今回は、1920年代を振り返る。話の本筋に入る前に、読者の皆様に次のことを理解していただきたい。過去を検証する場合、大切なことがある。われわれは現在の価値観でなく、当時の価値観で当時の人々と対話しなければならない。そうしなければ、過去の失敗も成功も、現在と未来に生かせない。筆者はそう思う。
歴史の流れとともに、人間の価値観は変わる。英国の歴史学者、ジョン・トシュ・ローハンプトン大学教授は「産業革命前、イングランドでは離婚がほとんどなかった」と話す。夫婦が生産単位であり、パン屋、鍛冶屋、仕立て屋などを経営した。また法的な離婚も認められていなかった。女性の社会的地位は大変低かった。
18世紀後半にはじまった英国の産業革命がすべてを変えた。工場での大量生産が可能になり個人企業が崩壊。経済的な理由で夫婦が離婚できにくい環境がなくなっていった。産業革命は人々の価値観も変えた。個人の意思(恋愛)が結婚の動機になっていった。家族単位の企業崩壊は歴史の流れにおける変化だ。
また18世紀後半までイングランドでは、公開での絞首刑は普通であり、大衆3万人以上の面前で行なわれたという。見物人は男性より女性が多かったといわれる。正義が実行されたと大衆は拍手喝采した。人権を尊重する今日では考えられない。
今日でさえ価値観の変化が散見される。電車の中で、女性が化粧しているのをよく見かける。40年前に、電車で化粧をしている女性はほとんど見かけなかった。皆無だといってもよいかもしれない。
当時、女性はよほどの勇気がなければ、電車内で化粧することはなかっただろう。社会常識に反していたし、人々はこのような女性に「うさんくさい」レッテルをはった。現在、化粧している女性に後ろめたさはないようだ。価値観がしだいに変化しているのだろう。40年前の年配者が現在生き返って、そのような女性を批判してもナンセンスだと思う。ただ個人的には好ましくないと思う。初老のたわごとだ。
と言うわけで、日本の中国侵略を「現在の価値観」で捉えても、正確な分析に迫れない。筆者はそう思う。石原参謀が生きた時代の価値観で、彼を批判してこそ、批判する価値がある。そして現在にも生かせる。前置きが長かったが、読者の皆様とともに1920年代から30年代初頭にタイムマシーンで戻ろう。
なぜ満州(現在の中国東北部)に駐屯した関東軍(日本軍)が満州全土に進軍したのか。侵略した理由は単純ではない。いくつもの理由が絡み合っている。その一つの理由は、関東州(遼東半島)の租借地を守備していた関東軍から見て中国の理不尽な態度だった。日本人である関東軍将校にはそう映った。中国共産党政権が今日、尖閣列島(中国名:魚釣島)、靖国神社問題、歴史問題など日中の相違をすべて政治戦、宣伝戦、心理戦、法戦から捉えて日本に揺さぶりをかけているように、1920年代も中国の軍閥北京政府や南京の国民党政府は同じような戦略で日本に揺さぶりをかけてきた。欧米植民地列強に対しても同様の戦略で挑んできた。
我慢できても忍耐できない関東軍(筆者の主観だが、日本人は忍耐できない。せっかちなのかもしれない)は、中国のあらゆる“妨害”に抗しきれず、ついに堪忍袋の緒が切れて、圧倒的な武力を盾にして中国に侵略を始めた。
関東軍は日露戦争後に日本がロシアから譲り受けた関東州(遼東半島)の租借地や鉄道、鉱山を守る少数の守備隊として発足した。当時の価値観では、条約という手順を踏めば、戦争で分捕った土地の正当性は保証された。また日露戦争(1904-05)で敗れたロシアが、1890年代に中国から租借した遼東半島の土地の一部を日本に譲り渡しても問題はなかった。当時の人々が共有している価値観だった。少なくとも1920年代初頭まではそうだった。
中国は日露戦争後、渋々ながらロシアから日本への譲渡を認めた。なぜ?法的に問題がなかったからだ。ただ、実際、日本軍は中国が戦う相手ではないと、清朝(中国)政府は考えた。日本の軍事力が圧倒的に優っていた。
中国人は現実的で、力関係を重んじる国民。抵抗してもどうにもならないと悟った。中国人は言葉では相手を脅かし激しくののしるが、相手が強ければ、攻撃しない。日本人のように、敵が何十倍も強大であろうとも、自らの“正義”の旗を掲げて戦いを仕掛けてくる民族ではない。筆者はそう思う。
第1次世界大戦が終了して3年後の1921年11月11日から米国の首都ワシントンで、歴史上有名な会議が開かれた。翌年の2月6日まで開かれたこの会議で、日米英仏伊の主力艦(戦艦)の建造を制限する話し合いが日本も参加して行われた。しかし、日本と欧米列強の主な仕事は軍縮ではなかった。中国の主権保持をめぐる話し合いが最も重要だった。米国は門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の無軌道な中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図った。
締結国はアメリカ合衆国、英国、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国だった。これらの諸国は今日で言う9か国条約を結んだ。
日本は1921年、米国からワシントン会議への招待状を受け取ったとき、会議への参加を渋った。参加すれば、戦死傷者約20万人を出し、国力のすべてを使い果たして勝利した日露戦争での満州の権益が遡上にのぼるのは明白だった。しかし日本は会議に参加し、条約を締結した。
海軍力の増強を唱えていた、日本海海戦の参謀長、加藤友三郎・海軍元帥は会議に日本全権として参加し、欧米列強や中国とワシントン条約を締結した。英米が、特に米国が、日本海軍が太平洋で強大になることに警戒の目を向けていた。(米国が現在、中国海軍の強大化に警戒を向けているのと同じだ)
加藤元帥は米国の姿勢を理解し、「日本が強大なる海軍を有するを好まざるは英米同一なり」と語った。加藤元帥はワシントンのホテルで、海軍省の井出謙治海軍次官宛ての伝言を口頭で、部下で信頼が篤かった堀悌吉中佐に書き取らせた。(元帥の陶訓を受けた堀提督は「海軍の至宝」とまで謳われたが、対米英協調主義者であったため、1934年に艦隊派と言われる対米英強硬派に海軍を追われた)
加藤元帥は時の変化を悟り、歴史の変化を感じていた。もはや19世紀の欧米列強による弱肉強食の時代は終わったと確信した。外交の最終手段として、戦争が認められる時代は過ぎ去りつつあると感じていた。「国防は国力に相応する武力を整ふると同時に国力を滋養し一方外交手段により戦争を避くることが目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず。即ち国防は軍人の専有物に在らずとの結論に到達す」
また日本は米国と戦争してはいけないし、することもできないという結論にも到達した。「日本は貧乏国だ。戦争しようと思えば資金がいる。世界は広いといっても、金を貸してくれる国は米国しかいない。だから米国とは戦争はできない」
現実主義者で観察眼鋭い元帥は、時代の変化を的確に読み取り、軍拡から軍縮に方向を転換し、米国との協調路線に踏み出した。今日、加藤元帥のような視野の広い、時代を的確に読み取る海軍軍人が中国に存在することを望む。21世紀は、新中国の創始者、毛沢東が最も嫌った覇権を争い、覇を唱え、「中華再興」を叫ぶ時代ではない。21世紀は協調と協力の時代だ。
またまた話しがそれたが、嫌々ながらもワシントン会議に参加した日本は、忠実に条約を遵守した。条約を遵守することで、欧米列強と協力し満州の権益を護ろうとした。
ワシントン会議に参加した中国は、1839~41年のアヘン戦争以来はじめて列強から無理やり不平等な取り決めを押し付けられなかった。初めて国権を失わなかった。それどころか、中国は1922年2月、日本と山東省問題で合意し、第1次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本が譲り受けた膠州湾租借地を返還させるのに成功した。
山東省の中国への返還は、欧米列強が19世紀、特に1894-95年の日清戦争以降見せた赤裸々な中国分割の時代は過ぎ去ったことを意味していた。欧米列強と日本は、正式な手続きを踏めば対中間の不平等条約を改正すると約束した。時は確実に変化していた。
しかし、中国では内戦が激化し、欧米列強や日本と条約改正交渉を進めることができる強力な中央政府が存在しなくなっていた。そして、もう一つの主要な時の変化が見られた。ワシントン条約当時と比べて1920年代半ば頃から民族主義が一層過激さを増した。民族主義に国益の正当性を見いだした中国は列強との交渉による不平等条約の改正を無視し始めた。中国人は法を軽視するが、観察眼は鋭い。気を見るに敏であった。
風は中国に吹いていた。日露戦争が引き金となってアジアに吹き始めた民族主義が嵐となってアジアを覆い始めた。日露戦争で、黄色人種(日本)がはじめて白色人種(ロシア)に勝った。それまで、白人には負けると信じていたアジア植民地の人々は自らの主張を声高に言い始めた。
中国の学生は1925年5月30日、日本資本で運営されていた紡績工場の労働者のストライキへの弾圧に抗議し、デモ行進を始めた。租界地区の日英警察が多数のデモ参加者を逮捕。英国の警察は発砲し、中国人11人が死亡、2人が負傷した。いわゆる「5・30運動」が発生し、全国に飛び火した。
同年7月23日、中国人約6万人のデモが広東近くの沙面の租界地で起った。デモ隊の攻撃に英国軍は応戦し、多数の中国人が射殺された。中国の大衆の標的は日本と英国だったが、この事件で英国が集中砲火に見舞われた。
中国人が以前から抱いていた外国人を嫌悪する排外主義とナショナリズムがない交ぜになり、怒りは頂点に達した。1年以上もの間、英中貿易と中国の港で英国人が取り扱う製品の船積みがボイコットされた。
中国の民族主義が歴史の歯車を加速させ、国家間の正当な手続きによる条約の改正を不可能にしていった。歴史は大きく変化し、皮肉にも、日露戦争により引き金を引いた日本に向かってそのナショナリズムが押し寄せていた。英国は中国の民族主義者に妥協し、彼らの提案に沿って、不平等通商条約を改正する決意を固めた。
英国は東アジアで刻々と変化する情勢を観察し、歴史の歯車が自分の望んでいる方向とは反対に動いていると考え始めた。民族主義運動が国際環境をジワジワと新しい方向へ変化させていることに気づいた。大英帝国が思うままに世界に指図した19世紀の時代は終わり、自分だけで中国問題を解決することは不可能だと悟り始めた。
国民党はナショナリズムを全面に出す「国民革命」外交を展開していた。民族主義に目覚めた中国国民は国民党を支持。1920年代に時計の針が進むにつれて、米国の中国への同情はますます高まって行った。アヘン戦争以来90年にも及ぶ欧州列強の植民地政策と日露戦争以降の日本の対中政策は米外交の基軸とは水と油だった。
中国人は国際環境のこの変化を見て攻勢に出た。相手が弱いと見ると攻め、強いと見れば引く現実的な国民だ。当時、極東問題で米国の第一人者と言われたジョン・アントワープ・マクマリー・北京公使(現在で言えば米国大使)は国民党の蒋介石将軍を批評し、「彼は妥協したり、巧みに説得したり、策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と語っている。権謀術数に長けた中国人の国民性は事態をますます複雑にした。
軍閥打倒と中国統一をかかげて北伐を開始した国民党は1927年3月24日に南京に到着し、国民党軍の一部は英国と日本の領事館を急襲。中国軍兵士は領事館の私物を略奪し、アメリカ人を殺害した。1937年12月の南京大虐殺事件は有名だが、この南京事件は今日の人々の記憶に残っていない。
蒋介石は1927年4月12日に上海でクーデターを起こし、共産主義者を弾圧。共産党との戦いを始めた。国民党の武漢政府は8月19日、蒋介石の南京政府との合併を宣言。1928年6月、蒋介石は北京に入城し中国を統一した。
国民党が中国を統一すると、王正廷外交部長(外相)は1928年7月19日、1896年に日本と清国(中国)との間で締結した通商・航海条約と、1903年の同条約の追加通商条約を否認すると一方的に声明を出した。やむなく日本は譲歩し、満州の権益を中国が認める代わりに中国本土の日本の権益について大幅に譲歩する用意があると表明した。
日本政府は1929年4月26日に王と交渉を開始した。6月3日に国民党政府を承認し、1930年5月6日には日中関税同盟を締結。中国は関税自主権を回復した。このありさまを見ていた日本陸軍は、幣原外相の対中政策があまりに国民党政府に譲歩しすぎると断じ、「軟弱外交」とののしった。
中国は1929年12月29日、欧米列強や日本に追い討ちをかけた。1930年1月1日以降、条約国の諾否にかかわらず条約が規定した治外法権の項目を無効にすると発表。その前提にたって列強と治外法権撤廃交渉を始めると宣言した。一方、欧米列強諸国は中国での自国民保護の裁判システムはまだ必要だと考えていた。「中国は法治の国ではない」と考えていた。
国民党政府は同じ年の1929年にソ連(現在のロシア)にも矛先を向け、ソ連の革命政府が帝政ロシアから引継いだ東支鉄道(日本は当時、北満鉄道と呼んだ)を強制的に接収しようとした。条約を無視する中国の態度に怒ったソ連は中ソ国境に軍隊を集結。ソ連より弱体な軍しか保有していなかった中国はソ連の強硬姿勢に屈服し、接収を見送った。中国人は「自分より強い相手」に対して引いた。
治外法権撤廃をめぐる中国と欧米の対立の中で、満州事変が1931年9月18日に勃発。中国は満州事変の開始を受け、列強諸国に治外法権撤廃を無理押しするのは得策でないと判断し、ゴリ押しするのを控えるようになった。
中国・国民党政府の動機は明白で、日本の侵略に反対する国から最大限の支持を期待した。中国はそろばんをはじいていた。中国は、廃止にこだわって関係国と対立するのは得策でないと判断し、時の変化を待つ態度に転じた。中国人が現実的で、したたかだと見て取れる。
法律に対する中国人と日英米人との歴史的なコントラストが際立っていた。中国は人治の国。現実を尊重し権謀術数をめぐらす人々が住んでいる。賢帝が国を治めれば法律など無用で人民は幸福な生活を送れると信じる「孔子の国」だ。
これに対して鎌倉幕府の執権、北条泰時公が貞永式目を制定してから700年、法律を国家統治の基礎にしている日本。1215年のマグナカルタ憲章制定以来、国王も法に従ってきた英国。英国から新大陸に移住し新しい国を建設した米国人。歴史の伝統の違いは明白なっていた。
歴史の流れが変化する中で、日本人、特に軍部はひたすら満州の権益を護ろうとした。ナショナリズムに正当性を与えはじめた歴史の変化に目を向けなかった。日本軍は国民党に接近する英米と協調しては満州の権益は守れないと判断した。ついに満州の既得権を守るには武力に訴えるしかないと考えるに至った。既得権死守と満州の資源・食糧の確保、対ソ・対満州防衛などの政策がない交ぜになって、関東軍は突撃ラッパを鳴らし、満州へ侵攻した。
関東軍は1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天近郊の柳条湖の南満州鉄道線路を爆破し、従来の計画「一挙に満州に関する日中問題を武力で解決する」を実行に移した。日本破滅への序曲、満州事変が始まった。
日本軍部、とりわけ関東軍は、法に基づいて日本は正当な既得権利を行使しているのに中国人はことごとく邪魔をする、という不満がついに沸点に達した。米外交官のマクマリーは1935年、メモランダムを国務省に提出した。この内容が「平和はいかに失われたか」(原題 How the peace was lost 原書房)に書かれている。
マクマリーは、日本が中国を侵略(満州事変)したことを決して許容はしないと述べたが、「日本をそのような行動に駆り立てた動機を理解するならば、その大部分は、中国国民政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだったと我々は解釈しなければならない」と語っている。また、アヘン戦争(1838-1841)以来の中国の不平等条約をめぐる欧米列強・日本と中国の改正交渉(1920年代)について「中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のために、・・・力に訴えようとし、力に反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みのせいであると冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない“けち野郎”と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう」。米国人の善意はただ、幻想をもたらしただけだった、と結論付けている。
米国の外交官は、中国の指導者の蒋介石総統を批評し「妥協したり、巧みに説得したり策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と述べている。
マクマリーはこうも語った。「(中国政府は)中国の貧困はすべて外国のせいであり、中国の輸出入とも外国への貢物だと大衆に宣伝した。中国人の排外的傾向をあおった。蒋介石の宣伝工作は巧みであった。対日戦の米国への宣伝工作も巧みだった」。尖閣をめぐって今日の中国共産党政府の非難の仕方とあまりにも似ていると言わざるを得ない。
満州権益をめぐる日中関係についてマクマリーは「少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのは日本人の気性であった」と述懐した。
日本はワシントン(条約)体制を順守しようとした。しかし中国人に軽蔑されて撥ねつけられ、イギリス人とアメリカ人に無視された。東アジアで自分の利益を守るには武力しかないと考えるに至った日本は満州へ侵攻したのである。
マクマリーは、中国がベルギーとの不平等条約を破棄したいきさつについても記している。
中国はベルギーと1865年に締結した不平等条約の改正時期が1926年に来ていた。ベルギーは交渉で中国の意向をくもうという意志を表明したが、中国は無視し、ベルギーに廃棄通告した。ベルギーはさらにハーグの国際裁判所の調停にゆだねようと提案したが、中国は拒否。不平等条約から自由を得るのにどうして調停を申し込むのか、と非難した。中国の北京政府は1926年4月26日、べルギー政府にこの条約は同年10月27日で期限切れになると一方的に通告した。
「彼らは西洋人があまり重きをおかない力というものにある程度敬意を払い、相手の弱みをすばやく見つける」と、マクマリーは中国人観を述べている。マクマリーは国際法を信じた。いかなる変革も法的に定められた手順に従って行なわれなければならない。19世紀に不平等条約を欧米列強により押し付けられた日本とシャム(タイ)は半世紀以上にわたる粘り強い交渉に成功し、不平等条約を平和裏に解消したではないか、と語った。
マクマリーは次のように米国務省の幹部に説いた。日本の軍部が“軍国主義のウィルス”にり患したのではなく、侵略に先立つ10年間の米英の行為がもたらしたものだ。ワシントン会議の結果、アジアの新しい国際秩序の枠組みをつくり、その枠組みの中で漸進的に中国の被っている不平等条約を改正していこうと列強は約束した。中国も会議に参加、同意した。にもかかわらず、中国は条約をしばしば破り、米国は感情的に中国の置かれていた“不幸な境遇”に同情して、中国のわがままを聞いていた。
英国はと言えば、外国政策の伝統に従って、刻々と変わり周囲の状況に自分を適応させようとしていたにすぎない。結果的に中国の意に沿った動きをした。
満州の既得権益を失うことを恐れてワシントン会議に参加したくなかった日本は、会議で合意事項が決定されると、1920年代に一貫して条約の条文と精神を厳密に守ろうとした。だが、この合意はもう一方の当事者、特に中国と米国が条約諸規定の実施を繰り返し阻害したり、拒否した。マクマリーはこう分析した。
マクマリーは自らの中国観について「中国は、過去も現在も未来も、外国を野蛮な敵と見なしており、外国を競り合わせて利を得ようとする、外国のうちで一番成功している国を尊敬するが、時が経てば、たちまち引きずり落とされてしまうという始末である。・・・もし米国が日本の支配から中国を『救い出し』、中国人民の目から見て『ナンバーワンの国』となれば、それは米国が、中国人にとって最も好ましい国になったというのではなく、逆に彼等にとって最も信頼しない国になったということなのである」
また日本観について「日本人は表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ。真の指導者と認めて忠誠をささげている人たちによって抑制されなければ、“とことんまで突っ走る”性癖がある、こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」と話している。
われわれ日本人は、今回の尖閣列島(中国名:魚釣島)について感情を先行させてはいけない。われわれが歴史から反省するとしたら、「深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなる」ような態度に出てはいけないということだ。
関東軍将校のように、「自らの目」だけから主観的に周囲を観察し、独善的になってはいけない。時の流れを無視してはいけない。冷静に思考し、中国人の性格を的確に観察して、知略をめぐらし対応する以外に道はない。戦略的思考と力を信じる中国人、特に軍部には、誠意を示せば相手に通じるという日本の価値観は通じないように思われる。冗談で言えば、戦国時代の名参謀、竹中半兵衛と黒田如水、武田信玄公をあの世から呼べ、というところだろうか。
前防衛大臣の森本敏氏が2月8日昼のTBSのワイドショーで語っていたように、中国に付け込まれるような言行を控える。相手の「ワナ」にはまらないことだ。その意味で、護衛艦「ゆうだち」の艦長は賢明だった。もし艦長がなんらかの行動を起こしていたならば、レーダー照射した中国艦船に非があっても、中国政府は「日本側が先に行動した」と国際社会に訴えるのは目に見えている。筆者が説明した1920年代の中国大陸をめぐる歴史を振り返れば明らかだ。歴史を無視する傾向が強い日本人は今こそ、歴史を「友」として中国に対応しなければならないと思う。
●第3回(2月16日)、第4回(17日)は、「中国の提督の世界観」や豪州の国際政治の専門家の話を引用して「今後、中国にどう向き合えばよいのか」について私見を述べます。
(写真はジョン・アントワープ・マクマリー;public domain) ●マクマリーは戦後、ソ連に対する封じ込め政策を立案した米外交官で歴史家のジョージ・ケナンの対中観に大きな影響を与えた。また加藤友三郎海軍元帥とワシントン会議の写真はホームページ「ダウニング街だより」の「賢者は歴史に学ぶ」に設定された「フォト・ギャラリー」にあります。いずれもPublic domain
◎筆者がNHKで見た「1年の稼ぎ風で飛ぶ」が2月8日(金)18時26分に朝日新聞デジタルから配信された。オチがあり、筆者がテレビで見た後、同情する人たちから多額の寄付が集まったという。朝日によれば、出稼ぎ労働者が「持って行かないで。1年間汗水たらして稼いだお金なんだ」と周りに頼んだが、その場で返してくれたのは3人で、計700元。自力で拾い集めたのは3千元だった。1万7600元(約26万円)が風に舞った。その場で返した3人のような人々が同情して寄付した。よかった。
歴史の流れとともに、人間の価値観は変わる。英国の歴史学者、ジョン・トシュ・ローハンプトン大学教授は「産業革命前、イングランドでは離婚がほとんどなかった」と話す。夫婦が生産単位であり、パン屋、鍛冶屋、仕立て屋などを経営した。また法的な離婚も認められていなかった。女性の社会的地位は大変低かった。
18世紀後半にはじまった英国の産業革命がすべてを変えた。工場での大量生産が可能になり個人企業が崩壊。経済的な理由で夫婦が離婚できにくい環境がなくなっていった。産業革命は人々の価値観も変えた。個人の意思(恋愛)が結婚の動機になっていった。家族単位の企業崩壊は歴史の流れにおける変化だ。
また18世紀後半までイングランドでは、公開での絞首刑は普通であり、大衆3万人以上の面前で行なわれたという。見物人は男性より女性が多かったといわれる。正義が実行されたと大衆は拍手喝采した。人権を尊重する今日では考えられない。
今日でさえ価値観の変化が散見される。電車の中で、女性が化粧しているのをよく見かける。40年前に、電車で化粧をしている女性はほとんど見かけなかった。皆無だといってもよいかもしれない。
当時、女性はよほどの勇気がなければ、電車内で化粧することはなかっただろう。社会常識に反していたし、人々はこのような女性に「うさんくさい」レッテルをはった。現在、化粧している女性に後ろめたさはないようだ。価値観がしだいに変化しているのだろう。40年前の年配者が現在生き返って、そのような女性を批判してもナンセンスだと思う。ただ個人的には好ましくないと思う。初老のたわごとだ。
と言うわけで、日本の中国侵略を「現在の価値観」で捉えても、正確な分析に迫れない。筆者はそう思う。石原参謀が生きた時代の価値観で、彼を批判してこそ、批判する価値がある。そして現在にも生かせる。前置きが長かったが、読者の皆様とともに1920年代から30年代初頭にタイムマシーンで戻ろう。
なぜ満州(現在の中国東北部)に駐屯した関東軍(日本軍)が満州全土に進軍したのか。侵略した理由は単純ではない。いくつもの理由が絡み合っている。その一つの理由は、関東州(遼東半島)の租借地を守備していた関東軍から見て中国の理不尽な態度だった。日本人である関東軍将校にはそう映った。中国共産党政権が今日、尖閣列島(中国名:魚釣島)、靖国神社問題、歴史問題など日中の相違をすべて政治戦、宣伝戦、心理戦、法戦から捉えて日本に揺さぶりをかけているように、1920年代も中国の軍閥北京政府や南京の国民党政府は同じような戦略で日本に揺さぶりをかけてきた。欧米植民地列強に対しても同様の戦略で挑んできた。
我慢できても忍耐できない関東軍(筆者の主観だが、日本人は忍耐できない。せっかちなのかもしれない)は、中国のあらゆる“妨害”に抗しきれず、ついに堪忍袋の緒が切れて、圧倒的な武力を盾にして中国に侵略を始めた。
関東軍は日露戦争後に日本がロシアから譲り受けた関東州(遼東半島)の租借地や鉄道、鉱山を守る少数の守備隊として発足した。当時の価値観では、条約という手順を踏めば、戦争で分捕った土地の正当性は保証された。また日露戦争(1904-05)で敗れたロシアが、1890年代に中国から租借した遼東半島の土地の一部を日本に譲り渡しても問題はなかった。当時の人々が共有している価値観だった。少なくとも1920年代初頭まではそうだった。
中国は日露戦争後、渋々ながらロシアから日本への譲渡を認めた。なぜ?法的に問題がなかったからだ。ただ、実際、日本軍は中国が戦う相手ではないと、清朝(中国)政府は考えた。日本の軍事力が圧倒的に優っていた。
中国人は現実的で、力関係を重んじる国民。抵抗してもどうにもならないと悟った。中国人は言葉では相手を脅かし激しくののしるが、相手が強ければ、攻撃しない。日本人のように、敵が何十倍も強大であろうとも、自らの“正義”の旗を掲げて戦いを仕掛けてくる民族ではない。筆者はそう思う。
第1次世界大戦が終了して3年後の1921年11月11日から米国の首都ワシントンで、歴史上有名な会議が開かれた。翌年の2月6日まで開かれたこの会議で、日米英仏伊の主力艦(戦艦)の建造を制限する話し合いが日本も参加して行われた。しかし、日本と欧米列強の主な仕事は軍縮ではなかった。中国の主権保持をめぐる話し合いが最も重要だった。米国は門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の無軌道な中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図った。
締結国はアメリカ合衆国、英国、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国だった。これらの諸国は今日で言う9か国条約を結んだ。
日本は1921年、米国からワシントン会議への招待状を受け取ったとき、会議への参加を渋った。参加すれば、戦死傷者約20万人を出し、国力のすべてを使い果たして勝利した日露戦争での満州の権益が遡上にのぼるのは明白だった。しかし日本は会議に参加し、条約を締結した。
海軍力の増強を唱えていた、日本海海戦の参謀長、加藤友三郎・海軍元帥は会議に日本全権として参加し、欧米列強や中国とワシントン条約を締結した。英米が、特に米国が、日本海軍が太平洋で強大になることに警戒の目を向けていた。(米国が現在、中国海軍の強大化に警戒を向けているのと同じだ)
加藤元帥は米国の姿勢を理解し、「日本が強大なる海軍を有するを好まざるは英米同一なり」と語った。加藤元帥はワシントンのホテルで、海軍省の井出謙治海軍次官宛ての伝言を口頭で、部下で信頼が篤かった堀悌吉中佐に書き取らせた。(元帥の陶訓を受けた堀提督は「海軍の至宝」とまで謳われたが、対米英協調主義者であったため、1934年に艦隊派と言われる対米英強硬派に海軍を追われた)
加藤元帥は時の変化を悟り、歴史の変化を感じていた。もはや19世紀の欧米列強による弱肉強食の時代は終わったと確信した。外交の最終手段として、戦争が認められる時代は過ぎ去りつつあると感じていた。「国防は国力に相応する武力を整ふると同時に国力を滋養し一方外交手段により戦争を避くることが目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず。即ち国防は軍人の専有物に在らずとの結論に到達す」
また日本は米国と戦争してはいけないし、することもできないという結論にも到達した。「日本は貧乏国だ。戦争しようと思えば資金がいる。世界は広いといっても、金を貸してくれる国は米国しかいない。だから米国とは戦争はできない」
現実主義者で観察眼鋭い元帥は、時代の変化を的確に読み取り、軍拡から軍縮に方向を転換し、米国との協調路線に踏み出した。今日、加藤元帥のような視野の広い、時代を的確に読み取る海軍軍人が中国に存在することを望む。21世紀は、新中国の創始者、毛沢東が最も嫌った覇権を争い、覇を唱え、「中華再興」を叫ぶ時代ではない。21世紀は協調と協力の時代だ。
またまた話しがそれたが、嫌々ながらもワシントン会議に参加した日本は、忠実に条約を遵守した。条約を遵守することで、欧米列強と協力し満州の権益を護ろうとした。
ワシントン会議に参加した中国は、1839~41年のアヘン戦争以来はじめて列強から無理やり不平等な取り決めを押し付けられなかった。初めて国権を失わなかった。それどころか、中国は1922年2月、日本と山東省問題で合意し、第1次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本が譲り受けた膠州湾租借地を返還させるのに成功した。
山東省の中国への返還は、欧米列強が19世紀、特に1894-95年の日清戦争以降見せた赤裸々な中国分割の時代は過ぎ去ったことを意味していた。欧米列強と日本は、正式な手続きを踏めば対中間の不平等条約を改正すると約束した。時は確実に変化していた。
しかし、中国では内戦が激化し、欧米列強や日本と条約改正交渉を進めることができる強力な中央政府が存在しなくなっていた。そして、もう一つの主要な時の変化が見られた。ワシントン条約当時と比べて1920年代半ば頃から民族主義が一層過激さを増した。民族主義に国益の正当性を見いだした中国は列強との交渉による不平等条約の改正を無視し始めた。中国人は法を軽視するが、観察眼は鋭い。気を見るに敏であった。
風は中国に吹いていた。日露戦争が引き金となってアジアに吹き始めた民族主義が嵐となってアジアを覆い始めた。日露戦争で、黄色人種(日本)がはじめて白色人種(ロシア)に勝った。それまで、白人には負けると信じていたアジア植民地の人々は自らの主張を声高に言い始めた。
中国の学生は1925年5月30日、日本資本で運営されていた紡績工場の労働者のストライキへの弾圧に抗議し、デモ行進を始めた。租界地区の日英警察が多数のデモ参加者を逮捕。英国の警察は発砲し、中国人11人が死亡、2人が負傷した。いわゆる「5・30運動」が発生し、全国に飛び火した。
同年7月23日、中国人約6万人のデモが広東近くの沙面の租界地で起った。デモ隊の攻撃に英国軍は応戦し、多数の中国人が射殺された。中国の大衆の標的は日本と英国だったが、この事件で英国が集中砲火に見舞われた。
中国人が以前から抱いていた外国人を嫌悪する排外主義とナショナリズムがない交ぜになり、怒りは頂点に達した。1年以上もの間、英中貿易と中国の港で英国人が取り扱う製品の船積みがボイコットされた。
中国の民族主義が歴史の歯車を加速させ、国家間の正当な手続きによる条約の改正を不可能にしていった。歴史は大きく変化し、皮肉にも、日露戦争により引き金を引いた日本に向かってそのナショナリズムが押し寄せていた。英国は中国の民族主義者に妥協し、彼らの提案に沿って、不平等通商条約を改正する決意を固めた。
英国は東アジアで刻々と変化する情勢を観察し、歴史の歯車が自分の望んでいる方向とは反対に動いていると考え始めた。民族主義運動が国際環境をジワジワと新しい方向へ変化させていることに気づいた。大英帝国が思うままに世界に指図した19世紀の時代は終わり、自分だけで中国問題を解決することは不可能だと悟り始めた。
国民党はナショナリズムを全面に出す「国民革命」外交を展開していた。民族主義に目覚めた中国国民は国民党を支持。1920年代に時計の針が進むにつれて、米国の中国への同情はますます高まって行った。アヘン戦争以来90年にも及ぶ欧州列強の植民地政策と日露戦争以降の日本の対中政策は米外交の基軸とは水と油だった。
中国人は国際環境のこの変化を見て攻勢に出た。相手が弱いと見ると攻め、強いと見れば引く現実的な国民だ。当時、極東問題で米国の第一人者と言われたジョン・アントワープ・マクマリー・北京公使(現在で言えば米国大使)は国民党の蒋介石将軍を批評し、「彼は妥協したり、巧みに説得したり、策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と語っている。権謀術数に長けた中国人の国民性は事態をますます複雑にした。
軍閥打倒と中国統一をかかげて北伐を開始した国民党は1927年3月24日に南京に到着し、国民党軍の一部は英国と日本の領事館を急襲。中国軍兵士は領事館の私物を略奪し、アメリカ人を殺害した。1937年12月の南京大虐殺事件は有名だが、この南京事件は今日の人々の記憶に残っていない。
蒋介石は1927年4月12日に上海でクーデターを起こし、共産主義者を弾圧。共産党との戦いを始めた。国民党の武漢政府は8月19日、蒋介石の南京政府との合併を宣言。1928年6月、蒋介石は北京に入城し中国を統一した。
国民党が中国を統一すると、王正廷外交部長(外相)は1928年7月19日、1896年に日本と清国(中国)との間で締結した通商・航海条約と、1903年の同条約の追加通商条約を否認すると一方的に声明を出した。やむなく日本は譲歩し、満州の権益を中国が認める代わりに中国本土の日本の権益について大幅に譲歩する用意があると表明した。
日本政府は1929年4月26日に王と交渉を開始した。6月3日に国民党政府を承認し、1930年5月6日には日中関税同盟を締結。中国は関税自主権を回復した。このありさまを見ていた日本陸軍は、幣原外相の対中政策があまりに国民党政府に譲歩しすぎると断じ、「軟弱外交」とののしった。
中国は1929年12月29日、欧米列強や日本に追い討ちをかけた。1930年1月1日以降、条約国の諾否にかかわらず条約が規定した治外法権の項目を無効にすると発表。その前提にたって列強と治外法権撤廃交渉を始めると宣言した。一方、欧米列強諸国は中国での自国民保護の裁判システムはまだ必要だと考えていた。「中国は法治の国ではない」と考えていた。
国民党政府は同じ年の1929年にソ連(現在のロシア)にも矛先を向け、ソ連の革命政府が帝政ロシアから引継いだ東支鉄道(日本は当時、北満鉄道と呼んだ)を強制的に接収しようとした。条約を無視する中国の態度に怒ったソ連は中ソ国境に軍隊を集結。ソ連より弱体な軍しか保有していなかった中国はソ連の強硬姿勢に屈服し、接収を見送った。中国人は「自分より強い相手」に対して引いた。
治外法権撤廃をめぐる中国と欧米の対立の中で、満州事変が1931年9月18日に勃発。中国は満州事変の開始を受け、列強諸国に治外法権撤廃を無理押しするのは得策でないと判断し、ゴリ押しするのを控えるようになった。
中国・国民党政府の動機は明白で、日本の侵略に反対する国から最大限の支持を期待した。中国はそろばんをはじいていた。中国は、廃止にこだわって関係国と対立するのは得策でないと判断し、時の変化を待つ態度に転じた。中国人が現実的で、したたかだと見て取れる。
法律に対する中国人と日英米人との歴史的なコントラストが際立っていた。中国は人治の国。現実を尊重し権謀術数をめぐらす人々が住んでいる。賢帝が国を治めれば法律など無用で人民は幸福な生活を送れると信じる「孔子の国」だ。
これに対して鎌倉幕府の執権、北条泰時公が貞永式目を制定してから700年、法律を国家統治の基礎にしている日本。1215年のマグナカルタ憲章制定以来、国王も法に従ってきた英国。英国から新大陸に移住し新しい国を建設した米国人。歴史の伝統の違いは明白なっていた。
歴史の流れが変化する中で、日本人、特に軍部はひたすら満州の権益を護ろうとした。ナショナリズムに正当性を与えはじめた歴史の変化に目を向けなかった。日本軍は国民党に接近する英米と協調しては満州の権益は守れないと判断した。ついに満州の既得権を守るには武力に訴えるしかないと考えるに至った。既得権死守と満州の資源・食糧の確保、対ソ・対満州防衛などの政策がない交ぜになって、関東軍は突撃ラッパを鳴らし、満州へ侵攻した。
関東軍は1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天近郊の柳条湖の南満州鉄道線路を爆破し、従来の計画「一挙に満州に関する日中問題を武力で解決する」を実行に移した。日本破滅への序曲、満州事変が始まった。
日本軍部、とりわけ関東軍は、法に基づいて日本は正当な既得権利を行使しているのに中国人はことごとく邪魔をする、という不満がついに沸点に達した。米外交官のマクマリーは1935年、メモランダムを国務省に提出した。この内容が「平和はいかに失われたか」(原題 How the peace was lost 原書房)に書かれている。
マクマリーは、日本が中国を侵略(満州事変)したことを決して許容はしないと述べたが、「日本をそのような行動に駆り立てた動機を理解するならば、その大部分は、中国国民政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだったと我々は解釈しなければならない」と語っている。また、アヘン戦争(1838-1841)以来の中国の不平等条約をめぐる欧米列強・日本と中国の改正交渉(1920年代)について「中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のために、・・・力に訴えようとし、力に反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みのせいであると冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない“けち野郎”と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう」。米国人の善意はただ、幻想をもたらしただけだった、と結論付けている。
米国の外交官は、中国の指導者の蒋介石総統を批評し「妥協したり、巧みに説得したり策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と述べている。
マクマリーはこうも語った。「(中国政府は)中国の貧困はすべて外国のせいであり、中国の輸出入とも外国への貢物だと大衆に宣伝した。中国人の排外的傾向をあおった。蒋介石の宣伝工作は巧みであった。対日戦の米国への宣伝工作も巧みだった」。尖閣をめぐって今日の中国共産党政府の非難の仕方とあまりにも似ていると言わざるを得ない。
満州権益をめぐる日中関係についてマクマリーは「少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのは日本人の気性であった」と述懐した。
日本はワシントン(条約)体制を順守しようとした。しかし中国人に軽蔑されて撥ねつけられ、イギリス人とアメリカ人に無視された。東アジアで自分の利益を守るには武力しかないと考えるに至った日本は満州へ侵攻したのである。
マクマリーは、中国がベルギーとの不平等条約を破棄したいきさつについても記している。
中国はベルギーと1865年に締結した不平等条約の改正時期が1926年に来ていた。ベルギーは交渉で中国の意向をくもうという意志を表明したが、中国は無視し、ベルギーに廃棄通告した。ベルギーはさらにハーグの国際裁判所の調停にゆだねようと提案したが、中国は拒否。不平等条約から自由を得るのにどうして調停を申し込むのか、と非難した。中国の北京政府は1926年4月26日、べルギー政府にこの条約は同年10月27日で期限切れになると一方的に通告した。
「彼らは西洋人があまり重きをおかない力というものにある程度敬意を払い、相手の弱みをすばやく見つける」と、マクマリーは中国人観を述べている。マクマリーは国際法を信じた。いかなる変革も法的に定められた手順に従って行なわれなければならない。19世紀に不平等条約を欧米列強により押し付けられた日本とシャム(タイ)は半世紀以上にわたる粘り強い交渉に成功し、不平等条約を平和裏に解消したではないか、と語った。
マクマリーは次のように米国務省の幹部に説いた。日本の軍部が“軍国主義のウィルス”にり患したのではなく、侵略に先立つ10年間の米英の行為がもたらしたものだ。ワシントン会議の結果、アジアの新しい国際秩序の枠組みをつくり、その枠組みの中で漸進的に中国の被っている不平等条約を改正していこうと列強は約束した。中国も会議に参加、同意した。にもかかわらず、中国は条約をしばしば破り、米国は感情的に中国の置かれていた“不幸な境遇”に同情して、中国のわがままを聞いていた。
英国はと言えば、外国政策の伝統に従って、刻々と変わり周囲の状況に自分を適応させようとしていたにすぎない。結果的に中国の意に沿った動きをした。
満州の既得権益を失うことを恐れてワシントン会議に参加したくなかった日本は、会議で合意事項が決定されると、1920年代に一貫して条約の条文と精神を厳密に守ろうとした。だが、この合意はもう一方の当事者、特に中国と米国が条約諸規定の実施を繰り返し阻害したり、拒否した。マクマリーはこう分析した。
マクマリーは自らの中国観について「中国は、過去も現在も未来も、外国を野蛮な敵と見なしており、外国を競り合わせて利を得ようとする、外国のうちで一番成功している国を尊敬するが、時が経てば、たちまち引きずり落とされてしまうという始末である。・・・もし米国が日本の支配から中国を『救い出し』、中国人民の目から見て『ナンバーワンの国』となれば、それは米国が、中国人にとって最も好ましい国になったというのではなく、逆に彼等にとって最も信頼しない国になったということなのである」
また日本観について「日本人は表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ。真の指導者と認めて忠誠をささげている人たちによって抑制されなければ、“とことんまで突っ走る”性癖がある、こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」と話している。
われわれ日本人は、今回の尖閣列島(中国名:魚釣島)について感情を先行させてはいけない。われわれが歴史から反省するとしたら、「深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなる」ような態度に出てはいけないということだ。
関東軍将校のように、「自らの目」だけから主観的に周囲を観察し、独善的になってはいけない。時の流れを無視してはいけない。冷静に思考し、中国人の性格を的確に観察して、知略をめぐらし対応する以外に道はない。戦略的思考と力を信じる中国人、特に軍部には、誠意を示せば相手に通じるという日本の価値観は通じないように思われる。冗談で言えば、戦国時代の名参謀、竹中半兵衛と黒田如水、武田信玄公をあの世から呼べ、というところだろうか。
前防衛大臣の森本敏氏が2月8日昼のTBSのワイドショーで語っていたように、中国に付け込まれるような言行を控える。相手の「ワナ」にはまらないことだ。その意味で、護衛艦「ゆうだち」の艦長は賢明だった。もし艦長がなんらかの行動を起こしていたならば、レーダー照射した中国艦船に非があっても、中国政府は「日本側が先に行動した」と国際社会に訴えるのは目に見えている。筆者が説明した1920年代の中国大陸をめぐる歴史を振り返れば明らかだ。歴史を無視する傾向が強い日本人は今こそ、歴史を「友」として中国に対応しなければならないと思う。
●第3回(2月16日)、第4回(17日)は、「中国の提督の世界観」や豪州の国際政治の専門家の話を引用して「今後、中国にどう向き合えばよいのか」について私見を述べます。
(写真はジョン・アントワープ・マクマリー;public domain) ●マクマリーは戦後、ソ連に対する封じ込め政策を立案した米外交官で歴史家のジョージ・ケナンの対中観に大きな影響を与えた。また加藤友三郎海軍元帥とワシントン会議の写真はホームページ「ダウニング街だより」の「賢者は歴史に学ぶ」に設定された「フォト・ギャラリー」にあります。いずれもPublic domain
◎筆者がNHKで見た「1年の稼ぎ風で飛ぶ」が2月8日(金)18時26分に朝日新聞デジタルから配信された。オチがあり、筆者がテレビで見た後、同情する人たちから多額の寄付が集まったという。朝日によれば、出稼ぎ労働者が「持って行かないで。1年間汗水たらして稼いだお金なんだ」と周りに頼んだが、その場で返してくれたのは3人で、計700元。自力で拾い集めたのは3千元だった。1万7600元(約26万円)が風に舞った。その場で返した3人のような人々が同情して寄付した。よかった。