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芥川龍之介の「河童」について

2017年10月30日 19時48分35秒 | 日記
 短編「河童」は、雑誌改造の1935年の3月号に発表された。それは、芥川が同じ年の7月24日に田畑の自宅で、睡眠薬をあおり自殺する約4か月前のことである。恐らくこの短編に一か月も要しないだろうから、彼の死の半年前くらいには書かれていた作品であろう。「鼻」や「芋粥」の系統に属するものだと云う認識があるが、しかし、果たしてこの河童が、小生には「鼻」や「芋粥」の様な無邪気で余裕のある、秀逸な作品に属するものであろうか?と感じてしまう、と云うのは、この作品には、声にならない芥川の叫びの様な不安が文章に隠れて見える。芥川の母親は、彼が生まれた後に幾らもせずに身心耗弱の状態となり病院に収監された。秀才の名を欲しいままにした芥川も、30歳を過ぎた頃から身心耗弱に落ちいる事が多くなる。芥川の不安、恐怖は母親の様になることであった。彼の自覚症状の中にも、そんな節があったのだろう。河童はある精神病院の訪問者が、訪ねて行った先の、病棟23号の患者の語る話を記述したものである。書かれている内容は、いかにも芥川らしい筆の運びで、小説と言うよりは演劇の台本と言う趣を備えている。恐らく気の利いた演出家ならば、この作品「河童」は演劇の台本にもなるものだろう。サミュエルベケットの「ゴドーを待ちながら」のような不条理系の作品にも成るだろう。

高1の15歳の時に文庫で芥川の短編を読み耽った。夏休中、風の通る縁側の付いた8畳間の畳の上で、芥川の文庫本5~6冊を積み上げては畳に寝転んで読んだものだ。文章は意外に明晰で読みやすく、ウィットの効いた印象的な文章で有り、これを読んだ子供は文章を真似る上で大きく影響されるだろうと感じた。謂わば文章指南である。表現は簡潔であり芥川独特の言い回しがそこにあった。また幾分説教じみた芥川の文体は、多くの箴言で出来上がって居るのだなと思った。妙に自意識的で、断定的な文体は、ある意味では魅力が有った。知的文体とは何なのだろう?、これが人々を魅了した独特の文章だと思った。彼の文章文体は途中を取り出して提示しても、誰の文体だかが分る特徴を備えている。夏の盛り、森の中からセミの声が頻りに聞こえて来る中で、私の幸せな好い時代であった。当時、出来れば街に遊びに出掛けたかったが、遠く離れた田舎では、それはこの夏休みの間に一度か二度くらいであろう。私は河童の舞台であり、患者23号が河童に出会った北アルプスを望む、梓川の熊笹の道を涸沢まで歩きたかったが、高1ではそういう機会も余り無かった。つくづくその時、私は高校の山岳部に入部すればよかったと後悔した。夏休みに北アルプスへの山行計画が有ったからだ。

精神病院の患者23号の話は、河童の国の社会や制度に言及し、彼我の差を暗黙の裡に語るものだ。なんと河童の国にも、哲学者や法律家、漁師や詩人が居る様で、その河童たちの言動は、如何にもストリンドベリ―やスェーデンボルクを始め、芥川の理解を基にして河童に語らせている。もちろんの事「侏儒の言葉」は「阿保の言葉」となって軽妙に修飾された。うる覚えであるが、大正四年(1915年)に、帝国文学に「羅生門」が発表された。当時、芥川は24歳くらいだろう。昭和二年(1935年)に自死しているから、彼の創作期間はわずか10年に他ならない。この短い10年の創作期間に於いても、彼の作品の傾向は、確かに変化してきている。彼の初期の作品の創作背景となる物は、日本の古典である、「宇治拾遺」や「今昔物語」と言った説話集である。

仏教的な背景を持つ「往生要集」や、私が最も優れた仏教説話集と考えて居る「日本霊異記」も入る。この薬師寺の私度僧である景戒と言う人物には極めて興味がある。景戒は、奈良盆地の鄙びた村に生まれたと云う。この男は色々な職業を経験したのち、薬師寺の下僚として何か正僧の手伝いの様な事をして居たのだろう。私度僧で妻も子供もあるという特異な存在だ。彼に文学的な才があるのを、薬師寺の管主がそれを認めて、色々な伝承を脚色して仏法的な勧善懲悪の物語を作らせた。そう考えるのが普通だ。明らかに日本霊異記は寺側が集めた勧善懲悪の伝説や記録を景戒が、新たに書き改め編集し伝奇集として編纂したものだ。

初期の芥川は、この説話集に作品の原型を求めている。もちろんその説話は大正期の世相に馴染むように組み直され、ドラマチックに脚色される。藪の中などは将に演劇的だ。芥川は長編に挑んで見たが、余り捗々しい物が書けなかった。元々、彼は短編の方が力を発揮できた人だ。もっと長生きしていたら、芥川龍之介は劇作家として多くの作品を書いて居たであろうと思う。道を変更することなく芥川は燃え尽きてしまった。さて「河童」は寓話なのか、切羽詰まった自己告白なのか?は、当人以外にわからない。しかし、自分自身の、一種の病状である自覚症状は有ったのだろう。幻覚を見るとか、幻聴を聴くとか、そこまで追い詰めた物は何なのだろう。創作的な枯渇を意識して居たのか?売文では、食えなく成ることへの責任と恐怖か?、今まで創作で成功してきた名誉が、狂気に陥り毀損される事への恐怖か?。敢えて言うならば、その全てだろう。友人の宇野浩二の病気の場合をみて、己の上にも襲い来る力に深く恐怖したことは間違いない。

河童は北アルプスに登ろうとした患者23号の奇譚であるが、彼はひとり梓川を遡り深い山道を掻き分けする内に、出会った河童を追いかけ深い穴に転落して異界に至った話である。そこには戯画化された人間社会が展開されている。狂う事でしか見えない事も確かにある。言いたかった事は、世相への批判とまた理想とする社会への観望だろう。しかし、この短編が昭和二年と言う時代性は大きく影響して居るに違いない。Sー精神病院のSは斎藤茂吉のSだろう。茂吉の日記は、芥川の自死に驚愕した事を記している。

芥川自身の認識では、この先、謂わば行き先が通行止めであった。行き場を失ったのだ。このような状況に多くの人が陥っている。日本の文明史から云えば、明治・大正・昭和と言う時代は日本人にとって如何なる時代であったのだろうか。250年の江戸時代を生きて来た日本人の生活感覚、それが内戦を経て、明治の代に成り、一歩先を進んでいた西欧の文物を取り入れる。その過程で江戸以来の多くの好い面を捨てた。権利と義務、平等と競争、富裕と貧困、権門と学歴、官僚制度、家制度と家族、医療と年金制度、それらすべてが、現在とは異なるレベルに在る。現在の日本国は、国内消費が十分にあり、輸出に頼る割合は少ない。日本の社会制度は、完成の域に近づいて居る。芥川の生きた大正と昭和の初期は、困難な時代状況であった。

河童は短編であるから、中学校の国語の教材にも成って居るかも知れないので、誰もが読んだ事が有るだろう。世界には、ある架空の動物に託した文明論は「河童」に留まらない。ガリバー旅行記も浦島太郎も異界への憧憬と、現実の批判であろう。生涯の最後に「侏儒の言葉」や「西方の人」、就中、河童を書かざる得なかった人の、心をもう一度振り返りながら、35歳で死んだ青年作家の可能性をかみしめてみたいものだ。

時代の経済的な背景から、芥川の生きた時代を振り返ってみると、彼は1927年に35歳で亡くなって居るから彼のうまれは1992年であった。明治は35年、大正は15年、昭和は64年であった。芥川は明治をあと十年残す時代にうまれ、昭和の初期に死んだ。その間にはヨーロッパの内乱である第一次大戦があった。それは1914年に始まり1918年に終わったから、その間日本は戦争景気に浮かれた。一次大戦が終わると世界史的な多くの事柄が起きた。ドイツの皇帝制の廃止、ロシアでは急激な変化が起きた、民主制な根付かず対極的な意味での暴力集団の独裁制が起きた。その為、この20世紀は多くの無辜の民衆が殺された。これはある意味での宗教的な独裁制であった。その影響は現在にも残っている。1927年と言うと世界大恐慌の直前であり、再びキナ臭い匂いが漂い始めた時期である。この12年後に再びヨーロッパの内戦がおこり、その内戦に連動させられる形で日本は戦争に参加せざる得ない状況になった。

日本の状況は一次大戦の戦争景気も終わり、大戦の反省から軍縮が行われたが、それはまたある意味では次の戦争の謀略の様なものであった。ヨーロッパの内紛である、一次大戦の勃発がなぜ起きたかは、今でも謎である。何者かが戦争の引き金を引いたのだが、それはいま公言する事が憚られるのである。大体は分って居るらしいが、公言は出来ないらしい。戦争バブルの崩壊と1929年の株式暴落による世界大恐慌が起きた。この恐慌は、次の戦争への要因であり、準備でもあった。当時の日本は、この様な世界不況をまともに被った為、国内の産業設備は廃棄乃至、縮小の機運が起こり、東北を始めとした農村部の疲弊をもたらした。

芥川の云う、社会的不安と言うのは、この様な経済的背景を持つものだ。と同時に芥川自身の健康の問題も有ったのだろう。遺伝的な精神疾患の不安におびえた。35歳で死んで、最後に「河童」を残した。「或る阿保の一生」とは、自分の状況を模した物か。解説の本を読んで見ると「主知主義的」なのだそうだ?、いったい何が主知なのだ?芥川は説話物古典に借りて、自分の感情を表現した物なのだろうか?。
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運動物体の電気力学ーA・Einsteinの挑戦

2017年10月24日 21時09分38秒 | 日記
 G・ガリレイの世界認識では「運動の理論」は、時間・空間・物質はそれぞれ独立な概念であった。これは、謂わば経験が教えるところである。何ゆえそれに疑問を持つのだろう。物と時空は独立であって不都合な事はない。それが20世紀が、始まるまでの状況であり、それが、余りにも当たり前の事実であり、自然な事であった。然し既に、マックスウェルの時代になると電磁波の問題が出て来るのだ。ある意味ではJ・C・マックスウエルは、その仕事から、見えない形で問題を提示していたのである。つまりマックスウエルの電磁方程式は、それを素直に解釈すれば、相対論は行き着く結論なのである。光速度の問題だし、光が何に依って伝わるかと言うことです。多くの人達は、光が伝わる為の媒質を考えようとした。その提案はエーテルの様な奇妙な物が多かった。マイケルソン・モリーの実験は、光の不思議な性質を焙り出したが、その奇妙さを合理的に説明する事が出来なかった。観測者がどの様な速度で動いていても、光の速さは常に一定である。という実験結果は、我々の常識からは、そう簡単に受け入れられるものではない。これは、我々の常識であったガリレイの運動の法則を逸脱する性質のものであった。この実験結果は、ローレンツ、ポアンカレなど、皆は色々悩んだが、上手い媒体が思い浮かばなかった。彼らは光が何かの媒体の中を進む波動に一種だと過去の経験に照らして判断していたのである。

そこに現れたのが、思いもしないEinsteinの特殊相対論である。Einsteinは、エーテルの様な光が伝わる為の媒体を仮定しなかった。相対論は、最早、光の媒質は考慮されてい居ない。そして光は速度の限界として導入され、時間・空間は独立の存在では無く、互いに関係しあう繫がりを持つものとして解釈された。高速度に成るに従い空間は収縮し時間は延ばされる。見方を換えれば、ごく自然に簡単な前提より、E=mC^2が出て来る。余りにも簡単な前提から、この重大な結果が導かれるのには驚いて仕舞う。ある意味では恐るべき本質である。で、この特殊相対論はすべての理論の土台となった。これが破れれこの上に立っている理論的建築はすべて崩壊する。20世紀の初期に現れたこの理論は、現在、我われが到達した最も基本的で重要な自然認識の前提になっている。しかも相対論は古典物理の中に分類でるもので、そのもう一つの現代物理の土台である量子理論とは異なり古い量子論以前の物理の範疇に属するものだ。

この相対論はその意義を順当検討するならば、天動説から地動説への変換を図るものだ。コペルニクスから1900年も前、サモスのアリスタルコスやエラトステネスの古代の地動説が、プトレマイオスやアリストテレスの天動説に駆逐された如く、古代の地動説は消えて仕舞った。此処に何があったのか、私は不思議でならない。宗教の妄想がそうさせたのか?、それとも別な理由があったのか?、瑣事に成るがコペルニクスは、アリスタルコスの地動説を知っていた。ゆえにコペルニクスの最初の原稿ではエラトステネスやアリスタルコスの地動説に言及している。しかし、地動説は自分が発見したのだと云う事を協調するために、彼らへの言及を削除したことがわかっている。さもしい事だが、事実にはこの様な側面があったということだ。では、コペルニクスは2,000年ちかく前の古代の地動説をなぜ登場させたのか?、ということだ。

コペルニクスは古代の地動説を読んでいたことは間違いない。彼の当時でも世界中に天文家は沢山いた。最も初期では、ブルーノや宇宙は無限であると云ったクサのニコライ達がいる。ブルーノはカトリック教会の教義に反した̚廉で火刑となり丸焼きに成った。些細な事で燃やされてしまった人が多くいる。コペルニクスはその危険性を知っていたので、生前の出版は取りやめた。己の死後に出版してくれるように依頼している。現代とは異なり、教会の専制はあらゆる分野に及んでいた。誠に窮屈なイデオロギーの世界である。自然認識がい如何に事実に即した物であろうと、強制的なイデオロギーが存在すると真理は反故にされるのが、今までの歴史的教訓である。一神教というものが人々の精神の自由を阻害して考え方や価値観を歪にした。今更、カトリックの価値観を押し付けようとしても通じまい。

相対論がもたらした世界観の変更は重大なものであったが、我々一般人の生活が変わるか?というと、何も変わらない。相対論の効果が現れてくるのは、物体の速度が光速度に近く成ってからの話であるし、我々の生活上の環境では何らの変化も変質もない。ただ、相対論以前には時間と空間は別ものだと、多くの人は考えて居たが、これは変化がもたらされた。時間と空間と物質は、つながった物だと云う事が確認された。空間が無ければ時間はない、そして物質もない。どれか一つが独立に存在する物では無い。つまり時空と物質は、何か同じ物の、異なった側面だと云う事である。

そうすると面白い事にカトリックの教義の一端が対象となる。つまり霊という彼らの妄想のことだ。生と死を分ける世界観のことである。そして、これらの問題は、現代でも関心を持つ人たちが、相対論への関心以上に多くいる。ここで、その本質を考えてみょう。それは我々の自己意識と深く関係している。自己とは、過去の多くの独裁者の欲望とは異なるもので、自己を深く突き止めようとすると、自己という物は本当は存在しない事に気が付く。自己とは衝動に突き動かされた本能の欲望を言っている場合が多いのは、それは誤謬に過ぎない。事故が生まれて来るのは経験や認識の反複から起きる。我々の衝動は、自己保存と自己増殖という基本的な目的から成って居る。この地上の生物は植物を除いて、他の動物を食う事でエナルギーを確保している。尤も植物でさえ、太陽光を求めて争いが在る。動物に関しては他の動物を食う事が宿命だ、それ以外に自己保存のエネルギーを確保する手段はない。

動物の場合は、基本的に他の生きている動物を食う事から始まるのだ。それが自己保存の宿命となる。我々は他の生きている動物を食うのは、道徳的に好しとはしないが、それでも食わねば自己保存が出来なくなる。次に自己増殖の本能である。生物はオスとメスを作った。これがどうして出来たのかに付いては未だに決定的な理由が見つからない。しかし、これにはそれなりの合理的理由があるはずです。自己保存の為に自己意識が生まれたと考えるべきであろう。オスとメスは生殖の形式が異なるだけで、本来は二つで一つの物である。オスとメスは二つで生殖的には完全な形となる。この辺はプラトンが云う通りだ。

故に、二つの生物的側面であるオスとメスは、体の構造も異なるし、厳密には心の構造も異なって居る。もちろん心臓の機能や肝臓腎臓などの機能は同じである。ただ生殖器の構造と機能が異なる。そしてそれは脳の気質にも表れて居て、こころを司る脳の性質の、感じ方、働き方、発動性、が異なって居る。もちろん働きの機能も異なる。霊的な性質と云う事で云えば、女の方がどういう訳かより本能の力を受け易いし、じじつ本能の力を感じ易いのである。男はその点は鈍感な場合が多い。自然は実に不思議なものだ、生命の継承にオスとメスを作った。人間に関していえば、遺伝的な基本形はメスである。メスからオスが生まれたと言えそうだ。メスが色々なオスを選ぶ。オスもメスを選ぶ。だが基本的には生物的には、オスはメスを選んではいけない。メスはオスを選べるが、オスは選んではいけない。それが自然の形態だ。優生学はマーラーの様な遺伝学者から始まったが、品種改良は人間には向かない。

相対論とだいぶ離れてしまったが、自然認識の拡張が相対論を主軸に為された。それは我々を取り巻く世界の認識的な拡張であった。誰しも相対論以前には、空間と時間の関係や物質とエネルギーの関係について具体的な認識をした事はない。ただ漠然と日常の常識的関係がどこまでも通用すると信じていたし、例え、それが破綻するにしても、どんな形で破綻するか?想像も出来なかった。相対論は、その破綻を具体的に数式で表して見せた。その数式の意味するものは実に驚くべき結論を用意して居たので有った。それが現代物理の方法論的支柱になった。この発見の意味は大きい。そして20世紀はまた、別な原子論的な世界観を具体的に発見したのである。プランクに始まる量子的世界像の発見である。この分野は相対論以上に常識の範疇を逸脱するものであった。これこそが、現在の今につながる最先端の源泉である。

特殊相対論は光速度の普遍性を軸に、我々の時間と空間の概念を、更に物質とエネルギーの関係を大きく変えた。その影響は物理学史上最大の業績のひとつだ。この影響は私たちの世界観、価値観をも変えずには置かなかった。古代以来、永い時間を宗教と言う架空の人間関係を模した世界観で封印されて居た世界が、大きく揺らいだ。ガリレイの時代であれば、アインシュタインはキリスト教を冒涜したとの罪で火炙りに成ったであろう。人間が自意識と心を持つ限り、自己を律する尊敬や愛、仁や考、礼や智、と云った心を律し自意識を抑える倫理項目が必要なのは言うまでもない。こういう人間社会の倫理項目とは相対論は対立しない。科学的な進歩が人間性や社会構造の進歩につながる事はない。人間の認識的な蓄積は世界認識の深化になるとしても。直接人間の変化にはつながらない。

「運動物体の電気力学」という論文で始まった相対論は、光速度の普遍性により、光に近い速度での運動物体の縮小、時間の遅れ、物質とエナルギーの等価性など、この世界の本質を考える上で、最も基礎的な考え方の枠となった。未来にもつながる運動学の基礎が確立されたのだ。 それは空間の性質をも規定するし、時間という対象の本質を明らかにした。こうしてEinsteinは、20世紀という物理学の世紀に絶大なる影響力を与えた。彼の業績は、古典物理の範疇と、現代物理の(確率的と言う意味だが)範疇とを跨いだ形になっている。しかし、特殊相対論はポアンカレやローレンツ、フィッツジェラルド、などが何れは完成させたかも知れないと言う事を主張する人が居る、然し、私はそれを疑う。数式的にはEinsteinの論文と同じ物が出て来たが、その解釈はポアンカレでは無理だったろう。ポアンカレは将に偉大な数学者であり位相幾何学や三体問題のカオスの既にある意味では予感していた程の凄い人だ、且つ物理学の大家でもあったが、老人のポアンカレの柔軟さは失われて居たと思う。ブラウン運や一般相対論はEinsteinでなくては、恐らく完成させることは出来なかったであろう。やはり20世紀の最大の物理学者であり、史上最高の世界観の革命家でもあった。思うのだが、特殊相対論のあんな簡単な数式を捜査して、その光速度一定の原理と相対原理から、なぜ等価原理の様な、トンデモナイ物が出て来るのか?

そんなEinsteinが、教師に見放された劣等生であった事は、誰しもいぶかるに違いない。言葉を話し出すのが遅く、5歳になってもろくに話が出来なかったとの両親の話がある。どうしてもギムナジュームに馴染めず、父の電気化学事業が失敗して、アルバートは17歳でスイスに移住して、そこのギムナジュームの4年生に編入学させてもらった。一年間の高等中学生(現代の高校)の後で、スイス連邦の実科学校であったスイス連邦工業大学(ETH)に入学願書を出して入学試験に挑んだが、数学を除いた学科の成績が悪くて不合格になり受からなかった。学長は、Einsteinにもう一年間、高等中学で歴史とラテン語を学び直して来れば入学させようと言った。そうして、彼はスイス連邦工業大学に入学している。

入学してからも、好きな講義には積極的だが、余り関心の無い学科には出なかった。家でバイオリンを弾いたり、友人たちと飲んだり、スイス国内の観光地を歩いたりして、ろくに授業に出なかった為に、ETHの学年主任の評判は好くなかった。実際、彼は教授たちから怠け者と思われて居たのだ。それで、卒業の後に出来ればETHに、助手兼研究生として残りたかったらしいのだが、それも叶わず就職先が無かった。これは困った事に成ってしまい、父は心底心配して、物理化学者として有名なオストワルドに、救済を依頼する私信を書いて居る。2年くらいの無職の浪人の後に、何とか友人の伝手でスイスのベルン特許局に職を斡旋してもらった。やがて目立たなかったスイス連邦工科大学は、Albert・Einsteinの出身校として、後に世界的に有名な大學と成り、今では世界中から理系の留学生が集まる有名大学となったのは皮肉なことである(笑)。

大學の友人の父の紹介で入った特許局の仕事は、それで何とか、自分で食う事が出来る職業を貰ったアインシュタインは、安心して物理学の基礎に付いて考える余裕をもつことができた。彼が1905年に書いた革命的論文5編のすべては、ここの特許局の仕事の合間に書かれたのだ。むしろ、物理学的研究の合間に、特許局の仕事をして居たと云うべきだろうか(笑)?。余業に理解のある上司が居たのだろう。これは、S・ラマヌジャンの場合と同じだ!。ラマヌジャンの場合も、数学の研究に理解の有る港湾経理事務所の所長、イーヤーという上司が居なかったら、あの神にも近い能力を発揮した数学者は埋もれて仕舞い、決して世の中に出る事は無かったであろう。それを思うと人類の歴史の中で、どれだけ埋もれて仕舞った天才が居た事だろうか?、と私は考えてしまう。

特殊相対論を作り上げたとき、その空間の性質を理解する為の幾何学として、「リーマン幾何学」を提案したヘルマン・ミンコフスキーは、アインシュタインのETHでの指導教官であった。この有名な数学者は、特殊相対論という革命的な論文を書いたEinsteinが、過って自分の生徒であったアインシュタイン本人である事を知った時、「あの怠け者のEinstein、が…??」、と驚いたという。それも全く皮肉な逸話であろう。ミンコフスキーはEinsteinを見誤ったのである。彼は、今で言うと「アスペルガー症候群」という概念に似た症状であったのだろう。「神は老獪にして」また、「アインシュタイン語録」には、深い豊かな言葉に溢れている。たぶん学校秀才には、おそらく書けない言葉だ。矢張り真の天才を生むのは、教育では無く大自然であると云う事なのだろう。

特殊相対論の帰結で、同時性が成り立たなくなる場合のこと。等速直線運動を続ける慣性系内での思考状態と、それを観測している人物の思考状態は、内容には本質的変化は無いが、思考の速度、或いは思考の時間には変化があると思うべきだ。それは未だ議論されて居ない不思議なテーマだ。明らかにここには人間の一生を通じて経験のもたらした結論にまで至る時間の長短にある。どの慣性系に乗って生きた方が深い時間的な猶予が与えられるか??。

だが、物理学の革命は、Einsteinで終わった訳ではない。未知の問題は山ほどある。物質から生命体の発生もまた、物理学的な謎の一つである。物理と化学と生物学と現代ではその守備範囲を分けているが、これも誤りだ。一つの原子から遺伝子まで、それは繋がっている物であり、いわば一つの実体なのだ。現代では、それが異なる分野として思われている。しかし、それは間違いなのだ。宇宙の創生と生命は、元々つながっている一つの実体なのだ。だから是は一つの存在の異なる実体として考え、研究すべきものなのだ。人の心が宇宙の深淵を理解出来ると云う事は、それは元々一つの物であるからに他ならない。そこには、当然の事ですが、新しい学問のスタイルが現れるはずです。それを探究しなければならない。原子から分子を経て遺伝子まで、ひとつのメソッドで表現し本質を把握する方法論だ。その統一的方法論こそが21世紀の真の学問となるだろうと思っています。
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寡黙なる巨人ー免疫学者多田富雄氏の場合

2017年10月20日 23時06分44秒 | 日記

 20年以上も前のことになろうか、「免疫の意味論」という著作を読んだ。免疫学者多田富雄氏のEssay論集である。これは確か青土社の雑誌「現代思想」に連載された著作を元にして、それに加筆した本では無かったか?。生物の免疫が如何にして形成されたか、その免疫機構の意味と動作メカニズムを知るに従い、生命の持つ「自己」とはいったい何であろうか?、という謎に出会い、その不思議な思いを懐き続けた記憶がある。その意味で、「免疫の意味論」は自己と他者、その境界の本質を解説した名著であると思う。免疫機構は実に複雑怪奇で、明確な認識の下に理解を進める事は実に難しいとそのときに思った。生命の本質は地球環境下で発生した原生生物の複雑化(進化)により、より高次な生命体への変化であり、それは、自己と他者の差異、謂わば、つまり「自己概念の確立」にあった。免疫学は、殆んど無限と思われる種間の差異と、その他種との共生の由来を解く歴史なのだ。

だが然し、上に挙げた本「免疫の意味論」は、多田富雄氏の学問上の業績を詳細に語る物では無い。遠い昔に「免疫の意味論」を読んだ時から、むしろ、私は多田富雄氏の世界認識に魅了された。多田氏は医学的免疫学に留まらず多様な趣味をお持ちである。いや趣味と言うコトバのレベルを超えたそれは深い高度なものであり、その方面でも日本文化の神髄に迫る人にも思われた。その多田先生が免疫学の分野でも実に多くの活躍をされて居た、その時に病魔に因る悲劇に襲われたのであった。

所謂、「脳梗塞」である。私の同僚にも、友人にもその病魔に襲われた人が居る。この疾患は、血管を持つ生物ならばどんな生き物にも起こる可能性が在るものだ。私自身にも、脳に限らず様々な血管の梗塞が加齢と共に起きるかも知れない。「脳神経」は実に微細な機関であり特に酸素を必要としていて酸素欠乏に弱い。脳血管に血流の閉塞が起こると、その血管から酸素と養分を期待して居た脳細胞の梗塞部分は本来の機能を失ってしまう。血管の梗塞は脳でも心臓でも、細胞死という致命的な物に成る場合が多い。この本は、その病魔に出くわし、それに正面から耐えた記録である。そして、この本は「免疫の意味論」とは異なる次元での深い生命洞察の書でもある。

また謂わば「脳梗塞」は、ごくあり触れた疾患でもある。加齢と共にその頻度は増大し、「長い精神集中や、睡眠不足・ストレスなどで」、脳の負荷が溜まった際にも発症し易い。勿論水分の不足も同様だが、我々の現代の生活は、江戸時代の様に、「朝日と共に起きて夕日と共に寝る」という、自然のサイクルに即した生活ではなく、夜半まで起きて活動している時代である。様々のストレスに晒される日常は、当然の如く、この様な脳血管の疾患を生みやすい。おそらくは私自身も微小な脳梗塞を起こしているに違いない。これが大きく来た場合には直ちに重篤な事になるだろう。脳の梗塞が部分的にでも機能を奪えば、当然の事だが体の随意運動を不能にする。そして、梗塞が言語野を襲えば、ことばを失い、音声の発声を制御できない。また高次の抽象的な思惟力、推理力、想像力を不可能にするだろう。恐るべき事態に遭遇することに成る。

さて、「寡黙なる巨人」であるが、この本をお書きに成られたのは、「脳梗塞と言う」病魔に侵され本来ならば免疫の世界的権威として、縦横無尽にご活躍されて居たであろう日常が、突然に奈落の底に落とされた状況に立ち至った。おそらく知らず知らずの内に、多忙さゆえの疲労が蓄積して居たのであろう。ところが、多田先生は、病から回復された後、その前駆症状を書き綴っておられる。その一つ一つは、今まで患者と言う立場にはなかった活動的で健康な日々を送って来た有能な研究者の立場であった。多田先生は、ご自分でもお書きに成られているが、「常に日の当たる道を歩いてきた」と仰られる。「そういう人間は逆境」に弱いとまで、自分の立場を鋭く認識されて居る。この様な客観的認識が、知性の現れでなくして何であろう。

その前駆症状は想わぬ感覚から始まったと云う。海外出張や講演など、多忙な日々を過ごし、僅かに空いた時間を作り、友人と一緒に久し振りの食事をしようとして、注文したワインの入ったグラスを持ち上げようとした時、ワイングラスは、テーブルに張り付いたように重かったという。既に意識はされて居ないが梗塞の症状は明らかなのだが、本人は意外と気付かない事が多い。従来から多田先生は健康そのもので、殆んど重い病には掛った事が無いと云う、幸せな歳月を過ごして来られひとである。中々、自己の病変の把握は難しいものだ。氏はそのディナーの席で急に倒れ、本人はおろか、友人もさぞや驚いた事であろう。その時は明確な意識があり一過性のものの様に思われたが、救急車で運ばれてから、再び梗塞が起きた。右半身が麻痺したと云うのであるから、左脳のどこかに梗塞が起きた。その範囲次第では、重篤な物に替わるだろう。下手をすると死ぬ可能性もある。

この様な疾患が、一応進行を停止し病状が落ち着くと、今度は様々な機能回復訓練が始まる。その中で多くの事柄に出会い考える事も多くなる。多田氏の脳裏には、健康な時に立てた計画が目白押しで有ったが、それもすべてご破算となった。ある意味では無念であった事であろう。海外講演旅行、表彰の栄誉、外国の友人との交歓など、健康な時の計画は無となった。まだまだやれると感じていた研究者としての活動も御破算となった。氏の絶望感は痛いほどよくわかる。しかし多田さんの人間としての存在は、外面だけではなく内面も含めたものである。多田先生は、その人間的な内面も優れた人であった。これが氏を、ある意味で救う事に成る。物を考える優れた知性と、日本文化の神髄を探究する哲学者の側面も持っている方である。特に能楽に関しては玄人の域に達して居る人である。私も能楽には興味があり、能楽堂での本物の実演は見た事は無いが謡曲の本を読む事は多かった。

この様に、多田富雄先生は、不慮の病魔に侵されて、日常の計画がすべて無に帰したのだが、しかしその分健康であったら触れる事にできない人間のもう一つの部分に触れる事が出来た。勿論だが、梗塞は経験しない方が好い決まっているが、病魔に侵されても人間としての内面は失われる事はないと信じたい。

さて多田富雄氏の場合は、御自分の趣味が現存在を救ったのだと思います。能楽ですね、先生は能楽がご趣味で有ったという。それも本格的で玄人の域にある。能という演劇が、この世の愛憎の話から派生するにしても、舞われる時空はこの世とあの世のあいだの境であり、謂わば中陰の次元である。何かが気にかかり成仏できぬ魂の、この世への吐露である。ひとは、いろいろな思いを抱いてこの世界に生きている。生まれながらに人はみな異なって居て、能力も容姿も、貧富も運命も、みな違いがある。中には親の因果が子に報いと言う様な、古風な因果応報を口にする人も居るが、でも、そこまでは無いだろう。ただし、親から受け継いだ遺伝情報は変え様の無い物だ。むかしの人はそれに因果応報を見たのかも知れません。能の話は此処でするつもりは有りませんが、ひとつだけ多田先生が、ご自分の境遇を能の演目の中の一つに見立てて、その苦しさを語っているのが残りました。

果たして自分と言う存在とは何なのだろうか?もしかしたら自己という物は、何かの錯覚であるかも知れない。自己という物は実際には存在しなくて、記憶の再生や、快不快の反応の中に、記憶の影のように見えるものの中に自分が在るものなのであろうや?、多田氏はここで小林秀雄について言及されて居る。それは世間一般の小林に対する難解との感想が、実はそうでは無く小林秀雄ほど物事を明快に語り、且つ表現して居る人は居ないと云う感想である。私もそう思う小林秀雄は、実に謂いたいことを直截に云っているのであって、彼ほど明快に語り書いて居る者は広く見渡しても多くは居ない。

この「寡黙なる巨人」の著作の帯に小林秀雄賞受賞とあるが小林秀雄への言及が賞の対象になったとは思わないが「考えるヒント」のEssayを思い出させることは確かだ。小林の「本居宣長」も好いけれども、彼の真骨頂は、考えるヒントの様な短文の評論にある。その、一巻、二巻、の中に傑作がある。ここには小林秀雄の真骨頂があるのだ。それから有名な数学者である岡潔先生とも対談が有る。対談は面白く、小林秀雄よりも岡潔の方が一枚上手であるが、小林秀雄は岡潔に振り回されている印象が深い(笑)。

最後に、多田富雄先生のご著書の中で特に記憶に残る部分は「愛国心」と「日本人の宗教観・自然観」に付いて述べた個所である。愛国心は、戦後の世論や教育で無視され、「流行らなく」指導されてきた物の代表である。私もその語られない愛国心の事で、暗黙の指導を受けて来た一人なのであろう。だが、私は凡そ、その学校教育の中では、指導された事を何でも、その通りに飲み込む性癖は無かったので、暗黙の反日的指導には、明確には気が付かなかった生徒なのだが…。だが人間としての存在基盤と言う物は、その人の生まれた国の、歴史的伝統の中にしか見出す事は出来ない物なのだから、生まれ育った国の、文化の素養基盤の無い人間ほど不幸なる者はない。本来の愛国心とは伝統への帰属意識であり、伝統が築き上げた個人の心と言う物であろう。 永い歳月を経て形成された文化的伝統は当然の事だが、個人の存在理由と切り離す事ができないものだ。それは遠く縄文以来からの伝統でありそれが日本の素顔である。誰が何と謂おうと、私はこの国の伝統文化を心から崇敬し、日本人として生まれた事に大きな誇りをもっている。

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サイバネティクスから分子情報論へ

2017年10月09日 07時51分44秒 | 日記
 サイバネティクスは1940年代の終わりころ、USAの数学者N・ウィーナーが、通信と制御という概念を中心にして、その本質である生物体の細胞レベルに於ける通信と制御を、機械的に模倣する技術的な側面を探究した分野である。この通信と制御と云うカテゴリー自体は、工学の基礎中の基礎であり、特別に目立って新しい概念では無い。しかしウィーナーの着目点は、生命体の構成とその原理を探究し、それを当時の最新の分野で有った電子計算機と結合する事で、製造設備やフィードバックするオートメーションなどの社会的に大きな影響力を持つ分野を考究したことである。彼がこの分野の科学の想像図を描いて居た頃より、現在(2017年)のサイバネティクスの科学は、遥かに強力な電子計算機が出現しており、将来は量子計算機が制作されて、更に高度なセンサーを具えたロボットが共に出現するだろう。量子コンピュターは、まだ完全ではないが製作されており、すでにこのシステムに関するアルゴリズムが創造されている。とすると、これは現在の人間の労働環境を一新する可能性に溢れて居る。これに学習する機能を付け加えた、更にAI人工知能が進展しつつ在る中、現在ウィーナーのサイバネティクスは、その当初の枠組みを遥かに超えて、新たな次元に入ったと見る事が出来るのではなかろうか。


依ってこれ等を前提に、分子遺伝学や生物進化論の適応を、フィードバック機構と読み替えれば、分子進化論、分子遺伝学、言語学、を生命体のネオサイバネティクスと読み替える事も可能である。数学で云う幾何学と代数の統一も、この分野とは直接の関係は、今のところ見出せないが、まったくの無関係とも言い切れない。


人造人間(ロボット)の系譜は神話や旧約全書の中にも散見されるが、近代にいたってはゴーレムの神話やシェリー夫人のフランケンシュタインの怪物、チャペックのロッボット、お伽噺の魔法使いの弟子、果ては漫画の鉄腕アトム、サイボーグ009、など、枚挙にいとまがない。これ等は明らかに人造人間の広い意味での範疇に入れても良い。 然し、伝説や空想では無く、真の意味での人造人間を、真面目にと云うか、数学を基にした工学への応用として構想した物は、ウィーナーのサイバネティクスが最初ではないかと思う。人間の持つ機能を強化しょうとして、人体に工学的は補助機能を持たせること、そして、やがては思考その物をも代用可能な物として進展させる事。これがノーバート・ウィーナーのサイバネティクスの未来への長期的な展望と構想であっただろうと思う。しかも、この構想は電子計算機の驚異的な発展と共に、現実化が段々に進みつつある。

最初、ウィーナーは、人間と機械の相互機能の拡大、進化を目指して、サイバネティクスの命名で、通信論と制御論の統合された分野を形作った。これは1950年代という、原子力と全く初歩的なコンピューターが出現した時代の或る意味での必然の表現でもあった。しかし、ウィーナーの構想の真の実現は到底成し得る物では無かった。通信と制御を通じて人間と機械の共生を模索したのだが、それは実現には遠い夢物語に過ぎなかったと思う。だが漸くその構想が実現の域に達しつつある。それはマイクロ・コンピューターの驚異的な発達である。初期の電子計算機が出現した当時に比べて、現代のマイコンは当時のメインフレームの一万倍の能力を持つコンピューターが安価に手に入る時代である。この電子計算機をフルに活用して、人工知能の進展が著しい。ウィーナーの夢は、漸くにして実現の為の出発点に立ったと言える。


そこで現代の時代的状況から、分子情報学を構想してみたい。比喩的に原子を音節と見れば分子は単語である。その単語はやがて膨大な時間的な経過の中から、一つの偉大な文章を構成する。そのプロセス現象の変動と創成の過程を考えて見たいと云うのが分子情報論の試論である。分子情報論とは、生物の大方の機能のプログラムが記載されている遺伝情報の形成と、そのデータの発現のプロセス解析と、また機能の意味を解くことを目的としている。思うに、生物のDNA遺伝情報は、生物が環境への適応力を示した適応と、ある意味での偶然に支配された歴史である訳だし、それは生命の起源からより複雑化する進化の過程で、幾多の適応の記憶がDNA上には刻印されている。その経験の総体を分子構造が織りなす多様性記録として分子情報論を展望してみたい。

DNAには、過去の様態が記録されている。今から10年ほど前に、ある個体のDNA分子情報のすべてを読み取ったと云う記事が出た。ある個体のDNA情報のすべてを読み取ったが、それは、読み取っただけで解読した訳ではなかった。いや、殆んど情報の意味を解読出来てはいない。一口に言えばDNA(デオキシリボ核酸)の文法が僅かしか分らないのだ。なぜ、その様に構文が創られるのかも分らない。基本的には4つの塩基を使ってDNAは組まれているが、命令は3つの塩基が対応するという。

問題の本質は、構成の原理である。


NO1-「原子から分子構造へ」

生命の起源と進化
「種はなぜできるか?」

自然のもたらす環境条件への適応?

ごく自然に?ー 自然と言うのは、謂わば分枝拡散構造と云うべきなのか?

何故、自然環境の条件の変化が分る?

わかるのはどの部分?ー 生命に部分という物は無い。

そうでは無くて、生命は自らの進化に、その感受性で環境を体得しているのか?ということです。

DNAは、考えるのか?ー 問題は最先端部分の提案であろう。いまの所、考えている様に見えるという解釈も

確かにある。然しながら、考えると言う様な曖昧なものでは無い。もっと必然のものだ。

方法論としての科学は、対象間の関連性の糸の追求です?

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移ろいゆく季節

2017年10月08日 22時04分31秒 | 日記
人生の悲哀を知ることなく、
淡々と歩いて居た、少年の時代がある。
観照とは、若い時代には知る事のない物だ。

未来が既に残り少なくなり、過去を振り返る時間が
多くなって分かることだ。

秋の空を赤トンボが飛翔している、
それは、最早空気よりも軽く、
夕焼けの空に浮かんでいた。

雨風に揉まれて、傷ついた翅は皺が寄って、
しかも所々が破れているのだ。

トンボは、中空を羽ばたき静止したまま
私を見つめるようにして動かない。
それでも不思議と空に浮いているのだ。
既に疲れ果てた、仕草の中にも
ジーッ、と私を注視しているのだ。

それからトンボは、南天の葉に向かい、
赤い実によじ登り、軽い体を再び飛翔させた。

過って、母トンボの尾より産み落とされ、
田川を流れる水中に、幾歳月を過したのだろうか。
トンボはヤゴとして過ごした水中の日々を
静かに思い出しているのだろうか?


今にも、南天の実より零れ落んとしている赤いトンボよ
お前は、この大空で幾日を遊び、過ごしたのか?

大いなる空の、湧き立つ入道雲の輝きを見て雨を翅に受け
更に空高く澄んだ巻雲の秋を泳いだのか
永い歳月を、空への憧れを夢見て生きた、水中の日々を。

そして青い空に出て六週間、
地球の歴史と共に、生きた全ての記憶を反芻する赤トンボよ、
確かに、お前は回転する歳月の時間軸の中心に居るのだ、
わたしと一緒に。

もうすぐ、この鼓動は止まるのだが、
然し、いのちの全てはこの静止した時の中心から始まったのだ。

トンボは、私の眼の底を覗き込み、
不思議そうに小首を傾げて、中空を動かない。

しばらく静止した後に、今度は南天の葉に掴まった。
然し、次第に夜露が降りて翅は重くなり、やがて
滴るようにトンボは大地に落ちるだろう。

この回転する地球の生んだ命は、互いに
支え合って、調和したある瞬間だけを生きている。

いのちは、自ずと大いなる自然の創り出した現れで
生物の存在は、掛け替えのない最小作用とエントロピーの奇跡なのだ。

ある時間の後に、セコンドの振り子は停止する。
いのちは、みな同じだ、赤とんぼも、
私もそして貴方も変わりはない。

懐かしい人々よ、私はやっと知ったのだ、
世界に生まれ出で、そして、死にゆく者の
出会いの荘厳なる舞台である事を。
小さな虫たちの死を通じて命の儚さと類ない尊さを。

この存在意識的な世の中と宇宙は不思議な糸で結ばれている、
あなたの胸の鼓動に触れてみなさい、それは地球の鼓動その物だ。
全ての命の中に在る、この鼓動は星雲の鼓動に繋がる物だ。

遠い記憶を甦らせて、今在るこの時間の意味を辿ろう。
人の認識できる果てまで。生まれる前に有った世界を
再び歩くまで。

如来はこの世界に満ち満ちている、私たちはその事をただ単に知らないだけだ。
それを知ること無くして、生命の存在の意味という謎は解けることが無い。
凡そ、この世界という物は、また生命という物は、
ある段階を踏んで魂を高みに導き育てる為の学校なのだろう。
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