高1の15歳の時に文庫で芥川の短編を読み耽った。夏休中、風の通る縁側の付いた8畳間の畳の上で、芥川の文庫本5~6冊を積み上げては畳に寝転んで読んだものだ。文章は意外に明晰で読みやすく、ウィットの効いた印象的な文章で有り、これを読んだ子供は文章を真似る上で大きく影響されるだろうと感じた。謂わば文章指南である。表現は簡潔であり芥川独特の言い回しがそこにあった。また幾分説教じみた芥川の文体は、多くの箴言で出来上がって居るのだなと思った。妙に自意識的で、断定的な文体は、ある意味では魅力が有った。知的文体とは何なのだろう?、これが人々を魅了した独特の文章だと思った。彼の文章文体は途中を取り出して提示しても、誰の文体だかが分る特徴を備えている。夏の盛り、森の中からセミの声が頻りに聞こえて来る中で、私の幸せな好い時代であった。当時、出来れば街に遊びに出掛けたかったが、遠く離れた田舎では、それはこの夏休みの間に一度か二度くらいであろう。私は河童の舞台であり、患者23号が河童に出会った北アルプスを望む、梓川の熊笹の道を涸沢まで歩きたかったが、高1ではそういう機会も余り無かった。つくづくその時、私は高校の山岳部に入部すればよかったと後悔した。夏休みに北アルプスへの山行計画が有ったからだ。
精神病院の患者23号の話は、河童の国の社会や制度に言及し、彼我の差を暗黙の裡に語るものだ。なんと河童の国にも、哲学者や法律家、漁師や詩人が居る様で、その河童たちの言動は、如何にもストリンドベリ―やスェーデンボルクを始め、芥川の理解を基にして河童に語らせている。もちろんの事「侏儒の言葉」は「阿保の言葉」となって軽妙に修飾された。うる覚えであるが、大正四年(1915年)に、帝国文学に「羅生門」が発表された。当時、芥川は24歳くらいだろう。昭和二年(1935年)に自死しているから、彼の創作期間はわずか10年に他ならない。この短い10年の創作期間に於いても、彼の作品の傾向は、確かに変化してきている。彼の初期の作品の創作背景となる物は、日本の古典である、「宇治拾遺」や「今昔物語」と言った説話集である。
仏教的な背景を持つ「往生要集」や、私が最も優れた仏教説話集と考えて居る「日本霊異記」も入る。この薬師寺の私度僧である景戒と言う人物には極めて興味がある。景戒は、奈良盆地の鄙びた村に生まれたと云う。この男は色々な職業を経験したのち、薬師寺の下僚として何か正僧の手伝いの様な事をして居たのだろう。私度僧で妻も子供もあるという特異な存在だ。彼に文学的な才があるのを、薬師寺の管主がそれを認めて、色々な伝承を脚色して仏法的な勧善懲悪の物語を作らせた。そう考えるのが普通だ。明らかに日本霊異記は寺側が集めた勧善懲悪の伝説や記録を景戒が、新たに書き改め編集し伝奇集として編纂したものだ。
初期の芥川は、この説話集に作品の原型を求めている。もちろんその説話は大正期の世相に馴染むように組み直され、ドラマチックに脚色される。藪の中などは将に演劇的だ。芥川は長編に挑んで見たが、余り捗々しい物が書けなかった。元々、彼は短編の方が力を発揮できた人だ。もっと長生きしていたら、芥川龍之介は劇作家として多くの作品を書いて居たであろうと思う。道を変更することなく芥川は燃え尽きてしまった。さて「河童」は寓話なのか、切羽詰まった自己告白なのか?は、当人以外にわからない。しかし、自分自身の、一種の病状である自覚症状は有ったのだろう。幻覚を見るとか、幻聴を聴くとか、そこまで追い詰めた物は何なのだろう。創作的な枯渇を意識して居たのか?売文では、食えなく成ることへの責任と恐怖か?、今まで創作で成功してきた名誉が、狂気に陥り毀損される事への恐怖か?。敢えて言うならば、その全てだろう。友人の宇野浩二の病気の場合をみて、己の上にも襲い来る力に深く恐怖したことは間違いない。
河童は北アルプスに登ろうとした患者23号の奇譚であるが、彼はひとり梓川を遡り深い山道を掻き分けする内に、出会った河童を追いかけ深い穴に転落して異界に至った話である。そこには戯画化された人間社会が展開されている。狂う事でしか見えない事も確かにある。言いたかった事は、世相への批判とまた理想とする社会への観望だろう。しかし、この短編が昭和二年と言う時代性は大きく影響して居るに違いない。Sー精神病院のSは斎藤茂吉のSだろう。茂吉の日記は、芥川の自死に驚愕した事を記している。
芥川自身の認識では、この先、謂わば行き先が通行止めであった。行き場を失ったのだ。このような状況に多くの人が陥っている。日本の文明史から云えば、明治・大正・昭和と言う時代は日本人にとって如何なる時代であったのだろうか。250年の江戸時代を生きて来た日本人の生活感覚、それが内戦を経て、明治の代に成り、一歩先を進んでいた西欧の文物を取り入れる。その過程で江戸以来の多くの好い面を捨てた。権利と義務、平等と競争、富裕と貧困、権門と学歴、官僚制度、家制度と家族、医療と年金制度、それらすべてが、現在とは異なるレベルに在る。現在の日本国は、国内消費が十分にあり、輸出に頼る割合は少ない。日本の社会制度は、完成の域に近づいて居る。芥川の生きた大正と昭和の初期は、困難な時代状況であった。
河童は短編であるから、中学校の国語の教材にも成って居るかも知れないので、誰もが読んだ事が有るだろう。世界には、ある架空の動物に託した文明論は「河童」に留まらない。ガリバー旅行記も浦島太郎も異界への憧憬と、現実の批判であろう。生涯の最後に「侏儒の言葉」や「西方の人」、就中、河童を書かざる得なかった人の、心をもう一度振り返りながら、35歳で死んだ青年作家の可能性をかみしめてみたいものだ。
時代の経済的な背景から、芥川の生きた時代を振り返ってみると、彼は1927年に35歳で亡くなって居るから彼のうまれは1992年であった。明治は35年、大正は15年、昭和は64年であった。芥川は明治をあと十年残す時代にうまれ、昭和の初期に死んだ。その間にはヨーロッパの内乱である第一次大戦があった。それは1914年に始まり1918年に終わったから、その間日本は戦争景気に浮かれた。一次大戦が終わると世界史的な多くの事柄が起きた。ドイツの皇帝制の廃止、ロシアでは急激な変化が起きた、民主制な根付かず対極的な意味での暴力集団の独裁制が起きた。その為、この20世紀は多くの無辜の民衆が殺された。これはある意味での宗教的な独裁制であった。その影響は現在にも残っている。1927年と言うと世界大恐慌の直前であり、再びキナ臭い匂いが漂い始めた時期である。この12年後に再びヨーロッパの内戦がおこり、その内戦に連動させられる形で日本は戦争に参加せざる得ない状況になった。
日本の状況は一次大戦の戦争景気も終わり、大戦の反省から軍縮が行われたが、それはまたある意味では次の戦争の謀略の様なものであった。ヨーロッパの内紛である、一次大戦の勃発がなぜ起きたかは、今でも謎である。何者かが戦争の引き金を引いたのだが、それはいま公言する事が憚られるのである。大体は分って居るらしいが、公言は出来ないらしい。戦争バブルの崩壊と1929年の株式暴落による世界大恐慌が起きた。この恐慌は、次の戦争への要因であり、準備でもあった。当時の日本は、この様な世界不況をまともに被った為、国内の産業設備は廃棄乃至、縮小の機運が起こり、東北を始めとした農村部の疲弊をもたらした。
芥川の云う、社会的不安と言うのは、この様な経済的背景を持つものだ。と同時に芥川自身の健康の問題も有ったのだろう。遺伝的な精神疾患の不安におびえた。35歳で死んで、最後に「河童」を残した。「或る阿保の一生」とは、自分の状況を模した物か。解説の本を読んで見ると「主知主義的」なのだそうだ?、いったい何が主知なのだ?芥川は説話物古典に借りて、自分の感情を表現した物なのだろうか?。