烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

誘惑される意志

2006-09-17 14:57:20 | 本:経済

 『誘惑される意志』(ジョージ・エインズリー著、山形浩生訳、NTT出版刊)を読む。著者の肩書きは巻末の紹介によれば、精神科医とあり、臨床医として活動する一方で、この本の主題となっている異時点間交渉問題を研究しているという。前著は『ピコ経済学』でミクロ経済学よりもさらにミクロな神経心理学的主題が扱われていることから「ピコ」経済学であるそうだ。ここでは一応カテゴリーは「経済」に分類することとした。
 本書では価値判断に指数割引ではなく、双曲割引が重要であるというのが一貫した主張で、この原理であらゆる現象を快刀乱麻を断つごとく一刀両断する。双曲割引というのは、現在からみて未来を価値を割り引いて価値判断する際に、双曲線で近似できるとする評価基準である。曲線は指数曲線よりも立ち上がりが急な曲線(より撓っている曲線)であるため、価値がより低くても手近にあると将来手にできる価値よりその時点では高く評価されてしまうという現象が起きてしまう。これは経験的にもよく起こることだ。
 この本を読んで面白かったのは、意志という現象を、この双曲割引による複数の価値評価の闘争と協調の結果であるとしていることだ。こういう観点に立てば、単純な価値評価システムから複雑な意思決定機構へと進化する経路への見通しがすっきりする。昔から「強い意志をもて」とたびたび説教されながら、いまだに強い意志をもてない自分のことを考えると、この考え方はなるほどと腑に落ちるところがある。意志は筋肉のようにやみくもに鍛えて強くなるようなものではないのだ。
 もちろん人間はさまざまな欲求を抱くからその重みづけがすべて同じ双曲線の特性であるとはいえないだろうが、この理論は意志作用がどうして脆いのかをよく説明してくれる。さらにこの本の面白いところは、そうした意志の働きにより、より強いルールが設定されることになり、これがときに「副作用」をもたらすと洞察しているところである。意志による冷徹な合理性の設定により大きな価値を手にするはずだったのが、結果的には満足度が減ってしまうこともあることをさまざまな例を取り上げながら説明している。こうしたことかすると、欲求はすばやく満たされればそれに越したことはないという合理性至上論に対して、欲求を満たすために自らある一定の(至適な)時間をかけて環境に働きかけて果実を享受することの方が結果的に適応度が上がり、長期的には望ましいということも主張可能なわけだ。現代社会は効率化を追及して、待たずに質の高いものを手にすることを可能にしているが、どこか不満足な感じ(手にした物が何かほんとうに自分が望んでいたものではないという違和感)を抱いてしまうのはそのためなのかもしれない。

ある意志をもって目的を達成しようとしているときにどのような(どれくらい強い)原則を適応してそれを阻害するものに対処しているのかを考えてみること。これは他人の行動を分析する場合にも有用だろう。
ある目的の達成を阻害するものがある場合に、実は(意識的、無意識的に)拙速な欲求実現が回避されているのではないかと考えてみること。