相当数ある。小学館だかどこかで出して居る「日本絵巻全集」と云う物が有る。すべてを見た事は無いのだが、然し言葉よりも絵は、人に訴える力が抜群だ。漫画の元祖とでも云いうる、鳥羽僧正の「鳥獣戯画」は、その動物たちの動きと云い、滑稽さと云い、僧正は相当に諧謔と皮肉の効いた男であったらしい。カエルの阿弥陀様を拝んでいる猿の僧侶など、これほどウイットのある僧侶が居たとは、何とも素晴らしいことだ。僧正は機知に富んだ人物であった。また絵が上手い、動物の表情などは漫画家などには大いに参考に成るものだろう。僧正が、この様な戯画を描いた動機は何なのだろう?当時の庶民の生活の雰囲気も有るし、相撲の描写、キツネの巡礼者、などよく調べれば、生活風俗を彷彿とさせる。市女笠の女性なども居て、ああ当時はこんな格好で暮らして居たのだろう。と妙な納得の仕方です。子供の相撲も盛んだった。輪回しなど今に通じる遊びも有る。

 それにしてもカエルの如来に向かいお経をあげている猿の僧正の口からは、霞のようなものが出て居て、是がお経を朗々と上げている声の表現なのだろう。この人鳥羽の僧正は、絵の主人公たちに言葉としての声を付けてはいない。「ひらがな」の文字を付けたら将に漫画だ。戯画の伝統は遠く永い。仏教の伝統でも、般若心経は漢字で書いてあるが、偶々字を習う機会が無かった庶民は、メクラ心経と謂って、絵で字の発音を現した般若心経がある。般若心経の正式名称は般若波羅蜜多心経と云い、それをメクラ心経は、(般若)を能の鬼女の般若の面で、波羅を人のお腹で、蜜を農具の箕で、多を田んぼの絵で、現している。これは、其れなりに面白い物です。これも漫画の系譜のひとつで有ろうかとおもいます。大いなる知恵の経典が、漢字では読めないならば絵にして仕舞おうという配慮です。経典も尊いが、其れまでして経典を随じ様とする人の、心の清らかさ、その心の高さも尊いものなのです。
 話題は少し逸れますが、先日「金鈴荘」という、大正時代に建てられた呉服商の富豪邸宅を見学した折り、文化財の説明を為さった女性のお話では、二階には「百鬼夜行図」が有るとの事でした。子供の頃は、この手の絵画は怖かったが、今では好んで見る楽しい物に変わっています。早速、解説して頂いた女性学芸員は、親子連れの子供が、この絵を見ると「お母さん早く帰ろうよ!」。と言うのだそうです。現代では水木しげるさんの漫画の影響もあるようで、お化けの絵や話は好まれています。この「百鬼夜行図」は、その歴史を考えると、成立はすでに平安後期から鎌倉まで遡れる。しかしこの夜行図を描かかしめた心性はもっと遠くまで遡れる気がする。夜行図をよく見ると、野菜や箒や藁草履、楊枝のお化けも目に付く多彩なものである。これは日本人が古来から、全ての物に魂が宿るという自然信仰を深く心の中に宿して来た為であろう。どうも日本人は妖怪が好きなのである。

 水木しげる氏の妖怪漫画本を待つまでもなく、江戸時代は妖怪が繁栄した時代だった。江戸時代の妖怪浮世絵のなかでも定番なのが、鳥山石燕の画図百鬼夜行や今昔画画図続百鬼などだが、他にも私は見た事が無いのだが数多くあるらしい。これらは明治になって後の牡丹灯籠や四谷怪談の人気につながる物でしょう。

「あらゆるものに魂が宿っている」、これは日本人の其れこそ遠く縄文以来の、何万年物過去にまで遡る考え方である。多神教と云えば言えない事もないが、それだけでは充分な説明はつかない。それは多分「言霊」の感性とも深部で結びつく種類の物だ。あらゆるものに魂が宿り、それによって私達は御蔭を頂いている。今稲作の刈り取りの最中である。汗を流してお米を作り、それに依って生かされて居る日本人、わたしの子供の頃、祖母にも母にも言われた事が有る、お米の一つ分も捨てたり残してはならない、と。一粒のお米を取るために、それこそ多くの汗を流して働いたひとの努力があるのだから。と言われた。確かに母の云う事は正しい。然し、どうも其れだけでは無いようだ。お米は夏の暑さの中を汗水を流して働いた成果ではあるが、それだけでは無いというのは、もっと直截に云えば、「お米に一粒には魂が宿って居る」と云う事なのである。ならば一粒でも、決して捨てられない事は自明の理であろう。「このあらゆるものに魂が宿るいる」、と言う日本人の信念こそが、「百鬼夜行図」を描かせた動機でかも知れない。

 現在も残る「百鬼夜行図」は、室町期からの物だそうである。事実、鳥羽の僧正(源覚猷)は十一世紀半ばから十二世紀前半を生きた天台宗の僧侶であった。ごく短期間ではあるが比叡山延暦寺の頭領である座主にまで成って居る。覚猷が描いた戯画は面白さに掛けては天下一である。絵巻物は深く物語集とも関係していて、往生要集、日本国現報善悪霊異記、宇治大納言物語{宇治拾遺物語}、今昔物語{本朝部}などと密接に関連していて、絵巻物の創作の雛形となっている。室町は統制の効かぬ酷い時代でも有ったが、其処には日本文化の現在まで続く萌芽が見て取れる。謡い、能、連歌、作庭、香道、茶道、絵画、足利義政は絶倫の色好みの上にとんでもない浪費家であったが、その浪費の上に東山文化は育った。なかでも香道は茶道と同じく興味深い。香りを聞く芸道は、何か精神的な深みを覚えさせるものだ。

一緒に出かけた人から聞かれた。「魂と霊」は、どう違うのですか?。難しい問いですね。魂と言う物に関しては、個人的な根があるのでしょうか。霊に関しては、もう個人的な根は無い、現在の自然科学は、何もその判断を提示して居ないです。冗談に「世のあらゆる巷に現れている力である重力とでも言いましょうか?」と言った。魂とは元素の化学反応とでも言えるだろうか?自然の力の根源的な物ですが、僕もわかりません。未知の力か、或いは既に把握して居る力の複合か。魂とは心と言うものとも密説に関連しているのでしょう。霊の方は、むしろ分かり易いと云えましょう、肉体を離れた意志と言えるのではないでしょうか。わたしのような鈍感なものには見えませんが、ある少数の敏感な人には見えるらしいです。「百鬼夜行図」と同じ位に「幽霊図」と言うのは一般的です。馬頭の小さな浮世絵美術館に、以前に幽霊図の特集が有りましたよ。もちろん観に行きました。あまり唸るほどの名作は無かった様に思います。なにかどれもワン・パターンの絵画であった気がしました。応挙の幽霊図や北斎などの絵の方が、其れなりの個性を感じました。

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日本の絵巻物について

2018年11月26日 21時35分45秒 | 日本の古典
 日本古典文学を読んで見ると、そこには必ず絵巻物の衣装が彩を添えている。偶々古本屋に出掛ける機会が有ったので、奥の方を覗いてみると、其処には日本の絵巻物シリーズと云う全集が有った。どんな物かと手に取ると、それこそ膨大な数の絵巻物が在る事に傍と気が付いた。天台座主鳥羽僧正(覚猷)以来、戯画の伝統は日本の文化に深く根差している。視覚の文化が日本の文化的な背景になっているのだろうか。これはいったい何なのだろう、どんな原因や要因があるのだろうか?、視覚の情報は文章の百倍くらい多いのだろうか?調べた事は無いので確定した答えでは無い。言語情報と視覚情報が異なって居る点を挙げてみょう。

言語情報は、1つに、その基礎に成る学び修得した知的資産が反映されるために敷居が高い。語彙にしても、意味にしても、専門知識にしても、当然の事ながら、文章の質と意味の明晰が反映される。2つに、また、文章の創造には、個人の性格や感受性と謂う物が反映されて居るのだから、個人的性質が物を言う。本物の詩人という人種は言葉の内奥を空想し、言葉の出て来るまで意識の解体が進んでいるのだ。詩人は空想する性癖がある。どこか心が跳んでしまっているのだ。言葉と言うものは人間が創造した物である以上、自然に備わったものではない。

反面、「視覚情報」はどうだろう、視覚は改めて学ぶ必要も無く、等しく生まれながらに備わっている。中には視覚を失う人も居るが、視覚は、外界の情報の全てを一瞬のうちに把握する。色も文字も動きも空間も視覚が把握する。もちろん聴覚と言う大事な能力もあるのだが、それは置いておくとして、見るという力は大きなもので、然も個人的な教養や学習などは、文字情報ほどは影響を持たない。見る事は、つまり深く見る事は大いに知的ストックと関係はして居るが、言葉の文字情報ほどは、決定的ではないという事だ。

此処で少しテーマから逸れるが、幼少期にこの大切な視覚を失った偉人も居る。塙保己一という素晴らしい人である。彼は江戸時代の裕福な農家の長男にうまれ、何事も無ければ、豪農の家を継いだであろうが、五歳の時高熱を発する病気が原因で視力を失う事に成る。父も母も長男の行く末を案じた事であろう。当時は視力を失った盲人は保護されており、盲人組合の様なものが組織され、鍼灸の謂わば学院が有り、それに入学し師匠に付き、針や按摩などを習う。当然の事ながら、保己一もそのような学校に入り、師匠に付いて一生懸命に習ったが、どうも上手く行かない。何年か後に師匠は保己一に、お前はどうも筋が悪い、この鍼灸の道で生活を立てるのは、まず困難だろう。ならは、他の道で生きてゆく以外に、自らの一生を実りあるものにする事は出来なかろう。鍼灸は駄目だが、お前は物覚えが格段に良い。それにお前は学問が好きな事は、この数年のお前の生活を見ているとハッキリした。で、保己一よ、どうだろうか、学問の道に入り、その道を究めて見ないか? と、師匠は云った。たぶん、その道は保己一も望む所だったのだろう。国学の師匠に付き研鑽に務め、やがて彼は、日本国の始まって以来の著作文献の編集を始める。群書類従・続群書類従である。この本当に膨大な著作の山は、現在の日本文明を支える文献著作研究には無くてはならぬもだ。

江戸時代の盲人は幕府に依る保護が有った。先に書いた鍼灸の学院と徒弟制度を整備し、盲人には金貸しの優遇をした。盲人組合の中で最高位は検校であるが、何々検校と称する名称が記憶に残る。例えば幕末から明治にかけて有名な勝海舟の曽祖父は越後から出て来た盲人で、江戸で金貸しを始めて、巨万の富を築いた。その富の3万両で旗本(御家人)男谷家の株を買った。それの係累が勝家の始まりである。また神道や仏教的な背景から、牛馬の処理は一般の庶民には嫌われて居たので、エタという階層を指定してそれに任せた。武具には獣皮が不可欠であり、エタは金銭的には大金持ちで有ったと記録されている。様々の専門職種があったということであろう。現代では牛を食べたり、豚を食べたり、馬まで食べるが、江戸時代はこう云う事は一般的では無かった。牛や馬は農業を遂行する上での大切な仲間であり、病気になれば介抱し、死ねば丁重に葬った。間違っても、それを食おうなどとは考えなかった。だが、現代では何の抵抗も無く食べている。本来の日本人であれは食う事など、生命の冒涜に近い物であった。肉を食うという事は明治の安愚羅鍋以来の洋風を真似た習俗である。

さて大分話が逸れて仕舞ったが、日本の絵巻物という文化的背景には、視覚化という古代からの文化的基礎がある様だ。それは漢字と言う象形文字を使い続けて来た背景があるのかも知れない。江戸時代の絵画の隆盛は云うに及ばず、もっと古い時代にも、この伝統は芽生えている。という事は象形文字を使い始めてからの事なのだろうか? それにしても、絵巻物を見るのは楽しい。言葉で書かれるよりも、ズーッと視覚化されたイメージで直接に状況を掴む事ができます。漫画の元祖と目される鳥羽の僧正の「鳥獣戯画」は、本当に見ているだけで楽しい。また江戸時代は浮世絵の隆盛期であり、その技術は頂点にまで上り詰めた。葛飾北斎、歌川広重、鈴木春信、ほかある。また大和絵も土佐派を主体に、日本的な優美の極にまで到達した。

これは日本語の特徴とどう関係するのだろうか。たとえば俳句は、物を有るがままに捉え、そこに時空の中に在る普遍性を追及する言葉の技術である。俳句とはコトバの色を使って、状況の絵を描く技術だ。
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