
(宇佐美徹也さん不滅の名著「プロ野球記録大鑑」)
「人間の記憶ぐらいあてにならないものはない。記事を書くときは必ず文献・資料に目を通さなければダメですよ」──十数年前、野球体育博物館で宇佐美徹也さんに恐る恐る声をかけてお話をうかがったとき、かけていただいた言葉だ。
以来、この教えを極力守って原稿を書いてきたつもりだが、それでも時間に追われ、自分の記憶力を過信して、失敗したことは一度ならずある。そのたびに、上記の宇佐美さんの言葉を思い出し、申し訳ない思いにかられたものだ。
名著「プロ野球記録大鑑」に出会ったのは高校生の時だったと思う。分厚いハードカバーで、正直、高校生の小遣いで買うにはかなりの価格だったが、思い切って手に入れ、夢中になって読みふけった記憶が昨日のことのようによみがえる。
宇佐美さんの訃報を伝える新聞記事の見出しはどれも「記録の神様」の尊称で飾られていたが、私がもうひとつ宇佐美さんに贈りたい代名詞は「記録に血を通わせた人」だ。
「記録大鑑」が出た当時は、ちょうど王貞治さんがハンク・アーロンの通算756本塁打に急接近していたが、いわゆるメディアや世間の「世界記録」騒ぎに対し、日米の実力差、試合数の違い、移動の厳しさ、そしてアメリカよりひと回り以上狭かった外野フェンスまでの距離などを例に挙げて、安直な「世界記録」扱いにクギを刺し、たとえ王さんがベーブ・ルースやアーロンの記録を破っても、そうした条件の違いをわきまえて「謙虚さ」を保つよう読者に呼び掛けているように宇佐美さんの記事からは感じられた。
王さんご本人が何よりも謙虚な人柄だったこともあるが、その後、記録を更新されたアーロン氏も紳士的に王さんを称え、現在まで長い交友が続き、アメリカの野球関係者も一定の敬意を王さんに払っているのは、宇佐美さんがファンに呼び掛けたメッセージの効果もあったと私は考えている。
ご存じのとおり、宇佐美さんはタイトル争いのための醜い敬遠合戦や、作為的な記録づくりには徹頭徹尾批判的だった。私が直接伺ったお話で印象に残っているのは、1982年、中日ドラゴンズが横浜大洋ホエールズを破ってリーグ優勝を決めた試合で、大洋が自チームの選手に首位打者を取らせるために試合を休ませ、バットマンレースの相手だった田尾安志を全打席敬遠した“愚挙”に対する激しい怒りの言葉だ。
「あれはね、先頭打者の田尾を、1回表、ノーアウト走者なしでいきなり歩かせている。大洋ベンチは野球協約で禁じられている“敗退行為”、つまり八百長をやったのと同じなんです。試合も大差で中日が勝っている。巨人はあの試合で大洋が敗退行為を行なったから、無効として再試合にしろと連盟に提訴すればよかったんですよ」
勝負は下駄を履くまで分からない。あと1勝でリーグ優勝に手が届くドラゴンズが、相手の打者を意味なく敬遠する可能性は限りなく低かっただろう。のちに中日を率いていた近藤貞雄さんにこの試合の話を伺ったとき「あの初回の敬遠で『いける』と確信した」とおっしゃっていたから、結果的に大洋ベンチが田尾を全打席歩かせたことが“敗退行為”的な意味を帯びていたのは確かだと思う。近藤さんはさらに、「チームの優勝はもちろん心から嬉しかったが、その一方でああした形で首位打者のチャンスを奪われた田尾の心中を思うと複雑だった」と語っていた。事実、田尾はついに引退まで首位打者のタイトルを獲得することはなかった。
リリーフ専門だった阪神の福間納が、1961年、稲尾和久投手(西鉄)が年間最多勝利日本記録の42勝とともに樹立した78試合登板に迫ったとき、阪神の安藤監督に手紙まで送って、「単なる短いイニングの積み重ねだけで、先発・リリーフにフル回転して作られた稲尾の記録を安易に更新させないように」と訴えたメッセージも強烈だった。その後、稲尾さんの登板記録は広島の菊地原毅(現オリックス)に並ばれ、阪神の藤川球児が2005年に80試合で「新記録」とし、同じ阪神の久保田智之が2007年に90試合で更新したが、おそらく菊地原が稲尾さんに「並び」、藤川や久保田が「抜いた」と考えているファンは極めて少数派だろう。ここで数字を紹介するまでもなく、中身があまりにも違いすぎるからだ。
こうした記録の「質」をファンやメディアに認識させた点でも、宇佐美さんの果たした役割は極めて大きいものだったと思う。
実は数年前、1983年に刊行されたとき買い損なっていた宇佐美さんの著書「ON記録の世界」をようやく購入し、「野球文化學會」の総会でお目にかかった際にでもサインをしていただこうと楽しみにしていたのだが、そのころから体調を崩されて療養生活の日々を送られていた。
この本はおそらく、日本野球界が生んだ最高の野球人である王貞治、長嶋茂雄について書かれた幾多の出版物のなかでも最高の一冊だと断言していい。宇佐美さんはサインの代わりに、私にこれを渡して「いい原稿を書いてくれよ」と託して旅立たれたのだと、いまは考えるようにしている。
田村大五さん、忌野清志郎さん、そして宇佐美さん……いや、数年前から振り返れば近藤さんや加藤博一さんだってそうだ。なぜこうも立て続けに私の大好きな、心から尊敬する人たちが次々と旅立たれてしまったのか……。正直、私は本当にひどく打ちひしがれている。
報知新聞社で苦楽を共にした大五さんは、やはりさびしかったんだろうか。おそらく宇佐美さんもさびしかったのだろう。どうか雲の上から、日本中、いやアメリカまで足を延ばして、思う存分世界中の野球を楽しんでください。新しい広島市民球場は素晴らしいですよ! もっともドーム球場は「高見の見物」には邪魔だと思いますので、これから私たちが何十年かけても屋根を開けるかはずさせますから、それまでしばしのご辛抱を!
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宇佐美徹也の記録 巨人軍65年―栄光の巨人軍65年の歩み 宇佐美 徹也 説話社 このアイテムの詳細を見る |
宇佐美さんの世代の人達の訃報を聞きますと一抹の寂しさを感じます・・
野球が大好きな方だったんですね。 少し、偏見的に書きますが、女性にはふれてもらいたくない「男の秘密の領域」を
満たしてくれるような人だったんですね。
私も40年代前半に親父に始めて野球場(川崎球場)に連れて行ってもらい、カクテル光線に照らし出された
ダイヤモンドの美しさは今でも目にこびり付いています。 親父がマルハのちくわをツマミに
食べながら、「あのショートの米田の守備は天下一品だぞ!」、「松原の右中間打ちは芸術!」だのと
薀蓄がたまらなく面白く、時間と言う時間をすべて忘れて見入ったものでした。
そんな親父も最近だいぶ衰えてきまして、たまに会っても、なかなか野球話はできません。
もちろん大洋→横浜ファンなのですが、体力とともに昔のような情熱が薄れたらしく(てよりもここ数年の低迷も原因ですが・・)
世間話や孫の話で終わってしまいます。 でも野球好きは宇佐美さんに負けず劣らずの親父です。
今度会ったら「宇佐美さんていう凄く野球を深く愛していた人がいてね~」「親父と同じ栃木中学出身なんだって~」
と色々話してあげたいと思っています。 宇佐美さんのご冥福をお祈りします・・
川崎球場時代のホエールズは懐かしいですね。チームはセ・リーグ最下位なのに、内野陣は12球団最高という不思議なチームでした。3年前にお会いしたボイヤーさんも亡くなられてしまいましたが……。
米田さんは二軍監督時代取材でよくお世話になりましたが、ケガ人が多いときなど、紅白戦で(もちろん現役時代のニックネーム同様「専守防衛」でしたが)ショートの守りについていました。しかも現役の選手より全然うまくて、「さすがだなあ」と思ったのを憶えています。ペンネームの「34」は米田さんにちなんでのようですね。
同じく親しくしていただいた田代さんが監督代行になられましたが、私個人の感想を言えば、だったら高木由一のとっつぁんをヘッドコーチで一緒に昇格させるべきだったと思いますね。
宇佐美さんの話に戻りますが、高校卒業後、一般企業に就職しながら、野球への思い立ちがたく、パ・リーグ記録部の門を叩いた経歴がよく知られています。実はパンチョ伊東さんや田村大五さんも同じような道を歩まれて野球にかかわるようになったんですね。だからベースボールへの愛情は半端なものではありませんでした。お三方はプレーヤーの経験こそありませんでしたが、間違いなく「野球のプロ」でした。
これからもご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。