兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

快楽電流(その2)

2012-06-30 20:39:25 | アニメ・コミック・ゲーム

 前回のエントリでは、藤本師匠に対して結構非道いことを書きました。
 いい年齢してミニスカを履いてはしゃいでる婆さん、とか何とか。いや、そこまでは書いてませんでしたか。
 要するに彼女の主張は「女としての業」と「フェミニズム理論」の整合性が取れてないよ、という指摘なのですが、本書の初出である90年代前半は、藤本師匠に限らず多くのフェミニストにそのような矛盾が見られました。何しろ当時はフェミニストたちが結構有名な総合誌からお座敷がかかっていた時期です。彼女らは「男たちのブルセラ少女への性的視線」に憤っているはずが、オヤジ雑誌にお呼ばれされたことが嬉しくてたまらない、といった混乱ぶりを見せていました。
 本書は多くがマニアックなフェミニズム雑誌で書かれた文章が元になっているのですが、六章だけは『別宝』という(彼女らの業界用語で言うところの)「オヤジメディア」が初出であるため、その筆の浮つきっぷりが見ていて大変微笑ましくなってきます。
 そういやこの頃はブルセラ系エロ本というのが流行っていて、その編集者をやったことがあるという経歴を売りに、「
女子高生オルガナイザー」という肩書きを名乗ってセーラー服を着込み、『SPA!』とかでよく取材を受けてたオバハンがいたよなー、ということをふと思い出しました。忘れ難いので、特に記しておくことにします
 とは言え、師匠もそうした矛盾に対して、全く無自覚なわけではありません(と、思います)。本書を見ていくと、矛盾に対する師匠なりの苦闘の後(と思しき箇所)が見て取れます。
 それは専ら、「典型的なレディースコミックの構造(≒女の業)」への不満と、それを乗り越えようとした意欲作への称揚、という形で現れています。
 順を追って、見ていきましょう。
 二章「ポスト対幻想論――〈対〉に閉じない恋愛の諸相」においては典型的なレディースコミックのストーリーを紹介し、


 この作品に限らず、少女マンガにおいては「性的に自由な女」「割り切った女」というのは常に脇役である。そして、美人でセクシーな彼女たちを尻目に、男と「恋人」になること以外は考えない、一途な女の子たちが、見事に恋に勝利していく。


 と不満そうに漏らします(そうしたものが現実問題として女性に受けている、と理解できていらっしゃるのかどうかは不明です)。
 そして師匠は石坂啓師匠のヒット作、『キスより簡単』を持ち上げてみせます。これは要するに「性に奔放/だが男に対しても容赦なく噛みつく」といった主人公・まあこの物語だそうで、まあ、読まずとも内容は何となく想像がつくし、それを持ち上げる師匠の気持ちも手に取るようにわかります。
 とは言え、まあこは後半、本気で恋愛感情にのめり込んでしまい、人間の感情が「後腐れのないセックス」など許さないことを知り、葛藤を始め、作品カラーはガラッと変わってしまうそうです。それに藤本師匠は不満げな感想を漏らしています。
 これはいかに石坂師匠とは言え、人間の感情に向きあって描いているうちに、そのようなストーリー展開にせざるを得なかった、ということでしょうし、漫画家として誠実であったのだろうと、ぼくは想像します。
 結局フェミニストや進歩派たちの主張するジェンダーフリーもフリーセックスもフリー結婚もフリー氏姓も、人間の気持ちというものを一切無視した、バーチャルなものでしかないということですね。
 そもそもが『キスより簡単』が少女誌でも女性誌でもなく『ビッグコミックスピリッツ』という青年誌に載ったのは何故かと言えば、まあこのような「後腐れのない女」こそが、(大多数の女が男との結婚を望んでいるという「
客観的事実」を鑑みるならば)男にとって都合がいいからだ、くらいのことはちょっと考えればわかるはずです。まあ、編集者がアレだったから、ということもありそうですが。
「男にモテることだけが自己存在の証明である」という少女漫画の命題(それは同時に、女性たちのメンタリティの忠実な反映です)の前に苦悩する師匠。「男のせいだ男のせいだ」とつぶやきつつ、しかし「男にモテたい」との本音からも逃れられない師匠。
 それはまさに、上の漫画のまあこの辿った運命そのものと言えましょう。

 進退窮まった(のかどうかは知りませんが)師匠は三章において、「実験小説――ワンナイトスタンド」()を書いて見せます。わかりにくいですが前回の「実験アニメ」はこの企画の
パロディです。
 内容は、出版社でOLをやってるおねーちゃんが17歳の少年の童貞を食っちゃいます、というだけのお話で、最後は少年のアナルに指を入れたりもするのですが、これのどこが実験小説なのかはよくわかりません。大体、一時期風俗でおねーちゃんが男のアナルを責めるというのが流行ったはずなのですが(この小説の後か先かは知りません)そういうのは師匠も多分、「女性差別」であるとして怒りそうな気がするのですが。


 こんなふうにある種、慈しみあって肌をあわせた二人にしかわからないような何か……。それは世間でいう恋愛などとは全然違うものだ。しいていえば同志愛というのに一番近いかもしれない。一緒に快感を追求し共有することで、相手の生命に対する自然な敬意が生まれてくるのだ。戦場でまだ生きている味方に遭遇して、お互いに目礼を交わして駆け去っていくときのような気持ち。


 どう見てもフツーの、単なる恋愛です。本当にありがとうございました
 この二人は行きずりの関係であり、その「フリーセックス」な感じが恋愛と違う男と女の新しい関係、というのが師匠の考えなのかも知れませんが、そこに情が生まれたのであればそれは普通に「恋愛」でしょう。とにもかくにも「恋愛」を否定しようと躍起になりつつも、そこから抜け出せずにいる師匠は、まさしく『キスより簡単』のまあこそのものです。
 そしてそうした言動は「ミソジニー」「ホモソーシャル」と言った空疎な造語だけは熱心に作り出すけれども、思想としては結局何ら「新ネタ」を提供できずにいるフェミニストにふさわしいとも思う一方、いや、しかしそのフェミニストたちの中では「BLは男女の恋愛と何ら変わらない」と喝破した聡明な藤本師匠にしてはいささか物足りない、という気も同時にしてしまいます。
(いささか余談ですが、これは以前にも言及した小谷野敦博士の「友愛結婚」に近しい感じがします。言葉だけを取り敢えず提唱してみましたが内実はありません、という)


 続く四章「欲望論」で、女性のナルシシズムを主題としたレディースコミックを例に挙げ、


 マゾヒズムをナルシシズムに結晶させることで、女たちは、価値の逆転を手に入れたのだ。ここから女たちは、男たちの手をすりぬけはじめる。


 などと書くに至っては何だか切なくなってきます。本論が書かれてから二十年、師匠も指摘した『セラムン』の百合本ブームから二十年経っても、女性たちは一向に「男たちの手をすり抜け始め」てはいないのですから。
(ただし、昨今ではBLの百合版とでもいったニュアンスでGLといった言葉が使われることは普通になっています。もっとも、オタク界ではそれ以上に「マゾヒズムをナルシシズムに結晶させることで、男たち」が「価値の逆転を手に入れ」、「女たちの手をすりぬけはじめ」た表現であるヘテロセクシャル男性向けの美少年エロ、いわゆる「男の娘」*というのがブームを起こしているわけですが)


*考えると本書や『私の居場所はどこにあるの?』が書かれた90年代の後半には、既にオタク男性向けのエロメディアでも男の娘の前身とも言えるショタブームがありました。しかしながら『私の――』では、男性向け漫画について

 

 残念ながら少女マンガほど豊穣な実りをうんでいるとはいい難いし、新しい性別イメージをうちだすには至っていない。


 などと評しています。
 そのくせいわゆる三流エロ劇画の中の「女装漫画」は妙に子細に採り上げているというのは、権威主義のフェミらしいッスねー。いくら何でも、師匠が(男性向けの)ショタや男の娘というジャンルについてご存じないはずはないと思うのですが(知らなかったらすみません)。


 一方では、女王様的な女性が男を下僕とするみたいなレディコミ、『女王聖典レイヌ』を紹介してエビス顔。しかしその作品もまた、途中で路線変更したそうで、そのことを嘆く師匠は、


 おそらく編集部から抑えがはいったのだろうが、残念である。


 ……ってやっぱり「ヘンシュウシャガー」かいっっ!!
 確かに90年代前半はそういうの(女=責め/男=受け)ってちょっと流行ったんだよなー。すぐ廃れちゃいましたけどね。
 ただ、ぼくはむしろそうした作品を採り上げつつ、師匠が


 女だと多少は官能的に感じられないでもないこんな場面も、姦(や)られるのが、いくら美貌とはいえ筋骨隆々たる男だとかなり異様である。


 いかに我々が、女が姦られる場面を官能的だと感じる見方になれっこになっているかを試す試金石ともいえよう。


 などと無邪気におっしゃることが気にかかりました。
 つまり藤本師匠は男が責められるのをエロいと感じてないってことです。
 そしてそれは他の多くの女性にも共有されている感覚のはずです。
 端的に表現するならば、男も女も「女の裸」は性的と感じるけれども、「男の裸」はそうは感じない、ということです。
 ホモネタがギャグとして使われやすいのも、実はそれは全くいっしょで、「男が責められる表現」はエロではなく「異様なギャグ」として受け止められるのが普通だ、ということです*。
 田亀画像の受け止められ方、そしてそれに対して田亀氏本人が怒っていらっしゃることなどを考えれば、それは自明なはずです。
 本書においても「Mっ気がある」と幾度も自称するように、師匠は「女が責められる性表現」を楽しみ、そして「男が責められる性表現」をエロとは感じない。
 師匠がいかにラッパを吹こうとも、女性たちが自らの立つセクシャリティから動こうとしなかった、びっくりするくらい誰も乗ってこなかったのはもはや明らかです。そしてその「乗ってこなかった女性」には師匠自身も実は、含まれていたわけです。
 じゃあ、もう「女が責められるエロ」で楽しんでれば、いいじゃないですか。
 更に言えば現実世界においてもレイプやセクハラに至らないように(そしてまた、男性をその裏面であるそれらの冤罪に陥れないように)注意しつつ、受け身の性を楽しむ、というのが現実的な選択であるはずです。
 そこをドウォーキンを持ち出して言い訳してみたり(詳しくは前エントリで)例外的な女王様ネタのレディースコミックなんか持ち出してドヤ顔してみたり、ましてやそれの路線変更を編集者のせいにしてみたりは、無意味です。


*「ではBLはどうなんだ」という疑問もあるでしょうが、腐女子たちがカップリングにこだわりを見せることが象徴するように、それは少年の「肉体性」よりは「関係性」を主眼に置いた表現である、と考えるべきでしょう。そのことは、腐女子としての素養が大いにあるはずの師匠からして上のような反応をしていることが、何よりも雄弁に証明しています。
 また、そもそも「ボーイズラブ」という言葉が示す通り、キャラクターたちは少女的美少年として描かれることが普通なわけです。男の娘ブームを見ればわかるように、「美少年」は例外的に性的対象足るわけですね。


 ベジタリアンと呼ばれる人々がいます。
 彼らはイデオロギーから肉食をしないのですが、とは言え本音では肉を食いたいと思っているらしく、ベジタリアン向けの食材サイトなどを見ると、大豆で作ったハムやチキンナゲット、焼き鳥、寒天で作ったマグロの刺身、湯葉で作ったフィッシュフライなどが並んでいます。
 結構うまそうだし健康にはよさそうですが、しかし第三者の視線からこれらを見ていると、ある種の奇妙さを感じずにはおれません。それは肉を食わないために、そして肉っぽいものを食うためにこれだけのエネルギーが注がれているのかといった一種の感慨であり、ぶっちゃけたことを言うなら、「アレルギーや健康上の理由で食えないならともかく、そうじゃないなら肉くらい食えよ」という感想です。
 いや、むろん肉を食べないのも、肉の代替食品を食べるのも個人の勝手ではありますが、もし彼らがぼくたちの隣人で、ぼくたちにベジタリアニズムを勧めてきたら、当然うっとおしく感じることは、想像に難くありません。事実、上のサイトを見ていたら肉を使ってないドッグフードなんてのも売られていました。そりゃ栄養上は問題ないんだろうけれども、犬には肉食わせてやれよ!!
 今回の藤本師匠の著作も、こうした「ベジタリアンのための肉っぽい食品」のカタログだったのでは、ないでしょうか。しかも、ベジタリアニズムの正しさについての
ご高説がいっぱい書いてあるタイプの。


 ☆補遺☆

 ネットをぱらぱら眺めていたら、本書が「大学の授業の副読本として使用」されているとの記述がありました。

 そりゃまあ、おかしな人間が増えるわけですわ。


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快楽電流

2012-06-23 23:49:53 | アニメ・コミック・ゲーム


 そして一時期、本当はAV女優こそが私の天職なのではないかしら? と思いながらも、今までとうとう出演することのないままにきた理由もまた、そこにあったのだった。


 気持ち悪いですぅ~、藤本由香里師匠><

 前回のエントリで「ぼくは従来、藤本師匠に対しては比較的、「わかってんじゃん、この人」という印象を抱いていた」と書きました。
 それは例えば腐女子たちはBLに登場する少年に自己投影している(非実在の少年に自らの女性性の発露を仮託している)と分析したり、或いは「女が男にレイプされる」といった内容のレディースコミックが大好きである、と率直に語っているからです(拙著でも引用したその文章は、本書の四章に収められています)。
 今回ご紹介する『快楽電流』は前回ご紹介した『私の居場所はどこにあるの?』の一年後に出版されたもので、また初出が90年代前半に集中しているという点も前著と共通しており、近しい読後感を持ちました。

 つまり、「自らの女としての業」に向きあっていらっしゃる点については素晴らしいと思うものの、果たしてそれとフェミニズム理論との整合性はどうなってんの? という。
 が、漫画評論に特化した前著と比べて本書はやや自伝的性格を強くしており、一章の「売春論」では、師匠の「ワタシは娼婦になりたかったなりたかったなりたかったなりたかったなりたかった」との告白を延々と聞かされることになります。
 若い頃の師匠はテレクラで男性にナンパされたりもしたそうで、そういった体験を自慢げに語るとフェミ論壇の上野――じゃなかった上の連中に睨まれたりしないのかな……とついつい心配になってしまいます。

 いえ、「気持ち悪い」と書いてしまったのはいささか非道かったかも知れませんが、本書の一章を読んだ時の感じというのは、「女の業」を内省しているのは立派だが、今までフェミ論壇という蛸壺にいたせいか、妙齢の女性ならば誰もが踏んでいる「手続き」についての甘さがいささか見られる、とでも言うか……説明しづらいので、文末にスペシャルボーナスとして「実験アニメエピソード」を加えてみました。お読みいただき、みなさま各自でお考えいただければ幸いです

 とは言え、読み進めていくとなかなかラディカルな話題が飛び出してくるのも事実です。前回、フェミニストたちが新條まゆ的な漫画を俎上に乗せないことを「卑怯」と糾弾しましたが、本書においては(そうした少女漫画は登場しないものの)レディースコミックにおけるレイプ描写、SM描写について存分に語られています。その意味で上の「卑怯」者呼ばわりは、少なくとも藤本師匠に対しては撤回したいと思います。
(以降、引用箇所は本来、「強姦」に「レイプ」とルビが振られたりしているのですが、そうした細かい表記法は適宜、読みやすいように省略しています)
 例えば四章「欲望論――レディース・ポルノの黄金律」。
 ここで師匠はレディースコミックにおけるレイプの多くが「輪姦」であることに注目します。師匠によれば、


 相手が一人である場合には強姦は、その行為が当然受けるべき評価にふさわしく、絶対的な暴力、存在への徹底的な破壊行為として描かれる。


 ところがこれが複数姦ということになると、とたんに官能の味付けが増すのだ。


 更に師匠はその理由を、一対一では抵抗しやすいのでレイプが成り立ちにくいからなのだ、などとフェミニストが聞いたら憤死しそうな分析をします。


 のっけから結論めくが、女が官能に集中するために最も必要なものは、この《時間》と《いいわけ》である。そして《いいわけ》の最大のものが“愛”である。しかしこの“愛”から離れて愉しもうとする場合には、“もう抗えない”というもう一つの《いいわけ》(官能を燃やすための燃料といってもいいが)が要る。強姦はその《いいわけ》としては都合がいいのだが、一対一の設定では相当抵抗できてしまうからまずいのである。


 要するに、レディースコミックは「気持ちいいレイプ」のためには時間をかけることが必要なのだが、一対一ではそこまでの余裕がなく、「相手が複数なのでヒロインは逃げ出せない」というシチュエーションを作り上げた上で、じっくりと時間をかけたセックスを描いているのだ、というのが師匠の主張です。

 ぼくとしては「輪姦」は「ヒロインが、大勢の男性の欲望の対象になる」表現として人気があるのだろう、くらいにしか思わないのですが(BLでも腐女子は「総受け」キャラを愛好しますよね)。
 以上のようなことを書いた上で師匠は何だか、ちょっと言い訳めいた文章を付け加えます。


 おまけにその相手が、好みの男か、あるいは抽象化された男たちであるとすれば、はたしてそれが、被強姦願望といえるだろうか。それは、嫌なのに無理やり姦られる、といったものではないし、相手役にしろ行為の内容にしろ、むしろ相当に好みの条件付けがなされているとみるべきである。ポイントはむしろ“抗えない”という感覚、その一点にある。

 

 と前置きし、


 そうであるとするならば、強姦という設定は必ずしもその適切な表現方法ではない。

 

 とおっしゃっているのです。

 正直、この箇所は意味が取りにくく、ぼくが誤読している可能性もなくはないのですが、ぼくの目には「女に被強姦願望がある」との主張に取られないよう、ちょっと言葉を濁してごまかしているように読めます。
 が、“抗えない”状況下でのセックスなど、そんなのレイプに決まっているでしょう。
「好みの男ならレイプじゃない」ってそりゃ、どういうリクツだ、って感じです。
(敢えて師匠寄りにこの文章を添削するならば、「女は確かにレイプネタが好きだ。しかしあくまで虚構として楽しんでいるのであって、現実のレイプを望んでいるわけでは全くない」とでも書いておいた方がわかりやすかったのではないでしょうか)
 こうして見ると、師匠の「読者にとって官能的なものとして描写されるレイプシーンは輪姦が多い(大意)」といった指摘そのものが「本当かなあ」という気がしてきます。

 ぼくはレディースコミックなどほとんど読んだことがありませんが、少女漫画でもBLでも本命の男が強引に関係を強要するのなんて、ごく普通のことでしょう。逆に強引でない男が本命の女性向けポルノなんて果たしてどれくらい需要があるのか、ぼくには疑問です。むしろ(フェミニストたちの厳しい基準値に照らせばなおのこと)女性向けエロ漫画において描かれるセックスはまずそのほとんど全てがレイプである、とすら言いきれる気すらします。

 となると、或いは師匠の中ではそうした前提の上で、イケメンと一対一でなされるセックスはどんなに強引であろうとレイプではないのだと「非犯罪化」するという心理的作業がなされているのかも知れません。
(繰り返しますが、レディースコミックについては詳しくないので、或いはぼくの勘違いかも知れませんが)

  この後も、師匠はレディースコミックにおけるSM描写を丹念に採り上げ、


 ところでこの、「さらわれるお姫さま」というイメージが、実に多くの女性の幻想に共通しているようなのは面白い


  SMというのは、「女が自分の快楽に責任をとらなくてすむ」ための一つの手段なのだ。


 と分析し、また別の章でも


 レディースコミックをみてもポルノグラフィーをみても、たいていの作品では、女性の快感の源泉は、相手によってもたらされる変化、それを受け入れるところにある。


 などとあっさり書き、女性が被虐的な快感を得るレディースコミックを嬉々として紹介しています。また、ここに師匠ご自身の、セックスというものの存在すら知らなかったはずの五歳の頃から「無理やり裸にされ、ベッドに横たえられ、麻酔なしで手術を受ける」といった性的妄想をしていた、といった告白も入ります。
(しかし「麻酔なしで手術」なんて概念、五歳児にわかるんでしょうか。わたしゃその年齢の頃は手術というのを仮面ライダーに改造されることだと思っとりましたが)
 いずれにせよ、師匠が自らのセクシュアリティについて開けっぴろげに語り、また極めて冷静に省みていることは確かです。

 やはり、「わかってんじゃん、この人」と感じます。
 しかし師匠が「わかって」いれば「わかって」いるほど、こちらとしては、では何故彼女らはフェミニズムの過ちが「わか」らないのかが「わか」らなくなってきます。
 果たして、師匠はこうした「率直な内省」と「フェミニストとしての私のアイデンティティ」とをどう折りあっているのでしょうか。


 そう思いながら読んでいくと、師匠は女性たちがこうした作品を好む理由について、以下のように分析し出します。


 それはまず第一に、これまでの社会状況とファンタジーのあり方の中では、マゾヒズムこそが、性的に貪欲な女が性交から快楽を汲みとるための、ほとんど唯一の遺された道であったからである。 


 そして、アンドレア・ドウォーキンは、すべての性交が強姦でしかないような現在の男女関係にあっては、女がセックスから快楽を得るためには、マゾヒストかレズビアンになるしかない、と言ったのではなかったか


 れれっ!?
 リベラルフェミニストを
僭称、いや詐称、いや偽称、いや自称する藤本師匠がドウォーキン大好きっ子であったとは初めて知りました。
(正確には、wikiの記述でそうなっているのを見ただけなので、自称したことはないのかも知れませんが……)

 ここまで率直に自分自身を省みてきた師匠がいざとなるとまたしても「オトコシャカイガー」「カフチョウセイガー」なのだから、こっちはびっくり仰天です。
 仮に女性が現実世界でそこまで抑圧されているのであれば、フィクションの世界でこそそうした表現がなくなりそうなものだし、「いや、女性たちは男性支配社会に洗脳されきって、マゾヒズムを内面化しきっているのだ」というのであれば、そもそも上のようなレディースコミックは一刻も早く規制運動で討ち滅ぼすべきものであるはず。少なくとも「これらの表現を楽しんでいる」などとノンキに書いている場合ではないはずです。
 こうして見るとフェミニズムというのは、「レイプもののレディースコミックでしか感じることのできない女性」による、あらゆるセックスをレイプであると解釈するための健気な試みのようにも思えてきます。


 ――私がレイプで感じてしまうのは、あなたがそのように私を調教したからなのよ。


 そう、藤本師匠は極めて聡明なその頭脳で、レディースコミックの本質を上のような一言で表現しました。
 しかしそれは奇しくも、フェミニズムの教科書の極めて的確な要約ともなってしまっています。

 両者とも、「非実在レイプ」を捏造することで性欲を満足させると共に、男性を罪に陥れる、憎むべきポルノグラフィーです。

 ポルノはテキスト、女災は実践です。
 何とまあ、近代的な人権意識から乖離した非人道的かつ憎むべき表現なのでしょう、「フェミニズム」という名の「ポルノグラフィ」は!
 師匠は、レディースコミックを切れ味鋭く分析し、返す刀でばっさりと、自らの肉体を一刀両断に切り裂いてしまったのです。
(敵に向けた刃が自分に返ってきたら「ブーメラン」ですが、この場合は
自分で自分を手術しようと執刀して、ぶっすりいっちゃった感じですね)


 さて、「フェミニズムは古びて、現実に対応していない」といった批判は繰り返ししてきました。
 今回はレイプ関連に話題を集中させましたが、本書には師匠なりの「新しい理論の模索」への努力の跡も見て取れます。
 次回はその辺りを中心に、ご紹介していくことにしましょう。


【スペシャルボーナス】
実験アニメエピソード

『まいっちんぐマチコ先生』第n話「てんやわんやの文化祭」
 文化祭のシーズン。マチコ先生のクラスはメイド喫茶を企画します。
 が、四十絡みのオールドミスである教頭、藤本先生は「メイド喫茶など女性差別ざます」と許可を下ろさない。
 クラスではケン太が超ミニスカのメイド服を着たマチコ先生のスカートをめくったり、山形先生がその姿を盗撮して画像をパンツ見せながら授業しているコラへと加工、ブログにうp、大炎上してマチコ先生は「まいっちんぐー」と叫ぶなどの大騒動
 しかしクラスの女子たちが可愛らしい服を着たいと、徹夜の裁縫仕事でメイド服を作っている姿に感動した藤本先生は、クラスの企画に理解を示すことに――。
 そして文化祭当日。藤本先生は率先してメイド服を着て大はしゃぎ。後、露出が高めの服なのにムダ毛処理ができてなくてあっちこっちから毛が……。

 温厚な校長は「お歳を考えられては……」と言いつつも強く出れない。最後はマチコ先生が「まいっちんぐー」と叫んで終わり。
 めでたしめでたし。


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