兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ドクター差別と詰られし者たち(その2)

2013-02-17 22:00:56 | 女性専用車両

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想と同時にアップされている記事です。


     *     *     *     *



 最初に告知させていただきます。
 拙著『ぼくたちの女災社会』が復刊ドットコムの「復刊リクエスト」にエントリされています。どうぞ、ご協力をお願いします!


 さて、前回アップした動画について、「後日何か書く」と言ったきりになっておりました。ぶっちゃけ大したリアクションもなく、またドクター差別(以降「ドクさべ氏」と呼称)について今までも結構書いてきたので、結局それの繰り返しになっちゃうしなあ、ということで筆が鈍っておりました。
 が、一つ訂正。
 動画内でぼくは


 

「女性専用車両」に法的根拠がないというのはどうやら本当らしい。


 と書きました。
 が、健次郎氏にご教示いただいたのですが、民法第206条に使用収益権というものが規定されており、車両は法律上、鉄道会社の私物だそうです。言ってみればぼくがぼくの私物である漫画を嫌いな人物に貸さない権利を持つのと同様、女性専用車両への男性の乗車を禁ずるのも、鉄道会社の自由というわけです。
 ただドクさべ氏たちが繰り返す通り、鉄道側が「任意の協力をしてもらっている」と謳っているのも事実。
 つまり現状を例えるならば、のび太から漫画を脅し取ったジャイアンが、「話しあいにより、無期限に借りることを、のび太に承諾させたのだ」と言っているようなもので、ある意味、弱気なのび太も悪いよなあという感じです。

 ぼくが今回感じたのは、ドクさべ氏たちは「差別」というものを「世を動かしている権力を持ったワルモノ」が作り出していて、その「ワルモノ」をやっつければ世界に平和が来る、という世界観を持っているのではないか、との印象です。
 これはぼくたちより上の全共闘運動とかをやっていた世代が色濃く共有していた世界観で、オタク界にもいまだその頃の「ノリ」から目覚めてない方も多いのですが、そうしたやり方は古い上に、少なくともこの問題に関しては一番無力な方法論であると言えます。
 いえ、「この問題」を「女性専用車両」に限るなら、或いはある種の力押しで解決できるかも知れません。
 さらに彼らの言う「男性差別」を制度上の差別であると規定するならば、例えば政治家に働きかけるといったやり方も功を奏するかも知れません。例えば、「疑わしきは罰せず」の原則を透徹させることで性犯罪冤罪をなくす、アファーマティブアクションをなくす、など。
 が、それでは「女災」はなくならないのです。
 何故か。
 例えばですが、現行の法律上、男性が主夫をやっても全然構わないはずですが、ところが男性を養う女性などほとんどいません。
 つまり、システムを変えても人間の意識はそう簡単に変わらないからです。
 ぼくは幾度か、二十年ほど前のフェミニストたちがポルノやミスコンテンストを女性差別であるとして派手なパフォーマンスを繰り広げ、そして
冷笑を持って迎えられて消えていったことについて書きました。ドクさべ氏たちの振る舞いが、それのリプレイに過ぎず、同じ道を辿るで煽ろうことについても繰り返し述べているかと思います。
 では、それ以降のフェミニストはどうなったか。
 ラディカルフェミニズムという、「人間の心を強引にいじくる」思想に耽溺し、「ジェンダーフリー教育」などに走りました。が、それによってぼくたちの意識が変わったとはどうにも思えない上に、そうした力押しのやり方は、結局人々の反発しか生まないことが明らかになっただけです。
 ドクさべ氏たちの中ではありがちな「目的」のすり替わりが起きていて、「女性専用車両廃止」という手柄こそが彼らの最終目的になっている感も大いにありますが、仮に彼らがそれを達成したとすれば、「女災」は今の数倍に非道くなっていることでしょう、女性たちは今よりもっと頑なな男性への敵意を持つことになるでしょうから。


 ではどうすればいいのか。
 ドクさべ氏はぼくを評して(
http://blogs.yahoo.co.jp/sabetsu5555/archive/2013/2/10のコメント欄)


②私らの活動を「時代遅れ」と言いながら、効果的かつ具体的な(代替の)啓発手段を全く提示できていない


 

 とおっしゃっています。
 これについてはある意味、正しい。ぼくは女性たちの意識を変えることは絶望的であると思っていますから。
 が、「代替案を持たない」からと言って、明らかにマイナス方向にしか物事を動かさない彼らのやり方への批判はまかり成らぬ、という考えは通らないでしょう。
「女災」の本質は「
男性が加害者にされてしまうこと/女性が被害者になれること」です。
 例えばですが、「男性と女性がもめている現場」というものを想定した時、男女とも、どうしたって女性側につく傾向が強くなる。
 秋葉通り魔事件など、逃げ場をなくした被害者が加害者側に転じてしまった悲劇であり、こうした事例はやはり女性よりも男性側に圧倒的に多い。
 ある意味、「痴漢冤罪」はそうした「女災」の本質をあまりにもラディカルに炙り出した事例でした。
「痴漢冤罪」という概念がメディアを賑わせた時、ぼくたちが何とも言えないムズムズ感、治まりのつかなさを覚えたのは、この事例がまるで「仮面ライダーが子供をいじめている時に怪人が現れてライダーをやっつけた」といった場面でも見せられたような、ぼくたちの中のコンセンサスの揺らぎを感じたからです。
「痴漢冤罪」を見れば、
女性の被害者性/男性の加害者性がいかに男性を殺す毒薬になっているか、誰の目にも明らかでした。
 ぼくらは「男性の被害者性/女性の加害者性」を学ぶ、千載一遇のチャンスを与えられていたのです。
 しかし、そこへ持ってきて「一般の女性を口汚く恫喝」というドクさべ氏のやり方は、「男性の加害者性」を一般人にむしろ一番悪い形でアピールすることにしかならない。「ほら、やっぱり男はワルモノでしたよ、さあ、男を批判してくださいね」と言わんばかりに。
 ぼくたちは天から与えられた千載一遇のチャンスをみすみす逃し、「しかし女性も被害者だ」「しかし痴漢が一番悪い」といった論理のすり替えで心を落ち着けてしまいつつあります(まあ、これ自体はドクさべ氏のせいというわけでは全くありませんが)
 ドクさべ氏お望みの「代替案」をぼくが提示するとするならば、男性を啓発し、自らの被害者性に自覚的になるよう促すことでしょうか。しかしドクさべ氏の恫喝運動はまさに「女性を自らの被害者性に目覚めさせ/男性を自らの加害者性に目覚めさせ」る最悪の手段を取っていると言えます。
 ドクさべ氏の少数の支持者は彼らのパフォーマンスを見て、「選ばれし者」の道を歩くことでしょうが、多くの男性は「あぁ、やっぱりああいう主張はダメだったんだ」「ああなってはいけないんだ」「男性はやはり加害者だったんだ」とそこで考えること、感じることをやめてしまうでしょう。


 最後に。
 上の引用先では、ドクさべ氏による兵頭新児批判が語られています。
 そこでは彼が「兵頭新児の発言」を勝手に曲解し、デタラメ極まる解釈を吹聴していますが、それはああした人々のお約束で、取り立てて騒ぐことでもありません。
 ぼくが見ていて大変奇異に感じたのは、(以下、本当に細かい断片の引用になりますが)


私らの洗練された啓発活動を(はなから)否定的にしか見られない


私ら「選ばれし者たち」のことをアレコレ言っているのですから、「笑止千万」です(汗)


 と、何と言いますか、文章にものすごくあどけない自己肯定感が溢れていることです。
(ぼくはこのブログの「選ばれし者」というタイトルを「ひょっとしてそれはギャグで言っているのか」と思っていたのですが、彼らはどうやら大マジメなようです)
 ちょっと思いついて、彼のブログを「正義」で検索してみると、101ページ分ヒットして、恐れをなしてしまいました。1ページ
で見るのをやめてしまったのですが、その1ページ分だけを以下に引用すると、


私らは「悪人」でも何でもない、と言うか、あえて言わせていただければ、「正義の騎士」である


「理」はこちらにある。「正義」はこちらサイドにあるのだから、何も臆することはない。相手が誰であれ、「世の中のウソ、デタラメ、インチキを正す」というのが「選ばれし者たち」に託された「使命」である。


 といった具合です。
 ぼくは今まで生きてきて、ここまでまっすぐに「我こそは正義」と断言する人を初めて見ました。
 こうした思い込みの強さが、相手との対話を許容しないドクさべ氏の硬直したやり方につながっていることは、もはや言うまでもないことでしょう。
 そしてそのうっとりするほどの「
血のたぎったたくましい硬直」はホモソーシャルな連帯()を生み、敢えて言いますが信者同士の快い共同体を作り上げる。
 事実、ドクさべ氏の支持者の彼への崇拝ぶりは「信者」と呼ぶにふさわしいものです。
 新興宗教の教祖は、往々にして「スプーン曲げ」などの超能力のパフォーマンスでもって、人を「虚構の世界」へと引きずり込み、「信者」にしてしまいます。
 その意味で「女性専用車両乗り込み」もまた、一種の超能力であると言うことは、言えるのかも知れません。


 

 

 

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ドクター差別と詰られし者たち

2013-02-09 12:15:22 | 女性専用車両

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。 

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 ただ、従来執筆順に数ヶ月のタイムラグを経てこちらにupしてきたのですが、今回はちょっと話題になっているネタということもあり、昨日upした記事をこっちにも載せることにしました。


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  すみません、実は今日丸一日かけて動画を作りました。
 大したものではないのですが、長いために結構な手間を要しました。
 正直いまだ当ブログの扱い方を理解しきれているとは言い難く、どうしていいのかわからないのですが、まずはアップした動画「ドクター差別と詰られし者たち」をご覧ください。

<noscript>【ニコニコ動画】ドクター差別と詰られし者たち</noscript>

 後、どうもブロマガ経由の投稿だとコメント不可になるので、通常版も上げてみました。

<noscript>【ニコニコ動画】ドクター差別と詰られし者たち・改.wmv</noscript>

 また、見たことのない人は是非、彼ら自身が上げた動画「ワガママ女の巣窟」もご覧ください。



更に(「選ばれし者たち」の栄光)において彼らの批評が書かれておりますので、そちらの方もどうぞ。
 こちらの方にも多少、記事を書こうとも思ったのですが、もう体力の限界です。
 反応なども見つつ、それは後日……。
 

 

 

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海燕『ほんとうはリア充なオタクたち。クリスマスを前に多様化する「幸福のかたち」を考える。』を読む。

2013-02-01 22:44:41 | オタク論

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。 

 冒頭のギャグは新年早々のうpだったためです。

 どうしようかと思いましたが、面倒なのでそのまま残しちゃいました。

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

  文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

 が、一言だけここに採録するにあたって付言するならば、本エントリは反応がものすごかったです。ニコニコニュースに採り上げられたからなのですが、コメントが176もついてしまいました。そのほとんどがこちらを罵倒するいわゆる「荒らし」だったのですが、それを見ていくと、いかにオタクにとってこの問題が微妙なものか、実感せずにはおれません。もし本当にリア充であればそんなヒステリックなリアクションは考えにくいわけで、むしろ本エントリよりもコメントの荒れっぷりこそが、海燕さんのロジックに対する何よりの反論になっていたかと、ぼくには思われます。

 

 

     *     *     *     *

 

 皆さん、こんばんは。早いもので始まったばかりと思っていた2013年も残すところ後、僅か361日のみとなりました。年越しの用意はお済みでしょうか?(以下略)
 さて去年のクリスマス前、このニコブロの中でトップクラスの人気を誇る海燕さんが、上のようなコラムをアップなさいました(
http://ch.nicovideo.jp/article/ar23559)。
 有料だったのでしばらくスルーしていたのですが、どうしても気になって先日読んでみました。そこで展開されていたのは

非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。

 

 というのも、いまの時代、リア充だけが楽しい人生を送っていて、非モテなり非リアはつまらない人生を送っているのかというと、決してそんなことはいえないと思うんですよ。

 

 たとえば20年前、30年前と比べても、日本の「幸福のかたち」は多様化していて、ひとつの「幸福のかたち」を手に入れられなければそれで不幸になるかというと、決してそんなことはない。そもそも不幸じゃないのに不幸なふりしてどうするんだと思うわけです。

 

 結局のところ、恋人なり伴侶がいるひとだけを「リア充」と呼び、それだけがしあわせな生き方であると考えることはいまの時代に合っていないのではないか。ぼくはそう思います。


 といった論旨でした。
 彼の「非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。」という指摘には、一応、頷けるものを感じます。
 しかしそれは――皆さんお気づきかと思いますが――要するに不況のおかげでみんな貧乏になったから、ということでしかありません。なるほど、「リア充」を「DQN」と読み換えれば、いかにもビンボーくさい、あんまり幸福でなさそうなイメージが喚起されます。
 そうなると彼の主張は「みんなどーせビンボーで不幸なんだからいいじゃん」とも解釈でき、だとするならばそれはいささか無神経です。
 そもそもぼくたちは「
そもそも不幸じゃないのに不幸なふり」をしているのでしょうか?
 彼の目から見てどう考えてもそう想像せざるを得ない何かがあって、そのように裁定しているのでしょうか?
 読む限りそれはそうではなく、「価値観が多様で“なければならない”から不幸を感じては“ならない”」という論理(否、イデオロギー)が先行しており、そんなリクツでこっちに「感じ方」を押しつけられてもなー、
何とかジニーじゃあるまいし、と思ってしまいます。
 仮に上の「みんな貧乏になったから」論を受け容れたとしても、DQNと非モテ、彼女がいるだけ前者がマシということにしかならないのではないでしょうか。「あのDQNどもの連れて歩いている女とつきあうくらいなら一生童貞でいい」と思うのも一面の真理ではあるけれども、一方、「でも彼女が欲しいよな」と思うのも事実であり、そもそもそうでない限り、萌え産業がここまで発展するわけがないのです。

 

 実のところこうした物言いは、オタクを鼓舞するためのものであれば有効であると思います。
「障害者の抱える障害は決して“障害”ではない、“個性”だ」などという言い方、欺瞞以外の何ものでもありませんが、障害者自身が自らを鼓舞する意味では「有効」だと思います。
 彼は「好きなもの(趣味)を持っているオタクこそ真のリア充だ」とも言っていて、そもまた、そうした文脈から見ればわからないものではありません。
 そう、それはまさしく本田透さんが『
電波男』において「オタクは現実に勝った!!」と勝利宣言したように。

 

 ――だがちょっと待って欲しい。それなら海燕さんも同じことを言っているんだから、それでいいはずではないのか?
 ――海燕さん自身もオタなのだから、仲間同士で自らを鼓舞しているのではないか?

 

 まあ、そうとも取れるのですが、不思議なのは上の文章を読んでも、海燕さんが本田透さんがお好きだとは、あまり思えない点です。
 そもそも、この文章はよりにもよってこれがクリスマスに向けて書かれたものです。そこにはやはり、少なからぬ意味があると考えざるを得ません。

 

 本田さんは当初、『電波男』を「オタクが何をしたってんだよ~、チクショ~」といった調子の泣き言本として出そうとしていた。それが酒井順子師匠の『負け犬の遠吠え』など、女性ライターのオタクを見下したスタンスにムカつき、論調を転換した、といった経緯があったはず。
 やはりそれは一種の「鼓舞」に他ならない。
 しかしそもそも「鼓舞」するということは、その裏にはやはり、ルサンチマンが深く深く潜んでいるはずです。
 それは本田さん自身が同書の中で「アニメの美少女は部屋の掃除をしてくれない」と嘆いている点からも、KEYといった「家族」をテーマに据えたゲームを発表するメーカーを盛んにリスペクトしている点からも伺えます。
 好きな人がモニタから出て来てくれない限り、基本的にぼくたちは充足できない存在なのです(とは言え、ならば美少女アンドロイドが生まれればぼくたちは満たされるんでしょうか? 造形のみならず行動パターンなどあらゆる点において「不気味の谷」が立ちはだかっている気がしてなりません)。

 

 クリスマスに戻りましょう。
 ぼくは海燕さんのコラムを読んで、二人の人物について思い出しました。
 一人はSF作家の星新一、もう一人はタレントの伊集院光です。
 星新一に関してはクールでニヒリスティックな筆致のSF作家、というのが多くの人のイメージかと思います。てか、それで正しいんですが。ですが、その才能は彼が世に出た高度経済成長期の宇宙開発ブームの頃より、それが一段落した後のことさらSF色のない作品でこそ十全に発揮されたのではないか、というのがぼくの個人的な感想です(などと、通ぶったことを言ってみる)。
 が、それよりも更に星新一の鋭い視点を味あわせてくれるのが、彼が書いたエッセイです(と、更に通ぶる)。これもまたショートショートに負けず劣らず皮肉の効いた文明批評が展開され、極めて味わい深い……えぇ~い、面倒だ。
 ぼくが言いたいのは、そんな彼が珍しくセンチメンタリズムに満ちたエッセイを書いていたことがあった、タイトルなどは忘れたが、感じとしては「さよなら、クリスマス」とでもいったものであった、というようなことです。
 クリスマスとは、彼の世代にとっては敗戦後の圧倒的なアメリカ文化の豊かさの象徴でした。しかし、エッセイが書かれたのがいつかは判然とはしませんが、察するに高度経済成長に翳りの見られた70年代後半頃のことでしょうか、この辺りになるとそうした「物質的豊かさ=人類の幸福」といった図式が揺らぎ出してしまったわけです。
 星さんはいつものクールさもどこへやら、「クリスマスさん、君もとうとう役目を終え、おわコン化してしまったんだね、今までありがとう、さようなら」みたいな感傷的な文章を書いていたのです。
 さて、とは言え、ぼくがそのエッセイを最初に読んだ時の感想は、
( ゜д゜)ポカーンというものでした。
 無理もありません。
 ぼく自身が幼かったこともあるし、読んだのは確かバブルの頃だったはず。
 この頃はこの頃で、男の子が女の子とのイブを過ごすために一等地の何かすんげー高いホテルを予約してどうたらこうたら……みたいなことがメディアでさも当然のごとく語られていた時代です。
 そう、この当時、というか80年代全般はその躁病的恋愛資本主義社会の象徴としてのクリスマスが、言わば恋愛の神として君臨していた時代でした。
 さて、実は去年のクリスマスイブにも実は、極めて象徴的なことが起こっていました。
 クリスマスイブの夜は月曜日。
 そう、月曜の夜と言えば?
 伊集院光がラジオをやる日ですよね。
 ところがこの日のトークで伊集院さんは「ここ数年、クリスマスって俺たち非モテがやっかんでいた、リア充がよろしくやる日ではなくなってきているよなあ」といった主旨のことを言っていたのです。
 伊集院さんと言えばまさにバブルの絶頂期、周囲の若い連中が躁病的に女の子たちと浮かれている中に青春時代を送った、深い深いルサンチマンの主です。
 その彼のクリスマスおわコン宣言は、星新一とはまた違った意味で象徴的です。

 

 海燕さんのコラムが伊集院さんの感想と近しい心理に端を発するものであることは既に書きましたが、一方で星さんのエッセイでもわかるように、戦後のクリスマスはアメリカの圧倒的な豊かさの象徴でした。そしてまた日本に輸入されてきたファミリードラマにも同じことが言え、そこでは豊かさを享受する「幸福な家族」の姿が繰り返し描かれていたのです。
 そうした登り調子の時代では当然、子供が未来の担い手として尊ばれます。クリスマスは豊かになりつつあった高度経済成長期の日本で、子供が高価なオモチャを買ってもらえる日でもありました。『勇者ライディーン』では高価なオモチャであるジャンボマシンダーが売られる時、CMで愛川欽也を起用して「アカガマキンニコ」と唱えさせました。「赤ちょうちんを我慢すれば(オモチャを買えるから)息子のキン坊がニコニコだぞ」とのお父さんに向けたCMです。
 星さんと伊集院さん、二人のクリスマスおわコン宣言はそれぞれ「家庭」、「恋愛」による大量消費というビジネスモデルの終了のお知らせであり、それは最早、景気がよくなることを期待できなさそうなこれからの日本にとって、不可避なことなのかも知れません。
 が、だからと言ってそれを幸福と感じるか不幸と感じるかは、また別な問題です。
「家庭」、「恋愛」。
 いずれもオタクが手に入れることが叶わず、それ故に拘泥し続けてきたものであることは、もう本田さんの著作を引いて説明するまでもないでしょう。
 それを「必要ないのだ、それ故オタクは不幸ではないのだ」と主張しても、首肯する人はほとんどいないのではないでしょうか。
 何となれば「萌え文化」というものはオタクによる、上の星さんに負けないほどに哀切を極めた表情で「家庭」、「結婚」のおわコン化を惜しむ歌なのですから。

 

 

 

 

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