現代を切る  ウィンストン・チャーチルと初代ハリファクス侯爵     

退職から8年。ブログを始めて4年。現実主義者として、歴史を紐解き、英国の二大政治家らの発言を下敷きにして

リーダーとしての資質のない石原氏  彼を当選させた有権者は深く反省を!

2016年09月17日 21時37分16秒 | リオ五輪と人物
  東京都の築地市場(中央区)から移転する予定の豊洲市場(江東区)をめぐる施設地盤の盛り土問題で、石原慎太郎知事(当時)と当時の都の担当幹部の言い分が食い違っている。
 石原氏が知事在任中の2008年5月30日の定例記者会見で、豊洲市場の敷地の土壌汚染対策について、地下にコンクリートの構造物を埋め込む案に言及した。しかし、石原氏は各社のインタビューで「都庁担当者の見解をそのまま述べたにすぎない」と答えた。
 これに対し、都中央卸売市場長だった比留間英人氏は「石原氏に『検討してみてくれ』と言われた」と話した。ただ、検討の結果、高い工費が予測されたため採用しなかったという。石原氏は工費をできるだけ安く抑えようとしたようだ。
 誰が提案したにしても、当時、土壌汚染対策を検討していた都の専門家会議が決めた「土壌を入れ替えて盛り土をする」方法と矛盾している。都はその後、地下に空間をつくる設計をし、専門家会議の誰にも知らせなかった。
 世論は現在、地下空間をつくることを提案して決断した人物が誰なのかについて関心を寄せ、この人物について厳しい目線を送っている。
 そんな中、2012年に辞職した石原氏はテレビ番組で「(盛り土がないことは)聞いてません。僕はだまされたんですね」などと話し、「都は伏魔殿だ」とコメントした。
 石原氏の発言はまるで他人事のようだ。政治家としての資質がないことを自ら証明している。たとえ石原氏が知らなかったとしても「最高責任者である私に責任がある」と述べるのが政治家である。筆者には石原氏が自分に類が及ばないように必死に火を消そうとしているとしか思えない。
 一方、チャーチルは政治生活を通して何度も失敗したが、その中でも大失敗だった1915年のガリポリ作戦について潔く責任を認め、海相を辞任した。作戦を立案したのはチャーチルだったが、その作戦を遂行したのは部下であり、それでも部下の責任は「わたしの責任だ」と言った。

●有権者と石原氏
 石原氏は2012年、都知事を辞職し、同年の衆院選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックから出馬して当選。17年ぶりに国政に復帰した。1968年の参院選全国区と2003年都知事選に個人として300万票以上を獲得。選挙で2度300万以上の得票数を獲得したのは石原氏のみである。
 誰が彼を当選させたのか。都民と全国の有権者だ。つまり大衆である。健全な民主主義を発展させ、それを護る観点に立てば、彼らにも大きな責任がある。
 1930年6月19日、チャーチルはオックスフォード大学で「議会政治と経済問題」で講演し、大衆について「遠い将来の利益よりも目の前の利益に固執する傾向が強い」と論じた。また有名人に心酔し、彼らの資質も吟味せずに投票用紙に書くようになったと述べた。それは大衆が政治の主役になってから不可避的なことになった。
 また第2次世界大戦前夜の1939年3月10日、チャーチルは地元選挙区で有権者にこう述べた。
 「もし議会が真実を国民に伝える場でなければ議会はどんな役に立つのだろうか。大衆のつまらない心変わりに流されて発言する下院議員を、有権者が議会に送り出す必要があるのか。与党の院内幹事(党の幹事長に相当)を満足させることに必死になり、自党の閣僚の陳腐な答弁に拍手を送ることだけに全精力を注ぎ、それでいて野党や政敵の批判を気にも留めずに議会内を闊歩(かっぽ)している議員を、われわれが議会に送り出すことにどんな有用性があるのだろうか。・・・政治家としての自覚を持たないだけでなく、所属する党の幹部にこびへつらい、無気力でいいなりになる議員を有権者は何度も議会に送り返している。その結果、独自に判断する見識ある議員の見解すべてを葬り去っているのだ。このような状況で、民主主義制度が生き残れるのだろうか。そうは思わない」
 チャーチルは有権者を痛烈に批判し、民主主義制度の欠点を指摘したが、「民主主義制度への批判もある。・・・・それでも市井の人々を代表する政府が良心的で実用的な役割を担い、彼らに代わって正当な権利を主張しているのだ」と強調した。
 民主主義制度は最高の政治制度ではないが、あらゆる政治制度のうちで一番ましだ。この制度は枯れやすい花だ。だからこそ国民一人一人が、石原氏のような人物を政界に送り出さない観察眼を持たなければならない。冷静な判断が求められる。
 豊洲市場問題をめぐって、われわれ有権者は「民主主義とは何か」「ポピュリスムとは何か」を自問自答し、石原氏ら、政治資質の欠けた人物を当選させたことを深く反省しなければならない。
 われわれが反省しなければ、このような人物を何度も議会に送り出し、われわれの手で民主主義制度を自壊させることになる。


 (追伸)朝日新聞や東京新聞が18日朝刊で報じたところによると、築地市場が移転予定の豊洲市場の建物下に土壌汚染対策の盛り土がなかった問題で、元東京都知事の石原慎太郎氏は十七日、都内で報道陣の取材に応じ、豊洲の建物下にコンクリートの箱を埋める案について、これまでの発言を修正し、「(自分が)専門家から聞き、都の幹部に検討したらどうだと言っていた」と述べた。
  石原氏の迅速な訂正を評価する。また誤りは直ぐに正すのも政治家として当然だ。しかし、十分な調査もしないで、都中央卸売市場長が発言した、と記者に言ったのはいただけない。重要な問題であればあるほど、調査してから発表するのが政治家の務めではないだろうか。石原氏に限らず、政治家は言い訳が最初に出てくる。反省すべきだ。

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自民党利権集団と右翼の暗躍    官民癒着構造の豊洲問題 

2016年09月12日 21時50分50秒 | 政治
 築地から豊洲への市場移転問題で東京都が揺れている。どうも利権と深く絡んでいるようだ。この問題に登場する人物は東京都自民党都議団のボスの内田茂、石原慎太郎、浜渦 武生の各氏。官民癒着の構造が見え隠れしている。
 筆者から言えば、石原慎太郎氏は保守ではなく正真正銘の右翼であり、日本にとり悪害あって一利なしの人物だ。この石原氏が都政を牛耳っていた知事時代に仕えたのが浜渦武生氏。「はまうず・たけお」と呼ぶ。恥ずかしい話だが、筆者はこの人物を知らなかった。
 浜渦氏を調べたが、どうもこの人物も右翼だ。関西大学卒業後、“新潮塾”を設立。民族派学生組織の日本学生同盟との親交があり、関西では名の知れた右翼活動家だという。
 1947年生まれの浜渦氏は学生時代から石原氏に心酔していた、とジャーナリストの伊藤博敏氏が記している。
 内田氏が右翼かどうかはわからないが、利権屋であることは事実のようだ。豊洲市場の本体建設工事は14年2月13日に入札が行われ、鹿島JV、清水・大林JV、大成JVが山分けしたという。落札の調整役が内田氏と浜渦氏だった。事実上の談合だったという。
 ことしの8月24日、内田都議を激励する「政治活動40年を祝い励ます会」が開かれ、菅義偉官房長官、二階俊博幹事長ら大物政治家、石原伸晃経済産業相、丸川珠代五輪相などの閣僚や国会議員、市長に区長、都議、区議、市町村議、都庁幹部、各種業界団体幹部など約2000人が集まった。
 内田都議の前に東京都議会のドンだった92歳の藤井富雄氏がこの会に現れると、内田氏が真っ先に駆け寄って挨拶した。伊藤氏によれば、藤井氏は「都議会公明党のボスで国会議員が束になっても敵わない実力者だった」という。また浜渦氏も出席した。
 浜渦氏と内田氏は11年前に犬猿の仲だった。当時の浜渦副知事が公共工事の仕切りに口を挟むようになると、怒った内田氏は百条委員会を立ち上げ、2005年に浜渦氏を失脚させた。しかし現在は利権を分け合い、関係は修復しているという。伊藤氏は浜渦氏の会への出席が関係修復を立証していると述べている。
 石原氏が都知事時代、週に2日しか都庁に出勤しなかったことから、都の職員が浜渦氏のいいなりになったのだろう。
 日本国民の真の敵は左翼でなく、右翼だと日頃から筆者は読者に訴えてきた。情緒と義理と人情に左右される日本人の国民性が右翼の台頭を許す。左翼は社会主義者にしろ、左派過激派にしろ、理論を全面に出す。理論は日本人の国民性に合わない。左翼は日本社会を騒がせても、権力を取れない運命にある。だから筆者は恐れていない。
 日本国民の運命は右翼が握っている。戦前は軍人であり、21世紀に入ると、左翼の退潮とともに右翼の力があなどりがたくなってきた。
 残念ながらこの国に現実主義者の保守がいない不幸がある。また現実主義は日本人の国民性にも合わない。このことも保守が少ない一因だ。保守主義者も、左翼同様日本を支配できない運命にある。
 土壌汚染対策をめぐる豊洲市場の不十分な盛り土問題で、小池百合子都知事は12日、副知事ら都幹部に経緯を調べるよう指示した。対策を提言した当時の専門家会議を再開し、安全性を検証する考えも示した。
 小池氏は「安全性と経緯をきっちり精査してほしい。都政にとって重大な局面。緊張感、責任感、スピード感をもって進めてほしい」などと述べた。都によると、市場内の一部施設の地下には深さ数センチ程度の水たまりがあるといい、小池氏は地下水漏出の有無についても調査を指示した。
 豊洲市場の盛り土は、敷地の土壌から検出された発がん性物質などを取り除く策として有識者会議が提言したが、実際には主な施設の地下で盛り土はされず、別の工法が用いられていた。都は工法変更を会議の委員に報告せず、ウェブサイトでも公表していなかった。
 小池都知事の調査指示は右翼と利権屋の内田氏への“宣戦布告”のように映る。豊洲の利権に深くかかわっている内田氏ら政治家は反撃に出てくるのは必至だ。
 小池都知事は記者会見で、豊洲問題を都民に公けにする前に、都の幹部に相談せずに側近だけで公開することを決めたという。これに対して民主主義に反するという輩がいるが、第2次世界大戦を指導した英国の宰相ウィンストン・チャーチルは同意しないだろう。
 幹部の中には内田氏らと通じている者もいるのは確実。相談すれば確実に漏れて妨害活動を受けるだろう。チャーチルがドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーと闘うために、ナチスと通ずる英国内のファシストを超法規的に逮捕したのと同じだ。これは戦闘である。
 小池都知事の政治手法は都議会や都の役人の因習や慣習に反することが多く、権益を侵される彼らの反発は必至。都知事がそこを突破するのは容易ではないと思う。
 筆者は小池都知事の勇気を褒めたい。政治リスクを取る姿に感銘を受けた。彼女が都政の刷新を目指すことは民主主義制度を護ることでもある。右翼に都政を牛耳らせること自体、民主主義の崩壊を意味する。チャーチルならそう言うだろう。
 なによりも都民が声を上げて小池都知事を応援することだ。メディアが報道し続けることだ。それが右翼を引きずり下ろし、日本の民主主義を護る最も有効な手段である。

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謝罪する必要はない、自分を見つめて  吉田沙保里選手、銀メダルおめでとう

2016年08月19日 11時00分37秒 | リオ五輪と人物
 リオデジャネイロ五輪が始まり、日本は36個のメダルを獲得した。12個もの金メダルを取り、19日現在、メダルの順位は6位。素直に喜びたい。
 五輪は国威発揚の場とみて、冷戦時代には社会主義国家が力を入れていた。今日、世界の指導者を目指す中華人民共和国は五輪を国威発揚の場としている。
 1936年にベルリンで開かれたオリンピックを、国力が著しく伸びていたナチス・ドイツと指導者アドルフ・ヒトラーが国威を見せる場としたことを思い出す。
 中国にしてもナチス・ドイツにしても、それを動かす人間は今も昔も変わらないということだ。欲と競争心。ポジティブな言葉を借りれば、向上心と努力だと思う。
 人間、つまり日本の選手を見て、色々なことを感じた。まず、卓球のエースの水谷隼選手。団体戦の2番手に登場し、過去12戦全敗だった中国の許昕選手を相手に、最終第5ゲームの7―10から5連続得点を奪取、12―10で競り勝った。
 20世紀の大宰相チャーチルが言う「死に物狂いでやれ(Keep Beggars On)」ば勝てる段階にまで到達したのだろう。相手得意のフォアハンドのドライブの打ち合いでも、力負けしなかった。
 立派な銀メダルだと思う。努力が実った。徐々に中国選手との力の差が縮まっているようにみえるが、それでも現在の中国との差を潔く認め、理想(東京オリンピックでの金メダル)を目指して頑張ってほしい。 
 人間にとり現状を認識することこそ大切なことはない。現状を分析し、それを受け入れる。そして理想に向かって努力する。それはチャーチルが生涯にわたって実践し、数百の書籍や論文、寄稿記事で英国の若者に呼びかけたことである。
 名誉革命を指導した初代ハリファクス侯爵も、現状を認識し、それを糧に慎重なまでの姿勢で漸進する必要性を説いている。
 この意味で、レスリング女子53キロ級決勝で銀メダルを獲得した吉田沙保里(33)選手に伝えたいことがある。
 吉田選手は2回戦から登場し、無失点で決勝まで進んだ。だが、決勝では昨年の世界選手権55キロ級を制したヘレン・マルーリス選手(米)に1―4で敗れ、銀メダルに終わった。
 試合後、吉田選手は「たくさんの方に応援していただいたのに銀メダルに終わって申し訳ない。日本選手(団)の主将として金メダルを取らないといけないところだったのに、ごめんなさい」などと泣きながら話した。また吉田は観客席にいる家族のもとへ行き、抱き合い、泣きじゃくった。「父がいない五輪は初めてだった。最後の最後に銀メダルに終わると思っていなかった。悔しいです」
 吉田選手の気持ちは痛いほどわかる。発言のひとつひとつは日本人らしさが十分に出ていた。日本人の心だった。「日本選手(団)の主将として金メダルを取らないといけないところだった」という発言を英国人からは聞いたことはない。多分、情感はあふれる日本人の強すぎる責任感から出ているのだろう。しかしもう少し広い視野からみてほしい。
 五輪でレスリング3連覇は誰にもなし得ないことだ。世界大会16連覇、個人戦200連勝を達成し、圧倒的な強さを誇る。2012年11月7日には日本政府から国民栄誉賞を授賞された。
 吉田選手に限らず、人間は誰でも転機がある。「自分の力を出し切れなくて申し訳ないです」と言っているが、そうではない。時が少しずつ変化しているのだ。大げさに言えば、歴史が変化しているのだ。
 吉田選手を“霊長類最強”とメディアが時々持ち上げているが、それは一瞬の出来事を表現したに過ぎない。吉田選手に限らず、人間は老い、全盛時の力が衰えてくる。
 吉田選手に言いたい。潮時を間違えないように。日本人は事を始めると、潮時が分からず一途に走る傾向が強い。馬鹿な戦争を始めた太平洋戦争の指導者は敗北が濃厚になってもなかなか休戦交渉に入らなかった。原子爆弾が広島と長崎に落ちてからやっと連合国の無条件降伏を受諾した。時の変化を無視し、貴重な命が失われた。
 東京五輪でロスのリベンジを果たす、などとは言わないでほしい。たとえこれから精進し、必死に努力したからといって、衰えつつある体力を克服することはできない。
 「広い視野を持ち、大原則を抱き、良心を持ち、高い目標を掲げ、確固とした自信を抱くことで、われわれは長い(人生の)航海において複数の海図と羅針盤を見つけるかもしれない」。英国の傑出した指導者チャーチルは雑誌「ストランド」の1931年2月号にこの文章を記した。また「わが思想、わが冒険」のなかにも見受けられる。
 吉田選手が「複数の海図と羅針盤」を一刻も早く見つけ、新しい人生を歩みは始めてほしいと願う。将来、立派なレスリングの指導者を目指すことも「複数の海図と羅針盤」のひとつかもしれない。「ありがとう、吉田選手。希望と勇気、挑戦の精神を一杯、日本人に与えてくれました。若い青少年男女はあなたを誇りにするだろう」。この言葉を送り、このブログを終わりたい。

 (写真)無念の涙を流す吉田選手

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日本人は我慢できるが忍耐できない 71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(3)

2016年08月15日 12時48分10秒 | 時事問題と歴史
 歴史を紐解けば、日本人を存亡の危機に陥れるのは、米国でもなければ韓国でもない。ましてや東南アジアや英国でもない。いつの時代も中国とロシアである。特に中国はどんな時代でも日本の運命にとり直接的に影響を及ぼす。ただ、日本人は「理不尽」な中国の行動に対し「我慢」はできるが「忍耐」ができない。このため、最後には中国が日本から利を得る。
 日本の関東軍が満州事変を起こした理由の一つに、中国の「条約破り」に腹を据えかねて忍耐できなかったことにある。
 1921年11月12日から1922年2月6日まで米国で開催されたワシントン軍縮会議は、歴史の変化と民族主義を助長した。主力艦比率がこの会議の最重要成果と見られているが、最も重要なことは9カ国条約だ。
 ワシントン会議に参加した中国は、1839~41年のアヘン戦争以来はじめて列強から無理やり不平等な取り決めを押し付けられなかった。初めて国権を失わなかった。それどころか、中国は1922年2月、日本と山東省問題で合意し、第一次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本が譲り受けた膠州湾租借地を返還させるのに成功した。
 山東省の中国への返還は、欧米列強が19世紀、特に1894-95年の日清戦争から20世紀初頭までに見せた赤裸々な中国分割の時代が過ぎ去ったことを意味していた。欧米列強と日本は正式な手続きを踏めば不平等条約を改正する、と中国に約束した。
 中国は条約批准後、直ちに関税交渉を欧米日列強と始めることになっていた。英米伊日とポルトガルの5カ国は9カ国条約を迅速に批准するため、中国に5カ国の賠償金の支払いを猶予、または免除することに同意した。しかし、フランスが、義和団事件(1900年)の賠償金の支払いを取り決めた1901年の辛丑和約(しんちゅうわやく=北京議定書)の続行を金建てフランで求めた。当初、英米などに同調していたイタリアはじめベルギーもフランスを支持した。  
 フランスの要求がワシントン条約の批准を3年も遅らせた。歴史の急速な変化の流れの中で3年は致命的な遅れだった。この間、中国では、歴史の流れに逆行する軍閥間の内戦が激化。強力な北京政府は弱体化し、1925年の夏、北京で関税会議が開かれたときは、なんらの成果もあげられずに終わった。
 欧米列強と日本は強力な交渉相手を中国国内で見いだすことができなくなり、中国の条約遵守に不安を抱くようになった。これに対して中国は列強の誠意を疑い始めた。
 時は国際環境を変化させ、ワシントン条約当時と比べ、中国国内の民族主義者の過激さはますます増していった。中国は対欧米日との交渉による不平等条約の改正を無視し始めた。
 中国の学生は1925年5月30日、日本資本で運営されていた紡績工場で働く労働者のストライキに対する弾圧に抗議し、デモ行進を始めた。租界地区の日英警察が多数のデモ参加者を逮捕。英国の警察は発砲し、中国人11人が死亡、2人が負傷した。いわゆる「5・30運動」が発生し、全国に飛び火していった。
 同年7月23日、中国人約6万人のデモが広東近くの沙面の租界地で起った。デモ隊の攻撃に英国軍は応戦。多数の中国人が射殺された。中国大衆の標的は日本と英国だったが、この事件で英国は集中砲火を浴びるようになった。
 中国人は、以前から抱いていた外国人を嫌悪する排外主義とナショナリズムがない交ぜになり、怒りは頂点に達した。1年以上もの間、英中貿易が滞り、中国の港で英国人が取り扱う製品の船積みがボイコットされた。
 中国の北京政府は1926年4月26日、19世紀半ばに結ばれたベルギーとの通商条約の改正を拒否し、一方的に廃棄通告した。英国は同年秋、日本とともに中国問題を協議するよう米国に提案したが、米国は「緊急性がない」と日英の提案を拒んだ。 
 中国の民族主義が歴史の変化の歯車を加速させ、国家間の正当な手続きによる条約の改正を不可能にしていった。歴史の流れは英国と日本の思惑とは逆に動き始めていた。
 英国は東アジアで刻々と変化する情勢を観察し、歴史の歯車が自分の望んでいる方向とは逆の方向に動いていると考え始めた。民族主義運動が国際環境をジワジワと新しい方向へ変化させていることに気づいた。
  ロンドン政府が思うままに世界に指図した19世紀は終わり、英国だけで中国問題を解決することは不可能だと悟り始めた。中国の植民地政策を堅持する今までの行動は英帝国の将来に致命的打撃を与えると思い始めた。
 北京駐在の英代理公使は1926年12月16日、ワシントン会議の9カ国条約締約国に英国の新しい対中政策に関する覚書を送付した。この覚書は「クリスマス宣言」と呼ばれており、覚書の中で中国も同意したワシントン条約の合意事項は実施されていないと論じた。
 馮玉祥や張作霖などの軍閥による内戦が北京の段祺瑞政府を葬り去り、中国が無政府状態になったため、交渉する相手がいなくなった、と英国政府は慨嘆した。欧米列強は段祺瑞政府を中国の正統政府と認めていた。
 「(ワシントン条約に基づく)政策は、中国の領土保全・独立と経済発展を促進し、中国の財政健全化を図ることだった。・・・(しかし)残念なことに、関税会議は4年間開かれず、この間、中国状勢は悪化し続けた。うち続く内戦で、北京政府の権威はほとんど無きに等しい状況となっている。・・・(昨年やっと)関税会議は開催されたが、交渉すべき強力な中国政府が存在しないため会議は流れた。その後、北京政府の瓦解プロセスに比例して内戦がますます大きくなっている。・・・こういう訳で、列強が中国についての協約を取り決めたワシントン条約当時と現在の環境は似ても似つかない状況になった。このような混乱した状況で、・・・ワシントン条約で取り決めた中国問題の改善や中国の外国居留民の地位に関係した問題を進めることは不可能。既存の国内政治体制の瓦解に比例して、(新興政党の)国民党の勢力が増大してきた。国民党は列強と同等の地位を要求し、それを目指している。国民党の運動は将来、外国からの同情と理解で満たされるようになることは確実だ。それ故、中国政策をめぐる(ワシントン条約での)調印国間の合意とは相容れなくなるだろう」 
 英国は声明発表後、対中外交を大転換した。日本と共同で英日の権益を擁護する政策から、蒋介石ら国民党政府の「革命外交」との協調に舵を大きく切った。
 英国のオースチン・チェンバレン外相は、民族主義という「インパーソナル・フォーシズ」を無視できないと悟った。西から東に吹いた風が東から西に吹き始めたのを認識してその風に乗ろうとした。国民党はナショナリズムを全面に押し出す「国民革命外交」を展開し、民族主義に目覚めた中国国民は国民党を支持し始めた。英国はほかの列強との協調をあきらめた。
 現実主義者の英国人は国民党と敵対するより協力して中国での英国の権益を守ることが得策だ、と判断した。英国の世論も国民党に同情的だった。
 1926年12月28日付ロンドン・タイムズは、「クリスマス宣言」の解説記事を掲載し、「1921-22年のワシントン条約締結時と26年ではまったく状況が変化したことを認めざるを得ない。この変化のうちで最も注目すべき点は、強力な民族主義者が台頭してきたということだ。この現実を列強が互いに認識し理解しなければ、中国に対して正しい対応を取れなくなるだろう」と警告した。
 「クリスマス宣言」発表後、中国人は「クリスマス宣言」を英国の弱さだと判断した。1927年1月4日-5日にかけて中国大衆は漢口・九江の英国租界を接収。この判断も中国人の国民性から由来する伝統的な思考形態とみられる。
 英国は上海の租界地を守るために漢口・九江の租界地を犠牲にする決断を下し、2月9日に中国と協定を結んだ。中国は3月1日、漢口・九江を管理下においた。
 一方、米国は、1920年代後半に時計の針が進むにつれて、中国に同情していた。アヘン戦争以来90年にも及ぶ欧州列強の植民地政策と日露戦争以降の日本の対中政策は米外交の基軸と異なっていた。
 中国問題専門家の米外交官ジョン・A・マクマリーは「米国人が中国国民党を米国独立戦争の自分と二重写しにし、(国民党の党首)蒋介石を米国独立の父、ジョージ・ワシントンに見なすことが少なくなかった」と語った。米国の指導者も米国人も、独裁者で中国人特有の現実主義的損得観を持っていた蒋介石に米国建国の理念―自由と民主主義―を見た。もちろん、それは米国人の幻想であり、蜃気楼(しんきろう)だったことは言うまでもない。
 米国の政治指導者と世論はいくぶん主観的とは言え、時代の変化を察知していた。というより彼ら自身が歴史の変化を促した面も否定できない。米国が歴史の変化を動かすインパーソナル・フォーシズ「民族主義」に油を注いでいた。英米の対中姿勢が独善的になりがちなナショナリズムという「インパーソナル・フォーシズ」を強めていった。
 万人に平等な法の支配の歴史を持たない中国人は、相手が弱いと見ると攻め、強いと見れば引く現実的な国民だ。マクマリーは国民党の蒋介石将軍を批評し、「彼は妥協したり、巧みに説得したり、策略を巡らしたりする中国人の伝統的な能力はすべて持っていた」と語った。権謀術数に長けた中国人の国民性も事態をますます複雑にした。 
 軍閥打倒と中国統一をかかげて北伐を開始した国民党は1927年3月24日に南京に到着した。国民党軍の一部は英国と日本の領事館を急襲。中国軍兵士は領事館の私物を略奪し、アメリカ人を殺害した。1937年12月の南京大虐殺事件は有名だが、この南京事件は今日の人々の記憶に残っていない。
 北伐を進める国民党軍が斉南に迫ると、日本政府は南京事件の状況を憂慮した。事前に米英と協議。山東省出兵の了承を取り付け、日本人居留民保護のため陸軍に出兵を命じた(第1次山東出兵)。山東省から撤兵後、日本軍はふたたび翌年の4月、中国革命軍が斉南市に入ったのに伴い、居留民保護のため兵を出した(第2次山東出兵)。日本軍と国民党軍はにらみ合った後に衝突。日本軍は同年5月に増派した(第3次山東出兵)。
 斉南市での日中両軍の衝突は中国市民を巻き添えにし、多数の中国人が殺傷された。このため中国国民の日本人に対する悪感情は取り返しのつかない致命的段階に達した。斉南事件以降、中国の民族主義の標的は日本にだけ向けられ、英国に向けられることはなかった。
 張作霖の息子の張学良将軍は1930年代半ば、「大隈内閣の対華二十一ヶ條事件(1915年)以来、(中華)民国国民の対日感情は、小學児童にまで、これを国辱記念日として教科書で教える程に悪化し、民国国民は、日本を親代々の仇敵視するに至った」と語った。
 蒋介石は1927年4月12日に上海でクーデターを起こし、共産党員を弾圧。共産党との戦いを始めた。武漢政府は8月19日、蒋介石率いる南京政府との合併を宣言。1928年6月、蒋介石は北京に入城し中国を統一した。
 国民党が中国を統一すると、王正廷外交部長(外相)は1928年7月19日、1896年に日本と清国(中国)との間で締結した通商・航海条約と、1903年の同条約の追加通商条約を破棄すると一方的に声明を出した。やむなく日本は譲歩し、満州の権益を中国が認める代わりに中国本土の日本の権益について大幅に譲歩する用意があると表明した。
 日本政府は1929年4月26日に王と交渉を開始し、6月3日に国民党政府を承認。1930年5月6日には日中関税同盟を締結し、中国は関税自主権を回復した。
 このありさまを見ていた日本陸軍は、幣原外相の対中政策があまりに国民党政府に譲歩しすぎると断じ、「軟弱外交」とののしった。
 済南事件で国際的な非難を浴びて窮地に立った日本政府は、中国による日本との条約不履行をめぐって米国政府に協力を求めるため、明治、大正、昭和の3時代にそれぞれ外相を務めた政治家、内田康哉を米国に派遣。内田は1928年9月29日、米国務省にフランク・ケロッグ国務長官を訪問し、米国の対中姿勢を尋ねた。
 ケロッグ国務長官は「各国それぞれが自国の利害に配慮して、条約の諸問題の解決へ向け努力すれば(諸問題の解決は)実現できるものと我々は考えている」と発言、内田は米国の曖昧な返答を聞いて失望した。
 日本は1921年、米国からワシントン会議への招待状を受け取ったとき、会議への参加を渋った。参加すれば満州の権益が俎上に載せられるのは明白だった。しかし日本は会議に参加し、条約を締結。忠実に条約を遵守した。条約を遵守することで、欧米列強と協力し満州の権益を守ろうとした。しかし内田がケロッグ長官と会談する頃、日本の満州政策は行き詰っていた。
 中国は1929年12月29日、欧米列強や日本に追い討ちをかけた。1930年1月1日以降、条約国の諾否にかかわらず条約が規定した治外法権の項目を無効にすると発表した。しかし欧米列強諸国は中国での自国民保護の裁判システムの必要性を感じ、中国の発表に抗議した。
 国民党政府は同じ年の1929年にソ連にも矛先を向け、ソ連の革命政府が帝政ロシアから引継いだ東支鉄道(日本は当時、北満鉄道と呼んだ)を強制的に接収しようとした。条約を無視する中国の態度に怒ったソ連は中ソ国境に軍隊を集結。ソ連より弱体な軍しか保有していなかった中国はソ連の強硬姿勢に屈服し、接収を見送った。「弱い国を攻め、強い国とことを起こさない」という中国の「現実主義」「力の政策」が露見した。
 治外法権撤廃をめぐって中国と欧米が対立していた最中に、満州事変が1931年9月18日に勃発した。中国は満州事変の開始を受け、列強諸国に治外法権撤廃を無理押しするのは得策でないと判断、要求を引っ込めた。
 国民党政府の動機は明白だった。日本の侵略に反対する国から最大限の支持を期待するため、治外法権撤廃を見送った。はかりごとをめぐらし、そろばんをはじいた。英国も中国もそろばんをはじいて「損得勘定」を計算していた。
 われわれは太平洋戦争、日中戦争(日華事変)、満州事変から苦い教訓を得て、それを未来に生かさなければならない。関東軍は1920年代、我慢していたが、忍耐しきれずに満州事変を起こした。満州を侵略した大きな理由は勿論、これだけではないが、「忍耐切れ」も大きな理由の一つだ。
 日本の死活問題は中国問題だ。1920年代も今日も中味は違っていても同じだ。中国はこれからも長期間にわたって、尖閣諸島を自国の領土だと主張し、接続水域や領海に入ってくるのは間違いない。虎視眈々と同諸島を狙ってくる。米国、日本や東南アジアの国力と自己の国力を天秤にかけ、相手が強めれば引き、弱ければ攻勢に出てこよう。
 中国共産党の幹部と国民は、歴史が変化してもはや戦争で国益を奪取する時代は過ぎ去ったことを理解しているのだろうか。多分、理解していはいまい。彼ら革命の戦士の子どもや孫、ひ孫らは「武器のよって政権を奪取できる」と信じているだろう。それは共産主義革命の根本精神だからだ。
 時代は変化した。歴史は変化した。原子爆弾は戦争を不可能にしている。もし戦争が起これば、敵も見方も致命的な打撃を受け、最悪の場合には地球の民は滅びるだろう。中国共産党の連中は今こそ、「外交交渉」「国際法」によってしか国益を伸ばせないことを気づくべきだ。また民主主義こそ中国国民の福利と発展に寄与すると気づくべきである。もはや中国共産党の目標に中国国民を強制する制度は時代遅れとなった。
 日本人はけっして「我慢切れ」になってはいけない。日本人が苦手な「忍耐」をして、粘り強く中国共産党と対峙しなければならない。。それができるかどうかが将来の日本の運命を決するといって過言ではない。ゆめゆめ、第2次世界大戦前夜の日本の指導者のように、ある一定の時間を決めてそこまではひたすら「我慢」し、それが切れれば前ばかりを向いて突っ走るようなことがあってはならない。「忍耐」し続ければ、必ず時が変化し、時が味方して、われわれは初期の目的を果たすことができる。それが太平洋戦争から得ることができる苦い教訓だと思う。

 (参考)「71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(1~3)の一部は拙書「歴史の視力」(ホルス出版)から引用した。


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日本人は現実主義者というよりも希望的観測を抱く理想主義者 71回目の終戦(敗戦)記念日に思う(2)

2016年08月14日 14時40分19秒 | 時事問題と歴史
 太平洋戦争(大東亜戦争)の反省として、筆者は同胞の多くが情緒に弱く「思い込んだらテコでも動かない」国民性を指摘した。移り変わる時代の流れを無視し、「思い込んだ考え」を引っ提げてひたすら進む姿を記した。現実を無視し言葉上の美辞麗句に弱い日本人を指摘した。
 逆境にめげず何かを成し遂げた人々に賛辞を送ることは素晴らしいことだが、身も心も入れ込み過ぎて周囲が見えなくなる傾向が強い日本人に抵抗を感じてきた。日本人は現実主義者ではない。
 今日のブログは希望的観測について記したい。事実を無視した希望的観測は危険だ。昨日記したチャーチルの言葉を今日のブログにも掲載したい。
 チャーチルは著書「第二次世界大戦回顧録」の中で日本の指導者についてこう述べている。
 「戦争においても政策においても、常に自分を(帝政ドイツの宰相)ビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手がどう考えているかについての知識を持てば持つほど、相手が何をするかを知った場合に戸惑うことが少なくなる。だが、深い十分な知識を伴わない希望的観測や想像はワナのようなものだ」
 現在、リオデジャネイロ・オリンピックが開催されている。アナウンサーや解説者はラグビーやサッカーなど、明らかに実力差のある相手チームに対しても「勝つチャンスがある」と述べ、日本チームの長所ばかりを挙げて視聴者の期待を膨らませている。
筆者はこれを否定しないが、客観的な予測をすることも必要だと思う。日本人にはこの姿勢があまりない。スポーツなら問題はないが、国家の運命を担う指導者がこのような態度で国家運営していては国家存亡の秋を迎えるだけだろう。
 太平洋戦争前夜の日本の軍部指導者がそうだった。日本陸海軍の実力を過大評価し、そうでなくとも強大な米国を過小評価した上、「精神力」が勝利に最も重要だと信じ込んだ。13倍(当時は20倍だと認識していた)も強い「敵」にまともにぶつかって勝てるわけがない。隠忍自重し、時の変化を待てば、風向きが必ず変わる。それが歴史の特質なのだ。
 正確な情報が海外の情報将校から送られてきたのに、「ドイツが勝つ」と思い込んだ軍部中央の秀才は、その情報を無視した。海外ラジオ放送で米国のルーズベルト大統領やチャーチル英首相の演説を分析しただけでも、彼らにとり誰が主敵(ヒトラー・ドイツ)なのかは一目瞭然で理解できるのに、米国が攻撃してくるという「不安」に駆られ、日本は真珠湾を攻撃したのである。
 「我慢」したが「忍耐」できなかった。うがった見方をすれば、米英の挑発に乗った。もし挑発したのなら、どちらが悪いのか。右派の作家や有識者は挑発した米国が悪いという。筆者は挑発にのった日本の指導者を糾弾する。国家を滅亡の淵まで追い込み、国民に塗炭の苦しみを味あわせて、何が挑発した米国が悪いと言えるのか。もし挑発したのなら、それは米英の巧みな作戦だった。筆者は挑発されたとは思っていないと断っておく。

 ●太平洋戦争前夜の動き
 1941年11月1日に開かれた大本営政府連絡会議に臨む際、次の3案が議題になった。
 第1案、戦争することなく臥薪嘗胆する。
 第2案、すぐに開戦を決意し戦争により解決する。
 第3案、戦争決意の下に作戦準備と外交を併行させる。
 第1案には、日本が米国に譲歩して臥薪嘗胆する場合と、日米外交交渉の決裂後、譲歩も開戦もせずにそのまま現状の立場を維持して臥薪嘗胆する場合に区別された。
 海軍の作戦最高司令官の永野修身(ながお おさみ)軍令部総長は、この会議で「日本として対米戦争の戦機は今日にある。この期を失したならば、開戦の期は米国の手に移り、再び永久に我が手中には帰らない」と強調。このまま日本が臥薪嘗胆すれば、石油が枯渇するなど戦力は「ジリ貧」になり戦えなくなる、と発言した。
 永野は作戦の見通しについても述べ、2年間は十分に戦う確算があるが、3年目からは国家総力の変移や国際情勢の変転から確算がないと説明した。
 瀬島龍三少佐(最終階級は陸軍中佐)によれば、永野の説明を聞いた賀屋蔵相と東郷外相は「2年後の勝算ない戦争は不安定だ。米国から戦争をしかけて来る公算は少ない」として、現状のままの臥薪嘗胆に賛成した。とりわけ東郷外相は「(独伊が破れた)欧州戦争後に各国が対日圧迫を加えてくることは俗論だ」と一蹴した。
 陸軍が賛成していた第2案は少数意見で、海軍が賛成した第3案に落ち着いた。
 東郷外相と杉山元・陸軍参謀総長ら参謀本部首脳は、第3案に関連した日米交渉の打ち切り期限と交渉条件をめぐって激論した。交渉期限を12月1日午前零時とし、交渉条件を南部仏印からの撤退などを骨子とした妥協案(乙案)で落ち着いた。
 陸海軍首脳と政府首脳から構成された大本営政府連絡会議の開催に先立ち、嶋田繁太郎海相(1883~1976)と永野・軍令部総長は1941年10月30日、米国と開戦する腹を固めていた。

 ●総力戦では勝つか負けるしかない。和平は不可能だった
 太平洋を舞台にした米国との戦いは海の戦いだった。海軍の対米姿勢が日米開戦のカギだった。
 永野軍令総長が挙げた「石油切れによるジリ貧論」は対米戦に突入した大きな理由だ。米国政府が1941年8月1日に対日石油輸出を全面禁止して以降、海軍首脳は、このまま手をこまねいていれば「油がジリ貧状態」になり米国と戦えなくなると主張した。米英と戦うなら一刻も早く開戦し、東南アジアを占領して資源を獲得。米英と持久戦に持ち込み、勝機を探るという計画だった。
 満州事変の首謀者でありながら、日中戦争と太平洋戦争に強硬に反対した石原莞爾陸軍中将(当時退役し立命館大学教授)は、日本軍が資源を確保できたとしても、資源を日本へ運ぶために南方から日本本土までの制海権と制空権を保持できないと確信した。
 日米開戦直前の10月、対米戦強硬論者の田中隆吉・陸軍省兵務局長を東京の東亜連盟協会事務所に呼び出し、「たとえ南方を占領したところで、米英を敵として日本の現在の船舶では、石油もゴムも日本内地へ輸送できるものか」と強調し、戦争回避を強く迫ったという。
 戦後、太平洋戦争敗北の教訓を記した野元海軍少将は太平洋前夜を振り返り、日本も国力の点で米国に圧倒的に劣っていたと述べた。昭和15年ごろの日本と米英の粗鋼生産力を取り上げ、孫子の「道」の「兵衆何れか強き」を引用した。米国と日本の生産力はそれぞれ約1億トン、500万トンで、その比率は20対1だったと回顧した。
 「即ち精神的にも物質的にも、この無謀の大事を敢行したのは、視野狭小であり、総合判断を誤り、短期決戦に対する希望的判断があったといえよう」。野元少将は反省を込めて分析している。内戦で国が滅ぶことがないのに内戦を恐れ、強大な米国に参戦した一面もあると指摘している。
 日米開戦に突き進んだ理由はまだほかにもある。陸軍が中国戦線での死傷者と撤兵を絡ませたことが挙げられる。福留・海軍軍令部第一部長は陸軍幹部から直接聞いた話を伝えている。
 「支那事変以来すでに三十万の死傷者を出している。それなのに今さら撤兵は出来ない。そんなことをすれば、今までの犠牲は無駄になってしまう。それでは統帥(軍の支配・指揮権)は出来ない。若し日本が支那(中国)本土から撤兵すれば、次は満州から撤兵せよと来る。日本が頑張れば油を止める。そして次から次へとどんどん押して来る。歴史的事実から推しても、アメリカは日本の退却によって、極東を支配せんとしているのだ」。東条陸相が1941年秋、近衛首相にも同じ内容を話した。
 陸軍の理論「日中戦争で30万人の死傷者が出ている。いまさら撤退できない」は軍事と相容れない感情論であり、非科学的な議論。泥沼の日中戦争という現実から目をそむけた主張だった。
 永野軍令部総長が、「戦を始めるには今しかない。今を逃せばジリ貧だ」だと述べた。現実的な目を持った人々を納得させる話ではない。日米国力比は1対20と強調した新庄リポートを岩畔陸軍大佐は参謀本部に報告した。新庄リポートだけでなく、欧州の複数の武官から報告が上がっていた。
 永野軍令部総長や東条陸相が話したことは彼らだけの特殊な見方や考え方ではない。昔も今も、一般国民が心の底のどこかに抱いている国民性だと思う。
 それでは1対20の国力差をどうしたら縮められるのか?日本が今戦争しようが、将来戦争しようが、1対20の日米の国力差を縮めるには、米国の工業地帯を攻撃し破壊しないかぎり縮まらない。中学生でも理解できる。しかし優秀な参謀本部の陸軍将校は冷厳な事実から目をそむけた。希望的な観測に終始した。
 インドネシアなど南方の資源を確保しても、米国の近代生産技術・設備を叩き潰さない限り、米国の生産力は無傷だ。東南アジアの資源確保は、がん治療に例えれば対処療法にすぎない。
 それでは日本が米本土の工業地帯中枢を爆撃し壊滅することが可能だったのか。武井大助・海軍主計中将が山本元帥の話を引用している。「日米開戦にいたらば、己(山本)が目指すところもとよりグアムやフィリピンではない。ハワイでもない。実にワシントンのホワイトハウスである。しかし(米国の首都)ワシントンまでいけない」。ワシントンまで進軍できなければ、米本土中部の工業地帯を壊滅できない。広大な米国を占領するなど夢想にすぎない。
 それでは陸軍はワシントンまで進軍できると思ったのか。対米戦を声高に叫んだ参謀本部の田中新一・作戦部長でさえ、太平洋を渡って米国を攻撃し、足下にぬかずかせることはできないと述べたばかりか、日独伊三国同盟により米国を屈服させることは不可能と断じている。それなのにどうして強硬な対米戦論者だったのか。
 「(ドイツの潜水艦攻撃などで)アメリカは対独参戦決意を公にした。日米交渉など対日政策の基本は遅延策で、太平洋での対日戦を回避する一方、ドイツを大西洋で撃破。その後、日本を各個撃破する」。田中はこう述べた。
 田中陸軍中将は陸海軍の情報将校や海外メディアなどの情報を真剣に分析せず、19世紀の帝国主義列強の頭で20世紀半ばの太平洋戦争前夜を分析した。事実に基づかない、自らの観念的な頭で世界情勢を分析した。日本の戦国時代や古代ローマ帝国時代の戦争なら、米英はドイツ撃破後、日本を襲ってきただろう。
 チャーチルは重光駐英大使に話した。1940年に何度も英国民や世界に演説した。その中で対独戦争は、「賠償金と領土を奪う戦争」でもなければ、18世紀以前の国王や貴族の戦いでもなく、英国の政治制度を守る戦いだと明言している。
 時は変化していた。歴史は流れていた。田中ら陸軍将校は周囲を観察しなかったし、「時の変化を刻む歴史」を一瞥(いちべつ)さえもしなかった。
 一方、自らの意志に逆らって開戦した山本元帥は、緒戦の勝利をもってなんとか英米と和睦に持ち込もうとし、ハワイの真珠湾に出撃した。緒戦で米国に「大勝利」した。しかし山本元帥は一日でも早く和平のテーブルに米政府を就かせようと焦って海軍中央の反対意見を押し切り、ミッドウェーに出撃して、なけなしの航空母艦4隻を失う惨敗を喫した。
 危険を冒してでもハワイ・真珠湾を奇襲する奇抜な作戦を立てた理由は「開戦劈頭(へきとう)敵主力艦隊を猛爆撃破して、米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪(そそう)せしむること」だった。そして和平に持ち込む算段だった。
 駐米日本大使館員の不手際で、日本海軍の真珠湾攻撃後に国交断絶文書をハル国務長官に手渡した。「真珠湾のだまし討ちを忘れるな」と米国民は激怒。日本と徹底的に闘う決意を固め、和平交渉を困難にしたと言われている。ただ、たとえ宣戦布告後に奇襲したとしても、またミッドウェーで勝とうが負けようが、米英との和睦は100%なかった。
 日米開戦前のチャーチルとルーズベルトの演説を分析すれば、「ドイツを許さない。相手が倒れるか自分が倒れるかだ。ドイツの味方は英米の敵だ。勝利した翌日に裏切られた同胞が連合国の法廷に引き出さなくても、連合国が必ず引きずり出す。だから無条件降伏までやる」と言っている。
 非公式に言ったのではなく公言したのだ。世界戦争にドイツ側について参戦すれば、日本は勝利するか、無条件降伏するか二つに一つしかなかった。
  19世紀から20世紀へと時が流れ、歴史は変化していた。第1次世界大戦は史上初めての総力戦だった。銃後の別なく、将兵も民間人も内野で戦わなければならなかった。民間人が外野で観戦し、将校が内野で戦うのを見るそれまでの戦争とは違った。また、1917年のロシア社会主義革命が起こるまでは、民主主義か、全体主義かの思想戦でもなかった。
 もはや第2次世界大戦と太平洋戦争は日露戦争までの和平はなかった。リングで戦っているボクシング選手にタオルを投げ込んで試合を止めさせることはできなかった。第一世界大戦におけるドイツの無条件降伏以後、歴史は変化していた。山本元帥も、時の変化に気づかず、米英首脳の演説の意味を理解できなかったと思われる。

(写真)航空母艦から真珠湾へ出撃する海軍航空隊

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俳優、渡辺謙さんが好演するミュージカル「王様と私」の虚実を描く書籍「現実主義者の選択」

 「現実主義者の選択」(ホルス出版)を紹介する。渡辺謙さんがブロードウェイで好演しているシャムの国王。ミュージカル「王様と私」は真実を伝えていない。歴代タイ政府はこの半世紀以上にわたって、この物語を描いた映画、演劇などの上映や上演を国内で禁じてきた。  「王様と私」を初めて映画で観賞したのは今から40年以上前。ユル・ブリンナーとデボラ・カーがすばらしい演技を見せていた。渡辺さんが演じているこの王様の名前はモンクット王。吉田松陰が足元にも及ばない当時の国際情勢を認識していた名君だった。タイ人もこの国王を知らないという。名君や名政治家ほど後世の人々に忘れ去られると感じる。  英国の名誉革命を指導者した初代ハリファクス公爵も同じだ。市井の英国人は知らない。17世紀後半に活躍した名政治家の格言や政治家心得を、この書籍は引用する。公私混同で公金を使った舛添要一・東京都知事も彼の書物を読んだほうが良い。彼だけではない、政治モラルとレベルが落ちた多くの日本の政治家も読むべきだ。  もう一人の人物は堀悌吉・海軍中将。このごろ、やっと光が当てられ始めている。NHK出版がこのほど「山本五十六 戦後70年の真実」を出版し、この書籍も読んだ。2011年に日本映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」が上映された。山本五十六元帥を役所 広司さんが演じ、歌舞伎役者の十代目坂東三津五郎さんが堀悌吉海軍中将を演じた。  堀提督は米英協調を唱えたため、1934年に旧海軍から追われた。彼の生きざまは日本の運命の裏返しだったと思う。日本人はこの立派な人物を知らない。  この頃、日本人は自信をなくし、日本は迷走している。この3人の生きざまを知って、未来に思いをはせてほしいと願う。