◎スピリチュアル情報を役立てていく場合、情報の正しい読み解き方、誤解のない解釈が大切です。曖昧なイメージや定義では、様々な視点や前提をもとに語られるスピリチュアル情報を解釈する際に混乱してしまいます。「意識進化に知識は不要である」という意見もありますが、大多数の人には、基礎となる霊的知識(日々の意識の保ち方や体験の創造)関連についての知識は有益かつ必要です。
【目次】***************************************************
1.カルマについて ・バシャール(P1) ・サルーサ(P3) ・ヒマラヤ聖者の生活探究(P3) ・ラムサ(P4) ・マシュー君のメッセージ(P6)
2.経済危機の本質とは?(P7) 【関連】ラムサ ~人生における魂の旅と目的~(P8)
3.「状況の中立性」と「起こる物事の全てに理由・目的がある」(P9) 4.5つの波動レベル (P10) 5.「在る」ことの重要性 (P12) 6.「私は在る」と覚えていなさい (P15) 7.「ただ在る」という第四のレベル (P16) 8.ラムサの「ただ在る」についての教え (P20)
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1.カルマについて
◎意識進化や理想実現の障害となっている信念のひとつに、「カルマ」(「業」・「因果」などと訳される)についての観念があります。現在カルマについての誤った知識が、私たちに制限を加えている場合が意外に多いと思われます。ですから、カルマの知識を正しいものにしておくことは、望む人生の創造や進化にとって大切なことです。今回引用した「カルマ論」は、私(西久保)から見れば非常に信頼ある情報筋からのものです。【注】の内容は私の理解に基づくものですが、参考にしていただければうれしいです。
●バシャール・・・エササニ星宇宙人(ダリル・アンカのチャネリング=テレパシー通信)より
(1)あなたの出したものが、あなたの受け取るものです。それだけが、ただひとつのカルマ的な法則です。与えたものを受ける。【注1】(バシャール1巻P35)
【注1】これだけを読むと、「因果応報は不可避の法則」と理解されてしまいそうですが、そうではないことは、以下(2)のバシャールの発言や他の意識体たちの言葉で明らかです。
(2)まず、第一にすべてのカルマは自分で勝手に創っているものです。「すべてを選ぶのはあなただ」ということを忘れないでください。すべてのカルマも、あなたが選んだものです。カルマとは、「バランス」のことです。自分が捕らわれの身になるというのではなく、カルマをバランスさせるということが大切です。こういうことをしたから、こういう報復が返ってくるという意味では必ずしもありません。
カルマというのは単に「調整されなくてはならない動的な力」という意味です。バランスをとる方法はいろいろとあります。ひとつの人生の中で自分がネガティヴ(否定的)なことをすれば、次の生ではまったく同じことが起きなくてはならないという考えの人がいますが、あなた方にとって、いままでは確かにそういうことが真実でしたけれど、そうである必要はありません【注2】。
たとえば、ひとつの生の中で殺人をします。次の生で殺されることになったとします。しかし、別な方法でこのカルマのエネルギーのバランスをとることができます。たとえば、ひとつの生の中で人を殺したとします。次の生で殺される必要はありません。たとえば殺人を犯そうとする人を助けて、その人が殺人をしないように防ぐこともできます。そうすると同じバランスが作られます。カルマというのは、単にあなたの存在すべてが結合した体験なのです。
自分の周波数を変えるためには、そして自分を高い存在にさせて進化させるには、すべての体験のバランスを取る必要があります。このカルマというのは、あなたの鎖となるようなものでは決してありません。逆説的なのですが、真実はこのようなものです。
「自分が体験している真実」というものすべては、「自分が創り出している」ということに気が付けば、もうカルマ的結びつきという考えを信じる必要はないわけです。自分が選ぶ、あるいは選ばない自由があるということに気づくと、それがあなたのカルマを切ることになります。つまりそういう自由があることにと気づく時、否定的な行動をする必要が何もなくなるわけです。
(中略) あなたが地上の人に教える時は、「ひとりひとりが、すべてのパワーを持っている」ということを教えてください。他人も自分も傷つけることなく、必要なものを全部創造できるということです。一人一人自分の欲しいものは全部創ることができます。それによりネガティブなもの、カルマ的なものも切れてしまいます。(『BASHAR』第1巻:旧版P21~22 新書版P30~33)
【注2】「あなた方にとって、いままでは確かにそういうことが真実でしたけれど」というのは、これまではカルマが万人の不可避の絶対法則だったということではなく、あくまでカルマの法則が一般大衆に信じられてきた為に、彼らにとっては真実として体験されてきたということ。
(3)(カルマとは)「大いなる自己」(ハイアーセルフ)、またはオーバーソウル自身(魂の集合体)が、どのような体験をしたいかという、ある決まった傾向や方向性がもつひとつの慣性です。すべてのカルマは自らが自分に課したもので審判ではありません。バランスがとれているかどうかの認識にすぎません。皆さんが自ら実践し体験している概念を認識するためのものです【注3】。そしてまた、物理次元において、自分が体現しようとしている概念は何なのか、今している体験の元にある観念は何なのか、自分にさせたい体験を実際に許すためにどのような状況を選択しているかを見せてくれるフィードバックの手段なのです。(ニュー・メタフィジックス ~バシャールと宇宙連合~ P42)
【注3】「自ら実践し体験している概念」とは、「ある概念(観念)に基づいて生じた感情・思考・行為」があるとき、それは「概念を実践し体験している」と見ることができるでしょう。多くの人は、自分の内的なプロセスに無自覚です。また誰しも現時点の認識能力の限界もあります。フィードバック(与えるものが戻ってくる)システムのカルマは、自分の体験の原因となっている観念や、自分の欲求を満たすために選んだ状況(手段)を自覚させてくれるというのです。
●(シリウス星人)サ・ルー・サ2012.10.27 (チャネラー:マイク・クエンシー)
皆さんは今終末の時期にいて、カルマの清算が急速に現実化しています。皆さんがアセンドすれば、残されたカルマは慈悲の法則で消去されます。
●(シリウス星人)サ・ルー・サ2011.8.3 (チャネラー:マイク・クエンシー)
調和とバランスのとれたずっと高いバイブレーション(波動)のレベルに上昇すれば、皆さんが再びカルマに巻き込まれることはなくなります。
●ヒマラヤ聖者の生活探究 第3巻第17章「因果(「カルマ」の訳語)の超克・キリスト誕生の歴史」P249~250
そのような種族が曾てこの地上に生存したことがあるし、また再び生存するようになるであろう。わたしはあなたたちに告げる、迷う必要はない、天国はすでにここにある、ここを各人が天国にすると意志さえすれば。人は神のお召しに耳を傾けることを拒むから、死んではまた生まれ変わって試練や苦悩多き人生に戻ってくるのです。
そして又、いくどもいくども死の門をくぐって、ようやく最後に教訓――即ち、絶対的な霊的知覚という岩の上にこそ、全人類という家族の家は建てられるのだという教訓――を学び取る。そのような人々には、死も存在しないし、死を繰り返すこともない。故に因果(カルマ)の法則は存在しない。因果とは結局、不調和〔老・病・苦・死など〕の実現を目的とする報復に他ならない。【注1】
報復に代えるのに自我放棄を以てせよ。そうすれば因果の動因は矯正される。なぜなら、因果はそれを発現させようと決めてかかってくる人たちの思いの中にのみ存在するからである。原因をとり除くか、それを一層高い状態で取って代えれば、低い状態は消える。かくして、あなたたちは自分の体のヴァイヴレイション(振動)を、因果(カルマ)を招く状態よりも昇華させたことになる。
そうしない限り、死んだところで因果は決してなくなりもしないし、破壊もされず、消えもしない、かえって死によって因果が加わり、幾層倍にも増大し、結局、各個人個人の上に大浪のうねりの如くに積み重ねられてゆくだけです。死と生とを放下した瞬間に、これらの因縁因果から解放される。かくして二つとも消えたのである。消えたのであれば、それは忘れ去られてしまうだけである。この段階で、生命が絶対に永続するということを把握して、それを実現することができなくても、死という誤りに対しては生まれ変わりという最後の救済策があります。
【注1】原書には、「不調和〔老・病・苦・死など〕」の〔 〕の部分はなく、これは訳者の挿入です。また「実現を目的とする報復」という訳ですが、「目的」に相当する「purpose:aim:objective」などの語彙はありません。これも訳者の挿入です。正確に訳すと「実現に至らしめる(bringing into)報い・報復(retribution)」です。
この部分だけでなく、「心身の神癒」(霞ヶ関書房)等の仲里誠吉氏の翻訳には、しばしばそういうところが見受けられます。翻訳に疑問を感じたら原書と照らし合わせましょう。私は原書をブッククラブ回で購入しました。
*ブッククラブ回 107-0062 東京都港区南青山 2 -7-30 B1F Tel :03-3403-6177 E-mail : wlp@bookclubkai.jp
●ラムサ・・・ラムサホワイトブックより(改訂初版2004.9.30)P186~189
*文中に「マスター」とあるのは、ラムサが「ラムサの学校」の生徒を「マスター」と呼ぶため。
生徒:私の人生に最近、二人の人間が現れたのですが、彼らの出現は私の人生の中でどういう目的をもっているのかということと、私たちは以前、他の人生で一緒だったことがあるのかどうかを知りたいのですが。
ラムサ:存在よ、彼らがあなたの人生の中にいる理由とは、あなたが彼らにそこにいて欲しいと思っているからであり、同時に彼らもそこにいることを望んでいるからだ。それ以上に偉大などんな目的があるというのか?
生徒:でも、私は彼らに人生の中にいて欲しいのかどうか分からないのです。もしかすると、私たちはお互いにカルマ的なつながりがあるためにそこにいて、お互いに何か学ぶべきことがあるかもしれないと思ったのですが。
ラムサ:マスターよ、誰かとの関係にどこか物足りないものがあるとき、もしかすると過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、しばしばその関係を今よりもずっと魅力的なものにしてくれるだろう。だが、「カルマ的なつながり」と呼ばれているものは、「必要性」という非常に単純な言葉を宗教的に説明しているにすぎない。
絶え間なく続くたくさんの人生を通して、あなたは多くの人々と一緒にいることを必要とし、それを楽しみ、それを望むことだろう。だが、もし同じ友人たちが数多くの人生で繰り返し現れたならば、人生はとても平凡でつまらない退屈なものとなってしまうだろう。
マスターよ、もし過去生で一緒だった人間が今そこにいるのなら、それによって学べることは、自分たちは再び一緒になったが、結局はまた分かれて進む必要があることに気づいただけであったということだけかもしれないのだ。
生徒:なるほど、あなたの言っていることは分かる気がします。でもカルマについて、もうひとつ質問があります。殺人や強盗、あるいは事故のようなことが人々に起こるのは、カルマを成就するためであって、彼らが過去生でやった何かに対してバランスをとるために起こっているのだと、私は教えられてきました。カルマの法則について、あなたがどのように考えているのかを知りたいのですが。
ラムサ:あなたに知ってほしいこと、そして、すべての者に理解してほしいのは、あなた方が「カルマ」と呼んでいるものは、神の法ではないということだ。つまりカルマとは、それを信じている者たちの法なのだ。残念ながら、この教義を信じている者は大勢いて、彼らは「完璧さ」と呼ばれる架空の理解を達成するために懸命に格闘している。
そして彼らは、自分が人生でどんなことをしようと、その代償を支払うために次の人生にもどって来なければならないと信じ込んでいる。自分の身に起こることはどんなことであれ、「カルマの成就」のせいにしてしまう。だがマスターよ、人生の説明としては、これはきわめて不十分なものだ。人生はこの説明をはるかに超えたものである。
カルマの法則は確かにひとつの現実だが、それはその法則を信じる者たちにとってだけ現実なのだ。法として存在するのは、あなたが自分の王国の中で有効だとしたものだけだ。真に法を与える者は、それぞれの至高の存在である。というのも、それぞれの存在が真実を受け容れる自我をもっているからだ。そしてその人間がどんなものを真実と呼ぼうと、つまり自分の存在の中でどんなものを法として創造しようと、それはその通りになる。
したがって、多くの人間が「バランスと完璧さの法則」を自分たちのために法として据えてきたのは、信念や変質した理解を通してなのだ。もしあなたがカルマを信じることを選ぶなら、まちがいなくあなたは、自分自身が創造したその法に支配されることになる。というのも、あなたはその信念に力を与えることになるからだ。そうすれば、もちろんそれはあなたの人生の中で有効になる。そうするとまちがいなくあなたは、この天界での前の人生にしたことを取り消したり、称賛したりするために、何度も繰り返しここに戻ってくることになるだろう。
私はカルマ、あるいは完璧さといったものを認めない。なぜなら私は、それらを制限とみなしており、喜びを与えるものとはみなしてはいないからだ。カルマという制限を通して、完璧さを得ようと奮闘している者たちは、彼らが求めているものを得ることは決してない。
なぜなら、彼らが何かひとつのカルマを満たしつつあるとしても、それは同時に新しい別のカルマを創り出していることになるからだ。そして彼らがどれほど多くの人生を生きたとしても、「在るという状態」すなわち、「神の状態」には決して到達できないのだ。というのも、彼らは「受け取る状態」ではなく、常に「負債を抱えた状態」(支払わなければならない状態)に身を置き続けるからだ。
完璧さといったようなものはない。存在するのは、「在る」ということだけなのだ。生命の「在る」という状態の中では、あらゆる瞬間に、あらゆるものが変化し進化している。したがって、「完璧な状態」というものが確立されることは、けっしてないのである。
私が認めるのは「在る」ということだけだ。それは神である自己が、何かになっていくのを妨げる法や理想がまったく存在しない状態だ。「在る」という状態の理解の中では、自分のやりたいことの他に、人生でしなければならないことは何もない。
もしあなたがカルマの教えを受け容れることを望むならば、それは自分の体験のためにあなたが行う選択であり、創造なのだ。だがマスターよ、あなたは制限された力と因果応報という幻を自分で創り出してしまったのだということに気づいてほしい。カルマと呼ばれるものを受け容れるならば、あなたはそうなってしまう運命にある。つまり、自分自身の制限された考え方の囚人となってしまうのだ。
マスターよ、あなたは自由な魂と聖霊である。あなたは自分の望むどんな真実であろうと、どんな現実であろうと、どんな幻であろうと、それを選んだ瞬間に創造し体験できるのだ。そして、自分が望むいかなる瞬間においても、あなたはその夢を創造し直すこともできる。というのも、あなたはそれをする無限の力をもっているからだ。
カルマは存在しないが、欲求は存在する。そして欲求はとても移り気だ。欲求はそれが望むどの瞬間でも、何でもできるし、何にでもなることができる。そして何かになっている最中に心変わりすることもある。マスターよ、殺人や事故や強盗のようなものは、罰として起こるわけではない。つまりそれらは以前のあなたがやったことに対する報いではないのだ【注1】。それらは、あなたによって思い巡らされた体験であり、その結果として、あなたによって創造されたのだ【注2】。それらは永遠のものでもなければ、永遠に続く状況でもない。したがってより大きな理解の中では、それらは恐ろしいことではない。振り返ってみれば、それらは偉大な師なのだ。
【注1】ラムサは、「与えるものが戻ってくる」という存在の原理を否定しているのではなく、あくまで「罪の報い」という宗教的概念を否定していると理解すべきでしょう。
【注2】
(1)同ブロック冒頭の「カルマは存在しないが、欲求は存在する」ということからすれば、殺人や事故や強盗のようなものも、「何かの欲求」が原因で、思い巡らすことを通じて創造されたと読めます。では、どのような欲求なのかといえば、
(2)P9(4)にあるラムサの言葉(アンダーラインのところ)から解釈すると、「体験を通じて叡智を獲得したい」という「知りたい欲求」ということになるでしょう。したがって、
(3)P3のヒマラヤ聖者の生活探究からの引用、「因果(カルマ)はそれを発現させようと決めてかかってくる人たちの思い(thoughts)の中にのみ存在する」という理由は、魂が体験を通じての叡智獲得欲求をもっているゆえに現実化を決意していると理解できるのではないでしょうか。
仏教でも「欲求の原因は、無明(無智)」とされます。魂の根本衝動として、無智が無智のままでは収まらないようです。
●マシュー君のメッセージ 2012年3月1日 「玄のリモ農園ダイアリー」より
○宇宙で未曾有のこの時期に、さらにもうひとつの神の恩寵の道が用意されています。進化した魂たちが、弱い魂たちの過酷なカルマ経験を進んで引き受けているのです。そうして彼らにほかの合意条項を完了させてやっています。魂のレベルで彼らが協力することで弱い魂たちが力づけられ、第三密度から進化できるようになります。助けを求めている弱い魂たちを支えることは、スピリチュアルに進化した肉体をもつ文明社会人たちにとっては当然のことです・・これこそ、近縁とはるかかなたにいるたくさんの魂たちが地球とあなたたちのためにしていることなのです。そしてこの希有な時期には、そのような魂レベルの協力もスピリチュアルな成長のために用意されているのです・・これも光の存在たちの計り知れない愛の例です。