烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

貨幣と精神

2006-04-19 20:12:04 | 本:哲学

 『貨幣と精神』(中野昌宏著、ナカニシヤ出版刊)を読む。貨幣がどうして貨幣として通用するのかという問題が主題とされるが、根底にあるのはそもそもある社会システムが成立するとはどういうことで、どういうしくみで成立するのかという問いである。
 運動、変化、時間が含まれていない論理の世界からいかにして運動する システム=構造が生成するのかというのは、哲学上の問題だ。ゼノンの「飛んでいる矢は飛ばない」という有名なパラドックスに端的に示されているように、そもそも論理の世界には時間がない。ここでは流通する貨幣というシステムの成立を説明するのに、ラカン理論が援用される。著者は、無意識的な衝迫「せきたて」に着目している。ラカンの 「エクリ」所収の自分の背中に着いている円盤の黒白を推論する囚人ゲーム(本書p156)を例にあげ、静の状態での推論には一定の限界がある場合でも他人の「先走り」という論理外の運動により一気に結論が出され状態が遷移することを説明する。一旦次なる状態が生成、成立してしまえば、その事後の状態から眺めると客観的な状態として把握されてしまう。事態を動かした契機は客観的に見て主観的なものでありながら、成立した事後ではどの主観から見ても客観的な状態である。引用されている新宮一成のコメントどおり、「ラカンの功績は、主体の時間化という、通時的な事態が、一見共時的なものである論理的推論から構成されることと、この推論が、間主観性の中で起こることを指摘したことである」。


 著者が指摘している「せきたて」による客観的な「正解」の主観的先取とは、第2章で触れているフレームの選択問題とも関係すると思われる。さらに「せきたて」からの選択にはあらかじめ決まった正解は存在しない(「正解とされているもの」は存在するだろうけど)。したがって選択されたものがすなわち事後的に目的(=宛先)と解釈されることになる。これはアルチュセールの「イデオロギー的呼びかけ」に決まった選択肢が存在しないことと符合するだろうし、デリダのラカンに対する郵便の宛先問題の批判への解答となる。象徴界に住まう人間の欲望が間主観性の中で衝突反射するときに運動する世界が出現するという著者の洞察は根本的であり、それゆえ象徴界をもつ存在にしか「世界」は現出しないだろう。推論する人工知能には克服できないフレーム問題をあたかも解決しているかのようにふるまう人間の認識問題(常に自分を含みこんだ、自己言及的な世界でものごとを処理していくこと)と深く関わっているように思う。