田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

都留重人氏とは誰だったのかII

2006-02-28 | Weblog
 戦後の日本人の常識のひとつに、アメリカのウォール街から始まった大恐慌は、ルーズベルト大統領によるケインズ型の財政政策によって回復した、というものがある。このケインズ政策が公共事業によるダム、港湾施設、道路の建設といった政府主導のものであるという「常識」はいつ形成されたのだろうか。それと解く鍵のひとつに、戦時下において東大で行われた都留の講義にあるのかもしれない。

 都留の戦中に行った講義『米国の政治と経済政策』(昭和19年)は、1920年代のアメリカ経済の繁栄と大恐慌による危機、そして30年代以降のニューディール政策の評価を包括的に解明した経済政策の書である。しかも都留はアメリカからの帰国(昭和17年)する当時から心に決めていたように、すでに日本の敗戦は必死とみており、“敗戦”後の日本の見取り図を彼なりに吐露した処女作である。

 全体は四章からなり、第1章 二十年代の性格、第2章 大恐慌と米国経済の変容、第3章 「ニュー・ディール」、第4章 経済政策の新しい方向 からなる。都留の所論の特徴は「政治」や「制度」的要因と経済的な要因とを峻別し、前者が後者に本質的な影響を及ぼすという制度的アプローチを採用している。

 20年代のアメリカの空前ともいえる繁栄は、(a)電気、自動車、(b)建築などの諸産業が異常に発達し、また(c)外国貿易も好調であったことに牽引されている。さらにこれらの産業の発展を支えたのは(d)人口の急速な増加であった、と都留はみている。

 この経済の構造的な側面は、当時の「徹頭徹尾ビジネス助長ビジネス擁護」の経済政策と政治のあり方によって主導された。これを都留は「工業生産の分野における資本団体と金融団体に於ける支配的な力」と表現している。当時の経済政策を左右する諸力として、都留は他に農業団体と労働団体をあげているが、これらへの20年代の政府の取り組むは消極的なものであり、工業重視の経済政策スタンスを採用していたと都留はみている。

 この二十年代の経済を崩壊させた大恐慌の原因は何か?

 それは都留にあって上記の(a)から(d)までのすべての要因の同時的な下降として考えられている。特にキーになるのは、従来の牽引役であった産業が衰退産業に転じてしまい、新産業や新技術の可能性が絶たれたことである。

 なぜ新産業や新技術が生れないのか? それはアメリカの産業の独占化が深刻であり、新しい技術を導入するインセンティブに欠けるため、シュンペーター的な創造のための破壊=清算主義(この「清算主義」という言葉を都留は使用してはいないが)の活動を阻害するからである。

 独占集中の弊害は、例えば価格面をみればそれは価格硬直化であり、さらに都留がより注目していたのは独占企業が投資資金を内部ファイナンスすることで外部からの規律付けが行われていないため、非効率的な投資や資金運用が行われている、ということである。これが過剰な投資を生み出し、「制度に内在する矛盾を激化する」、要するに「バブル」を生み出すといいたいわけであろう。

 さて都留は先のように大恐慌の原因を構造的な複合要因(複合不況?)として捉えた。その上で大恐慌に対処したふたつの政権の経済政策を評価していく。

 まずフーヴァー政権の経済政策は当初は経済の「自動的回復力」を信頼していたが、その末期には銀行や鉄道業の救済のために緊急貸付や公的資金の投入などの「金融政策」を適用したが、それは「人為的な膨張」維持政策にすぎず「経済の現象面にのみ捉われ、それより一歩深く掘り下げることは科学の問題ではなくて信念の問題」としてフーヴァー政権の政策当事者はみなしてしまったと述べている。

 現代的にいえば「金融政策」は根本的治癒ではなかった、対症療法にすぎなかった、というわけである。

 さて金融政策への低評価は都留の場合は次のルーズベルト政権の評価でも一貫している。彼はニューディールを第1期(1933年~39年)、そして第2期(39年から現在)までに分けている。第一期の主要な政策は通貨膨張政策を中心にした金融政策と「政府とビジネスの協同体制的観念」(要するに全国産業復興法NIRAのこと)であり、第2期は公共事業を中核にした財政政策である。

 第1期は失敗し、第2期はアメリカ資本主義の危機を回避するには政府の財政的な介入が必然である、という後年まで維持された都留の見解を形成するのに役立った。

 第1期の政策の主眼は「高価格」の実現であり、そのための政策手段が通貨膨張政策と平価切下げであった。さらにこれに農産物価格の吊り上げ政策と工業製品価格抑制政策もオプションとして加わっている。

 しかし都留は金融政策では、「自由主義的資本主義」の衰退がきわまっているので根本的治療にはなりえない。さらに独占集中の状態を解消するほどの政府介入がない、などでこれらの政策が34年秋にはすでに行き詰まりをみせたと評価している。

 この点についてはむしろこの時期のFRBの「出口政策」がデフレ脱却の点で誤まったものであったことが、近年いくつかの研究から明らかにされている(『昭和恐慌の研究』、安達誠司『デフレは終わるのか』などを参照)。

 「第2期」である39年以降のニューディールを拡張的な財政支出を伴うより積極的な政府介入として都留はとらえる。興味深いのはこのニューディール政策を都留は大恐慌の根源ともいえる独占集中という産業の状態を「統制」するためであったと解釈していることである。

 例えばかのTVA(テネシー峡谷事業局)は「米国独占企業の中でも特に重要な一環をなしている民間電気業」の活動を抑制し、政府からの補助金を得ていたTVAの割安な「適正価格」によってテネシー峡谷にあった民間電気業社の価格は「統制」された。

 さて都留はニューディールの出現によってアメリカ経済の性格とその国民の認識も変化したと書いている。

 「即ち、1929年後の大不況は米国人に次ぎのような教訓を与えた。アメリカの経済制度はもはや、制度それ自身の力では、経済の安定と資源の全的利用を達成できなくなった。従って、この安定と全的利用とを果たす為には、政府が一役買って出ねばならない。そしてその場合、政府がとるべき政策の集中的焦点をなすものは財政政策にほかならぬ。投資額の調整、租税制度の意識的な利用などを契機とする財政政策である、そこにこそ今後の財政政策の新しい意義がある」

 ところで都留の所論で興味深いのはこれらの新しい財政政策の効果が実はアメリカでは未決であったことである。効果がはっきりしないまま、事実上は「戦争」によってニューディールが取り組みべき課題としてあげた「国民的利益」と「資源資材の全的利用」「全的就業」はなしとげられたというのである。さらに都留はニューディール期における「国民的利益」の実現の中味が特に「全的就業」であることが、かえって戦争につながった、という注目すべき見方を提供している。

 「「国民的利益」概念の二つの具体的内容をなしている「国防」と「全的就業」とが同時に満足される機会が与えられたのであるから、大東亜戦争開始にいたるまでの好戦的態度には十分の根拠があつたと云はねばならなぬ。「ニューディール」政策は、このような形で戦争につながっていたのである」。

 かくして日本の経済論壇に影のように長く付き従う大恐慌戦争解決策は、その戦争そのものを惹起するという論理とともにロックインされたのである。