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高校教科書ー世界史をよむ

2024年01月30日 07時21分01秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 空から降った雨粒の一つが集まり小さな流れとなる、その流れは川となり川は地形に沿って集まり大河となる。大河は未だ未知の海へと流れ着き、そこで再び雲となり山々に当たり雨粒として山河を濡らす。水がこの世界の円環の様に雨粒の一滴が歴史でありそれは再び流れとなる。歴史とはこの雨粒の一滴がこの円環のどこにあるかを知る為のものである。歴史には嘘が付き物である。それは自らの非道を後世に残したくない意図から出ている。過去、歴史は戦争の歴史であった。勝った方が敗者を裁く、だがそれが本当の歴史ではあるまい。

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渋沢栄一の生家「中の家」を訪れる

2019年10月20日 07時22分23秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本
 十月の中頃、5年後に一万円札の肖像になるという渋沢栄一翁の生家を訪れた。渋沢翁と云えば、江戸時代の終わりから維新まで、開国日本の背骨の一つである産業国家の土台創りを成し遂げた稀有の人物でもある。渋沢の家系は、頭脳明晰で知的優秀な家系らしく、孫や親戚から何人もの一流の学者を輩出していた。栄一の人間としての矜持や哲学は、彼の従兄で10歳年長者の地元の漢学者である「尾高惇忠」による影響が大きい。終生に亘って、渋沢が事業を進めるに当って論語を離さなかったのは、この「尾高塾」での子供時代に、心に沁み込んでやがては信念となった論語の道徳哲学が人生の羅針盤になった為であろう。近代的資本の原理の中で、ひとの金で商売をするからには、その仕組には、先ず第一に不可欠なのは「信用」と言う二文字である事は自明であろう。彼は事業を進めるにあたって、この信用を第一に徹底した。企業であるからには、もちろん利潤は重要だが、利潤のみが第一で有ってはならない。利潤、「それは信用と誠実に付いて来る物だ」、と言う認識である。渋沢の著作は数多く素晴らしい物がある。「論語と算盤」も、そうだが、彼の自伝である「雨夜譚」なども興味深い。それにしても「徳川慶喜伝」は大部の著作である。栄一は主君である徳川慶喜を深く敬し理解していたのだろう。この伝記は出版されてはいるが、余りの浩瀚な大冊である為に幕末明治史の研究者でもない限り、全てを読み通すのは余程の根気が要る仕事だ。つまり幕末史の研究者でもない限り読まないと謂う事です。

私が改めて澁澤翁に興味を持ったのは、むかし岩波文庫で「忘れられた日本人」などの著作を読んだせいであり、また著者である宮本常一を取り挙げた、佐野眞一の「旅する巨人」を読んだことも切っ掛けであった。旅する巨人とは「民俗学者ー宮本常一」の事である。宮本にお金を投じて、津々浦々の全国調査を頼んだのは、澁澤翁の孫であるアチック・ミユーゼアム(屋根裏博物館)の創設者ー澁澤敬三です。敬三は、本来は動物学者になりたかったらしいが、父が廃嫡された為に、敬三が栄一の諸事業を継ぐことに成った。日本民俗学の創始者は、古くはシーボルトだろうと思うが、日本人では柳田國男という事に成っている。然し、澁澤敬三もやはりその創始者の一翼だろうと思う。澁澤敬三は、開国以来の急速な欧化政策により、伝統的日本は隅に押し遣られ、鎌倉室町江戸という文化の元型に、変遷と衰亡の危機が訪れようとして居た明治期、早くも先見の明を発揮し、失われたら二度と復元できない貴重な資料や体験を集める計画を始めた。やがて其れが、どんなに貴重な文物に成るかを彼は明察していたのであった。

血洗島の栄一の生家ー中の家(なかんち)と発音する。「勿論学芸員の方は、東の家(ひがしんち、西の家(にしんち)も有ったそうな、いずれも渋沢の一族である。」中の家は、立派な瓦葺の門構えで、蚕を飼う二階家であった。江戸時代の藍玉の販売で財を成し、その後は生糸を吐く蚕の卵の販売で、現在の価格に直して年間2~3億の収入があったという。家は一度火事で灼けて、大正時代に作り直した物らしい。総ケヤキ創りの誠に豪壮で立派な家である。庭の五坪ほどある深い澄んだ水を湛えた池には、大小の美しい錦鯉が泳いでいた。ああ此れはお大尽の家であると感じた。「中の家」の歴史と建物を説明して下さった方は、本当に淀みなくお話し為さってくださり、その説明には甚く感心しました。色々とお聞きすれば、まだまだ裏話を聞かせて呉れたに違いないが、あいにく時間が無く、裏話を引き出す十分な時間が取れなかった。栄一の数奇な人生と言うか、運命と言うか、実に面白い生涯を送って居る。彼とて人生の分起点になった分水嶺が、一橋家への仕官にあった事をよく知って居たの違いない。「渋沢家三代」これもまた佐野眞一の評伝だが、気楽に読み通せる面白い新書なので、訪れる際には読んでおくべき本だろう。

深谷市では新一万円札の渋沢栄一に沸いて居た。改めて栄一の業績が評価される絶好の機会だろう。説明して頂いた学芸員の方も仰っていたが、渋沢の人生は或る意味では数奇な生涯である。若き18歳の栄一は、高崎城を武力クーデターで占領し、その余勢をかって大老井伊直弼の独裁下に在る江戸まで攻め上る計画を周到に立てていたのである。それは栄一の国家に対する憂国の情から発した物であった。この儘では日本は滅びる。栄一の危機感がその行動を計画させた。クーデター計画は結局断念されたが、同志は幕府に追われて京に逃げざる得なかった。あの温情に溢れる渋沢が、これ程熱いモノを心中に秘めていた事を思うと、彼が後の事業の全てに亘って、日本国家の繁栄と人々の幸せを希求していたかが分るというものだ。事績は渋沢の無私の人物像を描く事ができる。結局、高崎城をクデターで乗っ取り、その勢いを持ちて江戸幕府に開国を改めさせる為に攻め上がるという計画は実現しなかったが、察知されて「関東取り締り出役」の幕士に追われて、同志と秘かに京に逃れた。彼はそこで、徳川一橋家の執事、つまり徳川慶喜の用人にで出会うのである。誠に不思議な縁だが、そこから渋沢の人生は、180度回転変化するのである。倒幕から佐幕への、この変化は尊皇攘夷が流行だった時代としては時代的に錯誤の感もあるが非常に面白い。倒幕から佐幕に替わる事で、此処にこそ渋沢の全人生の枢機を解く鍵が有る。慶喜の弟の昭武に随行し、フランス留学の執事として、金の使い道から生活の心配まで、栄一は細かい事までしっかりと管理している。その過程でヨーロッパの工業力と資本主義経済構造の実際を学ぶことに成った。

西洋、特にフランスを見聞した栄一は、日本に不足している物を直ちに悟ったのである。この儘では日本は列強の植民地になる。如何にして国を富ませ兵を強くするか。これこそが国を建てゆく要である。渋沢が昭武の執事としてフランスに渡って居た時、日本では鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰の役が展開されていた。運命は不思議である、もしも栄一が日本に残っていたら、無事では済まなかったろう。後の同志であった伊藤博文辺りに暗殺されて居たかも知れない。当時は殺伐とした時代だった。明治期に、もしも渋沢が居なかったら、日本の近代産業はあれ程の広範な展開を見ていなかっただろう。栄一の論語と算盤は夙に有名だが、すでに産業資本の在りかたの先取りをして居る。銀行は他人の金を使い廻すわけで、そこには信用と誠実こそが資産なのだが、それを逸脱する利益の追求だけの企業が有る。戦後に初等中等教育の中で、徳の教育、謂わば心を修める修身の機会が失われたために起きた現象だろう。渋沢栄一は日本が世界に国を開き独立国として植民地勢力に対抗した幕末と明治期に於いて欠く事の出来ない人物であった。

歴史を学ぶことは大切であり、確かに遠い過去を探る事も重要だが、過去は現在の歪を見る鏡でもある、またその歪の是正を考える動機と視点にもなる。開国以来、澁澤栄一翁が思い描いていた日本の姿はどんな物であったろう、翁の描いて居た日本の未来はどんな物であったろうか。敗戦で失ったものは物質と言うより心や精神性のものだった。この儘で好い筈がないと渋沢翁の肖像を見ながらふと感じた。日本ではバブルの破裂以来、多くの世の中の安定に資する公正な諸制度が壊された。バブルを煽ったのは時の政府と日銀である。異常なほど紙幣が市場にバラまかれ、世はバブルに踊ったが、結局その附けは国民の税金で支払う事になった。雇用状況に変化が起きて、大多数が正社員として保障された時代には生活は安定したが、正社員の登用は激減して、若い世代は生活の長期的保障と経済的な安定性を失ったのが現在である。こういう事態を渋沢翁が望んで居た筈はない。また渋沢翁も薦めるように古学悠遊である。新しき学ももちろん素晴らしいが、古学も心の陶冶の為に楽しみたい。「古きを訪ねて新しきを知る」何に於いても尊重すべきは中庸なのだと信ずる。
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