田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

都留重人氏とは誰だったのか

2006-02-08 | Weblog
 都留重人氏が亡くなられたそうです…合掌。

 実は先週の土曜日に早稲田大学図書館で都留氏の著作をかなりの数借り出しました。それはナカニシア出版から今年の夏には出る予定の浜田宏一先生、野口旭さん、若田部昌澄さん、中村宗悦さん、浅田統一郎さん、松尾匡さん、というメンバーによる統一的なテーマで構成された論文集のために借り出したものです。私の仮のテーマは当初は小宮隆太郎氏の所説変遷を中心とするものにしようと思いましたが、次第に小宮氏がおそらく批判の対象のひとつとしてきたと思われる日本のマルクス主義的ケインズ経済学あるいは日本の制度学派経済学の歴史的考察を批判的に読み解いていこうと思っていました。図書館から大量に借り出した矢先なので虫の知らせみたいですね、個人的には。

 この日本のマルクス主義的ケインズ経済学あるいは日本の(旧)制度派経済学の流れは、大学で言えば一橋大学そして人物でいえば杉本栄一と都留重人氏にはじまると私は認識しています。この両者の経済学形成はそれぞれ異なりますが、やはり十代の頃にマルクス主義経済学の洗礼をうけていることは共通します。

 で、戦後、この両者は「マルクスとケインズ」(都留)、「マルクス経済学と近代経済学」(杉本)というテーマで経済学にアプローチしていくわけですが、杉本氏の研究プログラムがマルクス経済学の中に「近代経済学」(新古典派、ケインズ経済学など)を包摂していくという試みであってそれが結局は学説の併記以上のものをでませんでした。この点はマルクス経済学の中に近代経済学を包摂するというアプローチ自体が不毛である、という安井琢磨の批判が当を得ていると思います(安井琢磨『経済学とその周辺』の第一論文参照)。

 むしろ安井がその杉本批判の中で指摘しているように、マルクス経済学の特徴である「制度的」分析、いまであるならば比較制度分析的観点こそ「近代経済学」に活かすべき方向であり、近代経済学の中にマルクス経済学の成果を吸収していくという杉本の研究プログラムとはちょうど逆の方向(安井琢磨が承認した方向)が今日までも生き残っている研究の方途のように思えます。もっとも比較制度分析の淵源はマルクスだけではありません。

 この前者の研究プログラムの方に近いのが都留氏の研究プログラムでしょう。ところで都留氏の自伝『いくつもの岐路を回顧して』で、戦後まもないころ理論社から出版された『自然科学と社会科学の現代的交流』が杉本と都留のコラボレーションの記録として注記されていまして、都留氏は下の杉本の発言を引いています。

 「資本主義末期の経済現象を理解するためには、何かの測定の過程までが価格決定の中に入り込んでくるという複雑な問題を考える必要がある」。

 この本にやはり参加していた武谷三郎が、この杉本の発言を量子力学のアナロジーとして検討を加えていますが、もちろん杉本は十分その種のテーマとの類縁性を意識して発言したものでしょう。

 今日まで延々と続く反経済学的な方法論と複雑系なるものへのあこがれを、この杉本発言からひろうのは容易です。

 この『自然科学と社会科学の現代的交流』と、先にあげた杉本と安井琢磨の反論(都留の論文もあり)も収録された同じ理論社の『近代理論経済学とマルクス主義経済学』の両者を読むと戦後の日本経済学の独自性である反経済学的風土の淵源を簡単に確認することができます。

 さて話しは戻って、都留氏のマルクス主義的ケインズ経済学=日本の古い制度派経済学の特徴について述べたいと思います。彼の処女作であり昭和19年に出版された東大での講義『米国の政治と経済政策』には彼のその後60年に及ぶ経済学の萌芽と、そして何よりも強調したいのは今日の構造問題説のすべての雛形を見出すことができることだと思います。