三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

神山城

2017-08-07 23:01:42 | 松阪の城

神山城(こうやまじょう)
 
住所;三重県松阪市中万町字川の上 
築城年;延元2年(1337)
城主;潮田刑部左衛門尉幹景(うしおだぎょうぶさえもんのじょうみきかげ)


 神山城は本流櫛田川を南に見下ろし脇に孫川を、向う岸には佐奈川と祓(はらい)川を持つ水運に有利な場所にあり住所が示す通り城は川の上にある。

 古墳時代以前、倭姫命(やまとひめのみこと)が四年間にわたって大神を奉斎した「飯野の高宮」が山頂にあったとある。

 そして1337年、標高130mの頂上に神山城は築かれた。このとき「飯野の高宮」がふもとの神山神社に移された。

 また頂上には天台宗延暦寺派神山一乗寺が現存し庭はシーズン(梅・桜・サツキなど)に訪れたい趣がある。北畠氏によく保護された古刹の風格が感じられる。

 城は東西に150m、南北100mの台状地とその間に堀や土塁がある。一番西の一番高い台状地は40m×45mで主郭を成しその下に20m×25mの台状地が続く。その間に堀切が南北に通る。



 三つ目の台状地が東側に続くが平坦地ではなく尾根をそのまま使っているような気配もする。

 主郭には幅10mから15mの帯状地が巡らされている。その外周に総延長50m基底の幅5mの土塁が巡る。



 神山城は南北朝時代の初め田丸城を中心に一之瀬城田丸城、近津長谷城、五箇篠山城、岩出城とともに南朝方の軍事的拠点として築かれた。

 しばしば両朝の攻防が起こった。延元3年(1338)12月、城主、潮田刑部左衛門尉幹景は城に立て籠もり警固する。延元4年(1339)8月の後醍醐天皇の死後は北朝方の軍事的圧力が一段と厳しくなり高師秋の大軍が8月28日より9月10日の間城を包囲した。

 潮田幹景や加藤定有・伴兼隆らは籠城して城を死守し、9月11日、逆に城外へ討って「立利縄手(*1)」で戦ったという武勇伝が当時の軍忠状に記されている。(軍忠状=恩賞をもらうために書き綴った証拠の書状で自分の戦いを見届けた人に署名をもらう。延元4年(1339)に書かれており、戦いが終わって息も切らさず申請した幹景の思いが今日でも伝わってきます。)

 しかし4年後の興国3年(1342)1月、高師秋、佐々木高氏に加え仁木義長の助勢を得た北朝方は南朝方の拠点を次々と攻め8月には田丸城を攻略している。

 その頃本城も北朝方の手に落ちて仁木義長が入城した。神山一乗寺も仁木軍の神山攻めにより戦禍を受けた。その後北畠氏により神山一乗が再建されよく保護された。

フォトチャンネル 
神山城



地図;


 近くにオダケ館跡がある。又村跡の発掘も行われておりこれら城、館、村は一帯の田を含めて中世の荘園を彷彿させる。

(*1)立利畷

 現在は立田町。立田町は旧名を立利村と称し、立利畷(たてりなわて)は和屋と立利の在所を結ぶ古来からの一本道であった。立利村は伊勢街道の古道に沿った村で穴師神社(あなしじんじゃ)や空也上人伝承にまつわる雷除けの自然石が建つ。隣村の朝田寺は平安仏を本尊とする古刹である。和屋町は伊勢三座ののひとつの和屋座発祥の地で、ともに歴史的背景は深い。


 写真は昭和30年頃の立利畷(立利縄手)付近



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