【注】購入するなら、新訳で「ヒマラヤ聖者への道」をお勧めします。翻訳文の読みやすさと字の大きさ
がその理由です。3巻までが11名の調査隊員たちの実録体験記録です。
◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第九章 神癒の廟 P96~99
この村には平癒の廟というのがあった。建立以来この廟の中ではただ生命、愛、平和という言葉のみが口にされてきて、それが極めて強烈な波動となって蓄積され、廟を通り抜けるだけで殆どすべての病気が立ちどころに癒されるというのである。
この廟では生命、愛、平和という言葉だけが、かくも長年月にわたって語られてきているので、それから出る波動は極めて強烈であり、たとえ不調和や不完全を意味する言葉を何時なんどき使ってみたところで、何の影響も及ぼせないそうである。
人間の場合にしてもその通りで、生命、愛、調和、平和、完全を現す言葉だけを出すようにすれば、そのうち不調和な言葉など出せなくなるであろう。事実わたしたちは不調和な言葉を使ってみようとしたが、その都度それは言葉にならなかった。
前にも述べた病気平癒を求める一隊の目的地がこの廟だったのである。この付近におられる大師たちは、或る期間を献身と指導の時期と定め、その時期に指導や助けを求めてくる人々の為にこの村に集まって来る慣わしになっていた。
この廟は専ら治病の為に献じられていて常時公開されていた。一般人すべてが大師がたに接触するのは必ずしも可能ではないので、病気治しを求める人々にはこの廟に詣でることを勧めておられる巡礼に集まってきた人々を大師がたが治そうとしないのはその為である。
それでも巡礼者の一行と同行するのは、大師がたが常人と何等変わるものではないことを実地に示す為、また人間は誰でも神によって与えられた力を等しく包蔵していることを示す為なのである。大師がたが河を歩いて渡ったのもどんな緊急状態にも超然としていられることと、わたしたちもいずれそうなることを示す為だったのである。
この廟への往来の叶わない土地では、大師がたに救いを求めてくるわけであるが、そういう人々は大きなおかげを受ける。勿論、そういう人達の中にはただの好奇心に駆られての者や不信の徒も混じっていて、何の功徳にもあずからぬらしい徒輩もいる。
しかし、わたしたちはおよそ二百人、乃至二千人から成る幾つもの集団を見たが、その中の癒しを求めた者達みんなが現にいやされたのをこの目で見たのである。「全きからしめ給え」と黙認して治されましたと、実に多くの人々がわたしたちに語っている。
別々の時日に治された人達もたくさん実見したが、殆どその九十パーセントが根治であり、廟内で治ったものは百パーセントの完全治癒のようであった。廟は一か所にのみある具体的な存在であるが、見えざる神なる中心、個我の中にあるキリスト(実相)を象徴する(それは恰も教会が、かくの如き神、即ち個我に内在するキリストなる中心を象徴すべきである如く)。
何人も欲すれば常時そこを訪ねることができる。訪問の回数も宿泊の日数も自由である。かくして此処を訪れる人々の心の中におのずと理念が形成され、やがてそれが定着するようになる。
以下はエミール師の話である。「ここから過去における偶像崇拝への導火線となった暗示が生まれてきます。当時、人々は自分達の理想化している姿を木や石、金、銀、真鍮に刻み込もうとしました。大体、偶像というものは理念を不完全にしか描けないものです。
姿或いは偶像は、出来た途端に理念には到底及ばないことに人は気づき、やがて、偶像ではなく愛をこそ仰ぎ見るべきであること、偶像を刻んで理念の象徴とするよりも、心底より表現したいと願うものを自分の理念とすべきことを知らされるものです。
次には、わたしどもの理念を表現する人間を理想化してしまい、それが新しい形式の偶像になってしまいます。しかし、わたしどもは彼が表現する理念をわたしどもの理想とすべきであって、人間としての彼を理想化すべきではないのです。このことはイエスのような偉大な方にしてもまた然りです。
イエスは御自分が現した理念ではなく、イエスの個我(パーソナリティー)を大衆が理想化しつつあることに気づかれたために、大衆のもとより去ることを選び給うたのです。大衆はイエスが彼らの形而化的欲求を満たせると知ったからこそ王につけようとしたのであって、自分達自身にもまた必要とするものをすべて満たす権能(ちから)がわが内にあり、それをイエスのように実現すべきであると悟ったからではありません。
イエスは言い給うた、『わたしは去る方がよい。わたしが去らなければ、慰め手は来ないであろう。』。それは、人々がイエスの個我に頼る限り、彼ら自身の力を遂に知らずに終わるとの意味だったのです。人間は内をこそ、わが内奥をこそ求めるべきであるからです。
『あなたたちに教え、或いは告げる者があろう。しかし、あなたたち自身で業をなすべきである。他に頼るならば理想ではなく偶像を建てることとなろう』わたしたちは驚嘆すべき数々の癒しを目撃した。或る者は廟を通り抜けるだけで癒された。
またかなりの時間をそこで費やして初めて癒された者もいる。いずれの場合にしても、一人として司祭する者はいなかった。発声された言葉のヴァイブレーションはそれほど強力であり、その影響範囲内に来る者はすべておのずからにして功徳を受けるのであった。
骨化症を患っている或る男が廟に運び込まれるや、完全に癒されるのを見たことがある。一時間後に完全に回復して歩いて帰ったが、その男は後でわたしたち一行のために四か月も働いてくれたものである。無くなっていた片手の指が完全に生えた男がいるし、手足が萎え身体が歪になっていた少年で、瞬間的に癒されて歩いて廟から出て行った者もいる。
実際に廟に入っていった人はことごとくが癒された。そのとき癒された者に、二、三年後に直接会う機会もあった。再発することがあれば、それは本人に本当の霊的理解が欠けている為であるという。